清めの場②―恋する乙女は色んな意味で強い―
「それにしても、久しぶりにいい天気ですね」
曲がり角から姿を現した紺樹は、ゆっくりとした歩調で歩いてくる。
そんな彼を目の前にして、蒼の身体は硬く固まってしまった。白龍の大きな手が、微動にしない蒼の肩に柔らかく触れた。
「紺樹も一緒だったのか。私服とは珍しいのう」
声を出せずにいる蒼の代わりにと。白龍は左手を軽くあげた。
一方、紅が目を据わらせ、何事か口にしようしたのがわかった。けれど、いつもより気分が高揚している萌黄の相手で精一杯らしく、それは叶わなかった。
「師傅、ご無沙汰しております。それに蒼と紅も」
袖を合わせ、軽く頭を垂れる紺樹。
「うむ、魔道府も忙しそうじゃからな。長官とも飲みに行けておらんわい」
白龍は紺樹を労いながら肩を軽く叩く。白龍の快活な笑い声が、静かな空間に良く通った。
「えぇ。毎年この時期は龍脈が乱れがちなので。例年通りとはいえ、心葉堂が恋しいです」
そう苦笑いを浮かべた紺樹は、短い言葉を言い終わらぬうちに欠伸を噛み殺した。心なしか、いつもより瞼が落ちている。
木々に囲まれ、落ち着く雰囲気とはいえ、肌に感じるのはひんやりとした空気。どちらかというと、安らぐというよりは身が引き締まる。そんな場所でも眠気を堪えられないほど、疲れているのだろうか。
蒼の疑問を察してか、紺樹が苦笑を浮かべた。
「欠伸などしてしまい、失礼。実は連日の徹夜明けで、昼前に自宅へ戻ったばかりで」
謝っている傍から口を大きく開いてしまう紺樹。口元を覆う手からはみ出して見えるくらい、周りの空気を全部吸い込んでしまうような欠伸だ。
「それなら、出歩かずに大人しく家で寝ていれば良いんですよ」
「おやおや、紅。心配というより、本気で煙たがられている気がするのですが?」
「随分と当たり前のことをおっしゃる。というか。予想するに、翡翠双子たちに必ず寝るよう釘をさされての帰宅という流れですよね。なに出歩いているんですか」
紅の冷たい声が少し大きめに響いた。言葉と同じく冷たい空気をまとって紺樹を睨んでいる。
兄がそんな態度をとっている原因は、九割がた例の件で落ち込んだ自分のせいだと、蒼にも容易に想像がついた。蒼は申し訳なかった。どちらに対しても。
紺樹も険悪な雰囲気を感じ取っているだろうに。そこには触れず、
「えぇ、ですから半刻ほどはしっかり寝てきました」
と満面の笑みで肩をすくめただけだった。
それにしても、爽やかな表情と疲れた様子の仕草がちぐはぐだ。
「しかし……こちらにも私のことを言えない人がいるようですが」
ふっと。紺樹の視線が蒼に注がれた。それだけでも、心臓を鷲掴みにされたみたいに呼吸が止まりかけたのに。蒼が何事か言い訳を口にしようとすると、隙を与えず影が被さってきた。
「――っ!」
距離を縮めてきた紺樹の親指の腹が、蒼の涙袋を滑っていく。いましがた冷や汗の出る緊張で固くなった体が、今度は別の意味で硬直してしまった。
滑った紺樹の指を追うように、蒼の肌が淡い桃に色づく。わずかにだが、紺樹の眉間の皺が深まった。
「肌が上気すると、より立派なくまが目立ちますね。私としては複雑です」
「そっそんな立派さは嬉しくないよ! そんでもって、複雑は不要です!」
正直、かなり薄くなったくまに気がついた紺樹に驚いた。しかし、なんとかいつも通り、自分らしく言葉を返そうと試みるが……動揺が勝って舌がもつれてしまった。
「っていうか、紺君、ちょっと、ううん、かなり、近いよっ。適切な距離感とはっ!」
蒼は両手で紺樹の胸を軽く押し返す。しかし、紺樹は離れるどころか、蒼の頬に添えられている大きな掌は密着度を高めていく。じんわりと染みてくる温度が、とんでもなく恥しい。おまけに、わずかに耳元に触れている指が、くすぐったい。
「そうかのう。血色の良さはいつもと変わらんように見えるが」
白龍のからかいの視線と紅の不機嫌な気配が、蒼の羞恥心をより刺激してくる。
けれど、不思議なもので。先刻まで蒼の中にあった絡まった気持ちは解けていく。幾度となく重ねられてきた掌。心臓が暴れる要因にはなりつつも、蒼を安心させる。終いには、そっと紺樹の手に自分のを重ねる余裕は生まれていた。
✿✿✿
「紺君って、ほんとずるい。いつも、さらっと私の心ごとすくいあげてくれる」
掌に頬を寄せられる位、蒼が鼓動を心地よく感じられるようになって。蒼はぽつりと呟いた。
