蛍雪堂①―古書店の地下―
「えっぐしょん!」
「浅葱……大切な本たちが汚れるから、くしゃみはやめて」
真赭の猫目が、さらに吊り上がった。全く悪びれずにいる、くしゃみの主を睨みつけたのだ。研ぎ澄まされた包丁のような視線に刺された浅葱は、口元を引き攣らせた。
「出るもんは出るんだよぉー。ちゃんと布巾だって巻いてるじゃないかぁー」
所狭しと、ありとあらゆる本がおさめられた倉庫。ここには年代物の本――古代の魔道の力が封印されていたり知識が集約されていたり、いわゆる『古書』がしまい込まれていたりする。
しかも、とある人物の秘蔵の古書たちが、ひっそりと隠されていた場ということもあり、かなり貴重なものばかりだ。
一介の古書堂の地下にあるにしては、あまりにも広大だ。書庫というよりは、巨大な国立図書館とも呼べる大きさはある。
「しかも、すっごく反響したよね」
そんな場所だから、浅葱の豪快なくしゃみは未だに響き渡っている。
蒼は抱えていた本を置き、空いた両手でわざとらしく耳を塞いでみせた。
「浅葱のくしゃみって、豪快すぎるんだよ。真赭の心配もわかる」
しかし、まぁ。紙が多く集まっている場所を整頓しているのだから、くしゃみをするなという言葉は、ひどく酷に聞こえる。
けれど、あまりにも遠慮のない勢いでくしゃみをした浅葱を、本を愛しく思う真赭が責めたくなる気持ちもわかる。
「出るものは仕方がないだろぉー」
蒼が助け舟を出さないことを悟ったのか。浅葱は、口に巻いていた布巾を剥ぎ取り、大型の木梯の上にどっかりと腰をおろした。あぐらをかいて。
浅葱と呼ばれた少女は、太ももあたりの長さの袴を履き、直垂を羽織っている。膝裏までの羽織が地面に触れると、その拍子に、また埃が舞い上がってしまった。
浅葱は、再び投げつけられた視線から意識を逸らすように、俯き気味の姿勢になり、眉間を中指で抑えた。
「髪に埃がつくのは、どーでもいいけどさぁ。鼻は困るよぉ」
顎あたりまでに長く伸びた前髪。名前と同じ薄い青緑の髪が、頬下に触れる。頭の高い位置で団子状に纏められている後ろ髪からは、無造作に遅れ髪が飛び出してもいる。大雑把なまとめ具合に、浅葱の性格がそのまま反映されているようだ。
浅葱の癖のような仕草は、空振ってしまった。その様子を見ていた蒼は、呆れ顔で同じ仕草をしてみせた。
「浅葱ってば、今は眼鏡かけてないのに」
「おっと! そうだった。ボクの大事な、焚染札を浄錬するのに使う眼鏡は置いてきたんだったよ。埃まみれになったら大変だもんねぇ」
「浅葱は帰っていいのよ? ねぇ、蒼?」
浅葱は焚染札を売る供香堂の娘だ。店主である父親の手伝いという立場ではあるものの、アゥマと香りの焚きしめる調合具合は、なかなかの腕。実際、異形の者や邪を祓う効果は絶大だ。蒼も心葉堂の軒先に貼る焚染札も、必ず彼女の店から購入している。
自分のことを『ボク』と称し、一見がさつな振る舞いで、男物に近い服を好んで着こなす浅葱だが、術の施しは実に繊細なのだ。
「真赭は蒼にばっかり甘いんだよねぇー」
「蒼に甘いのではなくて、浅葱に厳しいだけ」
「もっ、もっとヤな感じになっちゃったよ……」
背中を丸めて冷や汗を流した浅葱と、ふいっと顔を背けて足元の本を拾い上げた真赭。そして、巨大な本棚の渕に腰掛けて二人を楽しそうに見つめていた蒼の三人は、幼い頃からの付き合いだ。
真赭の祖父母は蒼の祖父である白龍と幼馴染関係であったし、浅葱の父親は白龍の弟分のような関係なのだ。
「素晴らしき幼馴染の仲ってやつだね!」
幼馴染同士の微笑ましいやりとりを、笑顔で見守っている蒼に「違うっ!」とお揃いの声が返ってきた。
あまりの勢いのよい調子に、蒼は改めて手にとった本で顔を隠した。いつも通りの二人の反応に、特に言葉は返さない。蒼は、ぐるりと周囲を見渡した。
「それにしても、すごい光景だよね。御伽話しに出てくる、本の世界に迷い込んだみたいだよ」
蒼の言う通り。古書を扱っている店の地下深くにこの書庫はあるのだが、人間が小人に思えてしまう程、巨大な本棚がずらりと並んでいる。
その本棚は、樹のようでもあり、大理石のようでもある。不思議な感触だ。大小の梯がいたる所に備え付けられており、特殊なカラクリで、自動に動くようになっている。
「この書庫は、先祖代々、特におばぁ様が白様と同じように、冒険家として世界中を飛び回っていた頃から集めていた本が眠っているから」
