鍵③―黒い手―
「だめっ‼」
蒼の悲鳴が響き渡る。
呼吸が止まった時間の分までと、急速に鼓動が激しくなる。その振動に押されるように、喉から鋭い声が飛び出していた。
つんざくような叫びがアゥマの膜を破ったかのように、鮮明になっていく意識。
冷たい床に体を横たえ、折り曲げたまま、蒼は声を出し続けた。あの黒い何かを振り払うかのように。
「蒼⁉」
すぐ近くから、真赭の声が聞こえてきた。ひどく興奮した様子で、自分の名を呼んでいる。あぁ、自分は現実に戻ってきてしまったのだと。安心よりも悲愴感が勝った。
先程まで見えていた映像は、完全に消えてしまっていた。奇妙な空間ではなく、現実にいることも自覚出来た。けれど、あの黒い手が撒き散らした恐怖は、まだ確かに蒼の中にいる。
(行かなきゃ! もう一度あの空間へ……)
蒼は掌にある鍵を、思い切り握りしめる。だが、身体を襲う激痛で上手く力が入らない。
その直後。氷のように感じていたはずの床さえも、太陽に熱せられた鉄の板ほどの熱で肌を焼いてくるような錯覚に陥った。胃の中のモノを全て出してしまいたい。それどころか血液さえも全て蒸発してしまえば楽になるのではと、突拍子もない考えが思考を埋めていく。
そう、血の代わりにアゥマが体を満たせば、楽になると思ったのだ。
「ちょっ! 真赭! 蒼の肌からアゥマが溢れてきちゃってるんだけどぉ! どうしよう⁉」
「どうしようって、止めるしかないでしょうに!」
「どうやってさぁー!」
「浅葱も考えて! 腕を振り回しても、アゥマは捕まらないわよ!」
真赭と浅葱が動揺し、取り乱している声が耳に届いた直後。蒼は飲んだ息が詰まり、喉は栓で塞がれた状態になってしまう。
蒼はなんとか再び呼吸をしようと、肺からありったけの空気を絞り出す。すると、蒼の肩が大きく揺れた。全身が脈打ち、必死で血を巡らしていく。あまりの勢いで、皮膚を破って弾け出してきそうだ。
喉元を抑えている左手に、生理的に溢れてきた涙が落ちてくる。肌を滑る感触。蒼は、己を叱咤する。
(私、何を考えていたんだろう!)
幾分かは思考能力を取り戻してきたものの、蒼を囲むように床に膝をついている二人に、応える余裕はない。ただ、伝わってくる二人の焦燥感で、自分が変わらず危険な状態にいるということは判断できた。
何とか開いた目に映る真赭と浅葱の顔は、青白い。
「浅葱、焚染札を持ってきているわよね! 邪気払い用の!」
「あぁ、うん、もちろんだよ! ボクがいつも色んな種類の持ち歩いてるの知ってるだろう?」
浅葱も混乱しているのだろう。なぜか、真赭の手を握り返した。浅葱はそのまま顎を激しく振り声をあげた。
しかし真赭は、浅葱の方も見ず、強い調子で右手を突き出した。見事に浅葱の腹に当たった。
「承知しているから聞いているの! いいから、早くっ」
あまりの痛さに浅葱の口から苦々しい声が上がった。何度か呼吸を整えたあと、慌てた様子で腰に付けている小さな腰鞄に手をかけた。
そこから、数枚の札を出しかけたところで、全て真赭にひったくられるように奪われた。
「真赭っ! ちょっ! 乱暴なぁー!」
思わず、浅葱が抗議の声をあげた。立ち上がり、両手で髪をかきむしっている。頭を激しく振り、嘆きに表情を崩した。
真赭は耳を貸さず、視線を札にのみ注ぎ、札の海を這い蹲る。うぐいす色やねずみ色など、様々な色の札が、真赭の細い指により四方八方へ払いのけられていく。すっと。指先が切れても、全く構いもせず。
後ろに立つ浅葱は、宙を舞う札の間で右往左往し、飛びついては裾に突っ込んでいく。それでも、手につかんだ札の効果を見定めてはいるようで、
「これは、違う。違うけどぉー」
泣きそうな声をあげ続けた。
「あー! もう! 必要なものを探してるのはわかるけど、だからって、使わないモノをばらばらにしないでおくれよぉー」
半べそをかきながら、浅葱は床に放り投げられている札たちをかき集める。鮮やかな札が、見事な手つきでひと束に纏められていく。
浅葱が、それに息をひとつ吹きかけ、大きくうねらせる。極彩色の札が羽ばたき、扇状に広がった。
浅葱の額から汗が流れ落ち、鋭い視線が手元に注がれる。
「これだっ!」
浅葱が掲げたのは二枚の札。
浅葱の歯が軋む。手に持った札を額にあて、意識を集中する。札の周りにアゥマが舞い始めると、真赭が目を見開いた。
「浅葱っ! 早く祓詞を!」
「カケマクモカシコキ、オンハラニ、ミソギハラヘタマヒシトキニ、ナリマセルハラヘドノオホガミアチ、モロモロノマガイゴトツミケガレ、アラムヲバ、ハラヘタマヒキヨメタマヘト、マヲスコトヲキコシメセト、カシコミカシコミモマヲスっ‼」
