41. 終幕は静かに下りる
今、私の膝の上には、アルフィノの頭がある。
全身に大怪我をしていたアルフィノは、鴉たちが事後処理に走り回る中、担当から外され、休養を申し付けられた。彼は一か月後の戴冠式で、神官という大きな役割を賜っているため、それまでに傷を治さなければならないからだ。
アルフィノから甘えられてしまった私は、やすやすと膝を明け渡してしまった。彼は今、私の感触を確かめるように膝の上に頭を乗せて、寝息を立てている。
カトルーゼ元侯爵は極めて静かだったそうだ。燃え尽きたような昏い瞳を湛えた彼は、自身が唯一の希望としていた偉大な魔法が、ただの石ころに阻まれて効力すらなさないことに相当なショックを受けていたそうだ。全ての希望を丁寧に手折られた彼は、要領を得ない様子ではあったが、全てを白状して処刑台に立った。
――神を超えられない魔法に、価値はない。
彼が話した傲慢な一言から、カトルーゼ元侯爵の心はもはや人界にはないと悟った国王は、今までに自身の持病に寄り添っていてくれた忠臣であった彼をせめて、自身の手で裁くことを選んだようだ。
カトルーゼ侯爵が隠していた屋敷の資料室には、大量の書物が納められていた。そのすべては、死を超克するための研究の過程だったという。
貴族の息がかかった騎士団を捜査に加えるのは危険だと判断した国王は、屋敷の捜索を全て鴉へと任せたのだそうだ。今回の一件で、貴族の中に黒魔術というものの記憶を残しておくことを忌避した国王は、鴉へと黒魔術という学問の処分を依頼した。
世に残しておいて良い資料と、残しておいてはならぬ資料。それらを選別し、火へとくべる作業によって、国に蔓延っていたおぞましい魔術師の魂は、灰塵と化していく。
「っ」
「フィー? ……大丈夫。安心して眠って」
痛みに身じろぎ、アルフィノが微かに体をよじったのを見て、私はそっと髪を撫でた。しばらく彼の髪を撫でていると、やがて落ち着いて来たのか、また寝息を立て始めた。
服の間から覗く肌には、包帯がたくさん巻かれている。魂継を掛けられるまでに至った彼の身体の損傷状況は、一日二日で直るようなものではなかった。むしろあの場面で、あれほどの身体操作の精度を発揮して、カトルーゼ侯爵を押さえたのが不思議なほどに。
「本当に、怒涛の一か月だったわ……」
祈りを届けて予言を授かり、デナート様と出会って、王都までに襲撃され、アルフィノが攫われて助けに行くまで、色々とあった。
危険なことも多かった。周りの人にも、たくさん迷惑をかけた。それでも、こうしてアルフィノが無事に戻って来たのを見ていると、自分で動いて良かった、と心の底から思ったのだった。
やがて、アルフィノがゆっくりと目を開けたのを見て、私は微笑みを向けた。
「フィー、おはよう。よく眠れた?」
「はい……おはよう、ミシェル。今、何時ですか?」
「夕方ね。お昼過ぎからずっと眠っていたから、今夜眠れる?」
「全然眠り足りないので、恐らく平気かと。父上たちは?」
「まだ戻られていないわ。しばらくは家を空ける、と」
アルフィノがゆっくりと体を起こすのを補助する。彼は私の隣へと腰かけると、包帯だらけの手を眺めて、憂鬱そうに息を吐いた。
「不覚でしたね……まさかここまで手ひどくやられるとは。この身の未熟を痛感しています」
「フィーが助けた子どもは無事に目を覚ましたそうですよ」
「それは良かった。しかしあの御仁、まさか罪もない子どもを何の躊躇いもなく斬りつけるとは。……あの瞬間、訳が分からないくらいに理性が吹き飛びました。頭が沸騰しそうになって」
ヒューアストン元侯爵は平民となったため、処刑が執行されるそうだ。妃を害したその事実が、数十年経って明るみとなった。その上で、間諜に国の情報を流して、亡命の手引きを要求していたため、国家反逆罪が適用され、言い逃れは一切できなかった。
その間諜も、もはや二度と日の目を見ることはないだろう。鴉は、間諜を逆手にとって、相手の国の足取りを追い始めたとも小耳に挟んだ。
鴉がいる限り、国の闇で蠢く犯罪は、そう簡単には罷り通らないのだろう。これまでも、これからも。
