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華憐堂への潜入

「さて、ではこれからの手順を説明するとしようかのう」

「うん」


 ごくりと蒼の喉が鳴る。一緒に入ってきた冷たい空気に、咳が出てしまった。

 『溜まり渡り』のおおざっぱな説明はすでに聞いていたが、実のところ詳細は知らないままだ。蒼にしたら紅を助ける手段というだけで実行する価値があったから、とにかく行動に出ることが大切だったのだ。


「まずは、導きの糸を紡いでおこうか。時間は無駄にはできぬからのう」


 麒淵は溜まりに両手を翳し詠唱を始める。その掌に吸い付くように、溜まりから何本もの水の柱が上った。

 まるで繊細な絹の糸のようになった水は、麒淵と蒼に絡みついてくる。


「蒼。お主は今から我と華憐堂に乗り込む。方法は至極危険じゃが、なんせ前代未聞、おそらく稀代のアゥマ使いが試し、唯一の天才以外は成し遂げられなかった方法じゃ」


 麒淵は真面目な顔をしていたが、わずかに表情を崩した。水糸にされるがままになっている蒼を見て。

 けれど、蒼は逆に口元を引き締めた。


「溜まりを渡るんだね」


 蒼は強く頷いた。それと同時に、意外にもさらりと出た重い事実に内心驚いていた。

 恐怖よりも、一刻も早く紅を助けに行きたいという想いが勝っているのは明らかだ。ただ、すこしだけ……ちょっとだけ別の感情が自分の中にあることに蒼は気がついていた。


(好奇心、なのかな。身の程知らずって言われても、たぶん、心臓が大きくなっている理由のひとつは、これだ)


 蒼を高揚させているのは、アゥマにその身を沈められることだ。

 幼い頃にアゥマの本流の底に沈んだ時は、ただただ恐ろしかった。川に落ちたことも、黒く得たいが知れない感情のようなものに引っ張られたことも。でも、今ならソノ黒いものにもう少し触れたいと思えるのだ。


(真赭の蛍雪堂(けいせつ)で古代のアゥマに触れて、お父さんとお母さんの最期の一時を見れたからかな。アゥマ自体には攻撃されて怖かったけれど、見えたものはあたたかかった)


 蒼は全身に絡んでくる薄氷河色(アイスブルー)の水の糸に頬を寄せる。絹の結紐のように見えた糸は、ぴりっと静電気を発した。痛みと焦げるような匂いに、思わず眉が寄る。

 蒼は痛みを誤魔化さぬまま共鳴をはかる。


「普通のアゥマ使いならできない。私だって、ちょっとアゥマと共鳴するのが取り柄だけで、未熟なアゥマ使い。でも、私は一度、溜まりの深層部に取り込まれている」


 蒼は笑みを麒淵に向ける。いつもと違う、高い目線にまっすぐと。

 不思議だ、と蒼は思った。


「そう、おぬしには幼少期に身につけた耐性――ある意味では『免疫』がある」


 こびとの麒淵はいつだって見た目の幼さに反して飄々としている。なのに、大人の男性の姿になった麒淵の方が瞳に揺らぎを映す。


「お主は生来よりアゥマに愛されているが、何より幼い頃に本流の濃いアゥマに包まれ、体内に取り込んでいる。負荷がかかるとはいえ、我と魔道府、なにより蘇芳皇子の助力があるこの環境であれば、間違いなく華憐堂には辿り着く」

「うん」


 甘えるように寄ってくるようになった糸に指を絡ませ、蒼は静かに頷いた。

 麒淵はそんな蒼に驚かずにはいられなかった。元からアゥマ関係では、一を言えば十を理解するところがある蒼だ。とはいえ、理論で納得する紅と違い、蒼は感覚で物事を読む。この手――人が絡む話で、すぐさま事情を飲み込むとは思っていなかったのだ。


「魔道府は、クコ皇国の溜まりやアゥマを管理する部門だもの」


 麒淵の言葉ない疑問に答えるように、蒼は苦笑を浮かべた。

 ゆらゆらと、二人を包む糸が作り出す繭の合間に見える蒼は、少女の面影が薄く見えた。

 麒淵はいつもより断然大きな手を握りしめる。


(いつまでも子どもでいて欲しいのに、そうあれない条件ばかりがこの子を襲う。両親を亡くし、小さな双肩に老舗茶師の名を負った。明るく振る舞い、心の傷を隠し、けれど丹術(たんじゅつ)が使えないという隠したい傷を晒さざるを得ないのに、人と向き合うことを続ける)


