33. 神官としての決意
戴冠式まで、あと3か月。いよいよ目前に迫ってきた大きな催しに向けて、私はフィリップとアルビスを育てながら、白竜神楽の洗練へと意識を向けた。足運びに淀みなく、何度も繰り返し歌い上げるフレーズには音階も詞も一つも間違いのないように。体調が良い日にはそうすべし、と思い裏山の神殿へと足を運んでいる。お陰様であの小さな裏山の登頂には随分と慣れた。
フィリップは最近になってハイハイをするようになった。随分と元気のよい我が子は、今日もアルビスと一緒に四足歩行で、子育て部屋の中を楽しそうに散歩している。神殿から戻ると、乳母が嬉しそうに「今日は部屋の端から端までご自分で動かれたのです」と報告をしてくれる。順調にすくすく育つフィリップの傍には、大型犬ほどの大きさで、赤ちゃんの傍にぴとりとくっつく忠犬のように、フィリップの成長に手を貸してくれているアルビスの姿がある。
こんなにも姿が違うのに、本当の兄弟にしか見えないフィリップとアルビスを見ていると、できる限りずっと一緒に育って行って欲しいと願うばかりだ。
フィリップを抱き上げ、アルビスに声を掛けて、私は軽く屋敷内を散歩する。アルビスは四足歩行にもぎこちなさがどんどん取れて行って、呼べばすぐについて来てくれるようになった。そうして玄関へと辿り着いたころ、ちょうどアルフィノが帰ってきた。
戴冠式の段取りや警備について話し合ったり、まだ終わっていない不穏分子の排除に、アルフィノはいまだに定期的に王都と領地を往復している。いっそのこと王都にとどまった方が彼の負担も少ないのでは、と思うのだが、ルーセンで鴉たちから情報をかき集めるのも重要な役割だと言って、彼は馬を使って王都と領地を最低限の時間で往復している。
帰ってきたアルフィノに駆け寄ると、彼は優しく微笑んで、私をフィリップごと優しく抱きしめた。
「ただいま、ミシェル。帰って来て早々に君とフィリップの顔を見られて、幸運です」
「お帰りなさい、フィー。今、フィリップとアルビスと散歩をしていたの」
「そうですか。ぼくもご一緒しても?」
「ええ、もちろん。でも、疲れてない?」
「多少は。でも、一緒にいたいという気持ちの方が大きいので」
ちりん、と耳元でイヤリングが揺れて、私は目が釘付けになる。アルフィノが身に着けていた小さなイヤリングには、私の瞳の色と同じ赤色の宝石が取り付けられていた。
よく見ればイヤリングだけではない。ブレスレットに指輪、ネクタイピンに至るまで、彼が身に着けているアクセサリーは全部赤色で統一されている。私は途端に顔が熱くなる――と、アルフィノは首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いえ……あの、アクセサリーの色が」
「……ああ。えっと、その……」
すると、アルフィノも少しだけ気まずそうに目を逸らした。そうして、はにかんだように微笑んで、ぽつりとつぶやいた。
「赤色を纏えることは、幸運ですね」
「……っ」
「君の紅い瞳はとっても綺麗で……フレイザード家の遺伝子はちょっと強いらしく、虹彩異色の子は少しだけ生まれやすいそうなのですが、君の瞳の色の子が産まれてきたりなんてしたら、とっても愛してしまうかもしれません」
「嬉しいです……もしかして、王都にいる間もずっと?」
「はい。妻の瞳の色です、と言えば大体揶揄われますが。白に赤が映えるので、君の色に飾って貰っているみたいで、ぼくはありがたく思っています。しばらくはこのままで」
そんな風に言われたら、恥ずかしいからやめてくださいなんて言えるはずもない。アルフィノは恥ずかしいからなのか何なのか、少し気まずそうに瞳を逸らしていたけれど。
アルフィノは私を愛してくれていると思っているけれど、公の場で独占欲丸出しの格好を私にさせたりはしない。定期的に自分の瞳の色の装飾品を贈ってくださるし、ドレスは白を基調としたものが多い。けれど全身をこれで飾れ、なんて絶対に言わないし、人前で仲を見せつけるようなこともしない。
その代わり、二人になると最近はもうずっと甘えてくださるのだけれど。この間は一時間ほど、背後から抱きしめられたままうなじに顔を埋められ、そのまま動かなかった。相当に疲れていることは分かっていたので、私はずっと彼の頭を撫でていた。
「……もろもろが終わったら、ちゃんと話します」
「えっ?」
私が聞き返すと、アルフィノは「あっ」という顔をして、曖昧に微笑んだ。いつもの何らかの隠し事だ。
アルフィノの策謀には、私に知られない方が都合の良いものもたくさんあるだろう。そうなるならば、私は問い詰める気もないし、アルフィノが最も動きやすいようにしてくれれば構わないと思う。それで巻き込まれても大声をあげて相手を威嚇するくらいなら私は喜んでやるし、彼は私が好き勝手に喚いても、それを有利にして収集まで持っていってくれた実績がある。
だから、隠し事をするときにそんなに気まずそうにしないで欲しいのだけれど。けれどこれも、私が彼の仕事について詮索したからこうなったわけで、私は彼に心労を掛けている側の立場だった。だとすれば、私にできることは「気にしていませんよ」と伝えるだけだった。それと「あなたのことを信じていますから」と。
「まぁまぁ」
ふと、手元から愛らしい声が聞こえて、私はそちらを向いた。今、フィリップが――私のことを、ママって言ったかしら!?
