37. 蠢く悪意の向かう先
亡くなっていたと思われていたデナート様を見つけた翌日、私たちは王都に向かうべく、日程の相談を行なっていた。かなりの強行軍とも呼べるような旅程でセインズ侯爵領まで来てしまった。きっとこの先、私はこれ以上の行動力を起こせないだろうというほどの――箱入り娘として育てられた貴族の息女にしては、大胆な行動を行なったと思う。
そんな私の必死さに応えてくれた使用人や護衛たちは優秀というほかなく、私の我儘に具体的な道筋を与えてくれたのは彼らだった。
「旦那様より、奥様の望みは叶えて欲しいと、そう仰せつかっています」
「たとえ危険であっても、奥様が自分ですぐに動かなければならないような事態だとすれば、それはきっととても重要なことだろうからと」
彼らは疲れ切ったように、しかし清々しく微笑んでそう告げる。家を預かる私が出なければならない緊急事態に備えて、アルフィノは手を回してくれていたのだ。彼はいつだって、私の考えの一歩、二歩先を行く。フレイザード伯爵家が所有する中継地点は国内に数多あり、鴉たちが足を使って国中を駆け巡るための隠された施設であるらしい。
地図を広げて、彼らは王都に行くのに最も安全な中継地点をああでもないこうでもない、と議論し合っている。その様子を見ながら、オールストン男爵はひょいっと地図を覗き込んで、ぽつりとつぶやいた。
「やっぱ現場で働いてる人たちはすごいな」
「そうですね……オールストン男爵は、お疲れではありませんか。夢中でここまでやってきてしまいましたが」
「正直に言えば、もう足がパンパンだよ。俺だって夫人とあんまり変わらずに、侯爵家で蝶よ花よと育てられた箱入り坊ちゃんだからな。王家の血を引いてるってことは、国の頭に何かがあれば自分がそこに据えられることを覚悟してなきゃいけないわけだし」
日々鍛錬をこなしている護衛の方々はともかく、オールストン男爵もれっきとした侯爵家令息として育てられた王族だ。どちらかと言えば私やオールストン男爵のような貴族子女の方が多数派で、アルフィノのように体を資本にして動き回っている貴族の方が少数派だ。けれど、鴉に所属する国仕貴族たちは皆、日々足を使って稼いでいるのだろう。
「でも、馬術には自信があったから、こうやって遠乗りをしてもへっちゃらなのは、自分の今までの学びが活かせたような感じがして嬉しいもんだな。だからいい経験だなって思ってるよ」
「私も、それは同じですね」
「夫人は、毎日裏山登ってたんだろ? フレイザード家の侍女に聞いたぞ」
「もはや生活の一部と化しましたから、それほど大変ではありません」
何よりも、神官業の一つと思えば、苦行だった山登りも修行として捉えられた。ああして毎日山に登って祈りを捧げ続けたからこそ、白竜様に届いた、というのがイリーナ様の言葉だ。
不思議なことが起きる日常にもすっかりと慣れてきてしまった。今はそれこそが、私にとっての――不思議な力を受け継ぐ神官の一族、フレイザード家としての日常だと言える。
やがて数分後、護衛たちが集まって呼びに来た。どうやら、ルートが確定したらしい。
「本当ならば旦那様に迎えに来ていただくのが一番安全かと思いますが、拠点に行かねば向こうからの手紙は受け取れないので、向こうの状況が分からないのです。野営の物資も一晩分しか持ってきていないので、少なくとも領都には戻る必要がありますね」
「ええ。それなら、私たちが王都に向かった方がいい、ということね」
「はい。ここから北上して、補給地点を経由して王都に向かいます。奥様、また長い旅になりますが」
「ええ、平気よ。ありがとう。早くアルフィノに知らせなければ」
護衛たちからルートの共有がなされ、私たちは馬に跨って、聖地を出発した。聖地から出てゆっくりと北上していくと、何やら後方で護衛たちが会話をしているのが微かだが聞こえた。何か問題が起きたのだろうか、と声を掛けようとしたとき、私の馬と並走するようにぴたりと横につけてきた護衛が、少し切羽詰まったように告げた。
「奥様、落ち着いて聞いてください。後方から来ている集団、追っ手かもしれません」
「追っ手?」
「先ほどの林を抜けたあたりから、ずっと後方から追いかけてきている集団があります。念のため少し街道から外れてみましょうか。それで街道を進んでいくならば、ただの一般人かもしれません」
私は頷いて答えた。私へとそれを伝えた護衛は、前方で先導している者へと追いつくと、少し街道を外れて迂回するルートを進み始める。護衛たちは細かく布陣を変えながら、後方に注意していたようだが、その顔色は少しずつ悪くなって行っているように思えた。