 蒼だけではない。捕らわれている紅も、孫たちを置いて調査に出ている白龍もだ。今回の件で、彼らは心に傷を負い、負った傷口をえぐられるのは守霊の麒淵にだって想像に難くない。


(そして、今は国の失態に巻き込まれて、未来ある身に業を背負うか)


 もしかしたら、蒼の体質なら悪影響など跳ねのける可能性もある。けれど溜まりの守霊である麒淵だからこそわかる。それは限りなく零に近い願望だと。

 麒淵は自分がひどく無力だと感じられる。人の姿に近づいた今、それは顕著だ。現世と近づいたせいで、感情が煩い。


「長官や紺君、翡翠兄姉ちゃんたち、それに蘇芳様が皇宮の壱の溜まりから流れる本流を止めてくれる。ほんのわずかだけど、源泉から流れ続ける力が途絶える。それは注がれる力が弱まるのと同義だから、私への影響も弱るってことだよね?」

「あぁ。弱まりはする」


 麒淵が渋りながらも行動することを許しているということは、九割方、間違いなく蒼は華憐堂へとたどり着けるだろう。

 本当に恐ろしいのは、現状をくぐり抜けられるかではない。後遺症だ。

 人の体というものは、どんな無茶も無理にも割と耐えているように見えるものだ。不眠不休。過労。達成感を抱き払拭される疲労。


 だが、そんなものは夢幻に違いない。


 体に負荷をかけた分は、必ずその身に返ってくる。


「溜まりを泳いで、生き残った者なんぞおらん。だが、強すぎる力の影響は必ず何らかの形でその身におよぶ。アゥマ使いとしてかもしれぬ。もしかしたら――」


 麒淵は言葉を切り、糸の合間から蒼の頬に手を添えた。あたたかくて、柔らかい。幼さの残る肌はしっとりとしていて、麒淵の掌を吸い付ける。

 だから、余計に胸が痛んだ。未来ある少女の、無自覚ながらも異性を好いている蒼を思うと。


「人としての機能を失う可能性も高いのだ。それは寿命であるかもしれないし、女性としての機能であるかもしれぬ。あまつさえ、人としての――感情やもしれぬ」


 女性が身体的機能を失ったり持たなかったりする悲しみを、麒淵は何度も目の当たりにしてきた。

 蒼や紅は知らぬところだが、心葉堂をはじめ溜まりの守護家系はその能力の高さ故に、一部人間としての機能を欠損していることがある。


(特に心葉堂は『時欠け』の家系。そして、身体能力が高い分、感情の面に影響が出やすい。白龍は人としての感情がどこか欠けておる。藍は人としての肉体への執着が薄かった)


 紅にもその傾向が見られるが、今のところ蒼は本当に普通の少女だと麒淵は思っている。


(けれど。いや、だからこそ溜まり渡りの影響を受けやすいとも言える)


 麒淵は目を伏せる。いくら危険(リスク)を説明したところで、目の前の少女がどんな結論を出すかなんて、麒淵には嫌な位たやすく想像がついてしまうのだ。


「私はやるよ。だって、目の前に大切な人を助けられる可能性があるんだもの。私は、もう逃げ続けたくないの」


 蒼はしっかりと立ち、麒淵を見上げている。

 決して揺らぎがないわけではない。でも、とても強い瞳だと思える。


「全部終わった後、私になにかあれば悲しんでくれる人はたくさんいる。それは理解しているよ。私をそうさせたって後悔する人たちがいることも、知っている」


 牡丹(ぼたん)色の瞳が凛と鳴った。

 麒淵は蒼のこの目が好きだ。ちょっとしたことで揺らぐくせに、ここぞという時には強い意志。なのに、決して独りよがりではなく、いつだって大切な人を想える蒼が。


「それにね、おかしいかな。紅を捕えているだろう萌黄さんからも、敵意はあっても殺意を感じたことはないの。おかしいなぁって違和感を抱くことはあったよ? でもね、そこにはいつだって『想い』があった気がするの」

「それは紅もだと思うぞ。だからこそ、やるせないのだろう」

「そう、だね」


 いっそのこと完全に憎める相手だったら良かったのにと、蒼は唇を噛む。

 

「私が知っている萌黄さんは、心の底から紅のこと好きだったと思うの。紅を見る目が、本当に優しくてあたたかかった」

「うむ」


 麒淵の同意に、やるせなさが増す。

 

