31. アルビスの生態調査
私は、アルフィノが王都と領地を行き来している間、家で子育てに励んでいた。声を発して、私を求めてくる愛しい我が子を抱きあげて、優しく抱きしめる。心地よい温度と重みが、あまりにも愛しくて、ずっと頬が緩んでしまう。
「フィリップ。お散歩しましょうね」
「だー! ぶー!」
そう告げてあやすと、私は視線を感じて、そちらを向いた。すると、ベッドから乗り出して、きらきらとした瞳で私をじっと見つめるアルビスの姿がある。一緒に行きたいのかしら。そう思ってキャロに目配せをすれば、彼女は「かしこまりましたっ!」と元気よく挨拶をして、アルビスをぐいっと抱き上げた。
生まれたてとはいえ、フィリップより二回りほど大きな子は少し重みがある。アルビスは人懐っこく、今のところ拒否反応を示された者は屋敷内にはおらず、使用人が顔を出すと元気に挨拶をするそうだ。
フィリップを我が弟のように大切にしてくれる幼竜は、フィリップの散歩のときには必ず自分も付き添いたいと目で訴え、使用人に抱き上げられると満足そうにしている。キャロに重くないか、と尋ねれば「ちょっとつるつるのわんちゃんみたいなので平気です!」と返される。
一方のフィリップはたまにギャンギャンと泣いてしまうものの、赤子と考えればさほどおかしいことではない。そのたびに乳母や侍女が悲鳴をあげながらなんとか宥めている。私も参加しているけれど、フィリップの癇癪を治めるのは大変だ。
それでも、この子がかわいらしくて仕方ない。ゆりかごを揺らすたびに微笑んでくれて、私を母と認識してくれているのか、顔を合わせれば楽しそうに声をあげてくれる。
散歩を終えたら、次は昼寝の時間だ。ベビーベッドにフィリップを寝かせて、キャロがアルビスをベッドの上へと戻せば、アルビスは四つ足で器用によちよちと歩いて、フィリップの傍で体を丸めて座る。フィリップも、自分と一緒にいてくれるこの生物に興味を示し始めたのか、最近は良く手でぱしぱしと叩いている姿を見る。アルビスに「大丈夫?」と尋ねて鱗の滑らかな表面を撫でると「がう」と返事が来る。本当に賢い子だ。
私は座って、子守唄を歌う。イリーナ様に教わった白竜神楽の後半部――それはまるで子守唄のような響きだった。その歌を聞くと、アルビスは静かにゆらゆらと尻尾を揺らして聞き入るように大きくくぱっと口を開いて欠伸のような動作を取る。フィリップはしばらくは楽しそうに聞いているけれど、じきにすぐに眠くなってすやすやと眠ってしまう。それを見送ると、アルビスもまた瞳を閉じて、動かなくなる。
乳母に後を任せて、私は部屋を出た。すると、ちょうどセバスが私を呼びにやってきた。
「奥様。旦那様がお呼びです。執務室で」
「分かった。すぐに行くわ」
昨日帰ってきたアルフィノは、フィリップとアルビスのもとへと顔を出した後、また忙しそうに執務室に引きこもってしまった。まだ片付ていない諸問題に加え、アルビスのことも調査対象に加わってしまったので、彼の忙しさには納得が行った。
セバスに連れられて執務室へと向かうと、そこには生物学者の先生であるロイ様がいらっしゃっていた。彼は立ち上がり、私へとそっと礼を取ってくださったので返す。
挨拶もそこそこに、アルフィノの隣へと腰を下ろすと、ロイ先生とその助手の方と、アルビスに関する調査結果を聞くことになった。
「やはり、アルビスはまったく未知の生物ですね。国中にある文献を、三か月を掛けて寄せ集め、我が研究室の研究者総出でそれらしき生物を探してみましたが、それらしきものは見つかりませんでした」
「やはりそうですか……ただ、今のところは発育に問題はないのですよね」
「ええ。アルビスにはどうにも知能があるらしく、指示を出すと従ってくれるのです。あっちに行って、こっちに行って、物を拾って――そういう指示なら、アルビスは聞いてくれます。ですので、恐らく自身の生命維持に関しても、必要なものを理解しているのではないかと」
そう言えば、アルビスはたまに乳母のエプロンの裾を噛んでくいくいと引っ張るときがある。すると、フィリップが飲んでいる哺乳瓶をじっと見つめているのだ。それに気づいた乳母がミルクを持ってきて机の上に置き、アルビスを机の上へと運ぶと、アルビスはミルクをみるみるうちに飲み干したことがあった。
