心葉堂の蒼月②―守霊の麒淵―
どれほど、歩いただろう。
ふわりと桜色の唇から出た白い息が綿毛のように宙を漂い、空気に溶け込んでいった。
「すごいや。よるって、どんどん黒にちかづくたび、こんなにさむくなるんだね」
感動する蒼が見上げた先には、蒼が何百人も入ってしまいそうな大きな蔵がある。
見上げるとひっくり返ってしまいそうなほどの蔵を囲んでいるのは、竹やぶだ。風に揺れる背の高い竹が不気味に笹葉を舞わせている。
「ふわぁ。おもってたより、すっごく、おおきいや」
蒼は転ばないようにゆっくりと石階段をあがる。蒼は手をつきながらでないと上れない段差の階段だ。
やっとの思いで扉の正面まで辿り着くと、蒼はもこっととした首元から紐を引っ張りだした。紐の先には小さな鍵がついている。蔵についているのも、大きさに不似合いの小さな南京錠だ。
魔道の力が込められた鍵には大きさなど関係ない。
そう家族からは聞いてはいた。けれど、実際のところ半信半疑だった蒼は、あまりにあっけなく開いてしまった扉を前に目をしばたかせる。
おまけに、古さから錆びてすんなりと開かないとか思っていたのに、幼い蒼の震えた掌でも簡単に押されてくれた。鉄製の扉の奥にはもうひとつ木製の扉があった。
「わっ! どうしよう! あお、ひとつしかカギもってきてないや!」
首紐にぶら下がっている鍵を握りしめる。もしかしたら厳重に取り扱われて、別々に仕舞われていたのかも知れない。
蒼は反省といわんばかりに木製の扉に両手をつく。するとどうだろう。両掌があったかくなったと思った瞬間、扉が勝手に両脇に引いていった。
「カギ、かかってなかったのかな? っていうか、かってにうごいてすごい。じゃなくて、おじゃましま……す?」
さすがに少しばかり警戒心を抱いた蒼だったが、結局は豪快に靴音を響かせた。好奇心旺盛な蒼は、興奮が勝ってしまうのだ。
どうしても、自分の目であれを見たい。
背後から祖父のいびきのような音が数秒聞こえるが、それも直ぐに消え、耳が痛むほどの静寂が戻る。
「耳がいたいくらい、しずかだ。もっと、アゥマがいっぱいで、うるさいって、思ってたのに」
それが余計に騒いでいる鼓動を体中に響かせ、苦しくなる。蒼の奥歯がガチガチっと鳴った。
蒼は両頬を軽く叩き、上着の衣嚢から丸い玉を取り出す。灯玉だ。子どもの魔道力でも発光できる便利道具。ここまでは月明かりと庭の灯籠でなんとかなったが、さすがに灯が必要だ。
「あれぇ、ここじゃないのかなぁ」
目を細めても、見えるのは砂糖漬けの花や蜂蜜がたっぷりと詰まっている瓶だけだ。
周囲を探っても、蒼が見たいものはない。
やっぱり、ちょっとばかりやかましく軋む角灯でも、持ってくるべきだったのか。枕元においておく、ほのかな灯りをくれない灯玉だけでは何だか心細いと、蒼は数分前の自分をちょっとばかり恨んだ。
「うぅ。なにがあるか、みえなくなっちゃったよ」
月明かりがにぎやかな夜とはいえ、窓がほとんどない蔵の中は別世界のように暗い。
再び蒼は「うぅ」と唸り声をあげて、それでも手を握り、前を見据える。
「あきらめちゃだめだ! がんばれ、あお!」
少しばかり歩き続けると下へ降りる階段と、上へと上る階段が蒼の前に姿を現した。
蒼はさらに暗くなっている階段を数分睨んだ後、二階へ上がる階段に足をかけた。半分腰引けながらも足を動かす蒼を、足元にある階段がきしっと笑った気がした。それでも、蒼は挫けそうな気持ちを押し込めて、一歩一歩階段を上っていく。
そうして、最後の一段を踏みしめた時――。
「んっしょっ。って、わぁあー!」
蒼の目の前に淡い光が溢れたのだ。蒼は一瞬、蛍かと思った。