「ミシェルは、大丈夫でしたか。襲われたと聞きましたが……」
「ええ。オールストン男爵や、護衛の皆が守ってくれましたから。オールストン男爵からも、今朝がた手紙が届きましたよ」
「何と?」
「無事にルーセンまで帰れたのと、フレイザードの屋敷の方には異変がなくて、フィリップもアルビスも元気です、と」
オールストン男爵は、護衛たちと自分の無事を伝えてくれた。どうやら、無事にルーセンまで逃げ果せたようだ。この手紙を見たときには思わずほっとした。彼らが陽動を引き受けてくれなければ、私は今頃、敵の手に落ちていたのかもしれない。
カトルーゼ侯爵は、黒魔術の実験体として、強力な魔法使いであり、白竜の魂を持つとされているアルフィノを狙った。それが、私に対する襲撃と、アルフィノを殺さずに拉致した計画の二段構えだったそうだ。
私たちが聖地に行ったことを、悪意なく流してしまった御仁には、あとで釘を刺しておくとして――アルフィノは、自分の未熟ゆえに後れを取ったことを、後悔している様子だった。
「ことを急いてしまいましたね。好転したときこそ慎重に、と父上には教えられていたのに」
「……心配しました。フィーが捕まるだなんて、と」
「本当に、情けない限りです。君が予言を受け取ってくれなければ、カトルーゼ侯爵には逃げられていたかもしれませんね。それどころか、黒魔術が失敗したカトルーゼ侯爵に何をされていたか分かりませんでした」
「そういえば、魔識石で黒魔術が防げたんですね」
私はちらり、と枕元の机の上に置かれた、赤色の装飾品の数々を見やった。すると、アルフィノは少しだけ気まずそうに苦笑した後、白状するように淡々と話した。
「直接的な記述はありませんでしたが、過去の王族には、赤の魔識石を持たせる慣習があったという記録があったんです。その理由を考えてみれば、もしや、と。一つでも、外法に対しての対抗策があるのはありがたいですから」
「私の瞳の色だから、敵の目も欺ける、ということですね」
「……はい。君の色を纏えてうれしいのは本音ですが、僕は君を想う気持ちを利用して敵を欺きました。何となく言いづらくて、言えませんでしたが……」
「いいえ。私の色が、フィーを守ってくれたと思えば、全く気になりません。本当に良かった」
もしもアルフィノが、魔識石で対策を打っていなければ、もしかしたら黒魔術に翻弄されていたかもしれないのだ。敵を欺くにはまず味方から、という言葉があるように、今回の一件では、まずはアルフィノが無事だったという結果が第一だ。
アルフィノの腕が私の背中へと回り、そっと肩を抱き寄せられる。静かに髪にキスを落とされ、吐息が横髪にかかる。
まるでじゃれるように私を求める彼に、体を委ねて目を伏せる。
「ありがとう。本当に……ありがとう。ぼくを信じて、待っていてくれて。そして、助けてくれて」
「ずっと守られるばかりの私だけれど、少しでもフィーの役に立ちたかったの。だから、本当に大変な旅だったし、怖いこともたくさんあったけれど……フィーのところへ飛んできて、本当に良かった」
「ええ。本当に君は、ぼくの運命の女神さまです」
キスを重ねて、お互いの温度を確かめ合う。生きていることを実感するたびに、幸福が心の底から湧き上がってくる。柔らかい感触が伝わるたびに、アルフィノの思い遣りが嬉しくて、求めるように手を握られる力は、いつもよりも少しだけ弱弱しくて。
ほんの少しだけ、アルフィノが背伸びをやめてくれた気がして、私は嬉しかったのだ。
◆◇◆
その夜、私は夢を見た。イリーナ様が、私の手を握り締めて、微笑んでいた夢だ。
私は彼女に微笑み返した。そして彼女は、いつものように、予言の言葉を、私へと齎した。
「あのおぞましい本は、私たちが冥府へと持っていくわ。白竜様の寿命ももう間もなく……だから、私たちも消えるわ」
イリーナ様、フィリア様、そしてファルスナート様。彼らは、白竜様の力を借りて、後世の人のために、こうして不思議な奇跡の力を残してくれていた。
