清めの場①―休日―
「あとは焚染札を買って帰ろうか。この間は浄練が追い付いなかったみたいで、数枚しか買えなかったんだよね」
走り書きの紙を指差しで確認していた蒼の言葉に、白龍が「おぅ」と笑顔で応えた。
「じゃあ、浅葱や親父さんたちの顔を覗きがてら供香堂に寄って行こうかのう」
本日は心葉堂の定休日だ。それを利用して、蒼と紅それに白龍の三人は、日用品や店内の装飾品などの買い出しに街へと足を運んでいる。
広い街を歩き回っていると軽く汗ばむ陽気だ。流れた汗を攫うように吹いてくる柔らかい風が、肌を撫でる。久しぶりの感覚だった。
(まさか放任主義のおじいと、無理強いはしない紅に連れ出されるなんてね)
蒼は、自分は溜まりにこもるからと、紅と白龍の二人に買い出しを頼むつもりだった。けれど、二人に口を揃えて『これ以上は全身にかびが生えてしまう』と言われ、半ば強引に連れ出されてしまったのだ。
(麒淵は私が引きこもるのを黙認してくれてる。なのに――)
蒼の考えに反して、引き止めてくれると思っていた麒淵にも背中を押されてしまった。ゆえに、蒼は鬱々とした気分のまま、中心街へと足を踏み入れることになった。
先日、溜まりでたっぷりまる一日の睡眠をとり、アゥマに浸ったのが良かったのか。少しだが、頭の中がすっきりとした。
そうすると、常連客の雄黄が語っていた内容にも、耳を傾けられるようになった。記憶の中で、何度も反芻してみた。まだ、全てをという姿勢にはなれなかったが、幾分か向き合えるようになった。
蒼の茶葉と、それを差し引いた茶葉。どちらの茶葉に価値を見出すべきかを迷っていたけれど、どちらも正解な気がしてきた。だからこそ、調子が上がってきている時に、茶葉の浄練を進めておきたかったのに。蒼としては、そんな言い分があった。
「風が心地よい日だね」
けれど、どうしてなかなか。街の中を歩いていると、存外、足取りが軽やかになってくる。
東屋で二胡を弾いて即興の唄を楽しんでいる老人や、細工屋の前で眉間に皺を寄せながら悩んでいる男性を嬉しそうに眺めている女性。川辺を駆けまわる子どもたち。そんな人々を見ているだけでも、蒼の頬が自然と緩んできた。大通りを行き交う人々の声が混ざりあって喧騒となっているのにも活気を感じられて、心が踊った。
「本当だな。蒼は引きこもっていたから、特に久しぶりだろ」
「紅は一言多い! 天候の悪さもあって、結構みんな同じみたいだもん」
街中に出向く機会が減っているのは、蒼に限ったことではなかった。不安定な天候によって、街に住む多くの人々の心に暗雲が垂れ込めているのだ。今日は、本当に久しぶりの快晴だ。
蒼の隣で白龍が、
「これこそが、クコ皇国じゃな。この街は賑やかであって欲しいものよ」
顎髭を撫でながら目を細めて笑った。ちょうど今のように、昼下がりの日溜まりの中にいるような、ぬくもりのある声だった。
「やはり人が溢れている中で見る、露店から立ち上る肉饅頭の蒸し湯気は、一層美味そうに感じられるのう」
「おじい、なに財布に手をかけてるんだよ。さっき点心を食べたばかりじゃないか」
「いや。数個は蒼の夜食用にと思うてのう」
白龍は子どものように、わざとらしく紅から視線を逸らした。
紅が咎めた通り、三人は一刻ほど前に、できたての点心を頬張ったばかりだった。心葉堂の茶葉を飲茶に出している店のひとつである、幸好楼に立ち寄った三人。蒸籠に詰められた、食指を刺激してくる香りを含んだ湯気。それを纏っているぷりぷりっとした海老餃子や、ふっくらとした甘栗の饅頭。円卓に広げられた料理を、蒼が瞳を輝かせて満面の笑みで食べるからと、白が片端から注文していくものだから。蒼と白龍の腹が膨満なのはもちろんのこと、残さないようにと、さりげなく一番の量を食していた紅は殊更だった。
「夜食どころか、夕飯さえ入らなくなるから駄目だ」
「紅は厳しいのう。母親の藍にそっくりな口調じゃて」
きっと夜になっても、膨れ上がった腹は簡単に空いてはくれないだろう。
藍色の短い木橋を渡るため、未だに肉饅頭の香りを吸い込んでいる白の腕を、紅がひいていく。両腕に荷物を抱えているというのに、随分と器用に白を引きずっていく紅。
「確かにさすがにもうお腹に入らないよね」