「でもね、なんかね『違う』って思ったの。本物だけど、紅自身を思ってるのとは違うんじゃないって。そこに早く踏み込めていたら良かった」

「ならば、確かめに行こう。その違和感の正体を。そして、あやつらに突きつけておくれ。夢は覚めなければならないという現実を。どのような願いのもと、だれがための行動だとしても事の責を償わせねば」


 麒淵の絞り出すような声が繭に反響する。

 すると、麒淵の息がかかった箇所が、言葉が欠片になったように砕けた。雲母の層が剥がれるように、きらきらと輝きながら空気中に溶けていく。


「麒淵には萌黄さんや華憐堂のこと、それにクコ皇国の異常気象の正体がわかっているの?」

「おおよそは。むろん魔道府には伝えておらんこともあるがのう。蒼よ。おぬしは、今、知りたいか?」


 麒淵が長い袖を広げた。しゃらんと、鈴の音が響く。どこにも鈴などついていないのに。

 いつの間にか蒼と麒淵を包んでいた繭は透明になり、ぱしゃんと音を立てて弾けた。姿は消したが、確かに蒼を包み込んでいるのはわかる。手を前に翳すと、麒淵の姿が波打った。


「私は自分の目で確かめたい。この一件を起こした想いの正体を」


 言い切った言葉を合図に、麒淵と蒼の体が浮く。

 溜まりに漂うありったけのアゥマや魔道が一斉に煌めき出す。色は様々な灯だが、一様に麒淵と蒼に寄り添ってくる。輝きは音となり、まるで祝詞のごとく心を振わせた。


(声じゃないのに謡っているみたい)


 蒼は幻想的な光景を前に、どうしてか不思議なものだとは思わなかった。それどころか、心配してくれているのだと、確信に近いくすぐったさを感じてさえいた。


「それでこそ我の相棒だ。では囚われの紅姫を助けにいくとするかのう」

「あはっ! じゃあ、私が王子様だね! 紅が聞いたら一週間は落ちこみそうだよ」


 溜まり中に二人分の笑い声が響いた。

 その笑い声も、すぐさま溜まりへと吸い込まれていった。



✿✿✿



「ねぇ、麒淵。溜まりの中も、普通の川みたいだね」

「蒼がいうとおりじゃからな」


 麒淵の予想以上に、蒼は濃いアゥマへの耐性があるらしい。

 いや、強まったというべきかと麒淵は目を細める。


(蛍雪堂の守護の協力を得て遠視しておった、蛍雪堂での一件のおかげかもしれぬな。あそこで古代の原水のアゥマに触れたおかげで耐性が強まったのじゃろう。一欠片とは言え、意識を取り込まれ……怪我を負ったことで体内に取り込まれたのか)


 あの後、麒淵は白龍を通じてすぐに浅葱の祖父と真赭の母親に連絡を入れた。


(あそこで古代のアゥマが発動するのは正直予想外じゃったが。鍵としての機能は仮死状態のままでも果たせるはずだった。しかも心葉堂が継承し続けている『時欠け』――時渡りの能力まで発揮するとは予想外すぎたわい)


 あらかじめ渡してあった白龍特性の丹茶を、本人たちに悟られぬように飲ませるように。幸い、二人は蒼ほど怪我を負っていなかったおかげで、体調を崩してはいないようだ。


「っていうか、すごいよね! 今、私、溜まりの中を泳いでるんだよ!」


 くるんと自由に体を捻った蒼。その体は確かに濃密な本流を裂いて進んでいる。であるのに、相変わらず全く弱った様子も影響を受けた様子も皆無だ。

 麒淵は青い顔で笑ってしまう。


「泳いでいるというか流されておるのだがな」

「それは確かに」


 麒淵の突っ込みに、蒼は真剣な表情で頷いた。ただ、あぐらを掻き、腕を組んでいる姿に麒淵は


「行儀が悪い」


と返す。

 そんな麒淵を気にかけた様子もなく、蒼はまた感慨深そうに周囲を見渡す。


「溜まりの中腹って、繭の糸みたいに薄氷河色なんだね。どこまでも澄み切っている。あっ、でも光っぽくない所は深い青色みたいだし、ほら、あっちは濃紫色から薄紫色の階調っぽい!」

