06. ふつうの、しあわせ
アルフィノ・フレイザード伯爵は、とても素敵な人だった。
初顔合わせの次の機会、家を訪れた彼は、真っ白な花束を私に差し出して、はにかんだように微笑んでいた。私はその花束を抱きしめて、幸せな気持ちに浸っていた。
私の心は、白竜様にある。だから、ほかの男性に心が揺れるだなんて思わなかった。けれど、彼を見るとどきどきして、傍にいるのは心地よい。
そんな調子で何度も足しげく私の所へ通っていただいた彼と向き合って、彼のことをよく知った。
「ああ、そうそう。私のことは、アルフィノで結構ですよ。フレイザード伯爵と呼ばれると、どうにも仕事のスイッチが入ってしまいそうで」
そう告げて困ったように微笑む彼。こんなに幼い少年のように見える彼は、もうすでに一家の大黒柱となるべき家の当主。
アルフィノ様からは様々なフレイザード家のお話を聞いた。家の特徴で、フレイザード伯爵家は襲爵が非常に早いのだと聞いた。跡取りが成人すると同時に現当主はその座を退き、その後は静かに暮らすそうだ。
アルフィノ様も例に漏れず、18歳の成人の時に伯爵位を継ぎ、4年間。家の特異さゆえにすんなりと婚約者が決まることはほとんどなく、大抵は襲爵を終えて仕事を落ち着けてから探し始めるのがほとんどだとか。見た目の幼さも相まって、王都貴族よりは婚約の時期が遅いようだ。
「ですから、フレイザード家の夫人は、全体的に事情をお持ちの方が多いですね」
「あ……も、申し訳ございません」
「どうして謝るのですか? 私は、あなたに謝られるようなことは一つもありませんよ」
つい口をついて出てしまうのは、自分の気性の激しさが招いた、社交界における悪評の嵐。間違っていないと思ってはいても、嫁ぎ先に迷惑をかけるのは必然であるわけで。
「母上は婚約者の異母兄によって口にするのも憚られる陰湿な嫌がらせを受け、男性恐怖症となってしまったそうでした」
「……!」
茶会の席に合わぬ、壮絶な話題。けれどそれは、フレイザードの歴史そのものだと言われ、彼は丁寧に言葉を選んで話す。
「もう男性と会うのも嫌だと。修道院に入ってつつましく暮らすと言った母上は、元はとある公爵家の長女だったそうです」
「……ひどい」
「そんな彼女を見出したのが父で……父は、幼い容姿を利用して近づき、母の心を少しずつ取り戻して、やがて父だけは大丈夫になったそうです。公爵家は父に感謝して、静かで長閑な地で二人は静かに愛を育み合った。もう得られないと思っていた、貴族の夫人としての幸せを、父の下でなら得られたと、今も夫婦仲はとても良好です」
アルフィノ様は、そんな父母から生まれた愛らしい子なのだ。私は、夫人の壮絶な過去に思わず息を飲んで、体を抱きしめた。
そうなると、アルフィノ様ってとても高貴な生まれなのでは――と思ってしまったのは事実だ。由緒正しき白竜の血と、国の公爵家の長女の血。彼の出自は通常の伯爵家とは比べ物にならないくらいに高貴である可能性が高い。
「あなたがどのような事情をお持ちかは知っています。けれど、私はそれを詰ったり、蔑んだりしません。第一王子の悪評は私も聞いております。国仕貴族という立場上、そのあたりの話は、市井や社交界に回る噂話よりも遥かにしっかりと入ってくるもので」
「そうだったのですね……」
「ええ。……知っております。あなたが第一王子に叩きつけられた私刑が冤罪だということも、全部」
「え……」
私は、驚いて目を丸くしてしまう。王子が騒ぎ立てた以上、立証はできずとも、心のどこかで誰もが信じていた噂話。何もなかったのならば、わざわざ私刑と浮気の両方が成立するようなことにはならない。
私は、王家が王子の醜聞を抑えるために、ありもしない私刑を成立させたのだと知っていたけれど、それをほかに知っている人がいた?
「……ど、どうして」
「知っているのです。国仕貴族はそういう立場の人間ですから。これ以上は――ごめんなさい。今の関係性では、まだお話できませんね」
そう告げて、アルフィノ様は困ったように微笑んだ。けれど、私は少しだけ、心がすく思いがした。誰も私のことを信じてくれないのだと思っていた。けれど、それが王家の横暴だと知っている人たちがいる。
それが、国の治安維持を請け負い、王家を監視する国仕貴族なのだと知って、私はエリンのことを思い出す。
エリンも、もしかして知っていたの? だから、私を護るために王子に楯突いたりしたの?