数歩遅れて、蒼も後を追った。やはり食べすぎのようだ。駆けようとすると、胃の中の物がずしりと存在を主張してきた。体が重い。消費しないと、そのまま肉になりそうで怖い。
「帰ったら、おじいに拳法の稽古をつけてもらわなきゃ!」
蒼は一人、深く頷いた。茶葉に心血を注いでいる蒼とて、十六才の少女だ。それなりに年頃の少女らしい思考もする。
蒼は人ごみを抜け出し、橋の近くで足を止めた。日差しを受けて、川の中にある格子状の水晶板が煌めく。心葉堂近くの川には色彩豊かな花弁が浮いている。けれど、目の前の川面には青々とした葉が流れている。かさかさと擦れ合う、木々の葉音が心を落ち着かせた。
「うーん! やっぱりこの空間は涼しいな」
蒼は空を見上げ思いっきり伸びをした。
この一角になると、とたん人影もまばらになる。特殊な店が多いせいだろう。観光客や行商、一般の人間には近寄りがたい雰囲気がある。
アゥマが凝縮された玉を抱えた灯籠が、等間隔で欄干に組み込まれた朱色の橋。そこを渡りきると、広い石畳の広場に、東屋がある。東屋の仕様は、街中にあるものとほとんど同じだ。異なる部分と言えば、軒下には穂をつけた刀のように鋭い菖蒲が刻まれているところだ。
さらに、もう一歩踏み出せば、菖蒲の邪気を祓うような爽やかな香りが、三人を包んでくる。他にも白檀などの香木が佇んでいて、神聖な雰囲気だ。土の香りと混ざり合って、心を落ち着かせる。ここは、そういった『祓い』の意味を成す物や技術を扱っている店が多い場所なのだ。
三人は、煙が昇っている方向へ進む。
「店先に貼ってある焚染札の香りが薄くなっているのを、きちんと点検してたんだな。落ち込んでる風でも」
紅が、ふと思い出したように呟いた。
「おっ落ち込んでなんかないし! ちゃんと結界具合も確認してるもん!」
「怒るなよ。一応、褒めたんだから」
「妹からの親切な忠告! それ全然、褒めてないから!」
蒼は思い切り口元を歪めた。照れているのか怒っているのか不明な様子で顔を赤くした蒼を、紅は小さく笑う。
「はいはい。ありがとな。率直な妹に兄ちゃんは感謝しきりだよ」
「だっ大体、今週の備品点検は紅の当番でしょ! 私より先にお店に寄ろうって言わなきゃ!」
呆れたような笑みを浮かべている紅を指さして、蒼は腕を大きく上下に振った。幸い、荷物をかけていた肩とは反対側だったので、地面へ落とさずにはすんだ。
「仲良きは美しきかな」
少し先を歩く白龍は、そんな二人の様子を穏和な笑みで見つめている。ただ、視線はあくまで、横目に入れている程度。
(いつもなら、嬉々として絡んでくるのに。大人しいおじいなんて調子崩れるなぁ)
空を流れていく花びらを愛おしそうに見上げ指先を伸ばしている白龍に、蒼は首を傾げた。
声をかけようと一歩足を進める。すると白龍は、
「おや」
と妙な声をあげた。そしてほぼ同時に、後ろにいた紅からは、
「うげっ」
と蛙を潰したような声が絞り出された。
蒼が紅を振り返る。紅は額に汗を浮かべ、可笑しな声を出した口を掌で覆っている。気分でも悪いのだろうか。
蒼が踏み出そうとした瞬間、くんっと鼻の奥を刺激した香りに眉が顰められた。店々の中庭にある香木が放っているものとは違う。アゥマから『感じる』匂いだ。
アゥマは浄練を行う使い込んだ道具や溜まりに長時間いる職人に染み込んで、独特の香りを持つようになることもある。力の強いアゥマ使いにだけ認識できるものだが、決して不快なものではない。むしろアゥマ使いにとっては、一種の媚薬のようなものだ。
(でも、これは、ちょっと、なんか、おかしいって感じる)
それらが混合しているのだろうか。あまったるい香りに隠されているのは――。
蒼はよろめいた体を、壁に手をついて支える。耳鳴りに混じって、だれかが土を蹴って走ってくる音がする。頭を揺さぶられている不快感。蒼は、ちくりと痛んだ額を押さえる。
「紅さん! ご機嫌よう!」
足音は、高らかな声にかき消された。
「萌黄、さん?」
顔をあげると、建物の角から知った顔が覗いていた。ふっと。不快だったものが祓われたように、消えていく。再び溢れた冷涼な空気が汗を弾かせる。
蒼が振り返ると、
「偶然、紅さんにお会いできるなんて。なんて素敵な日なのでしょう」