階段口から顔を出した蒼を出迎えてくれたのは、戸棚に行儀よく座っていたり、ところ狭しとせわしなく動き回っていたりする光たちだった。どうしてか蒼には笑っていると思えるように、色とりどりの光はチカチカと光り具合を変える。
じんわりと手の内側で染み出ていた汗も、弾けてしまったような気がした。
「ひゅっ。けほっげほ」
あんまりにも口をぽっかりと開けてしまったので、一斉に流れ込んできた冷たい空気に咳が出てしまった。
蒼は咳をしながらも瞼を擦りよくよく見れば……棚に並んでいる光は煌々とした光塊ではなく、何かから染み出ているような柔らかい光だった。また、宙に舞っているのは金平糖みたいな光だ。
「もしかしたら、これが茶葉のしゃべるっているところなのかな! まるでおしゃべりしているみたいに、みんな光りかたがちがう! それに……」
それに、光は蒼に気がついたと言わんばかりにあわあわと光ったり、隠れたりしてしまったのだ。まるで突然の訪問者に喜んだり怖がったりしているように。
蒼の足は、緊張と興奮で固まったまま動けずにいる。その間にも周囲にはいくつかの光が集まってきた。この子たちは自分と一緒で好奇心旺盛な光だ。そう思った蒼は妙な親近感で笑ってしまった。
「こんにちは? きみたち、みんなびみょーに色がちがうんだね」
話かければ、光たちは嬉しそうにちょこまか動いたり、逆にさぁっと離れていったりする。おかまいなしと言わんばかりに、ふよふよと漂い続ける光もあって、なんだか可愛い。
そうこうしている間に、目の前をゆっくりと流れていた雲がやっと通り過ぎ、天井近くにある窓から差し込んできた月光が照らし出したのは――。
「びーどろの入れ物?」
一番低い棚の瓶を手にとって見ると、光が溢れ出ている元は瓶の中身だとわかった。店先で茶葉が入っているのと同じ、ちょっと厚めの瓶だ。
そして、中にあるのも同じ、蒼も見慣れたお茶の葉だった。ただ、どうにも店先に並んでいるものと違う香りがする。ような気がした。
くんかくんかと、鼻が香りの流れを吸い込む。
「おぬし、茶葉が好きか?」
「お茶の葉がしゃべった!」
突然沸いてきた声に驚いてしまい、瓶が蒼の手から滑り落ちていってしまう。
きゅっと瞼に皺を寄せて耳に届くだろう音を待つが、いくら待っても頭の奥をひっかく振動は生まれない。
「そんなわけあるかい。こっちじゃ、こっち」
蒼がゆっくりと視界を広げると、梅干しみたいな表情で身体と同じくらいの大きさの瓶を必死に抱えている小人がいるではないか。
「藍と橙の娘か。久しいな」
藍は母、橙は父の愛称だ。
蒼はあんぐりと口を開き、元から丸いっこい目を満月顔負けに見開いた。
「その様子じゃと、光と共鳴もできているようじゃな。まぁ、それはつまり、声を聞いておるとも言える。しかし、よもや、紅のみに継承されていると考えておったアゥマの可視化もできるとはのう。いや、先日の事故の影響か?」
蒼の近くまで寄ってきた小人は好き勝手にしゃべり続ける。おまけに自分のことも知っている風だが、蒼は小人に会ったのなんて初めてだ。
蒼はなんでも知っている風の小人に悔しくなり、驚きも忘れ手を伸ばしていた。
「わわっ!」
蒼の指によって焦った声があがる。指先で突っつかれている若干広めの額を押さえ、小人は「やめんか」と上空に飛んでしまった。
大きさはともかく、歳は蒼とそう変わらないのに、祖父みたいな怒り方に話しっぷりだ。ヨモギ色が基調の服だって、祖父が拳法を教えてくれる時に着ている服にそっくり。そう、蒼は思った。
「だって。アヤシイものを見つけたら、とりあえず突っついてみろって、おにいちゃんが」
