清めの場③―年上幼馴染の心しらず―
「さて、紅たちに置いて行かれないように、私たちも進みましょうか」
そう言って、紺樹が柔らかく微笑みかけてきた。笑みを受けて、蒼は前を向く。
確かに、白龍や紅それに萌黄の姿は豆粒のようになっている。すぐに角を曲がってしまい、紅の慌てた声と萌黄の楽しそうなはしゃぎ声だけが遠くに聞こえた。
「蒼、どうかしましたか?」
紺樹と少し笑いあっただけなのに、蒼の中で渦巻いていた暗い考えは、不思議と影を潜めてしまっていた。もちろん、茶師としての未熟さへの自責の念が、完全に払拭された訳ではない。けれど、絡み合っていた、幼馴染としての感情がふっと解けていったようだった。
「そうだね。あまり離れると、紅に怒られそう。助けろよって」
とたん、兄をからかう元気が出てくる。萌黄に振り回される紅に、助け舟を出さずにいることは後で愚痴られてしまいそうだ。蒼は自分から冗談半分で発した言葉に鳥肌をたて、足を踏み出した。
「はい。その前に――」
鞄を下げていたはずの肩が、ふっと軽くなった。首を傾げて、蒼は足をとめた。そのまま、視線を横へと動かす。視界に入ってきた紺樹の手にあったのは、先程まで蒼の肩にかけられていた鞄だった。
紺樹の仕草があまりにも自然だったので、つい蒼の反応が遅れてしまう。目を瞬かせた蒼に、
「どうしました?」
と紺樹が柔らかく微笑みかけてきた。
「紺君、いいよ! そっちの荷物も重たいでしょ?」
「そうはいきません。それとも、私は女性の荷物も持てない程、貧弱だと蒼に思われているのでしょうか」
「紺君が頼もしいのは知っているよ。それでも、徹夜明けで疲れてるでしょ?」
紺樹は一見すると優男に見えるが、決して貧弱という印象を受けるわけではない。何を今更言っているのだろうと、蒼は紺樹を覗き込んだ。さらりと。束ねている長い淡藤色の髪が、なめらかな肩を滑っていった。
瞳に映った紺樹の顔は珍しく惚けていた。不思議に思った蒼が、
「紺君、大丈夫? 眠たい? 先に心葉堂に戻っていても良いんだよ?」
と彼の名を呼ぶ。ついでにと紺樹の腕を柔らかく掴んだ。いつもよりいくばくかは控えめに。
「うーん、困りましたね。不意打ちだ」
紺樹は、面食らった様子で頬を掻きながら呟いた。そうして、そのまま視線を逸らされてしまった。彼の頬がわずかに色づいている、気がした。
徹夜で疲れているなどと言ってしまったことに、気分を害してしまったのだろうか。いや、その程度で紺樹が蒼に対してへそを曲げることはない。
ということは、疲労が滲み出ているのを年下の蒼が察してしまったことに対して、羞恥したのだろうか。蒼は色々思考を巡らせる。
「お疲れさま! そっか、そっか。紺君、お仕事頑張ってるんだもん。私も、はりきって浄錬しないとね!」
それは、きっと自分の中でだけの勝手な解釈。けれど、飄々とした紺樹から一本とれた気がして、蒼は嬉しくなってしまう。
浮かれた蒼は、くるりと回って紺樹の前に立つと、両腕をあげて力こぶをつくってみせた。その拍子に、ふわりと桃色をした服の裾が舞う。石畳と靴がぶつかった音が、静かな空気に響いた。
「へへっ。紺君を出し抜けたなら嬉しいなぁ。それも仕事面で」
「蒼が茶師として接してきた時はいつでも全面降伏ですよ?」
そうだ。紺樹に対して、今まで『職人』として向き合えてすらいなかったのが、やっと『職人』として茶葉を提供することが出来るようになったのだ。そうして、仕事の辛さが理解できるようになった。そう考えると、きっと辛さも乗り越えられる。そう自分を信じようと、蒼は心の中で頷いた。
そんなことを考えていると、自然と頬が緩んでしまい。蒼は気合を入れる振りをして、軽く自分の顔を叩いた。
「そっか、ありがと! 紺君にちょっとでも近づけるように頑張るよ!」
目の前の紺樹はたっぷりと間をとって、掌で顔を覆うと深くため息をついた。気のせいだろか。肩も落ち、猫背になっている。
「まったく、君って」
「えー? どういう反応なのかなぁ」
蒼としては、実に心外な反応だ。思わず紺樹に詰め寄り、袖を引っ張る。けれど、当然のことながら、蒼の力では紺樹の顔から手を剥がすことは不可能だ。
完全に固まってしまった紺樹。手を離した蒼は、思いっきり頬を膨らませ、どうすれば良いのかを考える。そして再び紺樹に手を伸ばすが、今度は直接彼の手を掴みにかかった。
「紺君? 蒼はちょっと寂しいですよ?」
子ども時代を思い出し、真似てみる。
