はじまりの裏側④―やるせなさ―
「なぜなら、アゥマを含む新鮮な血を生成し続ける体や溜まりごと動くならともかく、血も生成されず循環を止めた肉体が――」
ぴたりと紅の舌の動きが止まった。
締まりなく、ぽかんと口を開けたまま体ごと固まってしまう。
寒いはずの溜まりにいながら、蒼と紅の肌は玉のような汗を溢れさせる。滝のように流れる汗が、ごくりと波打った喉で跳ねる。拭うことすら忘れて、蒼と紅は顔を合わせていた。
「すごく単純な考えだけど」
蒼と紅は、同時にひとつの可能性にたどり着いたのだ。
蒼は紅の背中を掴む。その手は見て明らかに震えている。痺れる指は上手く力が入らなくて、蒼は体重ごとかける。
「でも、そんなことできるはずがないよ。人間の体が耐えられるなんてあり得る?」
「だから萌黄さんは一見アゥマを宿していないように錯覚させられていたんですね?」
動揺する蒼をよそに、平坦な調子で呟いたのは紅だった。
いや、紅の心臓だって破裂しそうな勢いだ。ただそう振る舞うのが蒼より少し上手いだけ。
「そもそも汚染後の世界で人が生き延びられてきたのは、浄化物質を血に宿しているからだ。赤血球や白血球と等しく、血液に含まれてしかるべき存在だ。オレの能力も人体に対してはその前提条件があった。だから、貴女がアゥマを術として形にできないということは、保有量が極端に少ないと誤認してしまったんだ」
押し黙った萌黄を前に、紅はついさっきまで頭にあった手順を忘れ、答えを発してしまっていた。
(そもそも、『発していない』とは、その生命活動を維持するアゥマを保有すらしていないということなんて認識自体が間違っていたんだ。萌黄さんの体を動かしているのは、そのものだっただから)
そのもの。
それはあり得ない動力。
心の中で言葉にするのもあり得ない現実だ。
そこで紅は、ふと思い出す。魔道府で古書を読んだ時、魔道府長官はひどく興奮していたことを。
――わたしが言った『繰る能力』と著者がこの時点で記している『発していない』は、同義語なのです。でも、紅が口にした『持っていない』とは、全く似て非なるものなのです――
確かに、古書に書かれた『発していない』という一部分だけ切り取れば、長官の説明と同じ意味になる。
(あれはあえて強調していたんだ!)
紅は盛大な舌打ちをかます。ついでに、無意識のうちに魔道で風を起こしていた。
(長官らしい! 萌黄さんが普通の人間が生き返った死人などではなく、守霊が入っていると気づかせないため――誤認させるためだったんだ。あの時点で守霊だとわかっていたら、オレは自分にべったりだった萌黄さんの香りや気配に麒淵が触れないことや、麒淵の異常な状態に目が向いていただろう。ここにオレと蒼をこさせるための道順が止まると知っていて、オレの焦点をずらしたのか)
紅は己の未熟さを恨めしく思うのを通り越して、あの瞬間のやり取りをぶち壊したくなった。
ただ誘導されていた自分が情けなくて、歯ぎしりするしかない。
「くそっ!」
歯ぎしりに交じって、紅はらしくない調子で荒い言葉を吐き捨てた。岩肌の空間に響き木霊するほどの声量だ。
巻き込まれたのが自分だけなら、呆れたり思考がいたらなかった自分を反省したりするだけだった。けれど、紅は蒼を巻き込むのが前提だった計画に怒りを禁じ得ない。
「どっどうしたの、紅! 紅が舌打ちや悪態つくなんて、相当だよね? 萌黄さんに怒ってるんじゃないのは、紅の性格からも状況からもわかるけどさ」
蒼は兄の態度に驚き、わたわたと両腕をばたつかせる。小鳥が羽をばたつかせて動き回っているような動きに、紅の眉が下がった。
