禁書②―放浪者の手記―
ちょっと禁書内容が多いです。
「声に出して読んでも?」
黙って読み進めるのが良いのかと考えたが、元々長官室には音声遮断の魔道術が施されている。しかも、通信球を遮断しているので、内容が外部へ漏れる可能性は限りなく零に近い。
ならば、所々で質問ができる状況の方が、効率が良いのではと、紅は考えた。
「もちろん。紅がどこを読んでいるかわかった方が、わたしも補足説明しやすいのです」
長官からは、快諾の声が返された。
「それでは」
紅は咳払いをした。古書を握り締め、文字を追った。
「最後に」
わずかに、低い声が出た。けれど、同時に眉尻が下がってしまった。出鼻をくじかれた。
「……長官。翻訳の最初が『最後』というのは、いささか気になってしまうのですが」
「てへー、気にしないで欲しいのですよぉ。その前の部分は欠落してるのですぅ」
先ほどまでの大人っぷりはどこへ散歩に行ってしまったのか。ぺろりと舌を出した長官。
紅はひょうきんな渋い困り顔で数秒考えこむ。どんな意図があっても、これが紺樹なら間違いなく茶巾を投げつけていただろう。しかし、相手は長官だ。
(まっ、まぁ実際、これ以前の項は部分的に破られているようだし)
紅は妙な胸騒ぎを覚えつつも気を取り直す。
「これは古代の話ではなく、私が生きる時代、しかも近年のできごとである。私が放浪を続けていた日のこと、体験し、ある男性から聞いた話である。裏付けも確証もなく、一見すると、酒のつまみのような話だ。けれど、人生最後に残す本に、どうしても書き留めておきたいのだ。日記のようなものだと思ってもらっても構わない。しかし、私は、先に語った悪夢のような溜まりの話に繋がっていると、確信を持ってしまったのだ」
冒頭部分を読み上げただけで、紅は再び面食らってしまった。想像していた内容とかけ離れすぎていたからだ。
紅が今まで読んできた古書というのは、得てして堅苦しく確たる裏付けの元、書かれているモノが大多数だ。冒険譚に分類される古書は別だが、長官は歴史書と言っていた。
「なっ、なんだか書き出しと一緒で、大分予想と違う内容になりそうですね。古書自体に厳重に封印されているのも考慮すると、基本的に一部の解術能力がある人間以外には読まれたくないという重要性が高いものだと思っていました。いえ、状況を考えると実際にそうなのでしょうけど」
紅は指を開閉しながら、文頭を読み直す。長官の忍び笑いが返ってきた。
「紅の反応は、まっとうなのですよ。貴重な古書に記されている話なうえ、著者自ら『酒のつまみ』なんて言ってしまっているのですからー。でも、それより前には、ちゃんと真面目で……今の世には受け入れがたい事実も、書かれているのです」
紅としては、どちらかと言うと、真面目な部分の方を読んでみたい気がした。額面通り言葉を受け取るならば、今から語られるよりも、役立つ知識が書かれていそうだ。
けれど、紅が手にしている部分を読めと長官が指示している以上、その部分は今回の件に深く関わりがないのだろう。
「そちらの解読は別の人たちにお任せしているのです」
「おじいですか?」
「落ち着いたら紅にも教えてあげちゃうのですよ。ただし、条件はしっかり付けさせてもらっちゃうのですけどね!」
唇の前で立てられた指の後ろには、長官のにんまりとした笑顔が浮かんでいる。よからぬ企みをしているのが、ありありと伝わってくる。
「……遠慮しておきます」
紅は、早々に辞退した。余計な好奇心は身を滅ぼす。紅の性格を熟知している長官は、不満そうに頬を膨らませはしたが、こだわりはしなかった。
「つれないのですよ。まぁ、許してあげるのです。今は、先を読んでくださいなのですよ」
「はい――」
私が禁術の資料を収集し放浪を続けていたある日、山中で遭難してしまった。遭難自体は、良くあることだ。
しかし、そこは人影どころか生物の気配など皆無の辺境だった。谷に囲まれ、生い茂るではなく樹々そのものであるような山だ。私は山の中腹にあるという遺跡を目指していたのだが、磁気は乱れ、探索魔術も方位磁石も使えなくなってしまった。
