32. フィリップの才能/内乱の真実
――それは、唐突に起きた出来事だった。居間で涼んでいると、突然ドアがどんどんと小さく音を立てたのだ。私はレーラと顔を見合わせた。
我が家には、あんなノックをする人間はいないからだ。一体何事かと思って、レーラと頷き合い、レーラはドアの方へ確認に、私は退路の確保のために窓を開けた。すると、レーラはえっ、と小さな声を上げたのだ。
「アルビス?」
レーラの声に驚いて、私は窓を持ち上げようとした手を止めて、ドアの方へと駆け寄った。すると確かに、ドアの向こうから「がうがう」とアルビスの鳴き声がするのだ。レーラに頼んでゆっくりとドアを開けて貰うと、そこには四つ足で歩く大型犬くらいの大きさのアルビスが、私をじっと見つめていた。
「どうしたの、アルビス」
アルビスはやっと寝返りが打てるようになったフィリップとは違い、もうすでに屋敷内を自在に闊歩できるほどに成長を遂げていた。たまに部屋で休んでいると自分から会いに来るアルビスをかわいがっている時間というのは、たいていフィリップがよく眠っている時間が多い。
アルビスは私の足元から飛びついて私の服をぐいっと咥えると、それを幼いながらにそれなりの力でぐいぐいと引っ張る。
「どうしたの? ついて来いって言ってるの?」
アルビスは私がそう告げると、口を離してそちらへと駆けていった。まだぎこちない四つ足の歩行は、私たちが歩く程度で追いつくことができる。アルビスが向かっていたのは、フィリップの寝室だった。そうして、部屋のドアを開けた途端――私たちは絶句することになった。
哺乳瓶やガラガラ、ぬいぐるみが宙を舞い、浮遊している光景に、私もレーラも顔を真っ青にしていた。
「何事なの!?」
「わ、わ、私、旦那様をお呼びしてまいります!」
レーラは私よりも幾分か冷静に、執務室へとアルフィノを呼びに行った。私は少しでも部屋の状況を把握しようと見渡せば、ベビーベッドの上に寝転がっているフィリップが、ご機嫌そうに声を上げながら手足をばたばたとさせている光景が目に入る。
――まさかこれって、フィリップの仕業!? そう思っていると、バタバタと足音が聞こえてきて、アルフィノとカルセル様が部屋へとやってくる。そうして二人とも部屋の中を確認すると、あんぐりと口を開けていた。
「これはいけない。フィー、少しフィリップを落ち着かせなさい。私は魔識石を持ってくる」
「分かりました!」
アルフィノは素早く部屋へと駆けこんで、フィリップを抱き上げると、あやし始めた。実に楽しそうなフィリップだが、父の顔を見るとことさらに楽しそうに手を伸ばす。けれどどうやら哺乳瓶やぬいぐるみからは意識が逸れたようで、それらはあらぬ方向へとゆっくりと漂っていく。その隙に戻ってきたカルセル様の指示で、使用人たちが一斉に宙に浮かんだ物品の回収へと向かうと、カルセル様は私を連れてアルフィノのもとへと歩いていく。そうして、手にしていた赤色の宝石のようなきらきらとした石をそっとフィリップに抱きしめさせた。
その途端、使用人たちが四苦八苦しながら追い回していた物品は床へと落ちていく。それらを掴もうと、使用人たちは重なり合って倒れてしまった。
きらきらした石を見つめるフィリップを見ながら、カルセル様はやれやれと言った様子で息を吐き出した。
「これは、フィー以上の魔法資質がありそうだ。まさか、この歳からこんな強力な魔法を使うだなんて」
「さっきのは、フィリップの魔法、ということですか?」
「ああ。だが、幼い頃からあまり魔法を使わせ過ぎるのは危険なんだ。だから強引に魔法の使用を止めるときは、この魔識石というのを使う」
カルセル様はフィリップが抱きしめている、大きな石を指して告げる。絶妙に飲み込むことも出来なさそうな大きさの石だ。フィリップが抱きかかえていても危険はなさそうである。
「フィーも赤子の頃に何度か癇癪を起こしては、周囲にあるおもちゃを壁に叩きつけていた。そのたびにこれを使って止めたものさ」
「そうだったのですね……」