蒼は慌てながらも、紅の性格をわかってくれていて、なおかつきっちり萌黄のことも気にかけている。天然な妹に毒気を抜かれていく。
「失礼しました。そもそも貴女はどうして今更オレたちにこんな話をする気になったんですか? クコ皇国の状況に鑑みても、目的の儀式の準備は十分に整っているように思えますが」
紅の口調はいつもの冷静なものに戻っている。が、威圧感があるのはいなめない。
蒼はおずっと紅を覗き込むが、牡丹色の瞳には先ほどまでの怒りは宿っていない。視線は強いものの、いつもの穏やかな眼差しだ。
「わたしくも、麒淵様に重なりあった存在を払っていただくまでは――」
萌黄は薄い唇をぐっと噛む。
だが、それは一瞬のことですぐに重々しいため息が落ちた。
「わたくしたち(・・)は恐ろしかったのです。あの人を忘れていく自分たちが」
萌黄の声色は恐怖よりも慕情の色が濃い。悲壮感よりも手に届かないものを漠然とあこがれるような想いに似て、苦しくなる。
蒼はどこか自分の紺樹に対する想いに似ていると思えた。近いのに、決して手が届かない。そんな存在に焦がれているのだと。
(そっか。そうか。だから、私は萌黄さんのことが苦手でも、嫌いにはなれなかったのかも)
蒼は胸を押さえる。気持ちが込み上げて、止まらない。
萌黄は鏡映しだと思った。蒼が紺樹を想う姿と同じなのだ。
「蒼さんも、焦がれているの?」
萌黄の小さな問いかけ。蒼は全身を雷に打たれたようになった。
両手で掴んだ胸元が激しく軋む。
(私が紺君を想うのと、萌黄さんが紅や術士さんを想う気持ちが似ていたから。届かない相手を好きになって、でも離れがたくて傍にいたくて……なのに相手の一挙一動に傷ついて、寂しくなって)
そうして、蒼は自分が紺樹を異性として好いていることを改めて自覚する。
「あるべき関係と異なる形になっても、あの人は萌黄をまっすぐに愛してくださった。だから、余計に嫌だったのです。壊れていくのも、あの人の想いをないものとしていく、そんな今の自分が許せなかった」
蒼は寂しさに息苦しくなる。ぎゅうぅっと音をたてて縮む心臓を掴みあげるように胸元を引っ張り上げても、どうにもできない感情がわいてくるだけだ。
やるせない。
ただ、その一言が浮かんでくる。お互いが思い合って、苦しんで、でも決して出口が見えない関係。
「けれど、それでは駄目だと考えた自分を思い出したのです。最初に萌黄になったわたくしに戻ったからこそ。もう誤魔化し続けることはあの人を苦しめるだけ」
萌黄の想いはひどく独善的だ。あくまでも、願いの中心にいるのは『あの人』と萌黄だから。
ひとつの国を滅ぼすだとか、ここに住まう人の生活を奪う等という善悪の判断からではない。
(だからこそ、むしろ彼女の言葉は信じるに値する)
紅としては、謝罪を述べられるよりはずっと頷ける言い分だ。
私利私欲に満ちた術だからこそ、土壇場で止められる理由も、傍若無人な方が説得力がある。
「改めて確認させてください。貴女は人工溜まりに生まれた守霊であり、初めて萌黄さんの体に宿った存在。そして、何度も守霊を取り込み続けてきた。『萌黄さん』を愛した術者を慰めることを目的として、その存在を顕在させ続けさせるために」
紅の視線も声も、一切責め立てている色はない。ただ事実確認をする冷静な口調だ。蒼は逆にソレが嫌だった。
蒼は両手で紅の右手を握った。
「大丈夫だよ。順を追って蒼にもわかるように確認していくから」
