調査②―蒼の叫び―
「蘇芳様?」
店から出てきた人物を見て、蒼からぽろりと声が落ちた。
蘇芳はクコ皇国の第五皇子であり、心葉堂の常連客の一人だ。継承権順位から行動がそれほど制限されていない彼は、昔から積極的に市井と関わっている。
紺樹の学院時代からの友人でもある。紺樹自身は、腐れ縁とつっけんどんに言うことが多いが。
「一回出てきて、またお戻りになったから、その」
蒼の腕を掴んだまま、真赭がささやいた。ひどく硬い声で。
「蘇芳殿の姿を街中で見かけるのは久しいのう」
白龍が真赭の上から顔を覗かせながら大きく頷き、顎髭をひと撫でする。
彼は、蒼のこともとても可愛がってくれているのだが……。白龍の言うように、最近はあまり店どころか街でも見かけず、主に女性たちが「寂しい」と言っていたのが思い出される。
「第二皇子の逝去後に魔道府から政の場へと移られて、忙しかったみたいじゃからのう。自由な風紀の魔道府と違って、あちらは何かと動きにくいのじゃろう」
「そっか、蘇芳様は配属が変わったんだっけ」
蒼は小さく掌を打った。それを見て、もう一度白龍が「あぁ」と頷く。わざとらしい仕草に見えるが、いつもほど軽さを感じなかったのは声の調子のせいだろうか。
蒼にとって政は未知の世界だ。けれど、紺樹や紅、それに客の話を聞いただけでも、複雑な人間関係や思惑が絡み合っており、暗黙の規律の存在というものが、嫌でも垣間見えてくる。
「体調を崩してるのかなって心配してたけど、元気そうだね」
蒼が思いのほか軽く応えたからだろう。真赭はあからさまに、ほっと胸を撫でおろした。
「えぇ。顔色はいつもとお変わりないわね」
曇り空の下でも美しい色をみせる長い黄檗色の髪。それをなびかせている蘇芳は、紺樹に引けをとらない長身だ。金よりも薄い色をした長い前髪をかき上げると、周りの女性陣から、ほぅと、うっとりとした息が零れる。切れ長の瞳は水色よりも更に薄い白花色。透き通ってしまうような瞳と同様、肌は女性のそれのように滑らかで白い。
「あっ相変わらず、女性より綺麗だよねぇ」
「えぇ、本当に。性格によっては傾国の美女になっていたかもしれないわね」
詰襟の前を開き簡素な羽織を纏った軽装をしているあたり、私用だと思われる。
予想もしなかった人物の登場に、少しばかり驚きはした。だが、人との関わりを好み、見た目と反して子どものように好奇心旺盛な彼の性格を考えると、話題になっている華憐堂へ足を運ばない方が不思議だ。
「それにしても、真赭が緊張したから、私、てっきり――」
てっきり、だれが出てくると予想して、それが嫌だと思ったのか。
蒼は自分の口から出かけた言葉に、目を見開いた。
そもそも、街へはアゥマの調査に来たのだ。蘇芳が出てきたことに関しても、何かしらの可能性と理由を考慮すべきなのだ。であるのに、蒼は、いま胸を撫で下ろした。
言葉を切り沈黙してしまった自分を、頭上の二人が不思議そうに見下ろしているのがわかった。真赭の手が、蒼の背に触れてくる。
「蒼? どうしたの?」
「あっ、ごめん。なんでもない」
しゃがんだまま、蒼は頭を振った。自分の未熟さに肩を落としている場合か。隠居の身である白までひっぱってきたのだ。何かしらの情報を持って帰らないと、紅に顔向けできない。
もう一度、壁から控えめに顔を覗かせると、くるりと蘇芳が扉へと向き直り、だれかを手招きした。見えたのは、純白に青の刺繍がほどこされた裾。魔道府の制服である、外套だ。
「おーい、お前らー帰るぞー。いつまで貸切状態にしているつもりだー?」
待ちくたびれ様子で、蘇芳が大きな声を出した。
「待ってくださいな、蘇芳様。ほんま、もうちーと行動に間をいれるってのを覚えてください」
呼びかけに引かれるように姿を現したのは、長身の見慣れた男性。
「何事も素早さが肝心なんだぞ! 陰翡! お前だって、休憩時間が終わってしまうだろう?」
「言い方、変えますわ。落ち着きもってくださいな。ただでさえ目立つ容姿なんやから」
独特な訛りのある軽い口調で蘇芳を諌めたのは、紅の親友である陰翡だった。
