42. フォネージ王国の新たな門出
式は、王都郊外にある古い神殿で執り行われた。
建国王を讃えるため、彼が亡くなった百数年後に建てられた神殿は、すでに風化が凄まじく、管理はされているものの踏み入れる人間がほとんどいない状態だった。
けれど歴史を調べれば、歴代の王の戴冠式の多くはその神殿で執り行われており、数百年前からは、今の王家が暮らしている堅牢な王城前の広場で行われるようになっていた。
ガブリエル王太子殿下が、戴冠式を数百年ぶりにその神殿で行うことが周知されて以降、二年を掛けて整備された神殿は、古いながらも見事な造形で、神秘的な雰囲気を醸し出している。純白の石造りの古い柱の下、式のためにセッティングされた舞台には、今までの戴冠式とは全く異なった緊張感が漂っていた。
階下に集まった臣下たち、さらにその後ろから新国王の姿を一目見ようと押しかけた平民たちは、その数4万ほど。王都中から、あるいは国中からやってきた国民たちの数は、場所の広さも相まって、先の王の倍以上の人だかりが出来上がっていた。
戴冠式が恙なく執り行われていく舞台裏、私は出番を待って深呼吸を繰り返していた。もう間もなく、白竜神楽の時間となる。私はこの膨大な国民の前で、白竜様に奉納する歌と舞を披露しなければならない。
緊張感がないと言えば嘘になる。けれど、この日のために、アルフィノと二人で努力してきた。
アルフィノは、神殿の最上階――民衆からは見えない奥の場所で、祈りを捧げ始めていた。私の白竜神楽が終わり次第、アルフィノは思念の白竜様を降臨させて――アルフィノは白竜様としてガブリエル殿下に言葉を授けることになっている。
何度か試したところ、アルフィノは数分間の思念の具現化ならば、意識を失わない程度まで練度を上げた。カルセル様がその腕前に息を巻いて、しかし一体どれほどの修練を積めばこの秘術の代償をここまで絞れるのかと、アルフィノの体を心配していたほどである。
白竜様の口から語られるのは、ただの祝いの言葉だ。政に関わることは一切触れずに、人界の王にすべてを任せる旨を伝えて、それで終わり。それでも、神官たちが白竜様を呼ぶというこの戴冠式の形式はすでに貴族たちには伝わっており、守り神の降臨を今か今かと待ち望むもの、白竜様の実在を信じられずに半信半疑なもの、様々な心情でその厳かな式を見守っていた。
目の前で、宮廷音楽家たちが丁寧に整列していくのを見た。その中には、すっかりと垢抜けて背筋を伸ばしたルーティナの姿もある。私は侍女たちの助けを借りて、巫女の衣装のまま胸を張って、ゆっくりと前へと歩いていった。
階下で、微かな歓声が上がる。私は段取り通りに、従者と共に舞台まで歩んでいくと、私は舞台の真ん中で立ち止まり、階下で見守る人たちを見下ろした。
音楽が奏でられると、私はゆっくりと歌を奏でて、足取り軽く舞を披露する。白竜様に奉納する大切な神楽舞は、半年間、毎日のように神殿で捧げたおかげで、もうすでに空気を吸うように舞うことができるようになった。
宮廷音楽家たちの洗練された演奏が響き渡り、場を支配する。私はそのまま、しばし舞を踊り続けた。奥の、さらに一段上の舞台でそれを見守る、ガブリエル殿下とラトニー殿下に祝福を伝えるように。
やがて、予定していた演目を終えると、その瞬間――何か大きなものが、こちらへと飛来した。タイミングばっちりだ――と思って、人々が次々と上空を見つめる。すると、神殿の空いた部分に、それは大きな音を立てて着地した。
白銀の鱗で体を覆った、右目が深い海のような青、左目が生い茂った森のような緑。爬虫類によく似ているがまったく別の生き物で、背中には二対の巨大な羽がついている。長くとがった尻尾を地面に這わせた、体長10m近くになる巨大な竜が現れた途端、階下からは悲鳴のような歓喜のような声が大きく響いた。