蒼が怖がっていると思ったのだろう。紅は一瞬だけ蒼に微笑みかけ、握り返してきた。そして、すぐに冷静な目をまっすぐ萌黄に向ける。
けれど、蒼が怯えているのは、恐怖からなどではない。紅が家族を思うあまり、本人が望まない形で他者を傷つけることが何より嫌なのだ。
「紅のばか! 私の察し能力を舐めないでよ! っていうか、ソレを本気で言ってるなら、紅の方がどうかしているよ? 異様なアゥマに取り込まれてるんじゃないでしょうね! 溜まりの淵でアゥマ可視能力を発動させてから変だ」
蒼は思いっきり振りかぶった右足を、紅の脛にぶつけた。容赦の無い力加減に、紅は悶絶してしゃがみこんでしまう。
蒼だって、家族か最近知り合った人間を選ぶかと言われたら、ある程度の葛藤はあっても間違いなく家族を選ぶ。それは理解しているのだ。
「でも、今のお兄ちゃんはちょっとだいぶ変だっ! 妹なめんな! 私もさっきはちょっと変だったし! やっぱり、ここは違う!」
叫びながら、蒼は紅に向かって両手を伸ばす。アゥマに共鳴をはかると、案の定、紅におかしな性質のアゥマを感じた。
アゥマは本来なら浄化物質なのだが、紅に纏わり付いているのは穢れを浄化するものとは異なり、紅の中に無理やりねじり入ろうとしている。そして、自分の中にもその片鱗があることに気がつき、慌てて吐き出す。
紅の中の違和感を引っ張り出そうとする蒼にあわせて、麒淵が紅の背を撫でた。
「この溜まりに漂うアゥマは通常のものと違います。通常のアゥマは良い方へ浄化を行います」
意外にも淡々と事実を告げたのは萌黄だった。
すっと前に伸ばした右手には点滅した光が集まっている。光の向こう側にある勿忘草色の瞳は濁っているように見受けられる。
「ここにあるアゥマは本物ですが、偽物でもあるが故に本物を取り込もうとします。紅さんと蒼さんは、まごう事なき本物ですもの。みんな、一緒になりたがっているのですわ」
謎かけのような言葉が落とされる度、萌黄の掌の光が一つになっていく。風がおこり、萌黄の髪や裾を舞あげる。
濁った色を映す瞳が細められる。重い声は泥沼に引っ張られているような錯覚に陥る。
「命になるよう祈られて、生まれた存在なのです。ですから、悲しいくらい、術者の願いを叶えようとする。それがわたくしたちの存在意義だから。紅さんがおっしゃる通り、わたくしたちがクコ皇国にいる理由は――」
萌黄が意を決したように顔をあげたその瞬間、パンッと手を打った音が鳴り渡った。
一度ではない。二度三度とまるで拍手のように繰り返される。まるで何かの合図のようだ。
「あっあぁ、わたくし……」
すると、それまでの様子が嘘のように萌黄の肌が青ざめていき、おどおどと周囲を見渡す。
しばらく目線を泳がせて空間の薄暗い方で視線を止める。浮かんだのは絶望の色。萌黄は膝から崩れ落ちた。
「萌黄さん!」
「いけませんねぇ、いけませんよ。萌黄お嬢様。妄想はそこまでになさい」
突然割って入った嗄れ声に、一同に緊張が走る。
麒淵だけは薄くなっている黄緑色の目を、静かに相手に向けている。いや、静かではあるが怒りを孕んでいる。
「紅!」
「あぁ」
紅は即座に蒼と萌黄の前に立ち、両腕を広げる。本能だった。声の主は萌黄をねじ伏せようとしていると思った。
いつでも魔道を発動させられるように、二人とも掌に神経を集中する。
「心葉堂のみなさんも、謎解きごっこはそこまでとしましょうかねぇ」
暗闇から現れたのは四人――いや、正確には三人だ。一人はすぐに死人とわかった。
そして、声の主は華憐堂の店守である湯庵だった。




