36. 使命に準ずる者たち
デナート様の語り口は、話し始めて30分ほど経ってもなお、止まらなかった。それは、久々に会えた人への喜びのようにも、自分が人間であることを確かめる焦燥のようにも思えた。
二十余年を人の世から切り離されて過ごし、人間はおろか、動物さえもいない幻のような空間で過ごした傷は、決して浅いものではなかった。
「そのあと、私は目が覚めたら山奥の館にいた。――どこかは分からないわ。でも、見慣れない場所だった」
山奥の館――貴族の隠れ別荘だろうか。
別荘は、たいていは大きな都市や、のどかな田舎に持つものだが、稀に山の中や森の中といった、文字通り隠れ別荘を好んで持つ者もいる。俗世から離れて心を休めるために、人に見つからない場所、という安穏を得ようとする者らは、人の踏み入らぬ山や森の中に別荘を構える。
「部屋にある姿見を見て、私は絶叫した。だってそこにあったのは――もう二度と見たくもないと思っていた娘の顔だった。けれど、私が口を動かせば確かに鏡の中のあの娘の口も動いたし、腕を持ち上げれば同様になった」
目が覚めた時、体にあったのが強烈な違和感と痛みだった。鏡に姿を映せば、そこには他人の顔があって、けれど動作は確かに自分と連動している。そんな状況になっていたら、正気を保てるのだろうか。少なくとも、デナート様の行動は決しておかしくない。
デナート様は目を大きく開いて揺らし、頭を抱えた。思い出すのが苦しそうだが――私の目的のためにも、デナート様の心の安寧のためにも、吐き出せるものはすべてここで吐き出してもらった方がいい。そう思って、伸びかけた手が引っ込んだ。
「狂うかと思った。夢なら良かった。けれど、私の体に残る痛みは、肌を撫でる名状しがたい薄気味悪さは、決してそれが夢でないことを示していた」
「ええ……そうですね。ふつうは、決してあり得ないことです」
「ええ。でも、私は魔法使いだったから……その事実が、かろうじて私の理性を繋ぎ留めた。姿があの娘になっていても、私の目に見える景色は、いつもと同じだったから」
私は、思わず周囲を見渡した。この場所は、少しだけ不思議が多い。宙に浮かぶ透明な目、空を泳ぐ金糸の魚、微かに瞬く花びらのような羽。目を一度瞬かせれば幻のように消えてしまうそれは、けれど意識をするまではずっと視界の端に映る不思議なもの。
魔法使いの見ている景色だけは、決して嘘を吐かなかった。そこだけが、自分自身の現実なのだと、そう教えてくれるからだ。
「絶叫した私を嘲笑いに現れたのは、兄だった。兄は私を領地の屋敷で、奴隷として働かせると言い出した。……信じられなかった。同じ父母から生まれた血縁だと、信じたくないほどには、兄が怪物に見えて仕方がなかった」
「……ヒューアストン侯爵は、ただあなたを屈服させるためだけに、このようなおぞましい事件に手を貸したということですか」
「本当に、信じられないでしょうけれど、事実よ。我が兄ながら情けないわ」
次期王妃とされていた身内を貶め、あまつさえ平民の娘にその座を渡して、妹を奴隷に落とそうとするなどと、狂気の沙汰としか思えない。何が彼をそうさせるのかは分からないが、元より器の小さいと評判の人物だ。早々に後継に爵位を渡すべきとは、偽物のデナート様がまだ妃の座についていらっしゃった時期からずっと言われていたことだった。けれど彼は、まともに領地の経営さえできないのに、侯爵の座にしがみついている。
劣等感、だろうか。それ以外の動機があるのだとすれば、それは恐らくただの逆恨みだと思うのだが。デナート様にも、どうやら兄にここまで恨まれる理由は心当たりがないようである。
「デナート様は、平民として、奴隷にされるために、兄によって侯爵領に運ばれたと?」
「ええ。二度と領地の屋敷から出られないから、せいぜい覚悟しておけと嫌な顔で笑ったわ。だから、私は――そんな惨めな思いをするくらいなら、いっそ死んでやろうかと思って」
「……っ!?」