「古書の老舗の先代だしねぇ。稀少なものがいっぱいあるんだろ? ボクには本のことは良くわからないけど、しまい込んでいるだけなんて、宝の持ち腐れってやつじゃん?」
浅葱の疑問で、真赭の視線がわずかに鋭くなった。
ここは、心葉堂と同じようにアゥマが流れる道が走っている。理由のひとつとして、気温と湿度を保つため。それともうひとつ、魔道の力を備えた本を制御するためにだ。けれど、心葉堂の溜まりが洞窟風であるのに対して、ここは周りの壁は岩肌そのものではなく本棚と同じ素材で固められている。
書庫の入り口には、大きな円卓に飾り付けられた八卦の模様が書かれた板。その中央には、成人男性の肩幅ほどもある、半球の硝子がはめ込まれている。アゥマの使役によって、目当ての本が探せるようになっているのだ。硝子に文字が浮かび上がるのと同時、本棚に並べられている本が光る仕組みだ。
「もう、浅葱ってば」
「だってさぁ。本に興味がないボクにとっても、焚染札関係でめっちゃ惹かれる本が一冊くらいありそうじゃん?」
蒼と真赭それに浅葱は、最奥の本棚の最上部にいる。浅葱が座ったままの姿勢で、手近にあった本を一冊拾い上げ、ふぅっと息を吹きかける。すると、その風にのって、埃の綿毛が飛んでいった。
しかしながら、大分年季が入った埃のようで。本自体にこびりついてしまっているものは、びくともしなかった。その様子に、浅葱は鼻を摘まんで「うへぇ」という潰れた声を出した。
「仕方がないのよ。おばぁ様自身でさえ、この最下層には、あまり立ち入らなかったし」
「でも、真赭は許されていたんだよね」
「そう。私は昔から体が弱くて、おばぁ様やおじい様、それに両親のように、外の世界に出て書を探す機会が持てなかったから」
古書堂は、家族ぐるみで世界を飛び回り、遺跡や他店から書を探しだす。
真赭も、そうなりたいと願っていたし、年齢的にも許される年ではある。けれど、生まれつき体が丈夫でないことから、それは叶っていない。それを気にかけていた祖母は、息子夫婦にさえあまり触らせなかったこの場所を、彼女には自由にさせてくれていた。そう、真赭は言う。
けれど、蒼は少し違った考え方をしている。愛しそうに本の表紙を撫でている真赭。彼女は人一倍、本を大切に思っている。何より、古書に掛かった鍵を読み解くだけではなく内容自体を深く理解することができる。古書を希少価値よりも、あくまで『本』として向き合う姿勢を、真赭の祖母も買っていたのだろう。
「話には聞いていたけど、すごい空間だよね。本当はおじいも来る予定だったのに。ごめんね」
「こればっかりはどうしようもないわよ。魔道府に呼ばれたのだもの。後日、ご足労いただけるのだから気にしないで」
「ありがと。それにしても、広いだけじゃなくって、色んな年代のアゥマが喧嘩することなく、共存しているのだもん。やっぱりこの本棚に特殊な仕掛けがあるのかなぁ」
蒼は立ち上がり、本棚に右の掌を当てる。瞼を閉じて、触れ合っている部分に意識を集中させる。すると、暗闇に浮かび上がってきたのは、様々な光の線。その光彩からもれる粒子が、蒼の身体に吸い込まれてくる。一瞬、焼け付くような痛みを感じる。しかし、それを拒絶せず、全て正面から受け止める。ただ迎えるだけではなく、己の中にあるアゥマを踊らせ、優しくまぜる。
すると、しばらくして、熱が波のようにひいていった。ひんやりとした、滝の近くで感じられるような清涼さが蒼を包む。そうして、今度はあたたかさが肌に触れ、胸を熱くしていった。
(とっても心地いいなぁ)
薄く瞳をひらくと、周囲にわずかな風が起きていた。その風の流れに、薄い七色の粒子が踊っている。やがて、その色は黄色よりも薄い黄檗色に落ち着いた。
瞳を完全に開き、棚に添えていた手を、胸の前で握る蒼。良質なアゥマに触れたからか、その表情はうっとりとしていた。お気に入りのお茶を飲んだ時のように。
共鳴の名残か。蒼の動きにあわせて、わずかな粒子が舞った。共鳴力が強い術師に限られるのだが、共鳴直後であればアゥマの粒子も可視できるのだ。紅の特殊能力は空中に漂うアゥマさえ可視できてしまうもの。
蒼は大きな声で感動を表したかったが、場所が場所だけに必死で堪える。全身が痺れた。この場に足を踏み入れた時から、高揚感に落ち着きをなくしていたが。今のはとんでもなく、芯が震えた。
なんとか、しゃがみこんで肩をすぼめ、