「フィリップ? もう一度、もう一度言ってちょうだい?」
「だー! ぶー」
「だ、ダメ? たまたまかしら……」
まだ早いとは思いつつも、フィリップが私のことを母と呼んでくれた気がして逸ったのだけれど、たまたま発した言葉であったらしい。けれどアルフィノはをそれを見て、あっけに取られた様子でつぶやいた。
「ずるいなぁ……」
「たまたまですよ」
「もちろん、ぼくは家を空ける分フィリップに構えませんけど、ぼくのことも早くパパって呼んで欲しいです……」
「ふふっ」
珍しく子どものような我儘を言ったアルフィノを宥めながら、私はフィリップとアルビスを子ども部屋へと送り届けて乳母へと任せると、王都から急いで帰って来てくたくたのアルフィノを自室へと返して着替えをするように促した。
せっかくアルフィノが帰ってきたので、私は白竜神楽の進捗について確認して貰った。宮廷音楽家の皆さんにも既に楽譜は渡され、戴冠式で演奏される楽曲に加えて、白竜神楽の演奏も練習し始めて貰ったそうだ。ルーティナは元気に宮廷音楽家として活動し、もうすでに5つの夜会で演奏を披露したのだそうだ。先日、隣国の王族をお招きしての式典でも、しっかりと役目を果たしていた。
アルフィノ曰く、ルーティナから「白竜神楽はしっかりと仕上げておきますので、ご安心ください」と言われたとのこと。すっかりと吹っ切れて精力的に活動している様子に、私は心の底から安堵した。
神楽を舞い終えると、アルフィノの拍手が響く。一礼をして顔を上げると、アルフィノからそっと手を握られた。
「素人目にも、随分と良くなったと思います」
「ありがとうございます。毎日練習している甲斐があります」
「技術的にも表現的にもそうですが、何というか、神秘性が増しましたね。何となくですが、音楽家から巫女となったと言いますか」
「そうでしょうか……? けれどそう言って貰えるととてもありがたいです」
自分ではどのように変化をしているか分からないけれど、外から見た奇譚なき意見はありがたい。アルフィノはお世辞が上手だけれど、本当に問題があったらそれをきちんと伝えてくれる公平な目を持つ人だから信用できる。私に甘いからと、私のことを頭ごなしに肯定しない。
「最近は、裏山の神殿でもよく神楽を捧げさせていただいています」
「神殿でも? それは、白竜様はお喜びになっていると思いますが……大丈夫ですか?」
アルフィノには、初めて神殿に向かった際に、あまりの運動の出来なさにぼろぼろになってしまったところを見られているので、心配をかけて申し訳ないという気持ちになっている。けれど産休期間にすっかりと落ちてしまった体力を取り戻す名目でも、体幹をブラさないための体力づくりのためにも、裏山の登山はとても良い運動になった。
国中を探しても、私ほど山を登るのに抵抗のない貴族の女性はいないのではないか、と自惚れる程には、私はこの数か月で何度も登山を繰り返したと思われる。
「ええ。最近は体調も良くて、フィリップの癇癪を治めるのに皆も慣れて来たので、厚意に甘えて白竜様へのお祈りを捧げています。私にとって、フィリップやアルビスを育てるのも大事ですが、フレイザード家の女子としての役割を果たすため、神官としてのお役目を果たすのも大切なことですから」
「そう言っていただけると、たいへん心強いですが。分かりました、心配するのはやめておきます」
「ええ、そうしてください」
あまり心配をされると私も困ってしまう。白竜様に神楽を奉納する者として、私は当然のことをしているだけだ。それに、今後は子育てにも力を入れていくのだから、山を一度上ったくらいで倒れるような軟弱な体では困ってしまう。私はアルフィノの足を引っ張りたくないのだ。