「フィーはもう二度も白竜様の思念錬成を行なっているし、最近は魔法の修業もしているんだろう? だから血の中にある魔法の素養が大きく目覚めたのかもしれない。それに、ミシェルも歌の愛され子として予言の力にも目覚めたそうだね。そんな二人の子だから、相当に強い力を持っているかもしれない」
私とアルフィノは顔を見合わせて、侍女たちにあやされているフィリップを見つめた。アルフィノの魔法の力は、もはや国内でも眉唾となりつつある貴族の常識のうちにある力よりも遥かに強い。そしてそれを秘匿している。魔法の力の重要性を理解している貴族たちが、フレイザード家の魔法の力の強さを知れば、その血を欲するであろうことは想像に難くないからだ。
アルフィノの考察によれば、それは歴代の当主たちが定期的に命を削るような強力な魔法を行使しているためであるという。であるならば、もうすでに父に呆れられるほどに強力な魔法を行使し続けているアルフィノの子が、こうなってしまうのは仕方のない運命だったのかもしれない。私のことが関係あるかは、正直に言えば私にはよくわからない。
「フィリップにここまでの強い力があると分かった以上は、しっかりと対策をした方がいいね。今回はアルビスが呼びに来てくれたから大事には至らなかったが、赤子のうちに魔法を行使し続けるのは危険だ。我が家はただでさえ魔力が強い子が産まれ、成長阻害を受けているのに、さらに遅れてしまうかもしれない」
「分かりました。ありがとう、アルビス。フィリップを見ていてくれて」
「がう」
アルビスはもぞもぞとベビーベッドの上によじ登って中へと戻ると、楽しそうに魔識石を撫でまわしているフィリップに寄り添うように身を丸めた。アルフィノと相談して、使用人の見回りの頻度を増やしてもらうようにする。ひとまずそれで、騒動は落ち着いた。
使用人たちが慌ただしく後始末に走り回り、カルセル様はナタリア様のもとへと向かっていった。残された私とアルフィノがベビーベッドの傍に腰かけると、アルビスはベッドの柵をよじ登って床に下りて、前足をあげて私の膝へともたれ掛かった。私はアルビスの頭を撫でながら、アルフィノへと話しかける。
「本人に魔法の制御の自覚ができるまでは、油断ができないわね」
「そうだね。でも、これだけの力があると、どちらにせよ幼少期は魔識石を手放せそうにないな」
「その、魔識石ってどういったものなの? 知識がなくて」
「魔法に密接でなければ、耳慣れない言葉だよね。魔識石は、いくつか種類があるんだけど――いずれも、魔法の発動を補助したり阻害したりと、魔法使いに干渉する力を持つんだ」
フィリップが抱きしめている石をそっと指しながら、アルフィノは説明する。
「あれは、魔法の発動を阻害する石。あれに触れると、無意識的に発動している魔法を含めて、その力を抑え込んでくれるんだ。そもそも、赤ん坊のころにこんなに強い力を持っている子なんてほとんどいないから、フィリップの場合は特別だと思う」
「そうなのね。ほかには?」
「魔法の制御を補助してくれる石もある。こっちは青色をしてるんだ。魔法使いの中には、うまく自分の力を制御できない人がいて、そういう人は魔識石をアクセサリーみたいにして、いつも肌身離さずに持ってる人が多い。王太子妃殿下は問題なかったみたいだけど、デナート妃には国王陛下が魔識石のペンダントを贈って、それを肌身離さずに持っていたって聞いてるよ。……婚姻してからは、一度も付けているところを見たことがないそうだけれど」
少し知見が深まった気がした。魔法使いも、ただ特別な力を持っているわけではないのだ、と気づく。特別な力には代償や制約があり、それらを乗り越えるためには努力が必要なのだろう。アルフィノが魔法の力を自在に操るのが、彼自身の鍛錬の成果であるように。
甘えるように頭を擦りつけるアルビスをあやしながら、私はしばらくアルフィノの魔法の話を聞いていた。
◆◇◆
産後の休養から明けた私は、フィリップを乳母や侍女に任せ、貴族としての責務の再開を始めた。ルーセンの街に出て、やってくる客人との茶会をしていると、最近は皆が戴冠式の話題で持ちきりなのだそうだ。もう数か月後に迫った戴冠式に思いを馳せ、新たな王の誕生を楽しみにしている人は多いのだそう。