「くぅー!」
と声を絞り出すだけにとどめた。
色を薄くしていっていた粒子が、その声に驚いたかのように、ぱちんと、小さな音をたてて姿を消した。
「蒼のアゥマの使役っぷりは、相変わらず綺麗だなぁ。ボク、見とれちゃったよ」
「本当に。蒼ならこの散らかった本の整理も早く済みそう。共鳴力が飛び抜けているもの」
声をかけられて。我に返った蒼は、赤くなっていく頬を抑えた。
優しい表情で本を抱き直した真赭はともかく、あぐらを掻いている足を掴み笑顔を浮かべる浅葱の言葉は、恥ずかしさを誘う。からかいが含まれていない分、余計だ。
「真赭はともかく、浅葱は紺君みたいなこと言わないの!」
蒼は少しばかり距離のある浅葱を指差し、赤い顔で抗議の声をあげた。空気を割く音が聞こえるのではと思えるほどの、俊敏な動きで。
出た声は、思いの外大きく。書庫内に蒼の声がこだました。
「ほうほう。紺兄ですか」
しかし、当の浅葱は一瞬だけ呆けて、猫のような細い目をつくった。それとあわさっての三日月形になっている口元から、明らかに、意地悪な笑い方だとわかる。
「そうだよ、この間だってさ――」
とんでもなく意味深な顔を向けられ、蒼はたじろぐ。「なっなにさ?」と一歩身をひくと、足元の本に、靴があたってしまう。蒼は、真赭に謝りながら、慌てて、それを拾い上げる。顔をあげると、浅葱が、至極嬉しそうな顔で立ち上がり、上着の埃を叩いているところだった。はたと目が合うと、
「そっかそっか。仲直りしたんだねぇ、よかったー。この間店に来てくれたときは、ちょっと上の空っぽかったけど」
大きく頷かれてしまった。
確かに。先日、供香堂を訪ねた時には、すでにわだかまりは解けていた。けれど、紅が一緒であったのもあり、紺樹とのやりとりについて詳しくは話していないはずだ。また、白龍と紺樹の会話も、引っかかっていたから心あらずに見えた可能性もある。
いや。そもそも、多忙にしていた浅葱には、例の出来事も伝えていなかった気がするのだが。蒼は混乱していく頭で、必死に考えた。頭を抱えて目を回している蒼。その様子と、いつの間にか並んで立っている真赭と浅葱が楽しげに見つめてくる。
「――っ! まっ真赭ってばっ!」
「私は蒼が抱える問題のひとつが解消されたみたいとだけ」
「蒼も水臭いなぁ。いくらボクが焚染札の浄錬時期で、溜まりにこもってたからって。相談くらいしてくれれば良かったのにさぁ。いつも、真赭ばっかり」
「日頃の行いよ」
真赭に綺麗に微笑まれた浅葱が、ちぇっと短く舌を打った。頭の後ろに両腕を組んで横を向いてしまった浅葱。軽く、本棚にもたれる。けれど、その拗ねが本気でないということは、雰囲気から伝わってくる。
普段なら微笑ましいと感じられるやりとりだが、その中心が自分だということは、非常に居心地が悪かった。再び、蒼はしゃがみこみ耳を押さえた。茶師としての悩みならともかく。紺樹のことで落ち込んでいたことを蒸し返されると、とてもむず痒くなる。
なんとか話を逸らそうと、蒼の頭は必死で回転を試みる。けれど、羞恥のあまり話題が出てこない。結局、たどり着いたのは、普通の言葉だった。
「もう、私のことはいいからさ。片付けしよう!」
「そうね。折角、二人に時間を作ってきてもらったのだから」
「やっとだね。先代が亡くなってから、時間もたってるしねぇ。……まぁ、心の問題としては、まだなんだろうけどさ」
歯に衣着せぬ浅葱だが、こればかりは蒼と真赭を気遣ったのだろう。ふと真剣な顔になった。
蒼の両親と真赭の祖母は、同時期に亡くなった。彼らだけではない。クコ皇国の優秀なアゥマ使いが、少なくない数、命の灯火を消した。溜まりの管理者やアゥマ使いが集まる会合の際に起きた事故のせいらしい。らしい、というのは、国からも詳細は公表されていないからだ。家族にさえ、だ。
ただ、どこかの龍脈の暴走が関係しているのでは、という噂があるのみだ。そう、ぼやかされてしまっては、おおっぴらに調査をすることも気が引ける。犯人探しをしているようになってしまう。それに、暗にそれ以上は首を突っ込むなと、国に釘を刺されているようなものだ。
それはともかく。心葉堂もそうであったが、それから、脈の状況を魔道府に調べられたり自分たちでも膨大な本を整理したりと時間がかかってしまったのだ。そうして、今日になってようやく、真赭も蛍雪堂の溜まりに立ち入ることが可能となった。