親近感を覚えたとたん、蒼はいつもどおりの調子で口を開いていた。
「だあほ。不審なものをみたら触るな。って、普通にアゥマを管理する魔道府に通報しておけ」
「そっかそっか。じゃあ、きみのことも」
「って、ワシかい。心葉堂において、ワシほど信頼度の高い存在はあるかっつーの。って。ちゃうちゃう。こんな話をしようと、わざわざ溜まりからあがって来たのではないわ」
自分がのせたくせに。ぷぅっと頬をめいっぱい膨らませ、おまけにと唇を尖らせた蒼。
目の前で綿毛のように浮いている小人は、絵本で見た異国の妖精みたいな七色の羽はなく、ただ本当に立つ様に空中に留まっている。
軽口を叩きながらも警戒心を持っていた蒼なのだが……それが完全に解けてしまったのは、
「お主、茶師にならんかのう?」
嬉しそうな声にうっとりとなってしまったからだった。優しくて、心の真ん中まで染みてくるような声。
蒼は、さっきは初めて会ったばかりだと思ったのに、どうしてか懐かしいと感じた。
(そうだ、この光たちとおそろいなんだ)
瞼を閉じても色褪せずに、柔らかな色を纏った光の粒と漂う優しい空気。
蒼は首を傾げたまま、にんまりと満面の笑みを浮かべている小人を数秒見つめ続ける。
次第に、小人の言葉は蒼の耳の奥に潜っていった。一番奥に言葉がたどり着くと、ぱぁっと輝いた蒼の表情。
「茶師って、おじいやおかーさんたちみたいになれるってこと?」
興奮気味に尋ねた蒼に、小人は相変わらず笑みを浮かべたまま大きく頷いた。
蒼は太陽顔負けに顔を輝かせ、両手をあげる。ぷにっとした紅葉の手が天井につきそうなくらいの勢いだ。
「あお、なりたい! 茶師に、なりたい!」
そう。蒼はアゥマが大好きなのと同じ位、茶葉がたまらなく大切なのだ。
それこそ、一日中ずっと工房に閉じこもってひたすら茶葉の匂いを嗅ぐのが幸せだし、浄化前後の茶葉もずっと見ていられる。
ただ、今の蒼は見ているだけでいつも共鳴ができるとは限らない。
「ここに来たのだってね、おじいが『あおにもお茶の葉の声が聞こえたら、おかあさんたちみたいになれるんじゃがのう』っていったからなの!」
「なるほど、随分と早い歳で此処に辿り着けたと思うたら……いくら先日の件があったとはいえども、そうか白のやつめ、純粋な孫をせっつくような言い方をしよってからに」
小人が苦虫をかみつぶしたような顔でぶつぶつと呟いた。
白は、蒼の祖父であり心葉堂の先代茶師である白龍の愛称だ。クコ皇国一番のアゥマ使いでもある。
蒼が祖父を知っているのかと尋ねるより早く、小人が咳払いをしてしまった。
「光の色まで判別しできるとはいえ、白や藍のような茶師になるには、それなりの修行や心が必要じゃからな。今すぐというわけにはいかぬが」
「どうしたらいいの?」
「そもそも茶師というのはな、生命の樹ヴェレ・ウェレル・ラウルスが生み出すアゥマの各適正を判断し、茶葉として使えるよう注ぎ込む――つまり、浄錬するっちゅー職人のことじゃ」
小人は随分と小難しいことを話し始めた。
けれど、蒼はアゥマや歴史の本を読むのが大好きだ。他の難しい本は理解できなくとも、その部類だけは大人顔負けに吸収できる。
「うん。あお、しってるよ」
「その浄錬の修行は職についてからもするべきものであるからに、おぬしもまずその術を学ぶべきところから――」
蒼は基本知識を知っている。だから、知りたいのはそこじゃないと前のめりになってしまう。
「だからっ! あおは、ぐたいてきにどうすればいいのさっ⁉」
くどくどと。葉っぱの詰まった茶壷からお茶が出るようなはやさで話し続ける小人に痺れをきらし、蒼が地団太を踏んだ。
