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気性難の令嬢は白竜の花嫁を夢見る  作者: ねるこ
第一部
8/65

08. フレイザード一家と思い出の楽器

 ある日の事。私は、アルフィノ様に尋ねてみた。


「アルフィノ様。このお家に、楽器はありますか?」

「楽器ですか? いえ……今は、ありませんね。母が色々な楽器を好いていたので、昔はたくさんあったんですけど。父が爵位をぼくに譲り、母と共に東の森の奥へ隠居する際に、全部持って行ってしまいました」

「そうだったのですね」

「そういえば、あなたは音楽が好きでしたね。何か買いましょうか」


 何事もなかったかのように、高価な楽器を買う構えを見せるアルフィノ様。私は慌てて首を横に振った。


「いえ、そこまでしていただくわけには参りません!」

「そうですか? ですが、ここは田舎ですし、娯楽の一つでもないと退屈ではありませんか?」

「それは……」


 否定はできなかった。手持ち無沙汰になったので音楽がしたい――と思ったのは事実だ。ピアノかヴァイオリンがあれば、それだけで何時間でも過ごせる。歌うにも、やっぱりピアノはあったほうが何かと幅が広がるのも確かだ。

 これだけ広いお屋敷なので、楽器の一つでもないかと思って尋ねたのだが、空振りだったようだ。わざわざ新しいものを買って貰うのはさすがに申し訳ない。それなら、実家に連絡をしてねだるほうがまだ良い。


「……少し、時間を頂けませんか?」

「えっ?」

「母上が持っていかれた楽器はかなりの量だったので……使っていない楽器があるかもしれません。楽器も使われた方が嬉しいでしょうし、母上に連絡を取ってみます」

「アルフィノ様の、お母さまに……!?」


 アルフィノ様は笑顔で頷いて、仕事に行ってきますと告げて邸宅を後にした。私はそわそわとしながら、アルフィノ様からの続報を待った。

 数日後、アルフィノ様は苦笑がちに、こんなことを言いだしたのだ。


「ぜひともお譲りしたいから、君を連れて隠居先に来てほしいと……」

「わ、私が、ですか!?」

「はい。父上と母上から、家に関わることはすべて任されているので、婚約者についても一任されているのですが、父と母は君に一目会いたいそうです。どうでしょうか」


 そういえば、そうだった。この広い屋敷にやって来てから、彼のご両親に目通りしたことは一度もなかった。隠居していたとは聞いていたけれど、それほど遠方ではないので、邸宅にいれば会えると思っていた。けれど彼らは、アルフィノ様に後事を託して、すでに森の中の静かな別邸に隠居しているそうだ。

 婚約者として、相手のご両親にちゃんと挨拶するのは当然の責務だ。であるからこそ、彼にそんな誘いを受けてしまったのなら、断る理由はなかった。


 当日、私は身支度を整えて、アルフィノ様と共に馬車へと乗り込み、ご両親が暮らす別邸へ向かった。ルーセンの街沿いをぐるりと回り、東側の森へと分け入っていく。緑の枝が風で擦れる音と、鳥の囀りが聞こえてくる。


「この森には、危険な生物もいないし、毒草は生えていないんです。草食動物が暮らす、とても平和な森ですね」

「そうなんですね。確かに、何だか静かで綺麗な森。フレイザード家の本邸がある川のほとりもとても長閑ですけれど、こちらも素敵な場所ですね」

「ふふ、そうですね。この先に、大きな泉があるんです。そのほとりに、別荘があるんですよ」


 馬車を走らせること、一時間。目の前に開けた光景に目を輝かせた。きらきらと日の光を浴びて輝く大きな泉は、時折魚が動くことで微かに波打つ。野ウサギや鳥が水辺で戯れているのを見やりながら、泉の傍に立つ小さく、しかし立派な屋敷へと向かい、馬車を傍へと付ける。

 アルフィノ様にエスコートしていただき、外へと降りると、家の外で待っていた年配の侍女が頭を下げる。


「お待ちしておりました、伯爵」

「いつもありがとう、サリア。紹介しますね。婚約者の、ミシェル・サファージ侯爵令嬢です」

「ミシェル・サファージと申します」

「ご丁寧にありがとうございます。サリア・セレンダと申します。今はこのお屋敷にて旦那様、奥様の世話係をしております。以前はフレイザードのお屋敷で家令を仰せつかっておりました」