近年の王室でのごたごたを貴族たちは快く思っておらず、ガブリエル殿下の治世に期待してるのだ。彼はまだ若く、王太子であった期間も短いので、10年ほどは先王となる現国王陛下や、王太后となるシュリーナ様の補助を受けて政を進めていくだろうが、王太子となったガブリエル殿下は頭角を現し、今では多くの者がガブリエル殿下を支持しているのだそうだ。
傍に王太子妃として控えるラトニー様の評判も上々で、二代にわたって色事で王室を揺るがした王家を立て直す者としての期待がかかっている様子だ。国王陛下の意向で、自身の罪と息子の罪は歴史書に記録されるらしい。このように浅はかな考えを持った王が、どのように国に害意をばら撒いたのか。子孫たちが間違えないように、記録を残すと言って。
歴史は積み重なるごとに、価値を高めていく。それを悪用するか教訓とするかは、その後の子孫たち次第ではあるが。
そんなある日のこと。王都から戻ってきたアルフィノは、予想外の客人を連れてルーセンへと戻ってきた。行きつけのサロンへと呼ばれて向かえば、アルフィノの正面には予想外の人が座っていた。
「トラベッタ卿?」
「ごきげん麗しゅう、フレイザード伯爵夫人。お邪魔してます」
現国王の妹の子で、トラベッタ侯爵家次男のドラハット様が、ひらりと手を挙げた。彼は、内乱の重要人物であったのだ。下手をすれば処刑をされていてもおかしくない人物だが、どうしてこんな場所に――そう思っていると、アルフィノが着席を促したので、私はやや緊張した面持ちで椅子へと腰かけた。
「改めて紹介しますね。彼はドラハット・トラベッタ侯爵令息――もとい、ドラハット・オールストン男爵です」
「オールストン男爵……?」
「先日、内々で処理された内乱については、簡潔にお伝えしましたよね。ドラハット様を次期王太子にと持ち上げ、政治の実権をガブリエル殿下から奪うために、殿下の暗殺や内乱の先導を企てていた一派がいた件です」
私はアルフィノの言葉に頷いた。その様子を、ドラハット様は口出しをするでもなく、穏やかそうな様子で見つめていた。
「ドラハット様は、内乱の最中、トラベッタ侯爵領の端にある小さな屋敷にて監禁されていました」
「王族を、監禁……? 穏やかではありませんね」
「ええ。体には折檻の痕があったことから、どうやらドラハット様は望まぬ王位を求められた、というのが王家の結論です」
内乱で担ぎ上げられたドラハット様は、ガブリエル殿下と同じの御年17歳。まだ成人前の青年で、王位にと望まれれば、彼ができることはあまりにも少ない。
「本来ならば、王太子のすげ替えを求めて内乱を起こされた場合、当然ながら担ぎ上げられた王族は処刑、あるいは幽閉されます。ですがドラハット様はご自分の意思ではなく、また抵抗の意思を見せたために幽閉されたと情状酌量の余地があり、加えて未成年であったこともあり、処刑を逃れられました。……代わりに、内乱の指導者であった母君――現国王の王妹――トラベッタ侯爵夫人が生涯幽閉されることとなりましたが」
「トラベッタ侯爵夫人が……」
「母上は、国王陛下が色事に惑って民を振り回したのが許せなかったんだと」
ドラハット様は小さく息を吐き出して、ゆっくりと目を開いた。王家の証である金色の瞳にひどく疲れた様子を浮かべている。
「確かに伯父上は君主としてやらかしたんだろう。従兄のやらかしが決定打だった。……でも、ガブリエル殿下の評判はいいし、後ろ盾はあのイズラディア公爵にセインズ侯爵だ。ここに争いの火種を投下するのはなんか……俺だってガキなりに色々考えて、違うって思ったんだよ」
「内乱が起きれば、傷つくのも疲弊するのも民です。私兵のほとんどを平民が占めるので、当然ですが」
「それがなぁ……なんか違くねって思ったんだ。母上はガブリエル殿下の暗殺さえ成功していればとか喚いてたけど……ラトニー嬢の様子を見たらそんなこと、口が裂けても言えねぇよ」
ベッドの中で熱を出しながらも、顔を青白くしながらも気丈に笑うラトニー様。王太子であるガブリエル殿下を襲った悪意から彼を庇えたことを、誇りに思っていた。けれど、彼女だって、毒を口にして、平気であるはずがない。