アルフィノ、うまくいったわね――と思っていると、傍にやってくるものの気配を感じて、私は顔を上げた。
そこには、アルフィノがいた。彼はぽかんとした様子で、白竜様を見上げている。
「フィー……っ!?」
私が口を開きかけたのを察して、アルフィノは私の手をそっと握ると、念話を使って私へと伝えた。
(そのままで聞いてください。実は――)
アルフィノが念話で伝えてくれたことを統合すると、以下のとおりである。
まず、思念を作り出す儀式を奥の神殿で始めたところ、頭の中で不可思議な声が響いた。それによると、今からそっちに行くから、思念は作らなくてよいと、男でも女でもない不思議な声で言われたのだそうである。
アルフィノが混乱のまま、けれどなぜか抗えないようにして祈るのをやめて神殿からこっそりとこちらを見れば、上空を巨大な影が横切った。そうして現れた白竜様を見て、アルフィノは慌てて階段をこっそりと下りてきて、私の傍へとやってきたらしい。
つまり、だ。あそこにおわすのは、紛れもなく――。
「ほぉ~。数百年見ないうちに、大きな街になったのう。ふぉっふぉっふぉ」
脳内に直接響き渡るような声を、この場にいた全員が聞いた。それは音声ではないのに、この場にいた全員がその存在を認識するほどに、明瞭な響きに思えた。
「新しい王の任命に呼ばれるなど何百年ぶりじゃろうなぁ。呼ばれたから来ちゃったぞい」
何となくおちゃめな物言いをする白竜様に、何となく緊張感が緩んでしまう。
段取りになかったような出来事であったため、ガブリエル殿下は少しだけ助けを求めるようにアルフィノへと視線をやった。アルフィノは小さく頷いて、そうして白竜様の足元へと一歩歩み出て、恭しく頭を下げた。
「白竜様。本日はお呼び出しに答えていただき、まことにありがとうございます」
「おお! おぬしはメルヴィンの子じゃな? おお、おお、奴にそっくりじゃわい」
「ありがたき幸せ」
「して、わしに愛らしい歌と舞を捧げてくれた巫女はどこじゃ?」
「こちらに」
アルフィノに手を引かれて、隣へと並ばされる。私は緊張した面持ちで、かの君を見上げた。
あの時助けてくれたのはこの白竜様ではない。それは分かっていても、私にとって焦がれる姿であるのは確かだったのだ。大いなる白竜様を前にして、私は淑女の礼をとるので精いっぱいだった。すると白竜様はご機嫌そうに笑い声をあげて告げた。
「ふぉ、ふぉ。おお、なんとめんこいお嬢ちゃんじゃ。わしとでぇとせぬか、とっておきのでぇとスポットを知っておるんじゃ」
「ぇえ!?」
戴冠式の場で、まさか白竜様からナンパされるなんて思わなかった。私が目をぱちくりとさせていると、アルフィノが間に割って入って、丁寧に頭を下げて告げた。
「白竜様。此度は、新たなる王に祝福の言葉を授けていただきたく、こちらへとご足労願いました。お願いできますでしょうか」
「おお、おお、そうじゃったのう、久しぶりの人界じゃぁ、ちぃと遊び心が勝ってしもうたわい」
脱線しかけた自由な白竜様を、アルフィノがかろうじて元の路線へと戻していった。白竜様はアルフィノと私へと向けていた瞳を、壇上に立つお二方へと向けた。
ガブリエル殿下は、今日は青を基調とした最上位礼装に身を纏っている。その隣に立つラトニー殿下は、黄金がちりばめられた美しいドレスを身に纏い、その傍に立っている。お二方とも、かの聖獣が目の前に現れ、多少臆する気持ちはあるものの、静かに現れた守り神を前に、丁寧に礼をとった。
「建国王ファルスナートの御子らよ。この国がわしの手を離れて気の長くなるほどの時が経った」
