紅と萌黄の出会い
ふぅと小さく息を吐いて、萌黄は蒼の後ろにある噴水へと視線を動かす。
水面には、蓮の花弁をはじめとした色とりどりの花びらたちが浮かべられている。萌黄が花に見とれているのか、はたまた思い出に浸っているのか。どちらかは不明だが。
「わたくしと紅さんは、このような噴水前で会いましたの」
どうやら、後者だったようだ。萌黄はうっとりと息を零した。
声色も相まってほろほろと三色槿が一緒に落ちてきそうだ、などと蒼は考えてしまった。確か三色槿には『乙女の恋』なんていう花言葉があったはず。
「あの時のわたくしは、このような美しい仕様の噴水を見たのは初めてで、何より自由に外を歩く機会がほとんどなかったものですから、少し興奮していましたの」
萌黄の語り口調のせいもあるのだろうけれど、蒼には物語で語られる男女の出会いのようだと思われた。
(でも、あれ? 紅ってば、そんな表情していたっけ?)
蒼の頭の中で思い出される紅の表情からは、全くと言っていいほど、甘い展開など想像できなかった記憶がある。
いや、ただ場所が叙情的なだけで、内容は異なる可能性もある。蒼は心の中でだけ頭を振る。
(実は噴水は関係なくって、ナンパされている萌黄さんを助けたとか? いや、ここだと翁達の方が、一斉に助けに入りそうだよなぁ)
蒼が先の展開を読んでいる間も、萌黄は両手を胸の前で握り話を続けようとしている。
紺樹といえば。同じ場所にいるにも関わらず、どこかお互いちぐはぐな世界に行ってしまっている女二人に、冷や汗を流すばかりだ。
「ふちにかけていた手が滑ってしまい。そこに通りがかった紅さんが――」
先に現実に戻ってきたのは、萌黄だった。
「なるほど! 紅が助けてくれて濡れずにすんだんだね!」
萌黄の言葉で、ようやく蒼の意識が戻った。そういう部類の人助けなら納得いくと、掌を打つ。理由など無理につけることもないのだが。
「いいえ。腕を掴んでくださったのですが、結局一緒に落ちてしまいました」
「落ちたんだ⁉ 紅ってば、非力じゃん! 少なくとも魔道府に勤めていた時は、かなり鍛えていたのに……」
離れた心葉堂で店番をしている紅に、思わず裏手で突っ込みをいれてしまうほどの衝撃。
いくら速度重視型とはいえ、兄妹共に幼い頃から白龍に拳法の手習いを受けている身だ。女性の中でも特に細身の萌黄を支えきれなかったなどと、蒼には信じがたい。
「最近、鍛練を怠っているのでしょうね。師傅にも言っておきましょうか」
蒼と紺樹は鏡合わせの顔を見合わせ、一緒に肩を大げさに落とした。
一方、萌黄は二人の落胆など気にも留めずに「いいえ!」と話を続ける。
「わたくしが紅さんに魅かれたのは、その後ですの。わたくしのせいで二人とも濡れ透ってしまって。わたくし、本当に申し訳なくて、情けなくて。必死で紅さんに謝罪をしたのです。紅さんは透明感のある牡丹色の綺麗な瞳でわたくしを見つめられたあと――」
あぁ、ここはどこか山間の秘密のお花畑だろうか。そうだ、蒼が修行した場は桃源郷と呼ばれ、異次元の美しい風景が広がっていた。そこに立ち返ったような果実の甘い香りが流れている錯覚に陥った。祖父の旧友である蒼の師匠をはじめ、みな浮世離れした姿をしていたっけ。
蒼と紺樹の目が揃って遥か遠くへ向いた。
「そうっ!」
萌黄はおおげさに両の手を広げる。
「紅さんは極上の微笑をわたくしに向けてくださったんです! 蜂蜜よりとろけて、砂糖菓子よりも甘く優しくてあたたかい笑顔にわたくし、どれだけ胸を射られたか!」
萌黄は全身から幸福粒子を飛ばし、いつも伏し目がちなのが、今だけは天を見上げ星を散らしている。
だから、自分たちが正気を手放してしまっても仕方がないと、どちらともなく考えていた。
「わたくし――自分の失敗を叱責されなかったことも、あんなにあたたかく受け入れ許されたこともほとんどなくて」
やっと声の音域を下げ身体を小さくした萌黄に、紺樹は安堵の息を落とした。
いかに彼が場数を踏み様々な人間と論議を交わしたり対峙していたりするとはいえ、夢見る女は未知の存在なのだろう。
蒼といえば、隣で薄い笑顔を浮かべている幼馴染を横目にいれ、肺に溜まった塊を一気に吐き出した。いくら驚いたとはいえ、彼女の台詞は安堵する内容ではないでしょうに、と。
「彼らしい、といえば彼らしいですね」
蒼の言葉なき訴えを悟ったのか、紺樹は咳払いをひとつして背を正した。
「そうだね。そんでもって、出掛けた時と服が変わってたのは、そういう理由だったんだね」
「紅さんは、なにもおっしゃらず?」
「あっ、うん、ほら。女の子を助けきれずに、しかも一緒に泉に落ちちゃったなんて、恥ずかしくて秘密にしておきたかったのかも?」
本当のところ。帰ってきた紅の服装があまりにも豪華になっていたことと、彼の表情がげっそりしていたこと。その二点から、さすがの蒼も突っ込むのを気の毒に思ったほどだった。