食事は生肉を好み、調理前の肉を与えてやると、実に美味しそうに小さな牙でがつがつと口の中へ掻き込んでいく。あとは、クリームのような舐めやすい甘いものも好きだ。
「アルビスに知能があるのは間違いないかと思います。ぼくもこの間、執務の間に少しだけフィリップとアルビスに構って、すぐに戻ろうとしたら服の裾を噛まれていやいやと首を横に振られました。甘えん坊ですね」
「私も、子守唄を歌ったらもっともっととねだられる様に、膝を前足でたたかれたことがあります。本当に愛らしいです」
「アルビスは気性も非常におとなしく、今のところ人に危害を加えるような動きは見せていません。ただ、こちらをご覧ください」
ロイ先生が鞄から取り出した資料を見せてくれる。そこには、経過日数と、それに対する体長や体重の変化が事細かに記載されている。私とアルフィノはそれをのぞき込んで、驚いて顔を見合わせてしまった。
「随分と成長が速いのですね」
「その通りです。最初は小型犬くらいの大きさだったのが、今はもう大型犬に迫るほどの大きさになっています。四足歩行での移動はまだぎこちないですが、最近ではベビーベッドの柵を自分で乗り越えようとするようになりました」
「これは……もしかして、将来的には屋敷の中で育てられないようになりそうですか?」
「そうですね……このままの成長曲線だと、そうなるかと。ただ、どこまで大きくなるのかまるで不明瞭ですから、何とも言えませんね」
私は、思い出の中にある、アルフィノが作り出した白竜様の思念を思い浮かべる。体長にして優に10mを超えそうな巨大な生物だった。もしアルビスが白竜様の子ならば、将来的にはそれくらい成長してもおかしくはないのだ。
「ただ、ヘルスチェックの結果は、まったく異常がないので、ひとまずはこのまま様子見となりそうです。いやはや、まったくもって不思議な生物です。まさか、生きているうちにこのような神話上の生物とも思える謎の命と関われることになるとは、生物学者冥利に尽きますな」
「申し訳ありません、ロイ先生。当家の事情故、もう少し秘密裏に育ててみるつもりです。お力をお貸しください」
「ええ、もちろんですとも。あなたは素晴らしい慧眼をお持ちだ。このような未知の素晴らしい生物を、金と権力に目が眩んだ学者もどきに見せられたなら、きっと今頃国中が騒ぎでしょう。私のような、智慧を得ることにしか興味のない人間を選んでくださってありがとうございます」
そう告げて、ロイ先生は一礼をすると、助手を伴って部屋を出て行った。それを見送って、私はもう一度資料を見る。丁寧に数値が記されたそれらの記録は、しかしどう見ても生育日記にしか見えずに、思わずくすりと微笑んでしまう。
「陛下は何と?」
「驚いていらっしゃいましたが、ひとまず当家に任せると。まだ、様子見ですね。アルビスほどの賢さを持っていれば、いずれぼくたちに真実を伝える手段を得て、何かしらを教えてくれるかもしれません」
「確かに……いつか人語を話し出すのではないかと、そんな気配すら感じてしまいます」
アルビスは賢い。それが、屋敷の全員の共通認識だ。フィリップがまだ赤子の盛りで泣き叫び手がかかる分、アルビスはそっと人間を慮ってフィリップに寄り添い、フィリップが落ち着くと初めて自分で甘えようとする。
「それで、ですね。実は、ガブリエル殿下にお手伝いいただき、また王家の書庫でアルビスに関する記述を探してみたんです」
「まぁ。ガブリエル殿下ったら、お忙しいでしょうに、お手伝いくださったのですか?」
「ええ。案内だけで結構ですと申し上げたのに、ガブリエル殿下は何かとぼくに構ってくださいますね」
「……アルフィノが、ガブリエル殿下の護衛についたことがあるから、ですか?」
するとアルフィノがぴくりと肩を揺らして、そうしてそっと視線を持ち上げて、困ったように笑う。
「気づかれているとは思っていたのですが、やはり気づいてましたか」
「はい……ジュード・セインディア、でしたか」
「ええ。その……立太子が済んでから側近や護衛の打診などが来ないようにと、なるべく彼を突き放して仕事だけをこなすようにしていたつもりだったのですが……逆効果だったみたいです」
「ふふ。ガブリエル殿下は昔から、意地っ張りな子に寄り添うのがお好きな方でしたから。プライドが高い兄がいたからでしょうか。うまく言葉を吐き出せない子を見ると、兄のことを思い出して、つい構ってしまうと仰っていました」
