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数日後、わたしは買い出しに行くために要塞の外に出た。
高い塀が壁の外側を囲っている。塀の上は歩けるようになっていて、もしも敵が押し寄せてきた時には塀の上から弓矢を降らせることができるように工夫が凝らされているらしい。
わたしの知っている限り役に立ったことはない。ありがたいことだ。
見張りが通用門の位置に常時立っている。高い位置にいるため、遠くの異変もきっと気づくことができるだろう。
外に出れないというわけではなく、きちんと申請をすれば外に出ることはできる。
隣の町までは馬車で半時間くらい、歩いても2時間ほどで着ける。どうしても要塞内だけでは足りない部分は町に仕入れに行くのだ。
毎日パンを焼いている我が家の三軒隣のお家では、小麦を週に二回隣町から仕入れていると言っていた。そのパン屋は町にあるパン屋よりもずっとおいしい。
きっとおじさんの腕がいいのだろう。特に食パンは目が揃っていて柔らかく、製法が知りたいと遠い町から弟子になりたいと人が押しかけてくるくらいだ。
お目当てのレーズンと胡桃の入ったパンは人気ですぐに売り切れてしまう。たまにおじさんが余ったからと言いつつ我が家にお裾分けしてくれるのだけれど、絶対にとって置いてくれている物だ。申し訳ないと思いつつ、目の前の好物には負けるのでありがとうございますとだけ伝えている。
そうだ、町に行くのだからパンのお礼もついでに買ってこよう。母は折をみてお返しをする発想がないようだから、わたしが代わりに渡さないと。
タルタロスのことが頭に浮かぶ。多分あの人もお返しを渡すっていう考えはなさそうだ。母が人の好意を素直に受けるために返すことを考えないのと別で、当たり前と捉えるのではないかと感じた。
純粋に実力だけで上に立てるタイプの人なのだろう。周りに気を遣わなくとも、黙っていれば逆に周りが気を遣ってくれるに違いない。
(眺めるには目の保養になるけれど、ずっと一緒にいると疲れそう)
あまり表情も変わらないし、何を考えているのかよく分からないとこちら側にとっては普通のことで怒りだすこともありそうだ。
そういえば父がタルタロスに怒ったままだった。
あの後、店を出禁にすると言い出した父に要塞責任者は出禁にできないのではと投げかけると、気に入らなかったのかふて寝をさせてしまった。相当怒っているようだ。
寝て解消されるといいのだけれども。
数日仕事ができなくなったら補填してもらえるんだろうか。
怒ったままの状態で鍛冶をすると、かまどに宿る火の精霊が反応してしまって火が強くなってしまう。
出来の幅が広がってしまうので父は感情をなるべく揺らさないように気をつけていた。そんな姿勢もかまどの精霊には好印象のようで、稀に臨時休暇があると再開日は祝福を受けた武器が出来上がったこともある。
父には協力的な精霊だが、兄のことはあまり好いていなかったようで、兄だけが鍛冶場に立つと途端に火の勢いが衰える。
兄の腕がなかったというより単純に精霊との相性が悪かっただけ。そう兄が割り切れるなら他の鍛冶屋に弟子入りするという手もあったのに、兄はあっさりと鍛冶自体をあきらめた。勿体ないと思うが、本人が決めたことなら周りがどう言っても変えないだろう。父だけではなく兄も頑固だから。
帰り道、遅くなるつもりはなかったのに日は傾き、今にも沈もうとしていた。
通用門の中に入れるのは日没まで。規則でしっかりと決まっている。わたしは全力で駆けた。靴を歩きやすくて軽い革にしておいてよかった!
息が上がるのは無視して走る。今日の買い出しは重量の軽い物が多いためかさばっているだけだ。どうしても揺れるし袋どうしがぶつかるので、家に着いて壊れていないか確認しなくては。割れませんように!特にクッキー。
わたしが走ると追い抜いた人が慌てて走り出す。間に合わないかもしれないと気づいたようだ。日が沈むまでということは門が閉まる時間はまちまち。たまに訪れる人は前このくらいだったからと計画を立てるので、見通しが甘いと門の目の前で野宿するハメになるのだ。
時間制にしてほしいとの意見が多く寄せられているようだが、改善される見通しは立っていない。
「ぎりぎり!間に合ったー!」
「よかったなあ。まだ空が赤くて」
顔見知りの門兵に苦笑されながら中に入る。知り合いの時でよかった。規則を遵守する兵が当番だったなら入れなかったかもしれない。
「怒られませんか?だ、大丈夫?」
「暗くなってからの入場が許されていないのは、闇に乗じて人ではない者が入り込まないようにするためだからな。モモちゃんは身元もはっきりしているからこのくらいの時間なら大丈夫だよ」
わたしは自分用のお土産に買ってきた焼き菓子を一つ手渡す。
「気にしなくっていいのに。でもありがとな」
早く家に帰るんだよと手を振り見送られる。まだ小さい頃から知っている相手なので、子供扱いが抜けないのだろう。
「もういい歳なんだけどなあ」
求婚があるくらいの歳なのだ。いきなりだったから驚いたけれど、誰かと付き合うということを考えたこともなかったわたしに降って沸いた話。
「相手があの人じゃなかったら考えたかもしれないな……」
身分も立場も違い過ぎて、一緒にいるということが想像つかない。
「マリーゼル様だったらよかったのに」
今日町で見かけた彼のことを思い出した。腕を組んで歩いていた女性はここらでは見かけないくらいに綺麗な人だった。
「まあいるよね、あんなに素敵なんだもの。付き合っている相手の一人や二人くらい……」
