40. 神に手を伸ばして
満月が、曇天の向こうに輝く。
静寂なる夜は神聖なようで不気味だ。雲間から降り注ぐ光が照らす先が、廃墟である神殿なら殊更に。
カルセル様へと伝令を向かわせて、私は先に鴉の先遣隊に同行し、旧神殿へ向かう。屋敷で待っていた方がいいのは確実だった。私は、実地に行っても足手まといにしかならない。
けれど、屋敷でじっとしていることなどできない。私が同行させて欲しいと懇願すれば、彼らは難色を示すことなく顔を見合わせて頷き合い、私の同行を許してくれた。
どちらにせよ、飛び出して行ってしまいそうな私の姿を見て、それならば同行させた方がいいと判断したのかもしれない。
頭では分かっていても、実際にはどうにもならないことなんて、この世界にはいくらでもある。
黄昏の道を、栗毛の馬と共に駆る。待ちゆく人々が、何事かと顔を上げた頃には、馬たちは列を成して遥か先へと去っていた。
鴉は普段、目立つ行動を控える。けれど、鴉の王が攫われ、その救出のために、彼らは翼を揃えて飛び立った。
王都の郊外から、山脈へ向けて崩れた門を出る。この辺りは開発も進んでおらず、かつての住宅街が廃墟と化している。中央から離れる程に、人の気配が失せていく道を、馬の蹄だけが叩いている。
満月が姿を現し始めた頃、私たちは山の麓へと辿り着き、崩れかけた石段を駆けあがった。毎日の祈りのための山登りのお陰で、息切れもほとんどせずに、私たちはその場所へと至った。
満月の光が微かに注ぐ中、かがり火の向こうで、台座に横たえられている、アルフィノの姿があった。
彼は体中傷だらけで、ぐったりとしている。気を失っているのか、ぴくりとも動かない。
かがり火に照らされて、耳についていた赤い宝石がゆらりと輝きを放っている。
その傍では、一人の長身の男が立ち、本を片手に、何やら不気味な呪文を詠唱していた。
それは人間の発声器官から生み出されるとは思わぬほどの、およそ理解不能な不可思議な言語だった。耳の奥に這いまわるように響く言霊が、凄まじい不快さを訴えかけてくる。
アルフィノに、もう少しで手が届きそうだった、その時。闇の中から強襲を受けて、鴉たちが呻いた。
どうやら、潜伏していた私兵の仕業のようだ。鴉たちはすぐさま臨戦態勢となり、私兵との交戦を開始した。戦いに加われぬ私は、その中で、アルフィノに呼びかける。
「フィー!」
その声に気づいたのか、カトルーゼ侯爵は、正気を失った虚ろな瞳で、こちらを見下ろした。深淵の闇を讃えたかのような昏く絶望に染まった瞳は、彼の狂気をぎらぎらと映していたように思える。
「おやめください、カトルーゼ侯爵! あなたが、何故!」
「……私にはもう、時間がない。国を騒がせた、それは理解している。私はもう間もなく捕まるだろう。だが、ただ一言でいい。妻と、言葉を交わしたい」
「彼女はもう亡くなって……」
「分かっている! だが、私は、諦められぬ。諦められぬのだ!」
悲痛な叫びが、静寂を切り裂いた。説得が無理だと分かっていても、叫び続けることをやめない。
けれどカトルーゼ侯爵は、その叫びのすべてを受け止めて、静かに告げた。
「たとえ、神が私と妻の二人を分かつとも、私は最後まで抗うのだ。神の気まぐれで彼女が雲間の向こうへと連れ去られたその時、私はその魂を穢してやろうと、激しい憎悪を抱えた」
手に持っていた本が、不気味な輝きを放つ。赤くおぞましい光は、見ているだけで心の芯が凍えそうなほどの寒気を訴えて来た。
あれは良くないものだ。すぐにそう分かる。見たこともない不思議な皮で装丁された本は、どす黒い靄のようなものを放ち始めた。
「祖先の忌まわしき術を使い、神を超える。神さえ超えられれば、この術で死を超克できる――彼女と、もう一度話せる」
「神を超えるだなんて、そのようなことを! そのために、地上の何人の命を犠牲にする気ですか! 医療にて数多の命を救ってきたあなたが、夢想の先にある神に手を伸ばし、その無辜の命を散らそうとも構わないと仰るのですか」
デナート様襲撃事件で、そしてその入れ替わりを経て生まれた政争で、どれだけの血が流れたか。
殺し殺され、傷つけられ、命を諦め手放し、生をもがく。生き地獄の中で、一人神のような顔をして、自分の願いを叶えるためだけに、多くの命を犠牲にしたのは、よりにもよって医師だった。
「あなたが黒魔術を使って、多くの血が流れました。デナート様を取り巻く王宮の中で、見ていたのでしょう? あなたが利己のために振るった力によって、生み出された地獄を」
「……」
「あなたは私の最愛の人を奪おうとするのですか! よりにもよって、神に奪われたという彼女と同じように!」
「黙れ!」
カトルーゼ侯爵は、頭を抱えながら慟哭した。彼が理性と善性、そして狂気と悪性の間で激しく葛藤したことが、今の一瞬でも分かる。けれど、彼は止められなかった。自分の欲望に、救いを求める本心に逆らえなかった。