「…………。君に先に相談すべきでしたね。ですがぼくは、それを肯定するわけにはいかないのです。たとえ向こうがほぼ確信していてもね」
マーゼリックという気難しい兄を持つガブリエル殿下は、彼と仲良くなるためにとても優しく社交的な性格になった。もしもジュードがつんけんしてガブリエル殿下から距離を取ろうとする姿を演じていたのなら、ガブリエル殿下はそれはもうきっとかわいがってくださっただろうということは想像に難くはない。
「聖廟での一件があってから、ぼくと一緒にいらっしゃるときはずっと機嫌がよくて。ぼくがもう少し鴉の要職から外れた位置にいれば、本気で側近に召し抱えられていたかもしれませんね」
「ふふ。ですが、はとこなのですから、きっとガブリエル殿下は兄ができたかのような気持ちなのだと思います。スローンズフィール伯爵はもはや王籍から外された身ですし、セラフィーナ様も先日、婚姻に先んじて侯爵家へと入り、侯爵夫人としての最終教育を施されているようです。兄弟たちが次々にいなくなってしまって、寂しいのではないかと思います」
「兄……そうですか。ぼくは一人っ子ですし、アズラやルーティナが弟妹のようなものですが、ガブリエル殿下にとっては、血が近しいぼくに親愛の気持ちを感じてくださっているのでしょうか」
「ええ、きっと。ガブリエル殿下ったら、幼い頃は姉上にべったりだったのですよ」
強気なセラフィーナ様が、ガブリエル殿下を囲む令嬢方を睨みつけ、節度を保てと凛と叫ぶ現場は何度か見たことがある。私の知るガブリエル殿下は、とてもお姉ちゃんっ子だ。
アルフィノはしばらくガブリエル殿下の話を微笑ましく聞いていたけれど、咳払いをして、話題を変える。
「話が逸れましたね。実は城の書庫に、一つだけそれらしき記述の書籍を見つけました。陛下の許可を得て、該当部分だけ写しをいただいて来たのですが――こちらです」
アルフィノは鞄の中から数枚の紙を取り出して、机の上へと広げた。私はそのうちの一枚を手にして、内容を読み取る。
――転生、という言葉がある。体に定着している魂を放し、それをある程度の浄化を済ませた後、ほかの器へと移し替え、記憶や知識をある程度保持したまま、また幼少期から生を始める行為だ。
神獣にも寿命がある。白竜様は建国王にのみその事実を伝え、書き記したそうだ。神獣たちに番はおらず、生殖機能は存在しない。その代わり、寿命を迎える直前になると魂の一部を切り離し、新たな器を作り出す――それこそが、白竜転生。
その際、記憶は輪廻の淵へといくつか落としてくるそうだ。叡智と使命を受け継いで生まれてくる体へと完全に転生を済ませるのは、神獣が寿命を迎えて魂のみの存在になる時。
これらの資料を読んで、まさかアルビスは、と私は呟いた。それに大して、アルフィノはこくりと頷いた。
「今の状況をもっとも説明できる資料はこれかと」
「ということは、白竜様は寿命を迎えようとなさっている、ということ?」
「この資料を素直に読み解くならばそのようになると思います。この国にいらしてもう1000年以上が経ちます。いかに理外の生物といえど、白竜様も生死の輪廻から逃れられぬのならば、守護者として生き続けるための手段は必要だったと思います。それが、転生であったと」
「じゃあ、アルビスは白竜様の魂の一部から生まれた、新しい白竜様の器、ということなのかしら」
「というより、そのものでしょうね。記憶を落とすということは、叡智と使命を継承した新しい魂が生まれるということでもある」
「つまり、アルビスは……」
私はごくりと息を飲みこんだ。アルフィノは力なく笑いながら、少しだけ肩を竦めてはっきりと告げた。
「将来の、国の守り神です」
思わず、顔を青くして「えええ……」と呟いてしまった。まさか、本当に白竜様だったとは思わなかった。私は、この両手で抱きしめられる守り神に対して、どんな感情を持って接していけばいいのかよくわからなくなってしまった。
私たちが育て方を間違えたら、とんでもないことになるのでは? そんな想像が頭を過ってしまった。
とはいえ、これさえも未だに確定事項ではない。状況証拠からそうなのでは、という仮説が立てられる程度だ。結局、その日は一日頭の中をぐるぐるとアルビス=白竜様である事実が循環していたけれど、寝て起きてフィリップと共に楽しそうに声を上げて迎えてくれるアルビスを見た途端、悩みがどうでもよくなってしまった。