天候の悪化
「最近腰が痛くてねぇ」
店内に老婦の呟きが落ち、大きな身体がゆさりと揺れた。丈夫なはずの椅子は、ふわふわの毛皮に包まれた老婦の動きにあわせて悲鳴をあげた。けれど、腰で弾んでいる拳は動き続ける。
「水婆。楽になるのはわかるけど、あんまり叩かないほうが良いよ」
紅は帳簿へ向けていた視線をあげる。あまりに水婆の身体が大きく揺れるものだから、つい店の中にある薬箪笥や博古櫃に目がいってしまう。
そのまま目線を移動させると、恰幅の良い水婆が複雑な顔でお茶を啜っている。
「人間ってのはね、頭では駄目だと理解していても、やってしまうことってあるもんさ」
「わかっているていでぼやいても駄目だって。ほら。杜仲茶をもう一杯ごちそうするから、血行を良くしなって」
紅は傍らにあった茶器を持って、櫃台から出る。黙って茶杯をあげた水婆に苦笑を浮かべながらも、紅は茶を注ぐ。
こぽこぽと愛らしい音を伴い湯気が立ち上る。すんと息を吸えば、香ばしさの中に立ち上がな甘みが鼻腔を満たしていった。
「はぁぁ、茶はより美味しく感じられる気温なんだけどねぇ」
温かく心を満たしてくれるお茶の美味さと、身体を外から刺激してくる温度の差をどう表していいのか。水婆は困惑しているようだ。
「確かにこの時期に、この寒さは異常じゃのう」
水婆の正面に座している白龍が、顎をひと撫でしながら呟いた。
白龍と水婆の間には、木盤の上に置かれた木駒が佇んでいる。
「おじいが言う通り、この季節に天気が悪いのも珍しいな。雨恵月にはまだ早いっていうのに」
紅は櫃台に戻りつつ、丸い枠に硝子がはめ込まれている窓へ視線をやる。
窓硝子にはアゥマを含んだ水が溜められている。いつもなら太陽の光を受けて、店内に鮮やかな光を注ぎ込んでいるのだが……。今は雨のせいで、中に浮いている結晶が放つ淡い光りだけが、床に映されている。
「ほい。水婆や、これでわしの十連勝かのう」
「ちょっと、白! 人が意識を逸らしている間にずるいってなもんさね!」
白龍は名と同じ色の髭を撫でながら、じっと駒兵を見つめていると思っていたのだが……会話に参加しながらも、ちゃっかりと勝利をおさめた。
「勝負中に気を抜く水婆が悪いのだ」
「あんたの老若男女関わらず加減をしないところは好ましいよ? わざわざ腰が痛むような気温の日を選んで呼び出したんじゃないかって思える、タチの悪い性格はどうかと思うがね」
水婆はうんざりと頬肉を下げて、近くの菓子に手を伸ばした。文句を口にする割に、すでに木盤への興味は失せているようだ。
一方、白龍は非常にご機嫌な表情を浮かべ、木駒を箱へと戻している。
「なんとでも言うが良いよ。ともかく、勝負は勝負。例の件は頼んだぞ」
「はいよ。そもそも、勝負なんぞしなくても、あたしらは動くってのにねぇ」
「それでは興がそがれるというものよ」
老人二人の会話を聞いても、紅は見守るだけだ。
白龍や翁衆が事の大小に関わらず賭け事をするのは日常のことだ。それに、賭けの内容をはっきり口にしないということは、白龍のフーシオとしての地位に関係する内容だと推測できる。
フーシオとは、クコ皇国最高のアゥマ使いに与えられる称号であり、国外にも通用する権限を持つ。それと同時に、有事には家族をも巻き込み国に尽くす義務もある。
(おじいがオレや蒼に共有を控えているってことは、まだ捜査段階なんだろうな)
紅が心配なのは蒼の方だ。
「それよりも。なぁ、蒼」
しっとりとした空気の中で交わされる会話に混じらないのは蒼だ。
いつもなら店の中を動き回っているか、客に茶葉の効能をわかりやすく伝えられるようにと思考を廻らせ手を動かしている。溜まりや研究中はともかく、店に出ている間は律儀に呼びかけに反応は返してくる蒼が、随分とぼんやりとしている。
「蒼、そろそろやばいぞ」
紅が忠告しても、蒼は櫃台の中、両の手で頬を支え目の前にある砂時計をじっと見つめている。完全に、心ここにあらずな状態だ。
「これは相当、苦くなりそうじゃのう」
「じいさまは孫娘に教えてあげないのかい? 相変わらず意地が悪いねぇ」