 サリアさんに案内を受けて、屋敷へと入る。小さな応接間に通されると、間もなくすぐにその方々はお見えになった。

 一人は、すらりとした長身の男性。とても華奢な体躯で、若々しい。アルフィノ様と同じ、白銀の髪を長く伸ばし、後ろで一つに結っている。フレイザード家の特徴である青と緑の光彩異色を持つ妙齢の男性は、ぱっと見だと女性にも見えるほどの中性的美しさを湛えている。

 その傍に寄りそう美しい女性は、白銀に青の混じった髪色で、金色の瞳をした美しい貴婦人だ。お年を召してもなお損なわれない神秘的な美しさを持つ御仁は、夫に寄り添われて、ゆっくりと歩いてくる。


「父上、母上。ご無沙汰しています」

「アルフィノ。よく顔を見せてくれたね。うん、相変わらず元気そうで良かった」

「フィーちゃん、会いたかったわ! 今日もかわいい」

「は、母上……その。婚約者殿の前ですので、その呼び方はお控えください……」


 アルフィノ様は母上の甘くかわいらしい声にたじたじになっている。すると、アルフィノ様のお母さまはにこりと笑って、頬に手を当てた。

 アルフィノ様のお父さまとお母さまが正面にいらっしゃったので、私もそっと立ち上がって、礼を取る。すると、アルフィノ様が私を紹介してくれた。


「ご紹介します。此度、婚約を受け入れてくださった、サファージ侯爵家が長女、ミシェル様です」

「ミシェル・サファージです。お目に掛かれて光栄です」

「サファージ侯爵の……なるほど。初めまして、お嬢さん。カルセル・フレイザードです。こちらは妻のナタリア」

「ナタリアと申します。フィーちゃん……アルフィノの、母です」


 お二方とも、とても穏やかな方だった。アルフィノ様の穏やかな人柄が、彼ら二人によって形作られているのは疑いようもない。どこかお体が悪そうにも思えないし、健やかに過ごされているようでほっとする。

 他愛のない話しをしながら、和やかに顔合わせは進んでいく。けれど、私の過去に話が及んだところで、フレイザード前伯爵はとても悲しそうな顔をなさった。


「……そうですか。ミシェル様は、あの第一王子の……」

「申し訳ございません。もしかしたら、王家とのいざこざを持ち込んでしまうことになるやもしれません……」

「いえ、そうなればアルフィノが力になるでしょう。そもそも、婚約破棄が成立しているのならば、それ以上のいざこざはもはや私刑の範囲です。それに、アルフィノは王家の血を引いていますから、彼らとてアルフィノを杜撰には扱えないでしょう」

「え?」


 私はアルフィノ様を見る。すると、彼は苦笑する。どういうことか分からずにいると、正面にいたナタリア様が花のように微笑む。


「わたくしのお母さまが、先王の妹なのです」

「えっ」

「わたくしはルーヴィウス公爵家の出で、王妹を母に持っております。ですので、フィーにも王家の血が流れておりますわ」


 想像の数倍尊い血統だったことに驚いてしまった。公爵家と王家の血、そして白竜様の血を持つ強い魔法使い。下手をすると王家よりもよほど尊ばれるべき血統なのでは、と思えてしまう。


「私は第一王子の母親と少し因縁がありましてね。ゆえに、大きな声では言えませんが、第一王子にはあまり良い印象を抱けていないのです。アルフィノ、ちゃんと守って差し上げるんだよ」

「はい、父上。もちろんです」

「さて、そろそろ昼食にしよう。そのあとは……確か、楽器の話だったね。ナタリア、ミシェル様を案内してあげなさい」

「はい。うふふ、ミシェル様、たくさんお話ししましょうね」

「光栄です、ナタリア様」

「アルフィノは、少し私と話をしよう」

「はい、父上」


 昼食を和やかに頂いた後は、私はナタリア様と共に応接室を出て、とある一室へと向かっていた。部屋に入ると、中にはたくさんの楽器が置かれ、書架には所狭しと楽譜が詰め込まれた、高価そうな絨毯が敷かれた一室だった。


「すごい……」

「うふふ、お父様やお友達が、結婚祝いにたくさん楽器をくださったのよ。昔は何でも弾きましたから、それはもうたくさん」

「ナタリア様は、音楽がお好きなのですね」

「ええ、好きよ。大好き。公爵家に産まれたのですから、他にやらなければならないことはたくさんありましたけど、わたくしは音楽が大好きで、手放せなかったの。婚約者とのトラブルで打ちのめされて、旦那様に見初めて貰えて……この家に嫁ぐことになったとき、たくさんの人がお祝いをしてくれたわ。それだけたくさんの人に、心配をお掛けして、それだけたくさんの人に、旦那様との結婚を喜んでもらえたのだと知って、とても嬉しかったわ」