それほど、その時の紅は全身を硬くしていた。今にして思うと、着替えをと、連れて行かれた華憐堂で熱烈なお持て成しを受けたのだろうと想像がつく。
「基本、人に優しい紅にしてみたら、助けたの自体は普通の行いだったのでしょうに」
「まさか、ここまで感謝されるというか、好意を抱かれると思わなかっただろうね」
顔を近づけ、蒼と紺樹は苦虫を噛み潰した様な表情をつくった。もちろん、萌黄に届かぬよう、細心の気を配りながら。
「あと萌黄さんが美人さん過ぎて、照れていたとか?」
「まぁ、蒼さんってば。そんな風にほめてくださる方も、珍しいですわ」
謙遜だろうか。おべっかでもなんでもなく、萌黄はかなりの美人だ。同性の蒼から見ても、憧れを抱く容姿である。華奢で儚げで、それでいて可愛らしさも持ち得ている。
いや、外見だけではない、ひとつひとつの所作や話し方、どれをとっても上流階級だとわかる品を持ち合わせているのだ。
「いえ、本音ですよ?」
「わたくし、自分のことは把握しておりますので」
このような女性から好意を受ければ、だれだって少しくらい舞い上がりそうなものの。蒼は、お兄ちゃんの情緒ってばどうなっているの、と憂いてしまう。
それを抜きにしても、何があったかくらい話してくれればいいのに。口うるさい割に、自分の考えはあまり伝えてこない兄に、蒼からため息が落ちた。
(それより、萌黄さんの言葉がちょっと気になるなぁ。家族とうまく言ってないのかな)
紺樹に軽く腰帯の結び目をひかれ、蒼は沈みかけた思考から戻る。
「蒼? どうかしましたか?」
蒼の顔を覗き込んでいる紺樹は、心配の色を浮かべている。
さっきの明確な萌黄の言葉を無視したのに、自分のちょっとした、本当にちょっとした心の陰りには過保護なほど心配をしてくる紺樹。
蒼は頬がわずかに熱を持った気がして、それが居たたまれなくなって紺樹の額に人差し指をピンと当ててしまった。
「紅ってば、すみにおけないじゃんって思ったの!」
今日は何だかよく思考が迷子になる。店があまりに暇で気が緩んでしまっているのだろう。蒼は、どんと音を立てて自分の胸を叩くことで気合を入れた。
「萌黄さん。この街の人たちは親切な人も多いし、大きい街だけどみんな家族みたいだし! きっと、紅以外にも優しくしてくれる人はいっぱいいるから! 安心していろんな人とお話できるようになるといいね」
取り繕ったような言葉が出たが、実際問題、彼女の交友関係が広がれば、紅ひとりに固執する傾向も変わるのではと考えたのだ。
(そっか。なんか恋してるって言うより固執って感じするかもだから、違和感があったのかな)
蒼自身も『恋』という感情は未知の領域だ。だから断言はできないのだが、萌黄の恋に恋しているのはとはまた違う様子に対する答えが見えた気がした。
一方、萌黄は足を止めて数秒考えた後、
「そうですね。でも、紅さんを一番お慕いすることには変わりないと思いますけれど」
と綺麗に笑った。
恵風が吹いているはずなのに……。どうしてだろう。蒼の頬に触れたのは、冬の寒い風である『ならい』が吹いているみたいに感じられた。
「そっか。いやぁ、兄をここまで思ってくれる人がいるなんて、妹としては嬉しいな!」
蒼はごくりと詰まった唾も知らぬふりをする。
「彼は浮いた話もあまりないですからね」
「紺君は多くて大変そう。おじさまとおばさまからしたら、候補がたくさんいて安心かな?」
多少の嫌味を込めて、蒼が紺樹の顔を覗き込む。
あまりにも蒼の口元がにやついていたからだろう。紺樹は珍しい調子で指を宙に躍らせた後、大げさに、
「蒼、巷の――翁たちの井戸端会議の噂など信じてはいけませんよ。めっ、です」
人差し指で蒼の額を突っついてきた。
じんと軽い痛みを覚えた蒼。口調の軽さに反して、少々力が篭っていた気がした。嫌な思い出でも蘇ったのだろうか。よくわからないまま、蒼は大人しく謝っておくことにした。
「ごめんでした」
余計なことを言うとあとが怖い。
紺樹もたいして本気ではなかったのだろう。眉を垂らして困ったように小さく笑っただけで、すぐに萌黄に向き直った。
「まぁ、そこはともかく。今日知り合ったのも何かの縁です。文化の違いもあったり、人との付き合い方にも違いがあったりと戸惑われることも多いでしょう。困ったことがあればどうぞ頼ってください。先ほどの翁たちも、萌黄さんのような方であれば喜んで手を貸してくれると思いますよ」
「そうだね! アゥマのことでも、街の歴史についてでも、何でも聞いてね」
「ありがとうございます。紺樹さんも蒼さんも嬉しいですわ。特に蒼さん――」
萌黄はこれまでにない力強さで、蒼の両の手を掴んできた。
ぐいと距離が縮まる。あまりの近さに、蒼は色んな意味で固まってしまう。
「もっ萌黄さん?」
「ぜひ、紅さんの妹さんとして、紅さんのこと『じっくり』教えてくださいましね!」
やはり、彼女の思考はそこに戻るのであった。