「走行中の馬車の扉を、思い切り体当たりで突き破って――そのまま、崖から落ちたの。その場所というのが、ちょうどこの聖地の裏手にある、高い山。セインズ侯爵領を経由して、ヒューアストン侯爵領へ行く道中の、ね」
デナート様はカップを両手でぎゅっと握った。冷めてしまった紅茶の、微かな温度が心地よいのだろうか。倣って指先でカップの底に残った紅茶を、カップごしに触ってみると、少しだけ思考が落ち着くような気がした。
彼女は今でこそ昔話のように語るが、しかしその当時は絶望していたのだろう。未知の魔法で他人の体と入れ替えられ、侯爵家の令嬢としても、王家の妃としても生きていけなくなったデナート様は、これから自分を疎んでいた兄に、ぼろ雑巾のように使いつぶされる日がやってくる。そんな現実に、昏い希望を抱かざるを得なかった。
死ねば救われる、という希望に。
「意を決して崖に身を投げた私は、けれどその途中で不思議な声を聞いたの。私を導くその声に向かって手を伸ばしたら、私は気が付いたら無傷のまま、そこに立っていた。……建国妃、フィリア様の墓碑の前に」
「フィリア様のお導きを賜ったのですね。崖から身を投げて、無傷だなんて」
「私も、当時は訳の分からないままにずっとあたりをきょろきょろと見回していたわ」
「……フィリア様に言われて、この閉ざされた小島に?」
「ええ。彼女は、私に語り掛けた。もしもあなたをこんな目に遭わせた者らに一矢報いたいのならば――その時を信じて、私と共に人の世から離れた場所で、助けを待つの、と」
そうして、デナート様は聖域に辿り着いた。この深い霧の中、そしてセインズ侯爵という守り人が守る聖地という特別な盾を得て、今日まで悪意から身を守り続けて来たのだ。
デナート様が生きていた真相は、これによってすべて明かされた。すべては、この湖底で国を見守る聖者フィリア様と、昏い希望を持って、しかし現状を打破しようと身を投げたデナート様の勇気の結果だったのだ。
そしてそれはまさに、二十余年が経った今、デナート様を脅かした者らに対する一撃必殺の矛と化そうとしている。
この事件に関して、鴉と王家は結託を示した。愚かなことを考える貴族を炙り出し、滅するために。ならば、デナート様が生きているというその事実さえ王家に伝われば、王家がその者らを排斥することは難しくないだろう。
だから、私が今、やるべきことは――素早く頭を回して、私は頷き返した。
「デナート様。ありがとうございます、話してくださって。お陰で、疑問が一気に解決しましたわ」
「そうですか……ねぇ、本当に、お兄様たちを……罰することができるの?」
「ええ。国に蠢き、王家を穢した悪意を、白日の下に晒し、断罪する。それこそが、私たちの役目ですから」
「あなたは……いったい?」
私ができることはあまりにも少ない。けれど、夫が誇っているその志だけは、よく理解しているつもりだ。だからこそ、私はフレイザード伯爵夫人として、その志を借りるように、言葉を述べる。
「私は国仕貴族です。国の安寧を守るのが役目です。あなたのように、国に潜む仄暗い悪意から、国を、民を守るために――私は聖者イリーナの導きに従い、ここへとやって来ました」
「国仕貴族……フレイザード家、どこかで……」
「デナート様。私はこれから、夫たちに今の事実を伝え、あなたを保護するために動いて貰います。申し訳ないのですが、今はまだ、安易にあなたを連れ出せるほど、万全な状態でここへ来たわけではないのです」
「そう……よね。きっと、あなた方だって、私が生きているだなんて思いもしなかっただろうし」
「そうですね……ですが、あなたが今日まで生きていてくださったことは、私たちにとって、この戦いに終止符を打てるまさに最強の一手だったと、そう思います」
そう告げれば、デナート様の瞳は丸く見開かれる。私はそっと立ち上がって机を回り、デナート様の細い枯れ木のような手を取り上げて、ゆっくりと握り締める。
「よくぞ今日まで生きていてくださいました。あなたのような方こそ、この国の妃に相応しい人です。あなたは――ご立派に、役目を果たしてくださっていたのですね」
「わ、たし……私、は……っ! 私はっ!」