すると、それまでの頑なさが嘘のように、彼の顔と手に隙間ができた。が、その手は重力に従って、蒼の額のやや上に着地してきた。そのまま、蒼が目を閉じてしまうほど、撫で続けてくる。
「いや。今吹いているそよかぜにも飛ばされそうに、いとも簡単に意思が揺らいでしまったから。本当、俺は蒼に弱いと思ってだな。……まぁ、分かりきってはいたのだけれど、実際そうなってみると、魔道府の副長としては情けないというか、いやしかし、仕方がないというか」
「もー! 紺君ってば、意味不明だって!」
口調が崩れているのも珍しかったのだが。それよりも蒼を混乱させたのは、彼の言葉の内容とその勢いだった。まるで早口言葉を聞いているかのような速さだ。よく舌を噛まずにいるなと、妙に感心してしまうほど。
何故、今ここで紺樹の魔道府としての立場が出てくるのかも疑問である。しかし、それ以前に。今の話の流れで、何に対してどうして『意思が揺らぐ』のかも皆目検討がつかない。
「それに撫ですぎ。前が見えないよー」
蒼は、紺樹の腕にしがみつく形で自分の腕を絡ませ、なんとか下へおろそうと試みる。上にあげることは力関係上不可能なので、なんとか引きずりおろしたい。最悪、顔をひっかかれるか胸に手が落ちてくるか。
どちらにしろ、謝罪してくるだろう紺樹への対応が面倒くさかったけれど、このままの状態よりは断然ましだ。蒼はそう思って、抗議を続ける。
「あっ、すまない。前髪が乱れてしまったな」
蒼の体温で我に返ったのか。紺樹が、はっとした表情で手を離した。そのまま、気を付けの姿勢で、指を閉じたり開いたりしている。
やっと開放された蒼は、やっと息を吸えた。色んな意味で心臓に悪かった。
「髪は別にいいけどさぁ。紺君、やっぱり帰って寝たほうがいいんじゃないの? 反応も素直すぎるし、思考回路も迷走してる感じ」
蒼は、あまりにも素の表情で謝罪を口にした紺樹が心配になってしまった。紺樹を見上げると、彼の背後には、柔らかい緑みのある青い百郡の空が広がっていた。
「オレはいつも素直だよ。君の幸せに関してだけは」
白みを帯びた群青の景色が、霞みに白さを増す。漂う薄い雲は、ただ、静かに流れていた。整然と佇んでいる家屋の屋根に、波打つかのように影が落とされる。
さわっと。葉を揺らす風が、蒼と紺樹の髪をわずかに躍らせた。
「紺君? ごめん、よく聞こえなかった」
気のせいだろうか。流れた髪の合間に見えた紺樹が、困ったように微笑んだように見えた。
確信が持てなかったのは、蒼が紺樹をしっかりと見つめた時には、すでに彼はいつもの満面の笑顔を浮かべながら、
「確かに寝不足が祟っているようではあります。つい、ぼうっとしてしまって。蒼の前だというのにかっこうがつかないですね。と反省したんですよ」
と言って、後頭部を大げさに掻いていたから。
蒼の中に小さな違和感が生まれた。本当に微小な程。
だから、それが何に対してなのか、蒼自身も全く予想もつかないものだった。再び吹いた風に飛ばされてしまったのではと思えるくらい、軽い違和感。なので、蒼も一瞬小首を傾げただけで、すぐにその存在を忘れてしまった。
「えぇー。なんか言葉の尺が多い気がするんだけど。言い直した時のほ・う・が」
「やれやれ。蒼まで紅のように重箱の隅を突っつくようなことを。呟きを補足したんですよ」
紺樹の笑顔がぺかーっと光を放つ。蒼的には、そう見えたのだ。
胡散臭さを隠しもせず、堂々とバレバレな誤魔化しをする紺樹。蒼は数秒だけ半ば閉じた目を向けるが、すぐさま気を取り直す。
「まっ、いいけどさ。あんまり無茶はしないでね? 紺君が倒れたら、もう一人の副長さん――白磁さんが可哀想。ただでさえ、首都外のお仕事担当で忙しく飛び回っているみたいなのに」
魔道府には副長が二人いる。同じ副長でも立場的には次席である紺樹の方が上なのだが、もう一人の副長は経験も豊かで顔が広く、各方面に直接赴いて指揮を執っていることが多い。
若々しく舌っ足らずの口調で、だれにも臆さず自分の考えを述べる長官。飄々(ひょうひょう)として、胡散臭い笑顔を浮かべながら規則を守らない紺樹。そんな二人の相手を、最も近しい位置で補佐する人物。魔道府で一番の尊敬を集める人間ではと、実しやかに囁かれている。そう、紅から聞いたことがある。
「……蒼の心配の仕方に少し悲しくなりました」
紺樹に心底落ち込んだような表情を浮かべられてしまう。少しどころではなく、眉を垂らして思いっきり肩を落としている様子が、あまりにも可笑しくて。蒼から、あどけない笑い声が溢れた。それと同時に、紺樹に恨めしそうな瞳で見られてしまい、言葉を付け足す。