「ははっ。ここ数日、また忙しさが戻ったから、疲れておるのじゃろうて。氷砂糖でも用意してやるかのう。肌寒いし、甘味が出て良いだろう」
白龍が口にした通り、ここ何日か街は雨が続き、肌を刺す寒さに覆われている。
そんな不安定な状況の中、一時は遠のいていた客足が安らぎを求めて戻ってきた。それはもちろん、喜ばしいことだ。
(要は買いだめに走っている常連客が、この数日間に集中しただけなんだよね)
根本的な問題が未解決なのを、蒼は重々承知している。
そして、何かがおかしい。これは心葉堂の経営状況に関してだけに限らず、根本的な何かがおかしい。
直観的とはいえ、蒼が感じている違和感を紅と白龍が把握していないはずがない。
その二人が日頃と同じ調子でいるのは、他ならぬ蒼への気遣いだ。
(何かがおかしいのは感じているのに。茶師として丹茶を浄練することも、アゥマ使いとして原因を解明することも敵わずにいる)
蒼はそんな自己嫌悪に沈んでいるものだから、はぁと大きなため息が落ちた。
「蒼、このままだとそのため息は倍増どころか、店を爆発させるほどになるぞ?」
「へぇあ?」
紅に額を突っつかれて、ようやく蒼は焦点をあわせた。そして、砂時計の砂が動きをとめていることに気がつき、慌てて茶杯に視線を移す。
「わわっ! すっごい香りになっちゃってるよ!」
思わず、鼻に流れ込んできた匂いで眉間に皺が寄ってしまった。けれど、茶葉を無駄にして捨てることはしたくない。
なぜか自分の指先を半目で凝視する紅をよそに、蒼は一気に茶を煽った。
そうして予想した以上の苦味に耐え切れず、勢い良く櫃台へ突っ伏した。わずかに額を打つが、全く痛みがどっかに飛んでいくほどの渋さが口内で暴れまくる。
「ぶわぁぁ。これはごめん。ほんと、茶葉に申し訳なさすぎる」
「そんなに気になってるなら、調べてみるか?」
頭上から紅の声が降り注いできた。
「へっ?」
「異常気象の理由とか、浄練の際にアゥマに感じる違和感とか、色々気になっているんだろう?」
目を瞬かせた数秒後、蒼は顔を輝かせた。
蒼が顔をあげると、紅の奥にいる白龍たちも、同じような表情で蒼を見つめている。
この空間にいる全員に視線を向けられていたにも関わらず、全く気配を感じ取れないほど思考が飛んでいたのかと、蒼の口元がわずかに引きつった。
「でも、紅ってばいいの? 面倒ごとは避けたいんじゃないの?」
「天気と同じように、じめじめしてられると、店の中の茶葉まで萎しなびそうだからな」
「私のじめじめで萎びちゃうなら、とっくの昔に紅の出すぎてる胃液でとけちゃってるよ」
蒼は嬉しさのあまり思わず腰をあげかけて、我に帰ったところで恥ずかしさと居た堪れなさのあまり、憎まれ口を叩いた。
「どんな理屈だ!」
案の定、紅が大げさに突っ込みを入れてくる。
「それはお互い様じゃろ。似たもの兄妹め」
そんな紅を、白龍と水婆がさらにからかいの目で見つめる。白龍にいたっては、思い切り目じりが下がっている。にやにやなどという音が可視できそうなくらいだ。
自分以外に視線が向けられ、蒼はほっと胸を撫で下ろした。そんな蒼の心の中が想像ついたのだろう。紅は肩を落とす。
「おじい、オレと蒼を一緒にしないでくれ。って、そうじゃないだろ。行くのか行かないのか、どっちにするんだよ?」
ぽこんと。紅に閻魔帳で軽く頭頂部を叩かれ、蒼の頬が思い切り膨れる。けれど、閻魔帳の影から見えた紅は、どうやら笑っているらしかったので、よしとした。
蒼は考える振りをして、勢い良く椅子に座りなおす。背もたれで、腰帯の後ろについている結び目が潰れるのがわかったが、一刻も早く行動に移したかった。
だが、行動に移すにあたって一つ懸念事項がある。
「羅針盤で怪しいアゥマの流れを辿ってみたけど、華憐堂さんの近くだったよ?」
紅をちらりと上目で伺うと、予想通りの反応を浮かべていた。
しかも、とてもいい笑顔で肩を叩かれた。いつになく力が篭っている気がした。ふっくらと雪洞状に膨らんだ袖の形が崩れる。
「やっぱりか。オレはうちで麒淵とアゥマの流れを読む。外の調査はおじいと蒼に任せた」
あまりに良い笑顔を向けられ、蒼の口が三角になってしまった。ジト目もおまけに付けてみるが、紅の輝きは増すばかりだ。ちなみに麒淵は櫃台で大の字になって寝ている。