けれど、竜に庇護された国は、これから静かに変わっていく。もう、変わり始めている。
「でも、もうあなたたちなら、私たちの力がなくたって、これから先の時代を切り開いていける。アルビスをどのように扱うか、ちゃんと選択するのよ」
イリーナ様はそう告げると、ふわりとその場に浮かび上がった。純白の光を静かに纏いながら、天高く還っていく乙女の姿を、私はずっと見送っていた。
目が覚めると、カトルーゼ侯爵が持っていた、おぞましい力を持つ魔法の本は、不気味な皮の装丁が剥がされ、何の不気味さも感じさせない、ただの学術書へと変貌していた。これの扱いは、鴉たちが判断するだろう。
白竜様を滅ぼすことを目的にされた黒魔術師が絶えたことで、その呪いが解けたかのようだった。
◆◇◆
私たちは王都にて、戴冠式の準備に励んでいた。アルフィノは傷が完治しておらず、若干動きは緩慢であったが、しかしこの役割は私たちにしか果たすことを許されない。
精一杯つとめるしかないのだ。この国の影として、支え仕える者として。
王都は見知らぬうちにすっかりと新たな国王を歓迎するムードになっていて、街は大いににぎわっていた。心なしか、地方からやってくる民も多く、王都には人が溢れている様子だった。
新たな国王、ガブリエルを望む民は多い。彼の人柄の良さ、王族としての有能さは、民の知るところであった。彼がこつこつとこなしてきた公務によって、彼は民草の信頼を得ていたのだ。
待ちゆく人々が、間もなくある戴冠式に想いを馳せている。長い戦いだった。国に巣食う悪意を取り払い、この日を迎えられたことに、私は感動していた。
ガブリエル殿下、そしてラトニー様は、戴冠に向けて精力的に動かれている様子だ。ラトニー様はすっかりと体調も回復し、城内にいた不届きものを排除したお陰で、あれ以降毒物を口にするようなことはなかったそうだ。二人は仲睦まじく、国民の前でもそのように振舞った。
あとは嫡子の誕生を待つばかりである。異例の戴冠の早さ故、二人はなかなか思うように立ち回れなくて四苦八苦しているものの、まだ父母も健在であるガブリエル殿下は、焦らなくていいとラトニー様を励ましているご様子だ。きっとこの様子なら、いずれ嬉しい話を聞けることになりそうだ。
目まぐるしく戴冠までの日々は過ぎて、戴冠式の前夜。私たちは、王宮の一室で、共に夜空を見上げて風にあたっていた。
「いよいよ、戴冠式の日が来ましたね。……長かった」
「ええ、本当に。この二年、気の休まる日はありませんでしたね」
「本当に、君にだけは迷惑をかけないようにと思っていたのに……結局、随分と助けられました」
私は小さく首を横に振った。それに対して、アルフィノは困ったように微笑んだ。
フレイザードの花嫁は、鴉の使命から遠ざけるべし。それが、フレイザード家の当主の家訓であり、理念でもある。アルフィノももちろん、当初はそれに準じようとしていた。
けれど私が踏み込んでしまったからこそ、彼はそういう生き方を余儀なくされた。きっと私に知られたことによって、メリットもデメリットもあったことだろう。だからこそ、私にはそれを背負う覚悟が必要だった。
守られるだけじゃない、伴侶として、彼の傍に並び立ち、国を支える覚悟が。
「いつの間にか、ミシェルも国仕貴族の色に染まりましたね。嬉しいやら悲しいやら」
「個人的には、喜んでいただいた方が嬉しいですが」
「あはは……だからと言って、自分の身を危険に晒す方向に染まらなくとも……」
「だってそれは、あなたがそうだから。似てしまうのは、仕方がないのではなくて?」
「う……」
アルフィノは、返す言葉もないとばかりに言葉に詰まった。彼には珍しく狼狽した様子で視線を動かすと、観念した様子で息を吐いた。
「……危険に飛び込むことを肯定し、君に無用な心配をかけたことは謝ります。でも……父になったのだ、と実感すると、どうしてもぼくの代で終わらせておきたくて」
ゆりかごの中でよく泣き、よく笑う愛しいフィリップ。アルフィノは帰ってくるたびにフィリップの元へと足を運んで、しばしの間小さな命の温もりを抱きしめていた。私と違い、生まれたばかりの我が子の顔を毎日見ることも叶わないほどの多忙を抱えた彼は、その時間をとても大切にしていた。