「うそうそ。私でよければ、いつでもお茶、淹れるから。お店終わったあとでもいいし、もちろん私の部屋に来てくれたら歓迎するよ? 私室にはこっそりだけどね」
「それは、とても嬉しいのですけど。夜分に自室へ人を招き入れるのは、感心しませんね」
「だってさ。紺君の仕事終わる時間には、心葉堂は閉まっちゃうもん。けど、遅くに居間に紺君がいたら、きっと紅がうるさいだろうから」
腕を組んで立つ紺樹の姿が、説教をしてくる紅の姿と重なってしまい、笑いがこみ上げてきてしまう。紺樹のいわんとしていることを理解できるくらいには、蒼も危機感は持っている。
紺樹の心中を察した蒼は、忍び笑いを漏らしながら「大丈夫」と付け加えた。
「女子っていう意識が乏しいって言われる私でも、さすがに紺君にだけだよ」
けれど、紺樹の口は、一文字に結ばれてしまう。今度こそ、蒼は大きな笑い声をあげた。
笑ったのは、紺樹がおかしかったからではない。私服のせいか、普段よりも表情が豊かな紺樹に嬉しくなってしまったのだ。嬉しくなっている自分に気がつくと、より笑みが深くなっていってしまう。いつの間にか、蒼の赤紫色の瞳は蕩けていた。
「大丈夫ではありませんよ。どちらの意味でも、今の私が……」
そう言って、紺樹はふんぞり返った姿勢で空を仰ぎ見た。
はてと。今度こそ、蒼は眉を顰めた。その単語に幾つも意味をもたせるなど、器用な真似をしたつもりがなかったからだ。蒼は、紺樹や白龍ほど言葉遊びが得意とは言い難い。
不思議に思った蒼は、何度か紺樹の名を呼ぶ。けれど、空を眺めたまま顎を撫でている彼が応じることはなく、唸り声をあげ蒼の手をとるだけだった。
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「遅い」
短く吐き出された言葉。それは予想通りというよりは、お決まりというべき紅の反応だ。
厳しい声色を投げかけられた当の蒼は、一瞬吹き出しそうになってしまう。けれど、紅にとっても、そんな蒼の心情は予想に難くないものだったのだろう。腕を組んで仁王立ちした紅が、無言で目を細めた。
彼らがいるのは、一軒の店だけがうっそうとした木々に囲まれて佇んでいる場所。玄関口の両側には、見事な柳が植えられている。
黒ずんだ楠の看板を掲げた供香堂の前に立つと、荘厳な空気に身が引き締まる。店の構えだけ見ると、狭い入り口からこぢんまりとした印象を受ける。けれど、札に香りを焚きしめているのであろう煙が、大分遠くから登っていることから敷地の広さが伺える。
風が吹く度、葉が擦れ合う音が響いた。心地よい薫風に混ざって届く、緑の香りが鼻腔をくすぐってきた。突風に煽られ抑えた髪にも、匂いがうつっているのではと思えるほど、この道の芳香は独特だ。
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紺樹と繋いでいた手は、既に離されていた。目的の店に辿り着くには、直前に角を曲がってくる必要がある。そこに差し掛かる寸前に蒼から離したのだ。
満面の笑みを浮かべた紺樹からは、一向に手を離す気配はなく。むしろ彼は、蒼が繋がれていない方の手を添えて、手を剥がそうとするのを、楽しげに見つめていた。蒼は、歯を食いしばって体を反らしながら、ありったけの力を入れ続けた。息が切れてしまい、肩が大きく上下してしまうほど。
――今日はここまでにしておきましょうか。おかげで元気が充填できました――
一頻り、そんな蒼の様子を見つめて満足したのか。数分後、紺樹がようやく手を離してくれた。すると、今度は逆に急に力が抜けたことで、姿勢を崩しかけた蒼。けれど、紺樹は、素早く蒼の左手を、柔らかく包んできた。両手を広げ、円になるように繋がっている間抜けな体勢で向き合った二人。子供がするように、繋がれた両手を楽しげに軽く上下に振ったのは紺樹だった。
自分を弄んでいる紺樹に、蒼は冷たい視線を向けた。しかし、それさえも彼を喜ばせる要因にしかならなかったようだ。愉悦に大きく開けられた、紺樹の口。それを見た蒼は『紺君は紅の生霊にとりつかれたい?』とため息混じりに呟いた。今日の紅は、いつも以上に疲れていそうだから、これ以上帰る時間が遅くなることは好まないだろう。
紺樹はその言葉を聞いて、やっとのことで手を離した。蒼は、離れても熱が去らない手を胸の前で握り締めながら丁字路を曲がった。そこで、先程の不機嫌極まりない声をかけられてしまったのだ。