そもそも、アゥマの流れを読み解くのは紅の方が得意なのだ。なんせ特殊能力で可視化ができるのもある。これは用意した答えだったと、蒼にも容易に想像がついた。
「くれぐれも無茶はするな、余計な動きはするな、華憐堂と絡むなよ」
紅が肩をがっしりと掴んだまま、ずいと顔が近づけてきた。
蒼の口はひどく面倒くさそうに歪む。
「ついて来ないくせに、注文が多いなぁ」
蒼のぼやきを聞いた瞬間、紅の瞼がすっと落ちた。
「うるさい。文句言うなら今夜はにんにく揚げの大盛り食わせるぞ」
「はい、すみません気をつけてね、おじい」
蒼は悪いと思いながらも、白龍を話しに巻き込んだ。
蒼だってにんにく揚げは好物だが、大量に食した後に街を歩くには、年頃真っ最中なのだ。
「そうよね、蒼嬢より白のじい様の方が心配よね」
水婆の声は本気で心配しているものだ。深みのある皴が味な顔に、ハラハラと文字を乗せている。厚みのある背を丸めて、蒼を手招きする。
白龍自身はそ知らぬ顔で、
「さて、ひげでも整えてくるかのう。冷えておるし、とっておきの外套を出すか」
と既に店の奥に踵を返してしまった。
一方、櫃台から出てきた蒼は水婆に頭ごと抱えられた。何事かと、少しばかり焦る蒼。
水婆は疑問符を飛ばす蒼に構わず、
「無理だけはしないでおくれよ? 蒼嬢は水婆にとっても、可愛い孫なんだから」
ぎゅうっと抱きしめてきた。柔らかい。全部が柔らかく、蒼は思わず大人しく身を沈めた。
白龍や紅とは違う、女性独特の匂いと柔らかさ。どこまでも柔らかさだけが包み込む。
蒼は泣きそうになった。掴んだ背中はやっぱりふっくらとして。感触が違うにも関わらず――母親を彷彿とさせたから。
「うん。うん、うん。ありがと。水婆はあったかくて、柔らかくって、ほっとする」
「あっははっ! そーいうのは自分でも推しどころさ! 水婆の柔らか癒し効果ってね!」
豪快に身を揺らして笑う水婆。そして、より腕の力が強まる。
そして、蒼が「いたたっ!」と声をあげた頃合いをみて、紅に目配せをした。軽く片目を閉じて、『兄ちゃん、言ったれ』と口だけを動かした。
紅としては、少し複雑だ。甘やかしを引き継ぐべきか、厳しさを与えるか。
「蒼は昔から暴走しがちだ。アゥマに関しては飛びぬけた共感力を持っているから、お前が正しいのがほとんどだった。割と突拍子もない意見さえも、受け入れてくれる人が多かった」
そして、紅は後者を選んだ。それが蒼にしてやれる紅の精一杯だから。
蒼はアゥマに関しては天才だ。そして、それを凌駕する才能の大人に囲まれ守られてきた。ゆえに、蒼は常識外れな部分がある。紅とて、蒼がそれを自覚して脱却を試みているのは承知しているが、やはり純情な部分がある妹が心配でしょうがないのだ。
「でも、それはあくまでも蒼個人としてだ」
水婆から体を離した蒼が、きつく唇を結ぶ。それを前に、紅は余計なお節介だと思えたが続けることにした。五つ下の妹の成長を前にして、わずかな寂しさを抱きながら。
「今のお前は、心葉堂の茶師でもある。それをきちんと自覚しろよ?」
わずかに目の端を赤くしている蒼は、大きく胸を叩いた。
「もちろんだよ。私は、心葉堂の蒼だもん」
「話がまとまったところで、裏門に集合じゃな。わしのおひげは秒で用意できるからのう」
暖簾からひょいっと顔を出した白龍。盗み聞きしていたのかと水婆が突っ込みを入れる寸前で、身を引っ込めた。
「白のじい様は昔から何をしでかすかわからなかったからねぇ」
去っていく白の背中を見ながら、水婆が頬に手を当て呆れた声を出した。
紅と蒼は、全く同じ様子で互いを指さした。
「そのあたりは蒼が似たんだな。自由奔放なところが似すぎて、オレの胃が困る」
「おじいってば私と似ているだろうけど、感覚的には紅がそっくりだから」
見合わせた表情は正反対だ。紅は『嘘だろ』と慄き、蒼は『光栄だ』と笑っている。
それはそうだけどと。どこかで聞いたようなやりとりだと思いながらも、
「張り合わなくても、どっちもどっちさね」
そっぽを向いた兄妹を水婆が声をあげて笑った。