「ぼくは知っています。父上が、いつも国のどこかにいる敵に苛立っていたことを。偽物のデナート様に対して、溢れんばかりの殺意を抱えていたことを」
「……はい」
「その理由を、父となってから知りました。ぼくだって、絶対に嫌だ。我が子にこのような事件の始末をさせることになるだなんて、受け入れられるわけがなかった」
私も嫌だ。王家を揺るがしたおぞましい外法の事件、その処理を、愛する子にさせるなどと。カルセル様の気持ちを考えれば、身が張り裂けそうになる。かわいいフィリップが、このような険しい運命を背負うことになるとは、考えたくもなかった。
「我が子がこのようなおぞましい事件にかかわらなくて済むように、全て終わらせようと心に決めました。父上も、ぼくの決意を受け止めて、背中を押してくれました。そのほかのことは、全部自分がやるからと――必ず助けるからと、そう決めて」
「カルセル様も、ずっと苦しんでこられたのですものね。フィーを事件に巻き込んでしまうことに」
「ええ。ここ数代は、鴉の仕事も平和なものだったそうです。ここまで国中を駆け回って奔走しなければならなかったのは久しぶりだったとか」
二代にわたって起こった、王家を取り巻く仄暗い恋愛沙汰の事件。その裏で、禁忌を求めたもの、利益を求めたもの、混沌を齎した者らが、ようやくすべて片付いた。
けれど多くの貴族家は、そんなことがあった事実も知らないまま、新たな国王が戴冠すれば、世の流れに従って流れていく。鴉に準じた彼らの功績に気づかぬまま、人の世に生きていく。
鴉は建物の上にそっと留まって、こちらを見つめている。けれど彼らは、鴉が見ているな、くらいにしか思っていない。
その仕事ぶりを感謝されることもなく、彼らは空へと帰っていく。闇の中へ、沈んでいく。
「フィーは――……」
「……どうしたんですか?」
「いえ……」
「遠慮なんて要りませんよ。夫婦なんですから。言いたいことはすべて、吐き出してしまってください。何でも、受け止めます」
私は、そんな人を抱きしめて、お帰りという権利を持っている。
誰よりも国を思い、国に尽くし、人々の安寧に向けて働く、誇り高き鳥たちを讃える権利を持っている。
「フィーは立派です。この国の誰よりも、私にとって、尊敬すべき人です。誰もがあなたに感謝を示さなくても、私が示します。私が全国民分、あなたに感謝を捧げます」
「ミシェル……」
「だって、私は、あなたの妻なのですから。あなたの隣に並び、あなたと共に歩いていく、ただ一人のパートナーです。あなたがどんなに頑張っているかを、私だけは、決して忘れたりはしません」
そう告げて微笑めば、アルフィノは少しだけ躊躇った後で、ゆっくりと私を抱きしめた。耳元で、微かに泣いている声が聞こえて来た。
アルフィノが泣いたところを、見たことがなかった。いつだってどこでだって、彼は穏やかで、優しくて、紳士的で。けれどそれは、人間らしい感情や幸せを、わざと手放す行為にも思えた。
「ありのままのあなたを抱きしめたい。私の前では、私の前でだけは――決して繕わないで。あなたの優しいところも、紳士的で素敵なところも、少し意地悪なところも、打算的なところも、全部全部、私の大切なフィーの一面です」
「ぼく、は……あの、えっと……」
「子ども時代、今に至るまで、甘えられなかった分、私が甘やかします。ですから、これからも――」
私がその言葉を告げる前に、アルフィノは私の口を、唇で塞いだ。遠慮なしの獰猛なキスに溺れて、舌を絡め取られる。喉がむせ返るほどに熱くなって、どうしようもないほどに愛しさが胸の奥から溢れてくる。
そっと口が離されると、アルフィノは優しく、低く、穏やかな声でつぶやいた。
「ありがとう。一緒にいてください。ずっと、ずっと」
「一緒にいたいです。ずっと、ずっと」
夜が更けるまでずっと、二人で星空を見上げていた。浮かされる熱を愛しく思うまで、傍で肩を寄せ合って、ずっと彼を隣で感じ取っていた。