やがて、激しい雷雨に見舞われた。ついには運にも見放された。伝説とされる魔獣に襲われ、瀕死の怪我を負ってしまった。挙句の果て、同行者にも逃げられ、このまま死んでしまうのだと諦めかけていた時、年若い男性に救われた。二十代半ばに見える男性の肌は、女性と見まごうばかりに透き通り美しかった。長く伸びた髪は艷めき、物腰は上品。辺境の山に人がいること自体、驚愕なのだが。
紅は一度言葉を切った。
紅は文字をなぞっていた指を離す。どくんどくんと跳ねる鼓動は、押し込んだ言葉のせいではなかった。
(なんだ、この古書。生々しいほどの――)
著者の動揺が、古書から流れ込んでくる。
古書に著者の心、執筆時に纏っていたアゥマが込められるのは珍しい。というよりも、アゥマを文字や紙に練り込むこと自体、非常に困難だ。しかし、古書の著者は、敢えて感情を伴わせたかったのだろう。紅には、そう思えた。
「紅、大丈夫なのですか? 顔が真っ青なのですよ」
長官が心配そうに顔を覗き込んでくる。決して、紅の心の内を測ろうとしているのではなく、純粋に危惧している顔だ。
紅は慌てて左手を振った。
「いえ、作者自ら『酒のつまみ』と書いている割には、その、込められた感情が流れ込んでくるほど激しいものだったので驚きました」
「紅も感じ取れたのですね。まぁ、紅の能力を考えたら、当然なのですよね」
長官は大きな瞳を伏せた。ふっと長官の吐息が古書に触れると、得も言われぬ色の靄が沸き上がり、消えた。
紅が靄のあった空間に手を伸ばすと、ずんと鉛を抱いたように胸が重くなった。視界が回転して、ひどい悲しみに目の奥が熱くなる。
「感情を引っ張られるほど、強い思念ですね」
「特に今は具現化させたので、影響も強く出たのです。けど、それも元の思念が激しく、深く染み込んでいるからなのです。大昔に書かれた本に、これだけの思念が未だに残っているなんて、相当なのです。著者が書いている『酒のつまみ』は、それを誤魔化す――というか、紛らわすためではないかと、思うのです」
さきほど、紅は『酒のつまみ』より前の部分を読みたいと思った。著者の思念を感じ取れずにいたというのもあるが、それよりも、自分の思慮の浅さに情けなくなった。
それまでの流れや古書の封印を考慮に入れれば、文字通りでないことは容易に想像できたのに。口に出すべきではなかったと、肩が落ちた。
「紅が何を考えているのは手に取るようにわかるのですよ」
「お恥ずかしいところです」
「そんなに自分に落胆しないでくださいなのです」
長官が言葉を切ったあと、珍しく躊躇した様子を見せた。
紅が視線を逸らさずにいると「紅はやっぱり逃してくれませんですね」と眉を下げた。幼く血色の良いふくふくとした頬が、固い調子であがる。
「わたしや紺樹は、何もしなくても思念を感じとってしまうのです」
紅が口を開くより先に、長官がふぅっと両手を振った。
「というか、その古書の存在を知っています。ですが、他の者には内緒なのです。古書の封印もですが、思念が漏れないように、封印というか抑圧の術は施していたのです。それを読み始めてすぐに『視る』だけじゃなくて、『共鳴』して感じ取れただけでも、充分凄いのです」
紅の心情を察して、長官の声はいつも以上に柔らかかった。それが、余計に紅の羞恥心を刺激した。自然と背が丸まっていった。
「もちろん、紅が能力的な面じゃなくって、判断的な意味で落ち込んでるのも、ちゃんとわかってるのですよ?」
「……すみません。オレ、思慮の浅さは魔道府にいた頃と全然変わってないです」
「逆に、二十そこそこの若さで完璧に行動される方が、困っちゃうのですよ。わたし、長官としての立場がなくなっちゃうのです」
両手をあげて大袈裟に身体を振った長官の姿に、笑いが溢れた。
(長官のこういう所。魔道府の人間は付いていく理由のひとつなんだろうな。もちろん、人望だけではなく能力も人を惹きつける長官だが、この上司の元で頑張りたい、頑張れると思えるんだよな)
紅はずれた思考を戻そうと、軽く頬を叩く。長官から「おぉうなのです」と驚きの声があがった。