紺樹の手に自分のそれを重ねる。落ち着いた自分とは反対に、紺樹の手が激しく跳ねた。
貴重な様子で身体を起こした紺樹。蒼が残念そうに首を傾げると、紺樹は完全にそっぽを向いてしまった。
「蒼の、力になれているなら、本望です」
ぬくもりが離れるのと同時、紅の背中が見えた。
「それで副長が、なんで、ここにいるんですか?」
いつの間に萌黄から逃れてきたのか。両腕に荷物を持っている紅が、器用にも肘をはって蒼と紺樹の間に割って入った。紅の背中で視界を覆われ、蒼は内心ほっと胸をなで下ろした。ひとまず、紺樹の体温と真っ直ぐな視線からは逃れられた。
紅の表情は伺えなくとも、ぶっきらぼうな声からどんな表情をしているかは容易に想像できた。ちらりと上目に視線を上げれば、紺樹が相変わらずの笑顔で頭を掻いている。短い髪が風に揺れる。いつもと同じやりとり。
蒼が安心を覚えた瞬間、今後は背中を刺してくる痛いほどの視線を感じた。
「萌黄さん?」
恨めしさを含んだ視線を受け、反射的に振り返る。肩布で口元を隠した萌黄がじっと三人を眺めていた。
紅を取られてしまったことに、気を悪くしたのだろうか。それにしても、今までに見たことがないような、鋭い目つきだ。美人は怒ると、迫力が増す。
(紺君が気に留めている様子は――ないか)
それどころか、紺樹は萌黄に和やかに微笑みかけた。そのまま首を傾け、蒼を覗きこむと口の端をひき、さらに深い笑みを浮かべた。
「心葉堂で蒼に茶を淹れてもらおうと思いまして。気がついたら、ここにいました」
「どうしたら、そうなるんですか!」
蒼と紅の突っ込みに、紺樹は「綺麗な二重奏ですね」と微笑む。
「その途中で萌黄さんにお会いしたので、一緒に探しに来まして」
「っていうか、今日は休業日なんですが!」
「休業日だから、ゆっくり出来るかと思って足を運んだのですよ。店を覗き込んだ時に、店頭の焚染札の効果が切れていることに気がつきまして。恐らく浅葱の店に寄るか寄っている最中かと考えたわけです」
これはどちらの意味にとれば良いのだろうかと、蒼は考える。『客』として行く価値がないという意味にもとってしまえるし、単純に『幼馴染』として来てくれているともとれる。
いや、前者は明らかに、蒼の深読みしすぎだろう。
「紺君。至極丁寧な説明をありがとう……」
「蒼のことなら、任せてください」
紺樹が子どものように自慢げな調子で胸を叩いた。
蒼は小さく頭を振った。誰かの、特に大切な人の安らぎの場になれるのは、とても幸福だ。それが自分の望んでいる、二人のあり方でなくとも。
紅に対して素直に気持ちを表している萌黄の影響か。紺樹の声で聞いたせいか。少しだけ、蒼に前向きな思考が戻る。微妙に自虐的というか、無理やり言い聞かせたような気もするが。
それよりも、
(萌さんとは黄とは違って『恋』という気持ちではないけれど)
一人でする言い訳の方が重要だった。自分の世界に入りかけた蒼は、
「任せられますかっ!」
紅の大声で我に返った。
「いやぁ、道のりは険しいですね」
紅の嫌味にいちいち真面目に答えては、さらに、彼の不機嫌さを増幅させている紺樹を見上げると目が合った。
それまでに浮かべていた悪戯な笑顔が、ふわりと柔らかいものに変わる。優しいはずなのに。蒼の胸は締め付けられて、呼吸がうまくできない。
「お話を戻しますけれど」
話から置いていかれていた萌黄が、咳払いをしながら近づいてくる。
「わたくしが焚染札というものを良く知らないと申しましたところ、紺樹様がこちらへ連れてきてくださったのですわ。紅さんもいらっしゃるだろうと」
「はぁ、さようで……」
弱々しく返事をしたのは紅だ。蒼は萌黄に見えないように、きゅっと腰あたりを捻ってやる。
紅にも自覚はあったのだろう。別段、文句を言われることはなかった。少しだけ恨めしそうな視線を投げられただけで。
「焚染札はその香りの効果で家屋の虫を退けるのに加え、アゥマを動力として、魔や邪を払う役割もありますからね。ぜひ、萌黄さんにも知っておいていただこうかと」
「ご親切なことで。さすが魔道府の副長さ――」
「紺樹様に他意はございませんのよ! わが店をクコ皇国の一員として認めてくださっているということで! わたくしは、その、紅さんに手取り足取り教えていただきたいとは思ったのですが」
萌黄の声が、勢い良く紅の言葉を遮った。