「何が言いたいのかと言えば……ともかく。我が伯爵家に来てくださるのなら、あなたは自分の事情を気にせずとも良いと言うことです。ですから、どうかご自分のことで傷つかないで。あなたが国を想い、王を諫めるために勇気を持ったことを、私たちは知っておりますので」
そう告げられて、私は思わず目頭が熱くなる。王家を恐れる貴族たちは、皆が私を指さして嗤う。
そうしなければ王家から蔑ろにされるから。そうしなければ、王子は私を惨めにできないから。
たとえ命を尽くして忠義を全うしたとしても、それを理解できぬ王は歴史書を紐解けばいくらでもいる。愚王が冠を戴く世代には、若く優秀な臣下たちが何度も身を賭して国を護り、若くしてこの世を去られたことなんてよくあった。
王は威光を翳さねば国を統治することなんてできない。だから私に醜聞を被せて王家を護ろうとする王の動きは正しい。それでも、私の忠義を汲んでくれるなら、願わくば次の王にあの自分勝手な男を選ばぬようにと願うばかりだ。
けれど、それで後ろ指をさされた臣下がどうなるの? どんなに国のためを思って、自分の身を賭して王を止めたとしても、それで得られるのが世間からの冷笑なんて、きっとあんまりだ。
「国仕貴族とは、そういった真の忠義を持つ方を、お守りする役目も持っているのです」
けれど本当は、彼らが知ってくれていた。それを知って、救われた気がした。
一ヶ月が経ち、アルフィノ様は領地へ戻られることになった。婚約の返事はいつでもいいから、と言い残して帰ろうとされた、彼の手をそっと取った。
黒く分厚い革の手袋。けれどその手は、彼の見た目の幼さからは想像もつかないほどに、大きく感じ取ることができた。
「あの……アルフィノ様」
「ミシェル様」
「りょ、領地にっ。お邪魔しても、よろしいでしょうか……」
私にとって、それが精いっぱいの言葉だった。顔を赤くして俯いていると、アルフィノ様はそっと微笑んで、頷いた。
「ええ、もちろんです。王都で暮らされていたミシェル様にとっては、代り映えのない田舎でしょうから、もしかしたら住むのが苦痛かもしれません。どうでしょう、数か月間の訪問期間を取って、その後で正式な婚約の返事を頂くと言うのは」
「い、いえっ。あの……私は、私で、本当によろしいのなら……アルフィノ様との婚約を、お願いしたいと思っています」
ああ、みっともない。殿方の前で、こんな醜態をさらして。きっと王妃教育を受けていたころの私が見たら、鼻で笑ってしまうことでしょう。
けれど、彼は違うのだ。彼だけは、違う。私はきっと、彼の前では繕えないのだ。不思議な、白竜様と同じ色の瞳で見つめられると、まるであの方に寵愛を戴いているような気分になる。これが一目ぼれという感覚なのかどうかは分からないけれど、ここで手を握らなければ、一生後悔する。そんな気がした。
私がアルフィノ様に勇気をもって吐き出した言葉を受け取ったアルフィノ様は、驚いて目を丸くした後に、そっと手を握り返して、そのまま私の肩に、大切なものを扱うかのように触れた。
小さくても、少年のようでも、アルフィノ様はしっかりと男性の方なのだ。体温がゆっくりと伝わって来て、私はそっと体を委ねた。
「領地に早馬を飛ばしてください。婚約者殿をお連れすると」
「は!」
アルフィノ様は、私を右手で抱いたまま、従者にそう命じると、そっと微笑んで、体をゆっくりと離した。名残惜しい温度を見送って、アルフィノ様は静かに微笑んだ。
「では、お父上にお話ししましょう。あなたの気持ちをお父上に伝えてくだされば、婚約を調えるのは私とお父上の間ですべて済ませますから」
「はい。よろしくお願いいたします」
そう告げて、ゆっくりと淑女の礼を取れば、アルフィノ様は私をエスコートしてくださった。
その夜、父が帰ってきてから、アルフィノ様は私と共に父の執務室を尋ね、一か月間世話になったことを感謝した。そうして、促されて、私は父に、アルフィノ様との婚約をお願いしたいと告げた。
父は驚いていたけれど、やがて安堵したように息を吐き出して「そうか」と告げた。続いてアルフィノ様に目を向けて、静かに一礼をした。
「娘を、よろしく頼む」
「必ず、お守りいたします。そちらこそ、何かあれば必ず当家に連絡を」
「分かっている。ミシェル」
「はい、お父様」
「……フレイザード伯爵は、国のために様々なものを背負っていらっしゃる方だ。きっと、お前にも力になれることがある。彼を支え、国を護ってくれ。我がサファージ侯爵家の、誇り高き娘よ」