「その勢いです。わたしの言葉も、ばんばん疑っちゃってくださいなのです」
「それは、ちょっと疲れそうです……」
「猜疑心なんてもってないですとか、微笑んで欲しいのですよ。ここは」
長官が足をばたつかせ、外套とぶつかり合う音が聞こえた。しかし、拗ねているのも心からのモノではないとわかる。だいぶ、気持ちが落ち着いたようだ。
紅は現金な自分に心の中で苦笑しながら、口元を引き締めた。
「続き、読みますね」
男性の住まいは煌めく泉の側にひっそりと佇む、素朴な木造の建物だった。
男性が泉から汲んできたという水を一口飲むと、不思議と疲労を感じなくなっていった。私が動けるようになるまでの数日間、男性は私の身元の詮索は一切せず、黙々と世話を焼いてくれた。
ひとまず充分な休息と食料を得た私は全力を用いて、魔獣避けの結界を張るなどした。
歩けるようになって小屋の外に出て驚愕したのだ。原生生物や魔獣がいるこの地域で本当にぽつんと確保されている範囲に。まだ、村という集団があれば別だ。けれど、彼は本当にたった一人であるがままの状態で生活していたのだ。お礼のつもりだったが、彼にとっては奇妙な行動に見えたかもしれない。
そして、当の彼だが。ほとんど言葉を発さず虚ろな瞳で無表情かと思うと、時折、華が咲いたように微笑んでみせた。男性に使う表現としては不適切かとは思うが、無邪気に笑む様子は、まさにそうとしか表現できない。こちらが心配になるほど、警戒心を持っていないのもあっただろう。腕に自信があるというよりは、目の前の人間が己を欺いたり襲ってきたりする可能性を微塵も抱いていないという印象だった。
しかし、どうしてこんな世界の端っこのさらに山奥に一人で住んでいるのか、という問いに対しては必ず戸惑いをみせた。
彼自身、いつからここで一人暮らしをしているのかは不明だと言う。ただ、この場にいなければならないし、ここにいる限り安全であるのは確からしい。前者はともかく、後者は非常に同意し難い。こんな原生生物がはびこっている地域が安全か?
けれど、確かに真っ白で儚げな彼は傷ひとつ負っておらず、世界最候補の術師と称賛されていた自分は死にかけたという事実がある。かなり悔しいことに。ものすごく恨めしいことに。いや、あらゆる感情をもってしても払拭されるはずはなかった。
一度、無邪気な笑顔にイラついてごっそり掴んだクコの実を口に押しこんでやったことがあった。それでも、彼は怒るでも吐き出すでもなく、やはり少し困った顔でもごもごと小動物なみに口を膨らませるだけだった。加えると、しばらく顎を動かし続けた後、台所に引っ込んであったかい珈琲を持ってきたのだ。私の分だけ。膨らんでいた頬は元通りになっていた。
一緒に呑まないくらいなら、まだもごもごしていろと悪態をついてやった。何がつぼにハマったのか不明だが、彼は数秒きょとんとしたあと破顔した。それにまた、むかっとして力の限り頬を引っ張ってやった。驚くほど冷たかったから、杯を押し付けてやった。
「この作者、随分と人間味に溢れていますね」
思わず、紅が笑ってしまった。前半はともかく、これではまるで日記だ。
「人間味があるっていうより、傍若無人なのですよ」
珍しい調子で、長官は長いため息をはいた。紅と目が合うと、すぐに大げさな調子で頷いたが。
「でっ! ここまで読んだ感想はどうなのですか? 作者以外で」
「そうですね……。この男性は、その場で記憶をなくして生活を続けているのでしょうか。それにしては、男性が本当にたった一人でいるならば、住んでいる場所が安全だと確信を持っているのには疑問がわきます。自分が傷を負わないという前提はあるでしょうけど。なんというか喉にひっかかるというか」
紅は身近に憶喪失の人物がいる。
紺樹だ。
紺樹はクコ皇国の首都の門前で佇んでいたところ、地方から戻ってきたところの養父たちに声をかけられた。多国籍な身なりをしており、本人もその瞬間以前の記憶がないらしい。年齢も名前も身体や持ち物から推測された他人から教えられたモノ。