 ナタリア様は、少しだけ埃の積もった楽器の表面を丁寧に布で撫でる。私は思わず俯いた。アルフィノ様から、ナタリア様の壮絶な過去を聞いていたからだ。


「ですから、ミシェル様。きっと、あなたの境遇を指さして、笑おうとする人はたくさんいると思います。失礼しちゃうわよね。ですけれど、それと同じくらい……あなたの幸せを願ってくれる人は、たくさんいるわ」

「ナタリア様……」

「わたくしもね、婚約者とのいざこざがあったとき、周りに誰も味方なんていないんだと思っていたわ。お父様に涙ながらに修道院に入りたいと訴えたこともあった。けれど、旦那様に手を引かれて……わたくしの世界は、大きく変わったわ」


 固く閉ざされたナタリア様の心を開けた、唯一の人。それこそが、フレイザード前伯爵、カルセル様だった。その気持ちが、私には分かる気がした。私も、かたくなに人を愛せないと思っていた自分の心を少しずつ開いてくれているのが、アルフィノ様だと感じているから。


「フレイザードの人たちは、皆魔法使いよ。とても信じられないような奇跡で、わたくしの心を奪ってしまったんだもの。本人たちは、ペテン師だなんて謙遜するのですけれどね」

「ペテン師だなんて……私も、アルフィノ様の魔法を見たことがあります。優しくて、素敵な魔法でした」

「うふふ。そうなのよね、フィーちゃんも小さい頃から才能があるのよ。何というか、人たらしの?」

「ひ、人たらし!?」


 受け流し難い言葉が聞こえて、私は思わずナタリア様に聞き返してしまう。すると彼女は麗しく微笑んで、私を椅子へと座らせると、語り始めた。


「わたくしね、旦那様とフィーちゃん以外の男の人を見ると、未だに怖くて足が竦んでしまうの。このあたりの話は、フィーちゃんから聞いたかしら?」

「はい……少しだけ、お聞きしました」

「そう。わたくしはだいぶ苦労して、フィーちゃんを何とか産んで……でも、すくすく育っていくフィーちゃんを見て、怖くなってしまったの。おかしいわよね、自分の息子なのに……苦しくなってしまって」

「ナタリア様……」


 ナタリア様の首筋には、汗が浮かんでいる。止めたほうがいいだろうか、とも思うけれど、ナタリア様が話したそうにしているので、伸びかけた手からゆっくりと力が抜けていった。


「そうしたらね、フィーちゃん、お父様からわたくしの様子がおかしい原因を聞きだして……それでね、女の子の恰好をしてくれたの」

「え!?」

「びっくりしちゃって。でも、そうしたらフィーちゃん、顔を赤くしながら、母上、これで怖くないですか……? って恐る恐る聞いてきちゃうものだから。もうその日から、フィーちゃんのことが大好きになっちゃって。なんてお母さん思いの子なのかしらって」


 想像ができてしまった。優しくて穏やかで、人のことを見るのが上手な彼。そんな幼い彼が、母が自分を怖がる理由が男だからなら、あの中性的で愛らしい容姿を使って女の子の格好をすることで、母を励まそうとしたのも理解ができた。


「だから、ミシェル様も困ったらフィーちゃんを頼ってあげてください。あんなにかわいい顔をしているけれど、とっても男らしくて頼りになる子だから」

「はい。今も、ずっと頼りにさせていただいています。最初に出会った時は、その、幼い見た目でしたから、かわいらしいと思ってしまったのですけれど……話していたら、私よりもずっと大人な紳士でしたから」

「うふふ、びっくりするわよね。カルセル様も、三十近くになるまであんな感じの姿だったから、初めて声を掛けられた時は、年下の男の子に好きになられてしまったのかしらって思っちゃって」


 見た目は14歳、けれど中身は22歳。最初は信じられなかったけれど、アルフィノ様の実年齢に疑問はない。話せば話すほど、彼は兄よりも大人だ。

 とても理性的で穏やかな人だから安心できるし信頼できる大人だと思っている。もちろん、今後は家に迷惑が掛かりそうなことはちゃんと彼に相談しようと思っている。


「さて、じゃあ楽器の件だったわね。ミシェル様は、どんな楽器を弾かれるの?」

「私は、ヴァイオリンとピアノです。どちらか、もし不要になっているものがあればお借りできればと思うのですけれど……」

「あら! じゃあ、ちょうどよかったかもしれないわね。こちらへいらして」


 ナタリア様に連れられて、楽器室の奥にある個室のドアを押し開けた。するとそこには、黒塗りのグランドピアノが一台、置かれている。一目見ただけでも分かる値打ち品だ。細かい傷はあるけれど、それは古さから来るもので、それ自体は大切に扱われているのか、傷んでいる様子はない。