「はい。必ずや、アルフィノ様を支えて参りますわ」
こうして、婚約は恙なく調った。アルフィノ様は私に合わせて出発を一日遅らせた。まだ婚約時点での訪問ということなので、荷物は最低限に。馬車に詰め込んで、五日。それが、この家からフレイザード伯爵家までの距離だそうだ。
一か月間学院に顔を出していないので、今、学院での私の悪評がどうなっているかは分からないけれど、フレイザード伯爵家と紐づくのならば、社交界に出る必要はなくなる。私が公の場に出る最後の機会は、学院の卒業式だけ。
だからもう、私にとってはどうでも良くなってしまった。今なら、エリンの気持ちが良くわかる。
◆◇◆
馬車で五日の道程は、平和に通り過ぎていった。ふと気が付いたのだが、アルフィノ様の伯爵家があるのは、私が幼い頃、白竜様と出会った場所と、ちょうど山を挟んで裏手という場所である。距離としてはとても近く、実際には大きな山脈のせいで人が行き来するには厳しい場所。
けれど、何となく運命を感じたのだ。
「白竜様は、アルフィノ様のお家の近くに住んでいらっしゃるのですか?」
そんな言葉を投げかけると、アルフィノ様は噴き出して、ふふふ、と笑う。私が首を傾げれば、アルフィノ様は説明してくれた。
「白竜様は、ここ数百年人前に姿を現していらっしゃいませんよ」
「え?」
「ぼくたち人間には、彼が生きているかすらも眉唾なんです。ですから、あなたが白竜様のことをご近所さんのように言うのが、何だか面白くって」
「ご、ごめんなさい! そうでしたわね、私ったら……」
今の聞き方だと、気安く「近所に住んでるの?」と聞いているように思える。私は恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「今のフレイザード伯爵家がある、ルーセンの街外れ。そこは、白竜様の降臨の地とされています」
「降臨の地……ですか」
「ええ。建国王の祈りに答えて、天から白竜様が降臨された地。伯爵家がある場所の裏山には神殿があります。そこは聖地とされ、フレイザード伯爵家に名を連ねた者以外の人間が立ち入るのを禁忌としています」
けれど、話を聞く限りだと白竜様はフレイザード伯爵家の近くに住んでいそうだとも思う。私が白竜様に助けて貰ったのは、フレイザード伯爵家から山を挟んだところにある辺鄙な地だ。
とはいえ、今後はご近所さんのような扱いをするのはやめよう――と思うのだった。
「結婚したら、あなたには白竜様に奉納する歌や舞をお願いすることになるかもしれませんね」
「え? は、は、白竜様に!?」
「白竜様は芸事が好きで、歌や舞を喜ばれるそうです。ですから、フレイザード家に、それらに造詣のある女子を迎えられるのはとても喜ばしいことですね。あなたが頑張ってくだされば、白竜様も数百年ぶりに、眠い目を擦って出てきてくださるかも……」
「が、が、がんばります……わ!」
もしかしたら、もう一度あの方に会えるかもしれない。そう思うと、俄然やる気が出てくる。
こう思うと、音楽を嗜んでいたのだって、決して無意味なことだったのではないと思えて来た。
五日の道程を終えた先に辿り着いたのは、大きな街から出てしばらく馬車を転がしたところにある、巨大な屋敷だ。広い庭と、傍を流れる大きな透き通った川。水車が回る長閑な風景の奥で、どことなく質素な雰囲気はあるが、大きく美しい屋敷は佇んでいた。
複数台の馬車が乗り入れていくと、屋敷の前で止まる。私はアルフィノ様のエスコートを受けて、馬車を降りた。
「長旅お疲れさまでした。ようこそ、フレイザード伯爵家へ」
「ありがとうございます、アルフィノ様」
使用人に出迎えられ、私は丁寧に礼を取る。大きく長閑な牧草地という雰囲気の庭は、都会の洗練された庭園とはまったく違った趣があった。
「では、早速案内を――」
「坊ちゃん! 坊ちゃん!」
アルフィノ様が私を案内しようと歩みだしたところで、一人の男が駆け込んでくる。農作業着に身を包んだ彼を見て、アルフィノは目を瞬かせた後で、口を開いた。
「客人の前ですよ、トラビス。あと坊ちゃんはさすがにもうやめてください」
「あ、す、すいやせん! ですが坊ちゃん、大変です!」
何かトラブルだろうか。そう思っていると、男は突然こんなことを言いだした。
「お産です!」
私は、思わずえっ。と声を漏らした。すると、アルフィノ様は頭を抱えて首を振ると、トラビスと呼んだ男を見て、首を傾げた。