一瞬だけ小人の瞳が見開かれるが、すぐに肩を落とした。
「最近の若いもんは、自分で考えるっつーことをせぬなぁ」
至極小さい声は蒼の耳には届かず、ただ愛らしい幼子の眉が怪訝にひそめられただけだった。
「まぁ、よいか」
小人はふたつ咳払いをした。
それが合図となり、淡かった光が色を変えていく。いつの間にか、肌のすぐ傍にも、何もないはずの空間からも光が溢れてくる。
「蒼月よ」
名乗ってもいない本名を呼ばれ、蒼の背がしゃきんと伸びた。
ぴんと張り詰めた空気に蒼の白い肌を汗が流れる。長い淡藤色の髪が首筋に張り付き、痒くなった。全身の肌が敏感になっているようで、ピリピリとする。けれど、体は動かせない。
「お主が人の心と身体を守るアゥマが流れる龍脈が溜まる場所、溜まりの源――ヴェレ・ウェレル・ラウルスに誓うに値する願いと想いがあるならば、母たる樹に代わり、クコ皇国弐の溜まり、心葉堂の守霊たる麒淵が祝福を授けよう」
少しばかり畏まった麒淵は、すぐに口元を綻ばせた。蒼が直立不動になっていたからだろう。
それでも、蒼の緊張は解けない。なぜなら周囲のアゥマがぴりっと電気を発しているのを肌で感じているから。
「形式であるからしてこのように難しい言い方をするがのう。要は、人が口にする物に責任を負う勇気があるかということじゃ」
麒淵は蒼を安堵させるように表情を崩し、ふわりと微笑んだ。
伝わってくる温度は、いたって暖かいものだ。それでも、真っ直ぐに向けられる視線は蒼を射抜き続ける。
ごくりと蒼の乾いた喉が鳴る。つばを飲み込む音が、喉元にひっかかって耳に響いてくる。一緒に跳ね上がった心臓は静かになるどころか、時間が流れるほどに煩さと熱を増していって泣きそうになる。
「あお、は。あおは――」
蒼はなんとか声を絞り出す。空気を揺らした声は掠れて消えそうなくらいだった。
でも、ここで下を向いてしまえばもう二度と自分を包んでくれている光たちと話せない気がして、蒼は両手を前に広げた。ありったけの光を抱くように。
「あおはなるの! ココロがぽっぽするあったかいお茶がいれられる茶師に!」
蒼は光たちも一緒にというくらい、思いっきり鼻に空気を吸い込んだ。ひんやりとした夜の空気が全身にめぐって気持ちがいい。光たちも蒼の両腕や頬に子猫のようにすり寄ってくる。
凛と開かれた瞳が小人を映した。
牡丹色の瞳に映った小人は、蒼が見たことない表情を浮かべている。
嬉しそうで、悲しそうで、やっぱり幸せそうな。たくさんの色が浮かんでいる笑顔を。でも、真っすぐな一本線はすっと通っていると思えた。
「だから、きえんもアゥマや茶葉のこと、おしえてくれる? あお、がんばるから」
蒼は麒淵のとても小さな手をおずっと握る。先ほどの勢いはどこに飛んでいったのやら、だ。
麒淵は金色に近い瞳をくしゃりと潰して、「おぅ! 任せておけ!」と頬を緩めた。
「では、改めて」
両手は繋いだまま、麒淵がこつんと額をあわせてきた。
「クコ皇国弐の溜まり、心葉堂の守霊の麒淵が蒼月と契りを交わそう。今より汝がその命を全うするまで、幸福に満たされし時も、災いや禍の最中も、蒼月の魂に寄り添う。そして、決して蒼月を裏切らぬことを誓う。その代償として、蒼月が我に誓うべきことは――」
澄み切った空気に響く麒淵の高らかな声。距離など関係なく、耳に響く言霊。
蒼が難しいとぱちぱち瞬きをしていると、麒淵はにっかりと歯を見せた。
「我がお主に望むのはひとつ。人が心、人が身体、そして基盤たる存在へと耳を傾けられる茶師であれ!」
やんややんやと、光が騒いだ。