 ナタリア様がピアノの蓋を開けて、指先で鍵盤を押した。すると、澄んだ音が室内に響き渡っていく。胸が躍る、心地の良い音だ。ナタリア様に促されて、私は一曲披露する。王都の式典などでも演奏される、王国作曲家が作った由緒ある曲だ。

 弾き終われば、ナタリア様がかわいらしく小刻みに拍手してくださる。私は少しだけ照れ臭くなって、そっと目を逸らしてしまった。


「素晴らしいわ、ミシェル様。とってもお上手ね」

「趣味の範疇ですが、お気に召したなら良かったです」

「やっぱり、楽器は弾く人がいてこそよね。このピアノ、良かったら貰ってくださらない?」

「えっ!? こんなに立派なもの、いただくわけには」


 私が慌てて遠慮すると、ナタリア様は両手で私の手をそっと握る。その握り方に違和感を感じて、私ははっとする。


「ナタリア様、指が……」

「少しね、動きにくくなってしまったの。老いっていやね。楽器ももうほとんど弾けないわ」

「そんな……」

「でも、いいの。フィーちゃんが連れて来た婚約者のお嬢さんが貰ってくれるなら、皆喜んでくれるわ。だって、フィーちゃんは私たちの大切な子だもの」


 指の障害は、演奏家にとって致命的だ。きっとつらかっただろう。考えただけでも、手の震えが止まらない。

 それでも、彼女は、アルフィノ様を大切に想っているから。その婚約者に、彼女の大切なものを、託そうとしてくれている。

 私はそっとナタリア様の手を優しく握り返して、そっと頭を下げた。


「ありがとうございます。ナタリア様、またよろしければ、私の演奏を聞いてくださいませ」

「ええ、楽しみにしているわ。ふふっ。それと、孫の顔もね」

「ぜ、善処いたしますわ……!」


 私は顔を赤くして、たじたじになってしまった。こうして、ナタリア様からはグランドピアノを一台と、ヴァイオリンを二つ預かることとなった。

 ヴァイオリンはケースに入れれば自室にも置けるが、グランドピアノはさすがに大きくて部屋には置けないので、アルフィノ様にどこに置くか相談する。すると、アルフィノ様は思い出したように私に声を掛けて、一階の端にある部屋へと案内した。

 そこはがらんどうのホールだった。とても広い空間で、前庭がくっきりと見える開閉式の大きな窓がある。確かにここなら、ピアノのような大きなものも楽に搬入できそうだった。


「こんなに大きな部屋を、使わせていただいていいのですか?」

「ええ。元々、ここも母が音楽を嗜むときに使っていた部屋ですから、ぜひ」

「ありがとうございます」


 こうして、私はこの小ホールの改装に精を出した。不要な棚や机椅子などを使用人の方に聞いていただき、別邸から運ばれてきたグランドピアノを設置した。空き部屋にはなっていても丁寧に清掃の行き届いていた部屋は、わずか数日で立派な音楽室へと様変わりした。

 私はうきうきで、アルフィノ様を見送った後、音楽室に籠ってピアノを弾いていた。いつも傍で楽しそうに私の演奏を聞くレーラのほかにも、年配の侍女がやって来て、少しだけ息を飲むようにして、私の演奏を見守っていた。どうしたのだろう、と思いながらも、しばらく演奏を続けて、弾き終えると、ふと視界の端に映ったものに気が付いて、ぎょっとした。


「え……っ!?」


 そこには、5,6人の子どもがいた。前庭の方で、窓に張り付いて、きらきらとした瞳を輝かせて私を見る、少年少女たち。その傍で、少しだけ申し訳なさそうにぺこりと私に頭を下げる、大人の女性。

 すると、先ほどまで私を見守っていた年配の侍女――ロナが歩み寄って来て、一礼をした後に、こう告げた。


「クレサンス孤児院の子どもたちです。坊ちゃま……旦那様が経営していらっしゃる」


 確か、ルーセンの街外れ、フレイザード邸の付近に設置されている、身寄りのない子どもを預かる施設だと、アルフィノ様に説明されたのを聞いた覚えがある。ということは、そこにいる子どもたちと、その世話をしている先生だろうか。


「旦那様は、お屋敷のお庭を子どもたちの散歩に使っていいと仰っていて、子どもたちは時々この付近までやってくるのです」

「そうだったのですね……」

「ミシェル様、もしよろしければ、手を振ってあげてください」


 そう言われて、私は小さく頷き返して、子どもたちに笑顔を浮かべて手を振る。すると、子どもたちはますます目をきらきらとさせて、ぴょんぴょんと跳ねながら、手を振り返してくれた。