「やっぱり髪は縛ってくるべきだったか?」
唇を尖らせた蘇芳に、
「意味が違いますわ。ほんま陽翠に代わってもろたら良かったわ」
と陰翡が律儀に突っ込みをいれた。
突っ込み気質な、双子の陽翠と一緒にいる時は、自分がぼける側の陰翡。慣れないことに本気で疲れたのか、店の中にいる人物に助けを求めるように向きを変えた。彼が顔を向けた方向から、男女の笑い声が、わずかにだが聞こえてきた。
遠目からでも予想できた。できて、しまった。彼が向ける視線の色――その向こうにいるであろう、人物に検討がついてしまった。
「あれって――」
真赭が勢い良く、白龍の袖を引っ張った。そのまま白龍を揺さぶる。平素の彼女ならありえない行動だ。それだけで。それだけでも、蒼の予想があっている可能性を高めてくる。
蒼の掌には汗が湧き出てくる。熱い。痛い。心臓の音が耳に響いて、でも蒼の真ん中から飛び出そうでもあって、気持ちが悪い。
「白様、あれ陰翡さんです!」
「おー」
落ち着いた真赭が声を荒げるなんて珍しい。蒼はどこか遠くでふっと笑った。
白龍は少し困った顔で、真赭の肩を柔らかく叩いた。
蒼は膝の砂を払いながら立ち上がった。
「まぁ、真赭。そう声を荒げるでない」
「おーって、白様! それがどんな意味を持つかって!」
先程よりは声の大きさを落した真赭が、しかし、慌てた様子はそのままに白の服を掴み、
「だって、陰翡さんはっ! それに――」
と顔を青白くしていく。
ちらりと蒼を見る真赭の瞳には、気遣いの色が濃い。蒼の視界を遮るように、白と真赭が通りの際に立った。
「私用とは言え皇子殿が足を運んだようであれば、大人しく心葉堂に戻った方が良いのう」
「……そう、ですね。蒼、早くここ離れよう」
真赭に小道の奥へと促されるが、足が地面に縫い付けられて全く動かない。それでもと、蒼を動かそうと触れた真赭の白い指がわずかに震えていた。蒼は、自分の雪洞状の袖を掴む指を目で見て初めて、そのことに気がついた。自分の身体がそれ以上に、震えていたから。
二人の表情を見て、蒼は先程から考えていた可能性をはっきりと自覚してしまっていた。
人好きの蘇芳とは言え、彼は無警戒な人物ではない。私的な行動でも、いや、私的な行動だからこそ、傍に置く者は選ぶ。それに、耳に届いた笑い声。中音程の心地よい声を聞き間違える筈がない。
「だって、あれは。アノ声は」
蒼は弾かれたように、白龍の顔を勢い良く見上げる。白龍は腕を組んだまま深く息をつき、
「蒼、いま目に映っている現実が真実とは限らぬ。蒼が信じるものはなんじゃ?」
と意味深な言葉を吐き出した。
白龍が厳しい言葉を口にする時は、その裏に隠れている事実を含むことが多い。
蒼には、止めを刺されたのと同じ意味を持つ。溢れてきそうな不安をぐっと飲み込み、一歩踏み出した。白龍の方へと。けれど――。
「今日は騒がしい人間を連れてきてしまい、失礼しました」
今度は明瞭に、実にはっきりと蒼の頭の真ん中へ響いてきた声。
「いえ。どうぞ、また蘇芳様もご一緒にいらしてくださいましね」
「うむ、近いうちに寄らせてもらうぞ。また萌黄が淹れてくれ」
想像していた姿が思い浮かび、心臓が激しく鳴るのを全身で感じた。なのに、血は激しく全身にめぐっていくのを感じるのに。矛盾するように、頭から血の気がひいていくのがわかった。
思わず道へ飛び出しそうになったところを、白龍の腕に遮られた。蒼は伸ばされた腕にしがみつきながら、かろうじて様子が伺える程度だけ顔を覗かせた。
「紺……くん」
擦れた声が、霜風にかき消されていく。
ただ、苦しかった。萌黄と並んで出てきた紺樹の姿に打ちのめされた。
談笑している紺樹の顔に浮かんでいるのは、作り物の微笑みではなかった。いや、そんなことが悲しいのではない。表現し難い気持ちが渦巻いたのは事実だが、そんな焼きもちで心を激しく揺さぶられるほど、自分はもう子どもではない。そう、蒼は頭を振る。
「こちらを融通いただいこと、誠に感謝いたします」
持ち直そうをした蒼の視界を濁らせたのは、紺樹の手へ渡された艶やかな袋の存在だった。