「マジの追っ手?」
オールストン男爵が緊張感のある声で問いかける。彼らは顔を見合わせた後、神妙に頷いた。
「ビル、マイキー、お前らは奥様と男爵を連れて先行しろ。俺たちは少し速度を落として向こうの出方を見ながら攪乱してみる」
「分かった。奥様、男爵。私について来てください」
「待った。そっちの役目は俺がやるよ。っていうか多分、伯爵が俺にこの役目を押し付けて来たのってそういうことだと思うんだよね」
オールストン男爵は手綱をしっかりと握ると、抜群の手綱捌きで、ルートを徐々に逸れていく。慌てて、ほかの護衛もそれに続いた。
「俺が囮になるから、その隙に夫人を王都に届けてあげて。追いかけっこは昔から得意でね。何しろ、物心ついたころから、命を狙われる立場だったから」
「男爵!」
「大丈夫大丈夫。っていうか俺って今王都に近づけないし。あいつらの足並みぐちゃぐちゃにしたら、先に伯爵領戻ってるよ! じゃあな!」
オールストン男爵は、その言葉を最後に、馬のスピードを落としていき、そのまま追っ手を撹乱するために、護衛から弓矢を受け取ると、流鏑馬の要領で、追っ手の足元へと威嚇するように打ち込んだ。
不安定な馬の上でもぴくりとも揺れない体幹が、彼が馬術を修めていることをありありと説明していた。
彼に危険なことはさせたくはなかったが、手綱を握るのに必死な私は、彼を止められるだけの力を持たなかった。
結論、私には、彼の無事を祈りながら、王都へ一直線に向かうことしかできなかった。
護衛たちが連携をとりながら、私を安全に逃がそうと四苦八苦してくれる。私は指示に従って、先駆けしていった馬へと続いていく。馬のスピードが少しだけ上がり、私は小さく馬に「お願い」と告げて、手綱をしっかりと握り締めた。
器用に周囲を警戒しながらルートを選択していくビルとマイキーと違い、私は、何とか指示されたルートを走ることしかできない。
大地を蹴る馬の蹄の音が、妙に大きく聞こえて、それに伴って心臓の音もうるさくなってくる。後ろから迫りくる恐怖を、足りない想像力で頭の中に浮かべながら、それから逃れるのに必死だった。
足止めと攪乱を担当した男爵と護衛たちが、今どうなっているのか、私たちにはそれも分からない。けれどとにかく、私は今、護衛の彼らの足を引っ張らないことで必死だったのだ。
(なんて情けない……!)
青い草原がぐんぐんと後ろに置き去りにされていくのを見ながら、私たちは必死に走った。すると、前方で先導していたビルとマイキーが叫ぶ。
「奥様、川を超えます! お召し物が汚れるかもしれませんが、御免!」
「っ!」
下手に喋ると舌を噛みそうなほど、頬を叩く風を受けて必死に前を向くと、そこには大きな川が広がっていた。
これを馬で飛び越えるだなんて! そんな考えは、馬たちが自立してぐんぐんとスピードを上げ始めたことで、遥か後方に置き去りにされた。
フレイザード家で特別に訓練した馬たちは、崖の先を踏み切って、跳躍した。あまりにも鮮やかな跳躍は、馬の強烈な足の力によって、垂直方向ではなく水平方向にとんでもない推進力を生み出し、深みを超えた向こう岸側、川の中へと着地する。
途端、水しぶきが噴き上がり、驟雨のような強烈な水滴が、頭上からぼろぼろと降り注ぐ。髪が乱れ、服の裾が泥だらけになるも、馬たちはそのまま川から逃れるように岸へと上がっていく。
しかし、この大胆な判断が功を奏したのか、追っ手は向こう岸で待ちぼうけだ。普通の馬では、この川の深みは飛び越せないらしい。
馬を引っ張って泳がせれば何とか渡ることはできるだろうが、その頃にはすでに、私たちの姿を見失っているだろう。
護衛たちに先導を任せて森を駆って行けば、峠を下りた先に、巨大な王都が見えた。
普通ならば迂回しなければ辿り着けないルートを選び取り、 巨大な川を超えたことで、時間もかなり短縮できたのだ。
一息に思い切り走らせた馬を慮りながら、峠を丁寧に下りていくと、何とか王都へと辿り着くことができた。
それでも、襲撃者が現れた以上、王都のどこかにも敵が潜んでいると考えるべきだ。
護衛の者たちから離れないようにしながら、私はアルフィノとカルセル様が拠点としている小さな屋敷へと連れて行かれた。
びしょ濡れで泥だらけになった私を見て、カルセル様はぎょっとした反応をした。
すぐに駆け寄って来て、私をじっと見つめながら、そっと息を吐き出した。