デナート様は堰が切ったように崩れ落ちて、また涙を流した。きっとデナート様にとっては、フィリア様に言われたとおりに生きていても、何のために苦しみながらも生きているのか、それが分からない日々が続いていたことだろうと思う。けれど、それが今、まさに成就しようとしている。
彼女が生きていたからこそ、罪を証明できる人間が少なくとも二人はいる。
「誰も、来なかったら……どうしようとっ」
「はい」
「十年も、二十年も、一人ぼっちで……」
「はい」
「何のために生きているのか、分からなくなることもあってっ! 気が、狂いそうでっ!」
「……はい」
「でも、生まれて来た時から、妃になるためにって、そういわれてっ! 苦しみながら学んでっ! それを横からやってきただけの娘に乱されてっ! その娘に未来も希望も奪われてっ!」
「……」
わんわんと泣き出すデナート様は淑女ではなく、ただ一人の女の子のようだった。けれど私はその様子に、ちっとも違和感を抱かなかった。私はそのまま手だけではなく、彼女のやせ細った体躯をそっと抱きしめた。
「それでも、私は妃だから、国のためにっ! 国のために生きなきゃって思ってっ!」
「はい……ご立派です」
「だからあなたの姿を見たときに……やっと、やっと来てくれたって、そう思って……だから、私……私……」
デナート様は顔を上げて、涙でぬれた瞳を揺らし、手に力を込めて、私を見つめながら必死に訴えるように、叫んだ。
「お願い。待つわ……あなたたちが、国の悪意を刈り取るまで。だから、どうか……私を、連れて帰って。元の世界へ……苦しみながらも生きて、もがいて、今は憧憬さえ抱くほどに恋しい、あの世界へ……っ!」
「必ず。必ず、あなたを連れて帰ります。デナート様。今日まで、よくぞおひとりで、戦って来られました。あなたが守り続けてくれていた真実を抱き、罪を暴くのは私たちの役目です」
私はそのまましばらく、デナート様が泣き止むまでずっと、彼女を支えて、背中をさすっていた。やがて10分ほどして、過呼吸気味だった呼吸も安定して、涙も少しずつ止まったところで、私は思案の結果を彼女へと伝える。
「機を見て、あなたを迎えに来るつもりです。だからどうかそれまで、ここで隠れていてください」
「……分かったわ」
「不安なのはわかります。ですが、必ず――必ず、迎えに来ますから。もしも私が来られなくても、代わりに必ず、あなたを迎えに来てくれる方がいます」
きっと彼女が生存していることを伝えるべきは――彼だ。私はデナート様に断って、簡単に手紙をしたためると、外で待機していた護衛のうちの一人に、その手紙とあて先を託して、一足先に王都へ向かって貰うことにした。
もう一度家の中へと戻って、デナート様に一礼をする。
「デナート様。もしも、白竜様と同じ色を持つ男性が迎えにいらっしゃったら、その方についていってください。その方が来られなさそうだったら、必ず、私がお迎えにあがります」
「フレイザード伯爵夫人……ええ、ありがとう。お願いします」
「野営の準備もありますから、今夜一晩はこちらに駐在しますわ。話したいことがあればぜひ、お話しくださいませ。また少し、お別れになりますから」
「ありがとう……ありがとう……」
私は外で待機していた護衛やオールストン男爵に、今日は湖畔で野営をすることを伝えて、準備をして貰った。セインズ侯爵に許可は取ってあり、聖者の泉のほとりで、フレイザード伯爵家が野営を行なうことはそれほど珍しくないらしかった。歴史書を紐解けば、儀式のために七日七晩野営をしたという記録も見つかるほどだ。特に反対はされなかった。
デナート様には、念のためフィリア様の聖域から出ないようにして貰った。私はデナート様と眠くなるまで色々なことを語りつくし、彼女が安らかな寝顔で微睡に落ちたのを見送ってから、泉のほとりへと戻り、フィリア様の墓碑の前で祈りを捧げた。
「――建国妃、フィリア様。夜が明けたら、私は真実を持ち帰り、夫の元へ参ります。すべてに決着がつくまで、どうか彼女をお守りください」