紺樹に手渡される直前、袋に仕舞われた瓶を見て、蒼は中身がなんなのか即座に理解した。
「あれ、は。あのアゥマは、丹茶だ」
華憐堂家紋が大きく刻まれたそれを、紺樹が大事そうに抱える。その仕草が蒼の呼吸を乱す。
萌黄が、明るくはっきりとした口調で「光栄ですわ」と礼を述べたのが、聞こえた。
「また丹茶が必要な時は、いつでもおっしゃってくださいましね。魔道府の御用達となれば、父も自信がつきます。あっ、今回は紺樹様と蘇芳様が私的にいらっしゃったのに。いやですわ、わたくしったら。すっかり商売人になってしまって」
「いえ、とても助かりました。これで母の体調が戻るでしょう。深く感謝します。すぐには無理でも、今度は仕事でもお邪魔することになると思います」
「嬉しいですわ」
寒々しい空気とは正反対、紺樹の木漏れ日のようにあたたかい眼差しと柔らかい感謝の言葉を受けて、萌黄はわずかに頬を紅潮させた。それは色恋の香りではなく、自信という高揚感を感じさせる色。
萌黄は、紺樹の腕に抱えられた己の店の家紋を確認するように陶酔気味に見つめて数秒後、我に返ったのか、袖をあわせ軽く頭を垂れた。
興奮した萌黄の声は、道を挟んだ場所にいる蒼たちにもじゅうぶんに届くほどの音量だった。それは、残酷なほどに。
「わっわたし。私は、ずっと、茶師で、いたいって」
「うむ」
きっと。頷いた白龍が支えていなければ、蒼の身体はその場へ崩れていただろう。
ぽろぽろと、水晶の玉のようにこぼれ落ちていく涙が地面へと染みていく。蒼はそれを止めることが叶わなかった。むしろ。今、目の前にある全てが見えなくなってしまえば良いのにと願いながら、望んで視界を滲ませていく。
「私、だって、茶師だもん。紺君だって、お仕事なら、仕方がないって」
「うむ」
両親が亡くなって、見送れなかった後悔で散々泣いてから決めていたのに。もう、泣かないって誓ったのに。
脆過ぎる涙腺を、自分の意思を悔しく思いつつも、自分の中で渦巻いている感情の正体にはっきりと名前をつけられず。その恐ろしさから逃れるように、蒼は子どものようにただ泣く。
蒼自身、沸きあがる感情の正体はわからない。ただ、行方知れずな気持ちだけが溢れ続ける。
「丹茶は必要なものだし、あれ以来、作れない私が悪い。お客さんが離れても、お茶自体を飲みたいって思ってもらえるように頑張るって。私も職人として、努力するべきだからって。浄練頑張って。自分の頑張りは関係なく、お客さんが喜んでくれたら、嬉しくって。でもっ」
いつの間にか、蒼は白龍の腕の中に包み込まれていた。こうして祖父に抱きしめられるのは、あの日以来だ。
蒼は夢中で思いを吐き出しながら、自分の一部を切り離してしまったように、歯止めがきかない。蒼は頭の片隅で、そう考えた。
「大丈夫じゃ、蒼よ。自分勝手な自覚があるおじいじゃが、たまにはおじいをさせてくれ」
壁を背に、白龍は強く蒼を抱きしめてくれた。それが、余計に蒼の心を乱すことを知っているのだろうに。
「思うままに、言うてもよいのだ。おじいも紅も、蒼が一人で抱えてしまう方が悲しい」
白龍の靴先が地を半円に滑った。落ちていた花びらたちがわずかに舞い上がると、白龍の口から囁かれた言葉に運ばれるように陣を描いた。と、白龍の右手が小さく動いたのが、蒼の身体から離れた温度でわかった。それでも、片方の手は蒼に触れ続けてくれている。
白龍の裾から出された小瓶から、アゥマ水が巻かれる。三人がいる場所だけ外界と切り離されたのだ。
「ほれ。もうここにおるのは蒼を好きな人間だけじゃよ」
それが合図となり、蒼の中で糸が切れてしまった。ひゅっと。吸い込んだ乾いた空気は、喉を切りつける。
大きな牡丹色の瞳から、透明な雫がぼろぼろと溢れ出した。
「やっぱり、大切な人がっ、蘇芳様やっ。応援してるよって言ってくれた、陰翡お兄ちゃんがっ……あぁやって、自分の気持ちでっていうのが嫌だって思って! そんな風に思った自分がもっと嫌で! すごく嫌なの! 大好きな人が、幸せであればって思うはずなのに!」
「蒼、職人とて人間ぞ。人間の心があるから、職人として人に寄り添える」