「あまりはしゃぐと色んなものが寄ってくるぞ」


 麒淵は忠告のつもりで低く呟いた。

 アゥマは元々聖樹が大切な存在を救うために生み出した物質だ。よくも悪くも感情に引き寄せられる。


「ほんとだ! 綺麗だね。水晶の欠片みたいなアゥマたちが寄ってきてる。溜まりの中だと光じゃなくって、明確な姿をとっているのか。あっ、ほら! 雪の結晶みたいな子もいるよ! おいでおいで、こわくないよー」


 繭ごしではあるが興味深そうに寄ってきたアゥマたちに手招きをした蒼。

 麒淵の眉間にぴしりと青筋が浮かんだ。繭によって隔たれており直接頭を叩けないので、べしんと繭を叩く。

 守霊である麒淵が発したぴりっとした魔道に、周囲のアゥマは怯えたようだ。余計に蒼の周囲に集まってしまった。さらに麒淵の不機嫌に拍車がかかってしまう。


「だあほ! こわくないよー、ではない! 濃いあの子たちがおぬしに悪影響を及ぼす可能性があるのだ。ほら、あの黒いものなど幼い蒼を深層部へと引き込もうとした奴とそっくりじゃろう」

「あっ、ほんとだ」


 蒼が見上げた先にあったのは、他のアゥマとは違う漆黒の色をした欠片だった。他のアゥマがきらきらと煌めきを纏っているのに比べ、それは黒い煙を発している。

 けれど――蒼は膝を伸ばして、繭の天に両手をつけた。踵をめいっぱいあげ、黒い子に顔を近づける。


「今ならわかるよ。この子は浄化されたものの塊なんだね。だから、この子の周りにはアゥマの欠片がより集まってる。まるで――なぐさめているみたい。だから、私にもわかるよ。この子は怖いものとは違う」


 蒼の鼻先は繭に触れる。まるで子猫のように、黒い結晶もあわせるように繭に触れた。何度かちょんちょんと怖々と跳ねていた欠片は、やがてすり寄るように蒼に甘え始めた。

 すると、周囲に浮かんでいた煌めきの欠片が嬉しいと言わんばかりにより輝く。


「寂しくないよって。必要ないものじゃないよって、みんなが言ってるみたい。あの時だって、きっと、寂しかったんだね。だから無意識で共鳴の魔道を出していた私を引っ張たんだね? 見つけて欲しかったの?」


 黒い欠片はまるで首を傾げ、溺れるように回転した。均衡を崩してしまったようで、慌てた様子で周りの欠片や淡い光が支えるように踊っている。

 蒼は少し残念に思いながら腰を落とす。


「そうだよね、違う子か。あの時の黒い子が、そんな思いを持ったまま、まだ漂っていた方が悲しいもんね」


 蒼が軽快に笑う一方、麒淵は非常に険しい表情を浮かべるしかなかった。


(駄目だ。これは――)


 麒淵は思う。どこかに喜びを感じながらも、なけなしの理性がこれ以上は止めなければと警告してくる。


「ならぬ。これ以上、こちらの想いを汲んではならぬ。でなければ、人の世に戻れなくなる」


 蒼はなんでもないようにけろっと言うものだから、麒淵も反応が遅れてしまった。

 焦って立ち上がった麒淵の体がぐらりと揺れる。

 はっとして流れの先を見ると、黒いアゥマが増していた。流れが激しくなり、蒼には声が届いていないようだ。麒淵は崩れるように座り込む。


「止めるのがおかしいか。蒼も紅も、守霊の事情に巻き込むために事を進めているというのに」


 流されている蒼を横目に見る。薄氷河色の繭の中にいるせいだろうか。全体の色素が薄くなっているように見受けられる。

 この世界で薄い色素は魔道力の高さの象徴であるのと同時、現世の人から一歩引いた存在であることを意味する。


「いや、我は同じ過ちは繰り返さぬ。蒼と紅の幸せは、現世にこそあると確信しておる。あの薄情の気のある白龍にとっても、あの子らはあやつが人らしくある最後の頼みの綱じゃ」


 麒淵は両頬を打ちしっかりと顔をあげた。目線は前に向けたまま、繭を右手で強く打つ。

 なにひとつ捨てたり犠牲にしたりするつもりはない。それは蒼も同じ気持ちだと、麒淵は確信している。だから、蒼を見ないでただ黒さを増していく流れを睨む。


「蒼、いくぞ。紅を助けるぞ。怖じ気づくでないよ」

「うん! 相棒が一緒だもん。私が暴走しないようによろしくね!」


 応えるように、蒼も繭を鳴らした。



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