「アズマリー号ですか? それとも、フェリドゥーナ号?」
「フェリドゥーナ号です!」
「予定よりも早いな……ミシェル様」
「は、はい!」
アルフィノ様の顔に書いてあることを見れば、すぐに分かった。どうして婚約者を連れて帰ってきた日に「お産だ」なんて叫びに来たのかと、従者に少し呆れている顔である。
「……実は、うちの産気づいた牝馬が出産するみたいです。少し様子を見に行ってくるので、客室に通します。そちらでお待ちください――」
「ご一緒いたします!」
都会の令嬢を、馬の出産を見に誘うのも憚られたのだろう。少し控えめにそう告げるアルフィノ様に向かい、私は一緒に行く旨を伝える。すると、アルフィノは周囲にいた従者に荷物の運搬と、家から一緒に来たレーラに私の着替えを頼んで、てきぱきと動いて、屋敷の外にある厩舎へと私を連れて行った。
お産自体はもう終わってしまったようで、小さな仔馬が、母馬の傍に横たえられていた。とてもかわいらしい馬だった。くりくりとした目を見ていると、それだけで癒されるような――そんな馬である。
「かわいい……」
「珍しい。鬣の色が金色ですね。牝馬ですか? 牡馬?」
「牝馬です。かわいい女の子ですよ!」
小さな命を夢中になって見つめる。馬車を引いてくれる馬たちを見る機会はあっても、こうして小さな馬が生まれる瞬間に立ち会うことなんて一度もなかった。
知らないことを知れることは、嬉しいことだ。もう、妃なのだからと誰かに指さされることもない。
「うちの地域では、馬はとても大事な労働力です。なのでこうして、畜産にも力を入れているのですが……申し訳ありません、着いて早々に騒がしくて」
「いいえ、いいえ。生まれたての仔馬とは、あんなにも小さくてかわいらしいものなのですね」
目の前では、生まれた喜びを分かち合い、肩を抱き合って喜ぶ男たち。母であったフェリドゥーナ号は、どこかほっとした様子で我が子を見つめている。栗毛の綺麗な馬だが、それなりに老齢に思えた。
アルフィノ様はフェリドゥーナ号に歩み寄って、その頬をそっと撫でた。
「よく頑張ったね、フェリドゥーナ号。ありがとう」
そう告げて馬にも優しく微笑まれるアルフィノ様はとても素敵だった。
そうして、その場にいた人たちに婚約者と紹介された私は、顔を青くされた従業員の方々に平伏されてしまったのだった。
◆◇◆
「まったく、いきなりお嬢様を馬のお産にだなんて……アルフィノ様ってもしかして天然なのかしら?」
「レーラ。きっとこの家ではそれが普通なのよ。王都のような都会ではないのだから、生活が違うのは当たり前だわ」
良くも悪くも都会らしさに染まっているレーラが馴染めるかは少し心配はあるが、私はまったく不快な気持ちはなかった。少しだけ体についてしまった動物の匂いも、それなりに愛しい。
「でも、いいお屋敷ですね。土地が広いからか、全体的にスケールが大きいです」
「そうね。王都でこんな広さの屋敷を持とうと思うと、どれだけのお金がかかるのかしら」
規模だけで言えば公爵邸クラスだ。厩舎や果樹園などもある通り、王都にある貴族たちの本邸に比べればかなり異質ではあるものの、地方貴族の家に来るのはこれが初めてだ。私の常識なんて、何の役にも立たない。
私に与えられた客室も、私の自室の倍くらいの広さがある。大きめのクローゼットに服を移し終えたらしいレーラは、今は日用品の整理を行なっている。
「乗馬、習ってみようかしら」
「お嬢様!? 本気ですか?」
「確かに、王都じゃ貴族の娘は馬に乗らないけれど、ここは王都じゃないもの。馬に乗れたほうが移動が便利みたいだし、やってみる価値はあると思うわ」
乗馬は男の文化で、女はやらないもの。確かに、そういう風潮が王都にはあったけれど、もうそんなことに囚われる必要はないのだ。
こんこん、とドアがノックされたので、私ははい、と返事をした。すると、着替えを済ませたアルフィノ様が部屋に迎えに来てくださったので、私は立ち上がって微笑んだ。
「ミシェル様、お散歩に行きましょうか」
「はい!」
約束をしていた散歩に誘われた私は、アルフィノ様のエスコートを受けて、邸の周りを散歩することになった。
柔らかい日差し、爽やかな風。土と草の匂いがする、澄んだ空気。清流の川。隣を歩いているのは、私を気遣って、優しく扱ってくれる、素敵な婚約者。
(こんなに、普通の幸せ……ずっと、諦めなきゃいけないものだと思ってた)
私は隣にいる人を愛しく思いながら、そっと体を委ねて、共に長閑な時間を過ごした。