よく店で顔を合わせているだけの常連のお客さん。父の仕事の邪魔をしないように丁寧に接しているつもりだった。仕事だから愛想も振りまくし、見かければ話しかけもする。単にお客さんだからだと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
まさか相手を見せつけられて気がつくなんて。
そこまで考えて思い込みに気づく。
いやいや見せつけたわけじゃないよね。遠くから眺めただけだし、向こうはわたしがいることなんて気がつかなかっただろうから。
頭を横に振って悪い考えを振り払う。
多分町まで歩いたから疲れてしまったのだろう。
早く帰ってさっさと寝たほうがいいことは分かっているけれど、こんな気持ちのまま家に帰る気にもなれない。
早く帰るように言われたが、守れそうにないなと門兵のおじさんに心の中で謝った。
いっそのこと町に泊まってくればよかっただろうか。いや、長く留まっていたら鉢合わせしてしまう可能性も上がる。
それにもし泊まる宿が同じなんてことになったら目も当てられない。
でも沈んだ気持ちのまま家に帰る気になれない。荷物はあるけれど、それほど邪魔でもないし。
とりあえず夕飯だけでも外でとることにした。なるべく知り合いのいないような場所にしようと思い、家と反対方向に歩く。
表通りから路地を一本入ったところにある小さな店に入る。中は薄暗くて、あまり客も入っていないようだ。
今誰かと顔を合わせたら笑顔を作る余裕なんてない。そう分かっているからこそ、誰もいない場所にいたかった。
中に入れば、なかなか小洒落た空間の作り方をしている。空中に浮かんでいるのは魔道具のライトだろう。ふわふわと浮かんでは柔らかな光を届けてくれる。
落ち着いた音楽が流れる空間に身をまかせれば、落ち込んでいた気持ちがほんのわずかに浮上するのを感じた。
そんな中、入ってきた男は音を立てて隣に座ってきた。店内の席はほとんど空いているのにわざわざ隣を選んだことに意図があるような気がした。
派手な色のローブは隠れる気などまったくないと言わんばかりで、埋没する必要のない人間なのか、または埋没することが怖い人間なのかのどちらかだろう。
隣で地味に繰り返される足踏みがわたしに何かを伝えようとしているように思えた。
だからと言ってわたしから何かを言う必要はない。横目でちらと眺めた顔はまったく知らない人だ。
仕事柄それなりに言葉遣いの荒い人間と接することもあるし、かわす対処も身についている。しかしそんなわたしの勘が告げている。関わり合いになるべきではないと。
徐々に席の間隔が狭まっているような気もするし、知り合いの店ではないから店の人に助けを呼ぶことも難しいだろう。
結局今まで接してきた相手はわたしが鍛冶屋のモモであると知っての対応だったのだと思い出した。嫌なことがあった日にも気分が悪くなったことを外に出さないのが大人な対応だろう。それができないのは余裕のない人である証拠だ。
わたしも同じようにやり返せばよかったのかもしれないけれど、足踏みして不快であると示すなんて子供のようなことをやり返す気にもならない。
早く席を立ってくれないだろうかと思っていても男は食事もせずに頼んだドリンクをゆっくりとすすっているだけだ。
そのうちに高価なはずの紙の束を取り出すと何かを書き込み始めた。魔方陣であることが分かったので、これ以上ちらっとでも眺めると秘匿物を見たと文句をつけられる可能性もあるので席を立った。
またどうぞと愛想のない女主人に声をかけられ、黙って笑顔でうなづいた。
偶然入ってきただけならいいけれど、隣に座った男が常連なのだとしたら考えものだ。
突発的な出来事でショックが消えているのは怪我の功名だろう。
変な男だったが、おかげで助かりました。
心の中でお礼を言うと気持ちもすっきりとした気持ちになれている。
まだ心地良い余韻の残っているうちに帰ろうと決めた。
急に後ろから羽交い締めにされ、わたしは何かを喉に流し込まれた。
苦くて気持ち悪い。ねっとりとした液体がわたしの中に入っていく。身体が急に熱くなり息が苦しくなる。
「た、助けて……」
徐々に浅くなる呼吸。霞む視界。耐えきれずわたしは意識を手放した。
起きてみると身動きがとれない状態だった。
わたしの身体の上には大きな腕が乗っかっていて苦しい。
「キュキキャーン!」
え、何?苦しいと言ったはずの言葉は獣の鳴き声に変わっていた。
どういうことだろうか。
「騒がしいな、とって食うつもりはないのだから大人しくできないか?」
すぐ近くにあった顔は麗しく、もう二度と近くで見ることもないと思っていたタルタロスだった。
「ああ、驚いたのか、道ばたに倒れていたからな、見つけたのが私でよかった。砦は動物禁止だと皆知っているはずだが、誰かがこっそり飼っていたのだろうな。汚れていないし。逃げ出したか面倒を見切れず捨てられたか」
店で会った時とはまったく違う声色。
「ふふ、何をそんなに驚いた顔をしているのだ?目がまん丸だぞ」
そうっと撫でられた頭、柔らかく微笑む姿に驚きは大きくなる。傍若無人なはずの人が優しい。
「キューン」
だってと言ったはずがやはり鳴き声になる。見える手は髪と同じ色の毛が生え、肉球もある。気持ちと共に動く獣の耳と尻尾もあるのが分かった。
タルタロスにそっと抱き上げられる。胸にすっぽりと納まるサイズになっている。種類は分からないが犬の子どもではないだろうか。毛の長さと垂れた耳からオオカミということもないだろう。
鏡が視界に入ったので駆け寄ると映っていたのは子犬だった。
(これ、わたしなの?)