白竜様がお姿を消されたのは、数百年も遡るほどに前のことだ。フレイザード伯爵家に残されていた記録によれば、国が神の手を離れたから、白竜様は隠居なされたと伝えられていた。
「国はすでに人のもの。わしはもう、仙境でのんびりと暮らしておるよ。わしはそのまま眠りにつこうと思うとった。国を去って幾星霜、人の子らは自分たちの力だけで、こんなに大きな国を作ったのじゃなぁ……」
その声には、感慨が滲み出ていた。ガブリエル殿下は、白竜様を見上げて、その金色の瞳を逸らさずに、かの君の言葉を傾聴していた。白竜様は鷹揚にゆっくりと首をもたげると、そっと目を細めてガブリエル殿下を見つめた。
「のう、ファルスナートの御子よ。そなたはこの国をどのような国にしたい?」
放たれた問答は、友人に聞くくらいの気軽な響きだった。それを聞いて、ガブリエル殿下は目を丸くすると、穏やかに微笑んで告げた。
「皆が自分の幸せを自分自身の力で見つけられる国を、作りたいと存じます。友の話をよく聞き、臣下の話に耳を傾け、民の嘆きを聞き漏らさぬよう、鳥たちの囀りを聞き……人と人が支え合える、そのような国を」
皆を幸せにする、ではなく、皆が自分で自分の幸せを見つけられるように、というのが何ともガブリエル殿下らしい。彼の他人を尊重する性格が、今の誓いにはよくあらわされているように思えた。
「そうか。ふぉ、ふぉ……人の子らはたくましいのう。もはや、守護神の加護は要らぬか。ファルスナートに頼まれて国を見守っておったが、そろそろお役御免といったところかの」
「白竜様……」
「気にするでない。わしももう寿命じゃぁ……子を残しはしたが、国に守護神が不要とならば、我が子も仙境の奥へと姿を消すじゃろうて」
人は、もはや人の手で生きていけるようになった。災害に対して、人はあまりにも無力だ。それでも、力を合わせてそれに立ち向かえるような勇気と叡智を手に入れた。
白竜様におんぶにだっこだった時代は、とうに過ぎている。それは事実だ。
――でも。
「ファルスナートとの盟約は果たせたのう。人間が自らの足で歩いて行けるまで、見守っていると約束したんじゃ。嬉しいのう、まるで孫が巣立つかのようで」
「我らフォネージ王国の民草を、永きに渡り見守ってくださり、ありがとうございました。聖獣、フォネージ様」
「その名を呼ばれたのは久しぶりじゃなぁ……わしがいなくなるんじゃ。国の名前も、せっかくだから変えてはいかがか」
王家の、そして国の名は、かの聖獣から授かったもの、と聞いていたが――白竜様のお名前だったのは初めて知った。守護神の手から離れた国は、改名をすべきではないか。白竜様が言っているのはそういうことのようだが、それは違う気がした。
ガブリエル殿下は、静かに首を横に振り、まっすぐに白竜様を見つけた。
「フォネージ様が守護神でなくなったとしても、この国の在り方は変わらないでしょう。聖獣の庇護下にあり、そこで豊かに育ったこの国の母なる方は、紛れもなくあなたなのですから」
「ふぉふぉ、そうか……嬉しいのう」
「たとえあなたがいなくなられたとしても、民はあなたのことを忘れないでしょう。我らの身に流れる魔法の力が、たとえ薄れてしまっても」
魔法の力は、限りなく薄くなってしまった。人々が魔法を忘却してしまったのだ。
けれど白竜様は、不思議そうに小さく首を動かして、とんでもない真実を口にした。
「それは違うぞ、ファルスナートの御子よ。魔法の力とは、尊き己の想像を信ずる者に顕現する力ぞ。確かに、ファルスナートは我が力を血に取り込み、魔法の力を手にした。じゃが、長い時を経て、この国の民の多くにはその血が流れていることになろう? だとすれば、弱まった原因はただ一つ、皆が魔法という不思議な力を、現実に信じられなくなっただけのことじゃ」