それに――私の歌の愛され子としての力をちゃんと使うためには、何となくそうすべきという考えがあった。あれから夢の中でイリーナ様を探しても見つからないけれど、大事な時にはきっとイリーナ様が私へと予言を授けるはずだ。その時、イリーナ様や白竜様の望みを叶えられるようにすることが、私に課せられたお役目だと思っている。
神楽の練習を終えて、二人で裏庭でお茶を飲んでいた。こうして、一緒にお茶を飲んでいる時間が何よりも落ち着くものだった。他愛のない話をして、近況の報告をして、気づいた些細なことで笑いあって。
こんな穏やかな時間がいつまでも続いて欲しい。そう思いながらも、私は口を開いた。
「フィー。話があるんじゃないの?」
問いかければ、アルフィノは微かに体を揺らした。こうやって二人だけの時間を取り持ち、どことなく緊張感のある様子で黙り込むというのは、アルフィノにとって伝えなければならない重要な案件があるサインだ。彼は穏やかな時間を崩すのを躊躇って、機会を伺っていたようだが、私はそんなことで怒ったりはしないから、どうか話して欲しい。
しばらくアルフィノは口を引き結んで沈黙した後、私へと告げた。
「戴冠式までに、やるべきことがあります。黒魔術について……」
「……はい」
「疑惑がある者らを絞りました。これらをきっちりと探って何も出てこない場合は――この捜査を打ち切ることになります。黒魔術の存在自体が曖昧なものですから、戴冠が済めば、鴉はそれに伴って起きる様々な問題の対処に当たらねばなりません。期限は二か月――戴冠式の一か月前」
存在さえも眉唾な、未知の犯罪。ここで追い詰めきれずに逃げ切られてしまったら、もう彼らの尻尾を捕らえることは難しくなる。カルセル様にとっても、アルフィノにとっても、この二か月は勝負の期間だ。
彼らも、私も、黒魔術が存在し、それを使う何者かが国を脅かしていることを、何となく正しい推測だと感じ取っている。けれど、そうでない人間もたくさんいるし、いるかも分からない未知の犯罪者にかまけて、新たな王を悩ませる不穏分子を放置しておくわけにもいかない。
「絞りましたが何しろ証拠がない。本当にかかわっているかどうかも分からない。けれど、ぼくと父上は調べる価値があると思っている。ぼくは明日から二か月間、王都へ赴きます。恐らく、帰ってこられないかと」
「ええ、そうね。心配しないで。家とフィリップ、アルビスはフレイザード家皆で守るわ。フィーはフィーのなすべきことをしてきて。この国の未来のために……これからこの国で育っていく、あの子たちのために」
「ミシェル……」
もしもそんな理外の魔術を使うような犯罪者を相手にするなら、無事に戻れる保証はない。そんなことは、分かっていた。
でも、アルフィノはどんなに引き留めたとしても、フィリップのために、私たちのために、国のために――ここで退くことはないだろう。
だとすれば、私ができることは、彼が後ろ髪を引かれるような、後悔を彼の心の中に残すべきではない。立ち上がり、彼の傍へと赴いて、そっと後ろから椅子ごと抱きしめた。
「大丈夫。きっと白竜様やイリーナ様が見ていてくださるわ。私も毎日、お祈りする」
「ありがとう、ミシェル。もしも目を付けた彼らが、本当に恐ろしいことを企んでいるのだとしたら――必ず、暴いて見せます。鴉の名に懸けて」
彼は私の手をゆっくりと解くと立ち上がり、改めて私を抱きしめて、しばらくその感触を確かめていた。
翌日、アルフィノは王都へと旅立っていった。彼が集中できるように、手紙も最低限にしよう。決めた連絡以外は我慢して、私はフィリップとアルビスを守ること、そして神殿でアルフィノのため、国のために祈ることを続けよう。
神官として、私にできることをしよう。そう決めて、私は翌日から毎日、神殿へ向かって神楽を踊り、祈りを捧げることを欠かさなくなった。