頬を赤くした萌黄がいた。
平素は血の気が薄い肌をしているにも関わらず、今日は熟れた林檎よりも血色が良い。両の手を胸の前で合わせ、瞳を星のごとく輝かせている。
美人の笑顔を前に、蒼の後ろにいる紅からは重々しい空気が発せられている。
「ねぇ、紅ってば。反応が失礼だよ」
蒼は紅の横腹に肘鉄を入れた。
「……どうも、萌黄さん」
「はい、紅さん! それに、蒼さんと――」
紅のそっけない言葉にも、萌黄は満面の笑みで応えた。
苦々しい反応を見せながらも、律儀に片手を上げて挨拶を返した紅はさすがだ。この兄が全身で拒絶する人を、今のところ、蒼は一人しか知らない。
浮かんできた人物を消すように、蒼は激しく頭を振った。折角、紅と白龍が元気付けてくれたのに、ここで暗い顔をしてなるものか。
蒼は大きく深呼吸をする。その周りだけ空気が薄くなった気がするほど。
「萌黄さん、こんにちは! こっちは前に話した、私と紅の祖父の白龍だよ」
「ワシは一方的にお見かけはしておったがのう。こうして言の葉を交わすのはお初じゃな、萌黄殿。心葉堂の白龍と申します。ワシのことは気軽に『白』とお呼びくだされ」
「はい。では、白様、とお呼びしてよろしいでしょうか? わたくしも魔道府へ溜まり管理の挨拶へ伺った際、お見かけしておりました」
「今後ともよろしゅう」
白龍に恭しく挨拶をされた萌黄は、声を小さくしおどおどとしながらも、綺麗に微笑んだ。人見知りする萌黄にしては、友好的な雰囲気だ。
白龍がさらに深く微笑むと、萌黄は薄っすら染めた目元を両袖で隠した。
(おじいと紅って性格は正反対なんだけど、顔立ちと雰囲気は似ているんだよね)
少し前に東屋で交わした言葉を思い出して、蒼は一人頷いた。
(っていうか。そもそも紅はなんで萌黄さんに苦手意識を持っているのか)
愛らしい萌黄を見ていると、紅があれほどまでに倦厭する理由が全く見当たらない。女性が苦手なわけでも、競合店の娘だからと言って態度を変えるような性格でもない。
これは折を見て、白龍と紅が酒を飲んでいる時に、どさくさに紛れて聞いてみよう。蒼は頭の隅で、そう考えた。
「はい。ぜひ、よしなに。紅さんのおじい様ですもの」
萌黄の様子に、白龍の口元に皺が増えた。孫にするように萌黄の髪を撫でるが、すぐ「これは失礼」と己の行動に肩を竦めた。これは少々珍しいことだった。人当たりはすこぶる良い白龍だが、接触が多いかというと否だ。蒼は首を傾げてしまった。
「えぇ、ありがとうございます」
萌黄は横目で紅を見るが、当の紅は萌黄の後ろを鋭く睨んでいる。
蒼はもしやと思い、不機嫌さを顔に出している紅の視線の先を追う。
「萌黄さんは、意外に歩くのが早いですね」
困ったように短い髪を掻きながらも、全く急ぐ素振りもなく悠長に現れたのは紺樹だ。
今日はゆったりとした長袍を身に着けている。灰色に近い灰青色の絹だ。
出会った当時から、紺樹は魔道学院や魔道府など、何処かの制服を着ていることが多かった。だからと言って、幼い頃からの付き合いなのだから私服が目新しいわけではない。
(私服自体は普通だ。でも、制服以外で女性と歩いているなんて、近頃にしては珍しいな)
蒼の胸がずくんと痛んだ。萌黄と私服で出かける程の仲なのかと、妙に心が騒めく。
「紅効果でしょうかね」
萌黄は紺樹の言葉でさらに頬を赤く染めた。
「あら、嫌ですわ。紅さんの気配を感じたものですから、つい早歩きになってしまって。はしたなかったですわ」
「いやはや。恋する女性には不思議な力が宿るものですね」
「まぁ! 紺樹様ったら、からかいはおやめになってくださいまし」
萌黄の舞い上がった声が、静かな空間に響いていく。
あははっと爽やかに笑う紺樹と、ぼぼぼっと頬を染める萌黄。
異様な雰囲気に包まれて、蒼は思わず紅の背中を掴んだ。振り返った紅は、いつものように眉を下げて笑った。割と強引に後ろに回した手で、蒼の背中を軽く叩きながら。
(姿が見えたじゃなくて、気配を感じたのか)
安心できたからだろう。蒼は、軽く心の中で突っ込みをいれた。だが、当の本人である紅は冗談で流せなかったようで、蒼の背中にまわした腕には鳥肌が立っていた。もちろん、言っている当人も冗談ではないだろうけれど。