ラトニー様と同い年であるドラハット様に、その光景がどんなふうに映っていたのか。ドラハット様は、ぽつぽつと絞り出すように告げた。
「あんなに細いのに、あんなに小さいのに、彼女は笑うんだ。大切な王太子を守れてうれしいと。俺はまだ子どもだし、母上からも帝王学なんて学んでなかったから、正直目の前で起きていることを、自分なりに解釈するので必死だった。そうしたらさ……あんな子に毒を盛らなきゃ俺を玉座に座らせられない程度の奴に、国なんて任せられなくね? って思ったんだよ」
王位継承権を持つ者の序列を変える最も簡単な方法は、王家の人間を暗殺すること。その王子の生まれがどれだけ尊かったとしても、どれだけ後ろ盾がぶ厚かったとしても、死人に口なし。国を運営していくためには、次の継承権を持つ者から王になるものを選ばなければならない。
今の王家に力はなく、ガブリエル殿下さえ退けてしまえば、いくらでも入り込める余地があった。けれどガブリエル殿下が即位すれば、そう簡単に事が運ばなくなる。
「ラトニー嬢はさ、えらいんだ。家格が低めだからと、お上の公侯爵家の令嬢にいびられても決して俯いたりしないし、公務で王太子殿下の傍にいるときはしっかりと背筋を伸ばして、完璧な王太子妃の役目を果たしてる。母上の主張は、従兄が王太子になったならまぁ分かるんだけど、ガブリエル殿下に変わった今は違うと思うんだよな。結局さ、自分が国王の母になりたいだけじゃんって思っちゃった」
「随分と素直なお言葉ですが……一人の貴族として、英断に感謝申し上げます」
「よしてよ。だからさ、ちょっと一泡吹かせたくて……ちょっとフレイザード伯爵に色々愚痴っただけなんだよね、俺は」
私はアルフィノを見る。アルフィノはそれに対して、完璧な紳士の微笑みで答える。
つまり――ドラハット様を内通者として利用したのでは、と思ったのだ。此度の内乱は、未然に防ぐことに成功しているが、それができるほどの情報をどうやって得たのか。
担ぎ上げられていた王族が内通者だったとすれば? メリットはある。未成年である彼には、処刑からの逃げ口があった。情報を渡す代わりに逃がしてくれと頼まれれば、アルフィノはそれを了承しそうだ。
アルフィノの目的は貴族たちの粛清ではなく、国の安寧を守ること。ドラハット様が齎した情報によって、限りなく流れる血を少なくできるなら、天秤にかけてドラハット様に便宜を図る方向性で決着をつけそうだ。
「そういうわけで俺はしばらくこのルーセンで厄介になることになったんだ」
「まぁ、そうなんですか?」
「ええ。戴冠式が済むまでは、ドラハット様に王都への出入りをしないようにと。イズラディア公爵の指示で、領内で匿うことになりました。現トラベッタ侯爵は夫人と共に幽閉され、次期侯爵だったはずの長男は急遽侯爵家が持つ子爵の爵位を貰って、一代限りの子爵となり、侯爵位は弟夫妻へと譲られました。そして今回の件で被害者とみなされたドラハット様は、国から男爵の位を与えられ、戴冠式まではこのルーセンで匿うことになりました」
「戴冠式が済んだら、王領へ移動して、小さな領地を貰って暮らす予定だ。兄弟そろって王位継承権を永久はく奪されたので、その子にも王位継承権が発生しないんだってさ。だから後は、普通に貴族として暮らしていいって言われたよ」
王位継承権を剥奪されたということは、王族籍からも抜かれたということだろう。にもかかわらずドラハット様はひどく楽観的というか、むしろすっきりしているようにも思える。彼にとって、王位継承権とは重荷だったのかもしれない。ドラハット様は口調も軽やかで、少し平民のような気楽さも感じるので、もしかしたら市井に下りて遊ぶのが好きな方なのかもしれない。
「とりあえず謹慎しとく予定だけど、何か力になれることがあれば言ってくれ。あんまり頭は良くないけど、運動だけは得意だ」
「ありがとうございます。……本日までお疲れさまでした。ごゆっくり、お休みください」
「ああ。じゃあ、また」
ドラハット様は紅茶を飲み干すとすっと立ち上がり、一礼をしてそのまま立ち去っていった。このルーセンの街に、また一人住人が生まれた瞬間であった。