「ミシェル……よく無事で。その様子だと、もしかして襲撃を受けたのか」
「はい……申し訳ありません、カルセル様。私の軽率な行動で、家の者たちを危険に晒してしまいました。オールストン男爵は、陽動と攪乱を引き受けて、途中で別れましたが……」
「……そうか。何、あの御仁とて、アルフィノが選んだ精鋭の一人なのだ。無事を信じよう」
「……はい」
カルセル様は素早く侍女たちに指示を出し、私の着替えや湯あみの準備を整えてくれる。
しかしその前に、私は必要なことを伝えるために、口を開いた。
「カルセル様。お伝えしなければならないことがあります」
「手紙によれば、ミシェルは予言を受け取って聖地に行ったんだね。何があったんだい?」
私は、聖地で起きたことを全て説明した。
建国妃フィリアの聖域に、匿われていた、デナート襲撃事件の重要人物。
平民の娘の姿をし、魔法を使い、愛する婚約者から贈られた魔識石のネックレスを、まだ持っていた、一人の女性のことを。
彼女が語った、襲撃事件の真実のすべてを。
私の話を聞いているうち、カルセル様はみるみるうちに、その美しい虹彩異色を丸くしていった。
自分の腕をぐっと握り締めて、その手は微かに震えていた。
「――デナート様が、ご存命? 本当に?」
「私が見たのが夢でなければ、事実ですが――夢ではないと思います。泣き崩れる彼女をお慰めした感触が、この両腕に、胸に残っております」
「そう、か……そう、だったのか。デナート様が、生きていらっしゃる……!」
カルセル様が絞り出した声は、歓喜と後悔に満ちていた。
デナート様を深く恨んでいると聞いていた彼。けれど、カルセル様が本当に恨んでいたのは、デナート様の姿をして、暴虐な振る舞いを続ける平民の娘だったのだろう。
その表情は、まるで――古くからの友人の生存を知って打ち震える、少年のように見えた。
「私のお力のみで、こちらにお連れするのは難しかったので――フィリア様にお祈りをし、もう少しだけ彼女を匿っていただけるように願いました。カルセル様には、デナート様のお迎えをお願いしたく」
「ああ、もちろん。陛下も、ずっと気にされていた……姿は違えど、事実デナート様であれば、言葉を交わせば、陛下の気も晴れよう。そして陛下の下にデナート様が戻れば、陛下は我々がずっと追っている、国を乱す真の逆賊を捕らえることを決意してくれるはずだ」
国王陛下にとって、デナート様が生きていること、及び彼女の口から真相を聞くことは悲願だったのだ。
自分が犯した罪の、そのせいで犠牲になった幼少期からの婚約者への、贖罪の機会を求めて、愚王と実の妹に蔑まれようとも、今も玉座にしがみついている。
文字通り、デナート様の存在は、この事件の解決の鍵だった。あとは陛下が愚王と謗られようとも、王命によって逆賊の断罪を宣言すれば、彼らに逃げる術はもはやない。
カルセル様は、直ちにデナート様を迎えに行く準備を整え始めた。私は、ふと気になって、尋ねた。
「フィーは?」
「アルフィノは今日も外に出ている。夜か、遅くとも明日には戻ると思うが――」
「そう、でしたか」
「うん。ミシェルはよく頑張ってくれた。予言を受け取ってくれてありがとう。フィーも同じ気持ちだと思う。ミシェルから手紙が来たとき、すぐにでも聖地に向かいたいと、そう言っていた。けれど、やるべきことがあったから――フィーはその私情を抑え込んで、今日も奴らの不正を暴くために駆けまわっている」
だから、とカルセル様は優しく微笑んで、言い聞かせるように告げた。
「ひとまず、ミシェルは一度休んだ方がいい。さっきから立っているのも辛そうだ。侍従たちに、フィーが帰ってきたらミシェルが来ていることを伝えて貰うから」
「……はい」
カルセル様に窘められて、私は一時休息をいただくことにした。
正直に言えば、もう足ががくがくだったのだ。侍女たちに湯に入れられて体と髪を洗われ、楽なワンピースに着替えさせて貰って、私はそのまま泥のように眠りについた。
眠りの中で、私は見た。
どこかの街角で、焦ったように駆けたアルフィノが、背後から強襲され、気を失う、不吉な夢を。
私の瞳の色と同じ、綺麗な赤いピアスが、闇の中で不気味に輝いていた。
はっと目を覚ました時には、朝だった。
嫌な予感がして、私は従者をすぐに呼ぶと、アルフィノが戻って来たかどうかを尋ねた。
すると、従者は顔を青くしながら、拳を震わせて、泣きそうな顔をした。
「奥様、アルフィノ様が――」
その先の言葉を聞いて、私は思わず吐き気を催して、茫然とその場で蹲ることしかできなかった。