だれもそんなことは言っていませんよ、というか、効能を教えるのに手も足もとる必要はないでしょうに。と、紅の顔に書いてあるのがわかった。萌黄の言い分も理解できないが、紅の鈍さにも呆れる。蒼は天を仰いでしまう。
どこまでも噛み合わない二人。萌黄は赤らんだ頬をおさえ舞い上がっている。
「いやだ。わたくしったら、はしたない発言をいたしましたわ」
彼女が楽しげな声を出すのは、紅を前にしている時がほとんどだ。それが、今日は一段とすさまじい。普段のお淑やかさが吹き飛び、酒がはいっているような雰囲気さえあった。
(以前、萌黄さんはアゥマを全く操ることができないって言ってた。けれど、影響は強く受ける体質なのかな)
だから、より神聖な浄練を行う職人が集まり、アゥマが濃厚に漂っている此処の場の空気にあてられている可能性もある。
蒼はそう考えたあと、どこまでもアゥマ中心な自分の考えにため息を落した。
自分でもわかる。どう考えても、十六の少女の思考回路とは言い難い。もう少し素直になれば、柔軟な考えができるようになるだろうに。蒼はもう一度、小さく息をはいた。
「蒼はあんま考えすぎるなよ? お前はお前らしくいればいい」
下を向いた蒼の頭を、紅がぽんと軽く小突いてきた。蒼にだけ届くようにささやかされた言葉に、思わずほろりと笑っていた。
柔らかく目を細めた紅だったが、すぐにそこを据わらせた。視線の先には紺樹と萌黄がいる。
「手も足もとる必要はないと思うので、とりあえず、焚染札の店に移動しませんかね。人通りが少ないとはいえ、十字路で立ち話はやめましょう」
「はい! ぜひ、ご一緒させてくださいまし!」
「では若人たちよ、ゆるりと参りましょうぞ」
白龍が先を指差す。
萌黄の浮かれように若干引いている紅とはいえ、ここで『じゃあ、数刻後から来てください』と言い放つには気が引ける。紺樹に対してはともかく、今日は萌黄が一緒だ。くどいようだが、温和な紅は、基本的に余程の理由がない限り人を毛嫌いすることはない。
「ほんに難儀な性格をしておるわい。そーいうところは橙にそっくりじゃな」
蒼と同じことを考えていたのか。蒼の隣に並んだ白龍が、声を漏らしながら笑いをかみ殺した。蒼は確かにと、思った。母親の藍は白龍に似て自由奔放なところがあった。一方、父親の橙は苦労人体質というか、人を邪険にできない人だった。
「おじい。だれのせいだ、だれの」
紅に軽く睨まれて、逃げるように先頭を歩き出す白龍。紅の視線は、白龍の頬の皺をより一層深くするだけだった。
「まぁ、いいや。行こうか。その前に、はい。副長はこれを持ってもらえますかね」
「おや、これは重そうな荷物ですね。寝不足で体力のない私に持てるかどうか」
「ひっついてくるつもりなら、働いてもらえますか」
紅は両腕に抱えていた紙袋の荷物のひとつを、手ぶらの紺樹に押し付けた。しかも、重量そうな方を。
困ったように眉毛を下げた紺樹だったが、それは表面上だけだった。すぐに素直に荷を受け取る。しかも、重そうだと言っていた割には、左腕だけで軽々と抱えてしまった。
紺樹の様子は、見た目の優男さに反して、武術も嗜んでいることを思い出させる。昔は心葉堂の庭先で、よく一緒に白龍から指南を受けていた。けれど、最近ではめったに鍛錬をしている姿を見なくなっていたからか、つい忘れがちになってしまうのだ。
「蒼、お前もその肩に掛けている荷物を副長に持たせ――」
「紅さん、紅さん。あの家の軒下にある飾りはどういった物ですの?」
「わっ!もっ萌黄さん、ちょっと! 腕をひっぱられると!」
紅が蒼の方を振り返った瞬間。やりとりをじっと見ていただけの萌黄が、好機会と言わんばかりに紅の空いた腕を、勢い良くひっぱった。
ふいを衝かれた紅は踏ん張ることもできず、ひっぱられていく。藍色の上着の袖に出来た皺を見る限り、結構な力だ。萌黄のあの白くて細い手のどこに、そんな力があるのかと思える程の。
「恋する乙女は色んな意味で強いんだね」
「その表現は少々的外れだと思いますが、蒼」
「この場合、私の表現は適切だと思うよ?」
蒼が指差した先には、白龍を追い越していく紅と萌黄がいた。
楽しそうな萌黄と、子どもの玩具のように、されるがままの紅。急に方向転換する萌黄に振り回されて、踊っているみたいに、くるりとまわって見せる紅が可笑しくて。蒼と紺樹は目をあわせ、思わず噴き出してしまった。