祈りの言葉を並べ立て、私は白竜神楽を墓碑へと捧げた。すると、墓碑が微かに輝いたかと思うと、またあの閉ざされた聖域は霧に包まれて見えなくなってしまった。何度見ても、理外のことで、理解はまるで及ばない。それでも、死してなおこの世界へと力を残す、聖者と呼ばれる人たちの力の一端を確かに見たのだ。
「とんでもないな」
そんな私へと声を掛けてくるのは、オールストン男爵だった。彼はひらりと手を振って、私へと歩み寄ってきた。
「昔の聖者様っていうのは、色々と規格外なんだな」
「そうですね。私も……自分の魂に隠されていた力に気づくまでは、こんなに不思議なことが世の中にあるだなんて思いませんでした」
「だよな。俺も、魔法なんてものを見るまでは、きっと信じられなかったと思う。今だって半信半疑だ」
「オールストン男爵は、魔法を以前に見たことがあるんですか?」
問いかければ、オールストン男爵は少しだけ笑い声をあげた後で、月を見上げながらぽつりとつぶやいた。
「祖母が、魔法使いだったから」
「お婆様が……」
「強い魔法使いだったんだ。けど、家族にも知られないようにしてた。俺が見たのはたまたまだったんだ」
「強い……」
私の頭の中に、アルフィノの顔が過った。私は彼以上に、力の強い魔法使いを見たことがなかった。
「祖母は珍しい容姿をしてたんだ。一時期、社交界で話題になっていたけれど……祖母は最低限の夜会しか参加しなかったから、幻って囁かれててさ」
「そうだったんですか……珍しい? どんな?」
「虹彩異色だったんだ」
私はその言葉に、目を丸くした。そうして、必死に貴族名鑑を頭の中に呼び出して思い出す。残念ながら、もうすでに爵位を譲った後の侯爵、その夫人に対しては、それほどしっかりと学んだことがあるわけではなかった。
「金の髪に、青と緑の虹彩異色。祖母の生家は――フレイザード伯爵家って」
「……!」
「だから実は、俺とフレイザード伯爵ってはとこなんだよね。フレイザード伯爵の、祖父の妹らしい」
「そうだったんですね。そんなに意外なところに、繋がりが」
「親父も、よく見れば虹彩異色なんだ。ただ、かなり緑の方が青に近いから、ぱっと見じゃわかんないほどだけど」
オールストン男爵の瞳は、王家の色である金色だ。であるからこそ、今までにオールストン男爵がアルフィノと近い血縁にあることを知らなかった。
「俺はお祖母ちゃんっ子でさ。母さんが子育てをあまりやりたがらなかったから、自然と離れで暮らしてた祖母のとこにいって……色々聞いたんだ。その時に、もしも将来、お前が望まぬ王位を求められたら、当代のフレイザード伯爵に連絡を取ってみればいいって言われた」
「オールストン男爵が先の反乱で夫に頼ったのは、そういう経緯だったんですね。納得いたしました」
「それは何より。……俺さ、お祖母ちゃんのことが大好きだったんだ。お祖母ちゃんは結婚して国仕貴族からは抜けたけど、ずっとその志は持ってたっぽい。俺はそれがかっこいいと思った。だから……」
オールストン男爵はにっと明るく笑うと、月へと手を伸ばしながら、ゆっくりと告げた。
「俺、フレイザード伯爵の傘下に入って、鴉の仕事を手伝うことにしたんだ」
「まぁ……それは……」
「だから今後も長い付き合いになると思う。よろしく頼むよ、伯爵夫人」
「……そうですか。あなたが望み、夫が納得したなら、私から申し上げることは何もありませんわ」
「理解が早くて助かる。今回、俺が夫人に同行したのも、その初任務ってことだ。なかなか人使いが荒いよな、伯爵も」
「夫は、国を守る為なら手段を選ばない人なので。そういうところが、私は大好きですわ」
「ははっ。違いない。あんなにかわいい見た目してんのに、腹の中真っ黒だもんな。うちの兄貴もたいがいだと思ってたけど、上には上がいるんだな」
血と共に思想が繋がり、使命が生まれ、時代へと継承される。それは家が変わっても連綿と続き、耳を傾ける者にあり方を示していた。私は王都の侯爵家に嫁ぐことになっても、国仕貴族としての誇りを忘れなかった、トラベッタ前侯爵夫人に敬意を示した。