その言葉に、貴族たちは揺れ動いた。あれほど権力の象徴として担ぎ上げられていた魔法の力、その真実は、ただその存在を信じ続ける者らが振るう少し不思議な力だったのだ。たとえばフレイザード伯爵家には、不思議な伝承や書物がたくさん残っているから、魔法の存在が忘却されていないのだ。
彼らは誰よりも、白竜様が下さった奇跡の力を忘れずにいたからこそ、現代にも魔法を忘れずにいる。
けれど貴族社会の中で、魔法の存在は眉唾だ。奇跡の力を振るうのに体の負担が大きいからと、敬遠しているうちに忘却し、今では選ばれし者しか振るえない不可思議な力と化した。
「せっかくじゃから少し見せてやろうかの。どれ、メルヴィンの子、そして巫女よ。少し力を貸しなさい」
「はい。白竜様」
アルフィノはゆっくりと頷いて、少しだけ考えた後で、私へと小さく「白竜神楽の歌を」と呟いた。私は頷いて、その歌を奏で始めた。アルフィノがその隣で、そっと手を伸ばして、目を伏せる。
白竜様が白竜神楽に合わせて体を揺らして、そうして瞳を微かに輝かせた。すると、アルフィノの手からは、色とりどりの蝶々があふれ出す。
蝶々がまるでアーチを描くように飛んでいくと、神殿の上へと虹がかかった。その光景は、幻想的なものだった。
そしてそれは、魔法使いが見る景色ではなく、現実のもの。皆の瞳が、虹へと釘付けとなった。
「これは夢だと思うか? それとも現実?」
「現実、だと思います」
「では、実在するんじゃよ。虹色に輝く蝶も、空をここまで青く見せる魔法も」
見上げた空はどこまでも青くて、美しかった。まるで本の中の、おとぎの国のような、幻想的な風景。けれどこれは、現実だった。
「わしがいてもいなくても、そなたらが魔法を忘れぬ限り、ずぅっと魔法はそなたらの友となるじゃろう」
ガブリエル殿下はその言葉を受けて瞳を揺らすと、ゆっくりと微笑みを返した。彼はもう一度丁寧に頭を下げて、口を開いた。
「フォネージ様。改めて、これまで守護神のお役目を務めていただき、まことにありがとう存じます。願わくば、私はこの国があなたの手を離れたとしても、あなたとは――そしてその御子とは、友人でありたいと存じます」
「何じゃと? 友達でおってもいいのか? わしを友達にしてくれるのか?」
「はい。これこそが、この国の新たな在り方と存じます。あなたに受けた恩を忘れぬように、子孫へと語り継ぎましょう。守護神からこの国の良き友人となってくださる、あなたのことを。であるからこそ、この国はこれからもフォネージ王国に違いはないと、そう思います」
「嬉しいのう……では老い先短いこの身ではあるが、命尽きるまで、そなたらのことを見ておるよ。かわいいおなごとはでぇとがしたいのう」
どうして最後の一言で緊張感を失くしてしまうのだろう。そうは思うけれど、白竜様のご様子は、フレイザード家に残されていた手記の内容そのものだった。この方こそが、人に愛され、人に寄り添った大いなる聖獣、白竜様なのだ。
ガブリエル殿下は、改めて祈りを捧げるように手を胸の前で組んだ。ラトニー殿下も、それに倣うように指を組んだ。
「私、ガブリエル・フォネージはフォネージ王国の友人たる聖獣、フォネージ様に誓う。新たな王となり、国の繁栄のために身も心も尽くすと」
「私、ラトニー・フォネージはフォネージ王国の友人たる聖獣、フォネージ様に誓う。新たなる王を生涯支え、国の繁栄のために身も心も尽くします」
新たなる国王、そして王妃は、このときを持って誕生した。ガブリエル国王陛下、ラトニー王妃殿下は、それぞれ聖獣の前で誓いを立てる。その様子を、臣下も民もすべて見守っていた。
守護神は友人へと変わり、新たなフォネージ王国は、この瞬間に生まれたのである。