浅葱の鋭い掛け声と共に、宙へ投げられた札。ぴたりと空中で身を固めた札は、紫から黄へと色を変えていく。すると、散った白檀の香りが蒼を包んだ。爽やかで甘い匂い。蒼の鼻腔や口腔から薫香が体中に染み込んでいくのに、そう時間は掛からなかった。それと同時に、汗に濡れた腕に、ひんやりとした粒子が降り注いできた。
「かはっ!」
蒼の肩の動きが静まっていく。
蒼には、浅葱から口早に紡がれる言葉を吟味する余裕はなかったが。以前読んだことのある古代の魔道文献に記載されていた語音に似ている、と考えられるほどに、少しばかりは落ち着きが戻ってきた。
蒼の呼吸の波を確認し、真赭は次に朱色と黒色の札を床に叩きつけると、大きく息を吸い込んだ。
「ミヨウホウレンゲキヨウジユソドクヤクっ!!」
「ダメだよ、真赭! いくらボクがある程度の祓いをしたとはいえ、調伏するにはあっちの力が大きすぎるよぉー!」
札から放たれた光が、蒼の下の染みに絡み、引きずり出した。空中へ逃げようと登っていく陰も逃すまいと、光の帯は身を捩りながら追っていく。だが、宙でとまった黒い塊は中心部をまるで口を開けているようにへこませ、光を飲み込もうと待ち受けている。両端が鋭利にあがり、奇妙に笑っているようだ。
真赭の手の中で、ぎゅっと札が握り締められる。注ぎ込まれたアゥマを消費した札は日に焼けたように色褪せ、しおれてしまっている。それを、歯をこすり合わせながら見つめる真赭。
「どうしたらいいのかしら」
「真赭! 危ない!」
浅葱が声を荒らげた。
蒼も朦朧とした意識の中、瞳を転がす。すると、空中で浮遊していた陰が光を喰らっているではないか。それは取り込むというより、まさに、生き物が喰らう姿。光の身が引きちぎられていく。
閃耀が走る。真赭と浅葱が息を飲んだのが、蒼に伝わってくる。閃光は針となって三人へ降り注いだ。張り詰めた空気を切り裂く。
「だっ……め」
二人が危ないと思った瞬間。蒼の口が音を絞り出していた。蒼は力を振り絞って左手を掲げた。すると、蒼の掌の前に小さな魔道陣が現れて淡い光を放った。
「あおっ⁉」
背後から聞こえた声と魔道の力に反応したのだろう。勢いよく振り返った真赭と浅葱は、はっとした表情で散らばっていた札を拾い上げ、発動させた。とにかく、なんでもいい。
「くっ」
向かってきた光針は、札が起こした風に煽られ、あらゆる場所へ刺さっていく。 大抵が蒸発して消えていったが、本へ触れた針は喜んでいるようにアゥマを吸収していく。
今度は、三人の近距離を通り過ぎていく針を、打ち消さなければいけない。
「あぁっ! 本からアゥマが抜けていくわ!」
己の肌をかすめていったのも気にかけず、真赭が驚愕に顔を歪めた。
絶望を浮かべた顔で立ち上がろうとする真赭を、浅葱が袖をひっぱり必死に止める。
「真赭! それは置いておきなよぉー!」
一方、そんな二人を他所に、第二波が陰から吐き出される。反応が遅れた三人の顔や腕から血が滴り落ちた。
「いっだっあっ!」
勢い良く裂けた真赭と浅葱の肌から、大量の血が漏れていく。蒼を庇ったせいだ。
ひたひたと。蒼の頬を伝った血が、床に貼られた札に落ちた。じんわりと、紙はそれを身に染み込ませていく。蒼の出血はわずかな量であるものの、傷口がかなりの痛みを伴った。傷の道に走っていく、約熱。堪らず、蒼は奥歯を噛み締めた。その拍子に切れてしまったのか。唇に走る苦痛に、顔が歪む。
陰自身が深呼吸し体を弾ませたかと思うと、空気を割いて三人へと向かってきた。
「――っ!」
咄嗟に、真赭が蒼の傍らに落ちていた札に手を伸ばし、襲い来る敵へと投げつけた。色はすっかり褪せている。真赭は札が既に力を失っていることに気づかない。そのまま夢中で真赭と浅葱の口が呪を刻んだ。
と、全てが白に包まれる。瞳から身体の芯まで到達する純白。毛先から血まで、至る部分へ染み込んでくる燐光。安らぎを与えてくれる。
陰を包みきった光が札へと戻っていく。はらりと床へ落ちた。
それと同時、本棚に飾り付けられている宝玉が一斉に輝き出した。書庫全体が骨組みを変えている音が、響きわたる。歯車が回っている音だ。
「なになにこれー! すっごい大きな音じゃん!」
「……おばぁ様以外には開けられなかったのに」
真赭の驚きに満ちた声は、けたたましい音の中でもはっきりと聞こえた。
蒼は、閉じてしまった重い瞼を開けることもできず、深く息を吐き出した。