いつだったか。紺樹が珍しく酒に酔った際に、白龍と紅に語った。たくさんの大人に囲まれて、自分のこともわからず不安で仕方がなかった、どこかへ逃げたかったと。状況は違えど、紺樹の心情は紅にも少しは共感できた。そして、素直な気持ちを零した紅の頭を紺樹は『そっか』と撫でた。まるで子どもみたいな笑顔で。仲間を見つけたみたいに嬉しそうに。
(いやいや、しっかりしろよ、オレ! 綺麗な思い出的になってるけど、違うだろ! その後、母さんが紺兄に全力で突撃して、起きてきた蒼まで飛びついて、紺兄は床に後頭部を強打して大惨事だっただろ! 麒淵が気付けの茶を用意してくれて、結局泊りになったっけ)
頭を抱えた紅を、長官がにやにやと見ているのがわかった。
「集中力が低くなっているようですみません。無駄な思考が入り込んできて」
「とんでもないのですよー。いま、紅の中にあることで無駄なものなんてひとつもありえませんのですよ。全部に意味があるのです」
長官はあっけらかんと笑ったが、紅は頬の内をかんだ。
古書のアゥマに干渉されているのか。いささか、思考が散漫になる自分に驚きつつ、紅は背を正し続きを読む。
私は伝承の裏を読み、口伝の真偽を推し量ることに関しては、経験上、多少なりとも自信がある。人間に対しても同じだ。だから、彼自身は嘘をついていないのは承知していた。
ただ一点。
彼が一人暮らしだと思っているのは事実とは異なっていた。大きめの棚に置かれている食器は、あまり使用された形跡はないものの、きっちり組みで揃えられていた。しかも男女のそれとわかる色合いだ。
そもそも、私は、男性が食事をしている姿すら見たことがなかったのだが。まぁ、それは後ほど納得することになる。
それに、洗面用具も同様だった。私が拾われた時は寝台はひとつだが、男性の一人用にしても随分と大きい。
しかし、私がどれだけ疑問を口にしても、男性はわからないと己の腕をきつく抱きしめるばかりだった。
食事に関しては、宗教や身分の問題で、他人に食事を取る行為を見せるのを卑しいと考える者もいる。一瞬、紅の脳裏にその可能性が浮かんだ。だって、世界の理として飲食しない人間が存在すると考える方が難しい。
(いや、オレも結びつけたことがあるだろ)
紅の鼓動が鈍く跳ねる。紅の頭の中で、著者の思念が勝手に別の文字を綴ろうとしている。倫理的に、いや、世界の理としてあってはならない答えだと警告してくる。自分の中にない答えという水に、無理矢理顔を突っ込まれているようだ。それが恐ろしかった。
「紅、どうかしたのですか?」
口を噤んでしまった紅の肩を、小さな手が撫でてきた。目に掛かっていた前髪を払うと、視界の端には首を傾げた長官の姿があった。
「あっ、いえ。本人がわからないって、一体どういう状況なんだろうと思って。というか、本当に単なる記憶喪失なんでしょうか」
出た疑問は、どうでも良い内容だった。変に熱を持った汗が、背を湿らせていく。
紅は、すぐに報告書へ視線を落とした。視界の端に、茶壺が映った。考えるなと自分に言い聞かせても、思考が勝手に進んでいく。
(席自体には一緒についているのに、茶どころか茶菓子でさえも飲んだことがない。立場的に飲む必要があるにも関わらず)
紅は茶葉店で育った。そのため自然と様々な人間と茶の席を設ける機会が多くなる。特に同業者との会合や顔を合わせる時には、茶を口にするものだ。
そこまで考えて、紅は我に返った。すっかり著者に引っ張られてしまっている。というよりも、乱されている。
紅の揺れた瞳を見逃したわけでもないだろうが、長官はあえて触れてはこなかった。
「当然、不思議に思うのですよね。理由は、最後まで読めばわかるのですよ」
長官の掌が、静かに離れていった。紅は半笑いで「そうですよね」とだけ返し、続きの文字を辿る。
長官も思念を感じ取れると言っていた。紅の頭に踏み込んできた思念も、無論体験しているだろう。しかし、綴られていた文字の思念を感じる程度には、個人差でもあるのだろうか。紅は思念の影響を受けすぎている。これはよほどしっかりと自我を持って対応しなければ、呑まれてしまう。
紅は気合を入れ直す。