「フレイザード伯爵は、白竜の魂を持つ者! すなわち、この者に黒魔術が通用することは、白竜に匹敵する力ということだ! 失敗は出来ぬ、ただ一度きりの反魂の機会――私はフレイザード伯爵の魂継を持って、我が力が神を超克することを示して見せる!」
彼は、試そうとしている。自分の力が、反魂に耐えうるかどうか。
それを、アルフィノを使って、実験しようとしているのだ。決して、失敗しないように。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。彼が持っている不気味な本から、どす黒い靄が溢れたかと思うと、それはまるで嵐のように本からあふれ出して、天空へと向かった。満月の力を浴びて、不自然な輝きを持った不気味な霧が、まるで重力を持つように、アルフィノへと降り注いでいった。私は思わず、その衝撃に耐えきれずにしりもちをつく。
目の前で滝のように降り注ぐおぞましい力を前にして、私は叫ぶ。
「やめて――――ッ!」
けれど、その叫びも空しく、漆黒の滝は、アルフィノを飲み込んでいく。私は思わず立ち上がり、カトルーゼ侯爵に向かって走っていく。しかし、見えない衝撃波のようなものに跳ね飛ばされて、石段を転げ落ちた。
「フィー……」
絶望的な中で、黒い滝に飲み込まれたアルフィノに、ゆっくりと手を伸ばす。
その時、私は、気づいた。――目を凝らさなければ、あの黒い滝の中にアルフィノを探さなければ、決して見つけられることはなかった。
それは、まるで――アルフィノを避けるように、滝が降り注いでいること。アルフィノに触れる直前で、何かに阻まれるようにして。
キラキラと、黒い闇の中で、何かが輝く。それは、アルフィノが身に着けている、真っ赤な宝石のアクセサリーだった。
『魔識石は、いくつか種類があるんだけど――いずれも、魔法の発動を補助したり阻害したりと、魔法使いに干渉する力を持つんだ。あれは、魔法の発動を阻害する石』
私の脳裏に、かつてアルフィノが教えてくれた知識が蘇る。まさか、アルフィノは――。
私の瞳と同じ色を持つ石。それを常に身に着けていた理由は――対外的に、愛妻家だと主張するためではなく。
彼は私の存在を利用したのだ。私という妻の存在を利用し――愛しているという事実を利用し、敵を欺いた。
やがて、黒い滝が止んだ。カトルーゼ侯爵は、台座の傍に転がっている傷だらけの男を起こすと、意識を取り戻すように薬を飲ませていた。
その時、私の頭の中に、強い声が響いた。
(――今よ。彼を、起こして!)
その声は、聞き覚えがある。恐らくは、イリーナ様のものだ。私は慌てて立ち上がり、考える。
アルフィノを起こす方法――深く眠りに落ちた彼を起こす方法だ。
確か、以前にもこんなことがあったはずだ。あの時、私はどうやって、アルフィノを起こしただろうか。
ルーセンを守るため、白竜様の思念を顕現させた彼は、傷だらけで魔力を絞りつくされ、一週間もの間、眠りこけていた。
その時、私は、彼の傍に座って、そして歌を――。
私は大きく息を吸い込むと、意を決して、白竜神楽の続きを、歌い始めた。
静寂を裂くように、歌が鳴り響く。このような混沌の中で、唐突に歌い始めた私に、カトルーゼ侯爵の目が惹かれた、その瞬間。
背後で、音もなく、彼が起き上がるのを、見た。
彼は素早く台座を転がり落ちると、カトルーゼ侯爵を取り押さえ、持っていた本を蹴り飛ばした。カトルーゼ侯爵は、そのまま石に叩きつけられて、低い呻き声をあげる。
アルフィノは、荒く息を吐き出しながら、苦痛に顔を歪めてもなお、カトルーゼ侯爵を見据えて、ぎりぎりと力を込めて、その身の自由を奪っていた。
「――やっと捕まえた。黒魔術師……!」
「何故……何故、魂継が、効かない? 私の力は、やはり神を超えられなかったのか?」
「魔法使いならば、理由が分かったかもしれませんね。けれど、あなたは魔法使いではないようですね。だとするならば、あなたの力の源は――あれか」
アルフィノは、壇上に転がった、禍々しい本を見やって、睨みつける。まるで、その本が意志を持つように鳴動し、黒い靄をぶわっと吐き出した。
私が思わず体を丸めて防御態勢を取ろうとしたその時、私を庇うように前に出た人影が、その靄を切り払った。
そこには、アルフィノと同じ色を持つ人が立っていた。
「カルセル様……!」
「待たせたね。よく頑張った、アルフィノ、ミシェル。総員、反逆者を捕らえよ!」
カルセル様が連れて来た増援によって、形勢は完全に逆転した。鴉たちと交戦していた私兵たちは、次々と拘束され、捕縛されていった。
その縄が、カトルーゼ侯爵にまでかかったとき、私は思わずその場にへたり込んだ。ミシェル、と呼ぶ声が聞こえて顔を上げれば、私はアルフィノに抱きしめられていた。
曇天が風に流され、神殿の真上に、満月が覗く。国から闇が払われたことを、祝福するかのような優しい光が、神殿に降り注いでいた。