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よろしくお願いいたします!
「キュ?グウウ!」
叫んだ言葉は声にならなかった。変わりに響いたのは獣の声だ。
(どうしてこんな格好に?)
鏡に映ったのは小さな子犬。
ふわふわとした毛は柔らかそうでさぞ人の心を癒やすだろうと思える。
それが自分の姿でさえなければ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
国境を抜け王都に向かう街道沿いにある中規模要塞。ソイソスと名付けられた要塞の中には小さな町が丸ごと入っていた。
わたしは要塞内の鍛冶屋の娘で職人気質の父とおっとりとした母を持ち、兵士となった兄を持つ。モモと名付けたのは要塞を偶然訪れた魔術師で、異国の言葉なのだと両親は教えられたらしい。
他国との関係も今は均衡がとれていて、いきなり攻め込まれる可能性は低いらしい。だから父の仕事は剣の補修が多くなっていた。わたしが生まれる前には大量の発注に徹夜続きで応えていたというのだから時代の流れを感じる。
魔物も少なくなり国全体がのんびりとした雰囲気になっているらしい。昔とは違うと言われても昔を知らないので、わたしには差がよく分からない。
だから兄が兵士になると言った時に驚いた。
たくさんの兵士達を見てきたが、兄が彼らの仲間入りするとは。
父はわたしと同じように驚いたが、すぐに跡継ぎがいなくなると責めた。
「俺が父さんほど上手くなれないのは知ってるだろ」
父は兄に返す言葉がなかった。
実際その通りだったからだ。
わたしも父の仕事姿を眺めて育ったから、二人の差は知っていた。
手本を見ても丁寧に教えられても、手足の繊細な動きは自分で覚えるしかない。
ほんの少しの差が仕上がりに響くのに、そもそもその差が分からなければ上達しようがなかった。
鍛冶をする父に兄が憧れていたのを知っているだけに、兄の味わった挫折は大きかっただろう。
「魔王が復活するかもしれないって時だ、剣は一本でも多いほうがいい」
「それを言うなら戦う兵士だって一人でも多いほうがいいだろう」
話し合いは平行線をたどった。兄は一歩も引かずに、結局兵士になるために家から出てしまった。
要塞の兵士の住む区域があってそこに移るのだという。すぐ側に家があるのだから家から通えばいいのではとわたしと母は説得したが、
「家にいたら親父が毎日鍛冶をしろって言うに決まっている」
と言われて納得したのだ。
父はわたしには期待していない。力仕事であることもあり、男がしなくてはという意識が高いのだ。
だから手伝いとして店番していても、鍛冶仕事は決して手伝わせてはくれなかった。
家を出た兄を羨ましいと思う部分もある。でも居場所はここだと思っていた。
わたしには取り立てて飛び抜けた資質もない。あまり裕福でないにしろ普通の庶民生活をし、両親の手伝いをして過ごす。いつかわたしも結婚して家を出ることになるだろうが、そんな日が訪れるのはずっと先のことだと思っていた。
扉に取り付けた鈴が鳴った。
わたしは座って読んでいた本を急いでカウンター下の棚にしまうと立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えると入ってきたのは常連の騎士だった。見目麗しいのでこっそりと来店を楽しみにしている相手だ。
柔らかそうな赤みがかった髪をしている。サンメイル王国では様々な髪色の人がいて、わたしは完熟した葡萄色だ。暗めな色なので明るい髪色には憧れる。
「こんにちは、モモちゃん今日も元気そうだね」
「ありがとうございます!元気しか取り柄ありませんからねー。今日はどうしました?定期点検でしたらマリーゼル様のは一ヶ月先ですよ?」
売っておしまいにするのは無責任だ、というのが父が酔った時に必ず言う言葉で、一見さん以外の剣は定期的に見るようにしている。小さな傷が命取りになることもあるからだ。
「ああ、ちょっとやっちゃって。刃こぼれさせちゃったんだよね。見てもらえるだろうか」
「なるほど!では父を呼んできますから少々お待ちください」
わたしが店の奥に入っていこうとした時だった。鈴の音がした。
「ここか。思ったより小さな所なのだな」
「え、タルタロス様」
入ってきたのはゆったりとしたローブを羽織った男の人だった。フードを被っているが、わたしとの身長差が大きいので顔が見えた。マリーゼルは柔らかな印象の好青年だが、こちらは硬質の宝石のような硬さときらめきを感じる容貌をしていた。
どちらも整った容姿をしている。
「あの、マリーゼル様のお知り合いの方でしょうか」
どう見ても剣を扱うようには見えない。父は武器を主体に鍛冶をしているので、日用品はほとんど置いていないし、あっても町の一般家庭向きの簡素なものだ。目の前の男が必要とするようなものはない。
「その、知り合いというか上司なんだ」
「よろしく頼む。なぜ睨むのだ?」
「モモちゃんが怒るのも当然です。さっき言った言葉覚えてます?要塞内はそれなりに大きいとはいえスペースが限られているんですから、外にある鍛冶屋と店構えが違うのは当然のことじゃないですか」
「ふむ、正直に言っただけなのだが……」
「思っても言っちゃいけないこともあるんですよ」
ため息まじりに話すマリーゼルと平然とした様子のタルタロス。
店で話す時よりも砕けた雰囲気のマリーゼルが珍しい。きっと二人は上司と部下といえ仲がいいのだろう。
二人のやりとりを眺めていたら、タルタロスがこちらを向く。
「モモと言ったか。その名、誰がつけた」
「教えません。初対面の方に話すようなことではないですし」
「この私がたずねているのだ。教えなさい」
日頃鍛えた笑顔を向ける。失礼なことを言う人に親切にする義理はないし、個人的なことは教えなくてもいいはずだ。
「お待たせしました、これはこれは。着任してすぐにご来店頂けるとは思ってもいませんでしたので」
声が聞こえていたのだろう。父が売り場に出てきた。