不可思議なことは、もうひとつあった。動けるようになってから気が付いたのだが、泉と建物を中心に、不可侵の結界が張られていた。術はとても高度で、それとして視なければ、決して術が施されているとはわからない。私は旅を繰り返してきたせいで、周囲の状況を観察する癖がついてしまっていたので、気付くことができた。
それにしても、と私は不思議に思った。強く特異な結界は、異形の者を遠ざける。という以上に、人にすら居住を悟らせない役割があるとしか思えなかった。彼自身の願いか、はたまた、組みになった食器の持ち主の意図か、その時は判断が付かなかったのだが。
次の行へ視線を滑らせると、端に硝子杯が入り込んできた。黄金色の茶が、ゆらんと波打っている。紅は自分の手が喉に当てられていたのに、気が付いた。緊張のせいか、のどが渇いて仕方がない。
「紅、声が掠れてきているのです。お茶で潤してくださいなのですよ。折角の素敵な声が台無しなのです」
「すみません、いただきます」
確かに、唇や喉は乾ききっている。
杯を煽ると、爽やかな甘味が鼻腔に広がっていった。優しい味が、体中に染み渡っていく。
ほうっと、出た息も温かく、緊張は程よく和らいだ。蒼のアゥマが込められた茶は、著者の負の感情をとかしてくれる気がした。
今度は自分でついで、もう一口、茶を啜った。
「褒め言葉は無視なのですか。しょんぼりなのです」
長官が両手で思い切り目尻を下へ引っ張った。
思わず、紅は口に含んだ茶を噴き出しそうになった。わずかに濡れた口を長官に悟られないよう、袖で大雑把に拭った。陰翡なら的確な突っ込みを繰り出したのだろうが、あいにくと紅はそういった気の利いた対応は苦手だ。
咳ばらいをしながら、紅が改めて報告書を持ち上げた瞬間、張り詰めた空気が部屋を支配した。それは、紅から発せられたモノではなく、長官から滲み出ている緊張だった。今のやりとりは、紅の緊張を解してくれたものなのか、それとも長官自身の心の準備だったのか。
紅は恐る恐る、続きの行を探す。見つけた箇所を、指の腹でなぞった。
結界を張った人物としては、他者という可能性が、非常に高いと言えよう。なぜなら、男性は今の世に珍しく、いや、有り得ないことに……全くアゥマを発していなかったのだから。術を施行できようはずがないのだ。
世界が再生して以来、人々どころかあらゆる生き物がアゥマを体内に保有することで生命活動を維持できるようになったのだ。次元魔法で世界を渡ってきた異世界人でもない限り、特定の能力を持つ者には発せられるアゥマが可視できる。なんの縁か私はその異世界人にも会う機会があったけれど、その人とも違うのは確かだった。詳細は省くが、異世界人は存在値の根本が異なるのだ。
もう一度、書こう。現代において彼は異質以外の何者でもないのだ。
紅の背が、勢い良く跳ね上がった。頭は熱いのに、心臓は氷さながらに凍った。
そして、すぐに報告書にかじりついて、穴が開くほど凝視した。絡んでいく思考とは反対に、霞みに隠れている姿は浮き彫りになっていく。
紅が知るアゥマを纏わない人物。一人だけ、心当たりがあった。紅は大きく頭を振る。
(いや、あの人はアゥマ自体は感じる。中にあるはずなのが、外枠に異様なアゥマとして浮き上がって見えるだけ)
しかし、頭の中だけで続きを一文だけ読むと、その人物の輪郭は鮮明になってしまった。
正確には、不可思議なアゥマに包まれてはいるものの、通常の人間のように体内からアゥマを発していないのだ。
古代、前の文明――世界が滅亡した直後ならば有り得ただろう。
しかし、現在存在する長寿を特徴とする種族であっても、もって千年未満。今は、樹の誕生から千年単位の時が流れている。当時の人間が未だに生きていられる年代ではない。浄化を含め、あらゆる術は己の中から染み出すアゥマと空気中に漂うアゥマを共鳴させて繰る。共鳴力が弱くとも、媒体を使用すれば術の発動は可能だ。多くの人間は後者で術を使うことができる。
しかし、アゥマを発していないとなると、どんな魔道も繰ることなど不可能なのだ。少し話がずれてしまったが、彼の存在も異質ではあるが、つまりはこの場所は彼以外によって整えられているというのがわかる。