 ――かわいらしい。私に純粋な好意を向けてくれる子どもたちって、どうしてあんなに愛らしいのかしら。

 そう思っていると、やがて満足したのか、子どもたちが離れ始めたので、世話係の女性が私へと恭しくお辞儀をして、子どもたちを引率していった。


「驚いてしまいました……」

「申し訳ございません、ミシェル様。このあたりのことは、あまり説明しておりませんでしたね。ですが私、何だか懐かしくなってしまいました。奥様がいらっしゃったときのようで」

「奥様……ナタリア様、ですか?」

「はい。奥様もこのお部屋でよく演奏をされていて、孤児院の子どもたちがよく遊びに来て……奥様は、子どもたちに音楽や、色々な勉強を教えていらっしゃいました。このお部屋は、奥様の音楽室兼、孤児院の子どもたちの教室だったのです」


 ナタリア様は、このお部屋で孤児院の子どもたちの先生もしていらっしゃったのだ。公爵令嬢だった彼女の知識や経験は、きっと孤児院の子どもたちに色々な驚きを(もたら)したことだろう。


「アルフィノ様も、奥様がピアノを弾くところによく遊びに来て、ピアノにもたれ掛かって、楽しそうにしていらっしゃいました。このお部屋には、奥様と音楽の思い出がたくさん詰まっているんですよ」

「そうだったのですね……ナタリア様も、ここで、音楽を」

「ですから、このお部屋からピアノの音が聞こえた時、懐かしくて感動してしまいまして。ミシェル様、ありがとうございます」

「こちらこそ……教えてくださり、ありがとうございます。ナタリア様から託されたこのピアノ、大切に弾かせていただきますね」


 そう告げれば、ロナはほっと息を吐き出して、一礼をして仕事へと戻っていった。私はその後もずっと楽しくてピアノを弾き続け――気が付けば、夜になっていた。そろそろ空腹を覚えてもいい頃なのに、心が満たされていて全然離れる気にならなくて。レーラを困らせながら、私はピアノを弾き続けていた。

 すると、帰ってきたアルフィノ様が、顔を出されて、そのまま演奏が終わるまで、レーラの隣に立って、私を見守っていた。そうして、私が手を止めると、拍手をしながら歩み寄ってきた。


「ミシェル様、お見事でした」

「いえ、趣味の範疇ですが……お気に召したのなら、何よりです」

「ご謙遜を。本当に素敵でした。ですが、ずっと弾いていたのでしょう? 指は、大丈夫ですか? お腹すいてませんか?」


 そう言われて、私は苦笑する。本当に、辞め時を見失っていたのだ。レーラは、アルフィノ様が私を止めてくれてほっとしている様子だった。


「申し訳ございません。昔から熱中すると、時間が経つのを忘れてしまって……」

「そうでしたか。では、よろしければ今から食事でもいかがですか。この辺りはほかに誰も住んでいませんから、使用人の就寝時間までなら弾いていただいても構いませんから」

「い、いえ……今日は、おしまいにします。お食事は、ご一緒します」


 アルフィノ様はにこりと微笑んで、食堂へと一緒に向かった。そうして、食事を一緒に摂りながら、今日あった他愛のない話を交わし合う。


「帰ってきたら、年配の使用人たちが興奮したようにして、ミシェル様が奥様のようにピアノを弾いてくださるって口々に言うんです。この屋敷に、音楽は必要なものだったんですね」

「嬉しいです。あと、孤児院の子どもたちも、私の演奏を聞いて笑ってくれました」

「子どもたちが……そうですか。彼らはつらい身の上ですから、楽しいことやうれしいことは、一つでも増えると良いですね」

「あの、アルフィノ様。ナタリア様は、孤児院の子どもたちに、音楽や勉強を教えていらっしゃったそうなのです。私も、もしよろしければ、彼らが望むなら……少し、先生の真似事をしても、よろしいでしょうか」


 そう尋ねると、アルフィノ様はぴくりと体を揺らした。そうして、少しだけ考える間があって、やがてそっと微笑んだ。


「はい。あなたがいいのなら、ぜひ」

「……? ありがとうございます。また今度、彼らが遊びに来たら声を掛けてみますね」


 今の間は何だったのだろう。そう思いながらも、私は少しずつ、この屋敷で自分の世界が広がり始めていたのを、ただ憧憬と好奇心を持って、見つめていた。

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