蒼は全てを歪ませる一掬の涙でも足りず、白龍の胸へと顔埋め、自らの瞼で闇を作る。瞳が焼けるように熱い。頭がひどく痛んできた。
そして、蒼は、修行半ばで店を継いだ自分がこれまで背を伸ばしていられたのは、自分の周りにいた人々のおかげなのだと改めて思い知った。
きっと彼らは、蒼が浄錬した茶葉よりも、蒼自身を見ていたのだろう。職人失格だと自覚しながらも、それは蒼という人間が浄錬する茶葉という意味をくれていた。だから、そんな人たちに、客に美味しいお茶をと頑張ってこれた。
けれど、どうしてだろう。
「私の、お茶が、大好きだって、一番大好きだって。他のお茶は飲めないくらいだって。もちろん、全部が事実じゃないってのはわかってるの。けど、紺君の気持ちは、いっぱい伝わってきたから。だから、修行途中でも、中途半端でお店継ぐことになっても、いまできること、頑張ろうって。丹茶を作れなくなった自分の弱さが、嫌になっても! 茶葉に対する気持ちは信じようって! みんなが、信じさせてくれたから!」
大切な人たちを失ったと知った、あの日。蒼は己の道を見失った。
大好きな両親に、自分の茶を飲んでもらって、職人としても肩を並べて。そんな日がくることを希望に修行に励んでいた。
それなのに蒼が希望して修行に出たせいで、大好きな人たちの死に目に立ち会えなかった。
両親も白龍も、師匠を持って二年間の修行に出る古い慣習を気にせず、心葉堂で修行を積めばよいと言ってくれた。師匠でさえ、蒼の才能は認めつつ家族が一緒にいる状況を勧めてきた。
蒼が修行を希望したのは、単なる好奇心からだった。確固たる信念があって、場所を選んだのではない。祖母と師匠の故郷である、幻の秘境と呼ばれる桃源郷。そこで思う存分に茶の修行をしたいと、実行しただけ。実際に、とても唯意義な時間を過ごせた。学ぶことが多かった。
けれど、いまとなってはその経験も両親との時間を犠牲にして得たモノという認識から抜け出せない。どこまでいっても、後悔が胸を締める。
立ち直ったいまでも、無意識で人を救う丹茶の浄練を阻むのは罪悪感が付きまとうからだと、蒼は思う。皆が否定してくれた。運命を自分の責からだと考えるのは傲慢だとたしなめられた。
それでも、蒼は自分を許せずにいる。あの時の自分の判断をどうしても許せない。
「わしも、紅も、麒淵も。皆、わかっておるよ。それに」
「私だって、ちゃんと見てる」
真赭の細い指が、蒼の肩を強く掴んだ。
そう、だれも蒼を責めない。
だって、だれよりも両親を尊敬して慕っていた蒼が、蒼だけが両親を見送れなかった。修行先から蒼が戻ってきた時には、すでに遺体は集団埋葬されていたのだ。事故からたった二日後のことだったのに。
けれど、蒼にとっては、その優しさが痛かった。だから苦い優しさから逃れるように、いや、甘さに溺れて肝心な部分から目を逸らした。
「私は。私は……全部、自分のいたらなさのせいだって、自覚はあるんだよ」
「まったく。紅と言い、蒼と言い。わしの孫たちは義息子に似て謙虚じゃな。ちっとはわしや祖母、それに藍に似て図々しくあれば良いものを」
「ぜんぶっ、わたしの、わがままだ。これまでの行動も、いまの涙も」
結果、自分勝手なわがままで勝手に傷ついている自覚はあるのだ。全て、蒼が勝手に心をぐちゃぐちゃに乱しているだけ。
「それでもねっ」
蒼は白龍の背中をきつく握りしめた。白が皺の刻まれた手で何度も蒼の頭を撫でてくれる。幼子をあやすように、ぎこちなく背を大きな掌が跳ねる。
「それでもね。紺君があんな顔で、他の人から茶葉を、おばさまのための丹茶を受け取ってるのが、すごく苦しいのっ! 頭では理解しているのに、全然気持ちが追い付いてくれないのっ!」
ひどい頭痛が蒼を襲う。血管が破れそうなズクンズクンと暴れるような痛み。
「私、もう何を信じて進めば良いのか、わかんないよ。自分が、一番、信用できない」
蒼は口にするのが愚かなことだと自覚はしていても、どうしても止める事ができなかった。
擦れた声が熱い息で消えてしまえばいいのにと祈りながら、蒼は睫を震わせるばかりだった。