「いやいや! だれが用意した場所って言うより、明らかにこの男性の存在の方が気になりますよね⁉」
「それは、まぁ、なんというのですかね? わたしが思うに、その著者的には記憶がない男性に事実を聞き出せない上、この場を整えた人物像を特定して彼の正体と突き止めた方が早いと思ったのではないのでしょうか、なのです」
長官が指先をつんつんと突き合わせて、珍しくから笑いを零した。
「なるほど。オレの考えが浅かったです」
「あっあははーなのですよー。続きをお願いしますです」
長官に促され、紅は思わず上がっていた腰を椅子に戻した。
報告書を掴んでいた手にも、力が入っていく。上品な装丁をした硬い表紙が、みしりと悲鳴をあげた。文字の下を走っていた指から汗が吹き出す。頭の片隅で古書を汚してはと冷静に思うのだが、肝心の指は紙に縫い付けられて動いてはくれない。
回りくどい書き方になることを許して欲しい。けれど、その時は世界の辺境のそれよりも果てならば、私などの知識が及ばない種族もいるのだと言い聞かせ、考えることを拒否していたのだ。術を繰れない人間もいるのだと。いや、考察した所で、まさか彼が愁張の想いがもたらした悲劇で形作られているなど、想像も出来なかったのだが……。
紅は口を掌で覆った。紅は、その単語が持つ意味を正確には知らなかったが、流れ込んでくる思念から、予想が付いてしまった。紅も感じたことのある、胸が張り裂けそうな想い。
どんな時にでも惜しみなく愛情を注いでくれた人たちを失った、あの時と同じだ。受け入れがたい、現実。
足が勝手に震えていく。振動を止めようと、爪が食い込むほど腿を掴むが、効果はなかった。靴の踵が大理石の床にぶつかる音が、耳鳴りに混じって聞こえてくる。
(不可思議なアゥマに包まれてはいるものの、通常の人間のように体内からアゥマを発していない)
何度も反芻される、自分の心の声。よそよそしく聞こえる声は、容赦なく響き続けた。
「アゥマを保有していない人間がいる可能性だって……皆無だと言えるんでしょうか。様々な障害をもって生まれる人だっています。その個性に分類されるものなのかも」
止まりかけた紅の思考を押したのは、長官だった。長官は、紙に触れたまま震えている紅の指をそっと両手で包み込む。二・三度あやすように叩くと、円卓の上に置いた。
「アゥマを完全に制御するに至らなくとも、媒体を通しても『繰る能力』が備わらないというのは少ないのです。少ないというのは、例外扱いだとしても存在しないことも、ないのです。けれど、あくまでも『繰る能力』の範疇でだけ、言えるのですよ」
淡々とした長官の声が、逆に紅の心を凍らせた。押すというよりは、現実から逃げるのを許さず、腕を引っ張られるようだ。長官は言外に、紅の考えを否定したのだ。
汚染が薄れた現代でも、そう言える。ましてや古書が書かれた、汚染が遥かに強かった時代でなど、有り得ない。いや、自分が思い込んでいるだけだろうか。著者も有り得ないとは記しているものの、実際は、アゥマの誕生に近い時間軸である古書が書かれた時代の方が、アゥマを体内に『持たない』可能性が、まだあるのか。
額に前髪が張り付く。かきあげても、不快感は拭えなかった。次から次へと汗が吹き出てくる。後頭部まで流れた髪が、のろのろと眼前へ落ちてきた。
「アゥマを体内に持っていないとは、すなわち、生命活動をしていないという意味に等しい。アゥマは血。血はアゥマ。溶け合って、常に体内で自己治癒を行っている。アゥマを持っていないなんて」
つまり、一言で片付けるなら、生命活動を行っている人間として、まさに『有り得ない』状態だ。
耳を振動させる心音が脳に流れ込んでくる。血の気が引いていくのが、気持ち悪いほどわかった。こみ上げてくる嘔吐感を堪え、喉の奥を締めた。それでも、気を抜けば、胃の中にあるもの全てが、出てきてしまいそうだ。
「まさか、彼女も」
ぽろりとこぼれ落ちた言葉。決して確認したかったのでも、肯定して欲しかったわけでもない。頭の中でだけ留めておきたかった考えは、紅の許容を越えて勝手に形となっていく。




