30. 愛しき命たち
生まれた赤子は、男の子だった。アルフィノと同じ瞳の色を持つ、小さな子は、産声もとても元気だった。少し容体が落ち着くと、アルフィノがやって来て、そっと私の手をぎゅっと握った。
「ありがとう。よく頑張ってくれました」
「フィー……ふふ、抱いてあげて。とってもかわいい子よ」
アルフィノは恐る恐る、といった様子で我が子を腕に抱いた。しっかり腕で首を支え、優しく抱き上げると、アルフィノはしばらく慈愛に満ちた瞳で我が子を見つめていた。自分と同じ虹彩異色を持つ子とぱちりと目が合うと、破顔したようにへにゃりと笑って、そっと指先で頬をつついた。
「かわいい……小さい……温かい。この子が、ぼくとミシェルの……」
「ええ。本当に、無事に産まれてきてくれて良かったわ。大切に、育てなくては」
「はい、もちろん。……」
「フィー?」
アルフィノは我が子を見つめて、しばらくの間黙り込んでいた。けれど、やがて決意したように、息子を私へと預けると、ベッドの傍に腰かけて、そっと私の頬へと手を置いた。
「国の在り方は、歪を正し、かなり快方へ向かっていると思われます。セインズ侯爵も、王太子妃の生家として社交に力を入れており、着々と力をつけています。そして、もうすぐ前倒しで婚姻式が行われ、ラトニー嬢は正式に王太子妃となります。トラベッタ卿を持ち上げ王太子を覆さんとしていた者らは淘汰しました。それなのに――」
「それなのに?」
「まだ、何かを見落としているような漠然とした違和感があるのです。果たして、この半年でケリがつけられるのか――鴉は今、手詰まりの状態で」
アルフィノは、私の頬から手を放して、ゆっくりと俯いた。
件の内乱未遂は、あまりにも鎮圧までの行動が早かった。それはアルフィノたちが水面下でずっと手を回してきたことの成果だと思っていた。けれどアルフィノは、まだ貴族たちの行動に疑問を持っている。
「でも――弱音を吐いている暇はありません。この子が産まれたのを見てしまったからには、必ず、その何かを引きずり出さなければ。何を犠牲にしようと。誰を欺こうと――」
「フィー」
「そういう逸る気持ちが湧いてきてしまいました。空回りしないように気を付けます」
アルフィノは苦笑するように頬を緩めた。私が出会ったころよりも、アルフィノも少し感情豊かになったかもしれない。いつも口元に浮かんでいる穏やかな優しい笑顔は、アルフィノの優れた武器の一つだ。けれど、最近はたまに、こうして頬を緩めて心のままに笑ってくれることが増えてきた気がする。
そんな会話をしていると、侍従の一人が部屋の前で何かを騒いでいるようだ。アルフィノは少し様子を見てきます、と告げて部屋のドアをそっと開けた。そうして、侍従から何かを伝え聞くと、目を丸くして、分かりました、と告げる。
「何か、大変なことが起きたようなので、少し様子を見てきます」
「大変なこと?」
「ぼくも何が何やら、という感じなのですが……確認して、君にも知らせます。少し待っていてください」
それだけを告げると、アルフィノは少し急ぎ足で部屋を出て行った。侍女に子を預けて、私はベッドに体を預けて、ゆっくりと深呼吸をする。
名前、付けようと思ってたのに。色々と考えていたけれど、アルフィノはいい名前が思いついただろうか。そう思いながら休んでいると、次にやってきたアルフィノは、少し様子が変わっていた。
タオルでくるんだ何かを両手に抱えている。私が少しだけ体を起こしてそれを見ると、私は口元を押さえた。
もぞもぞと動く、白い生き物。つるつるの鱗は蛇のようで、大きさは小型犬くらい。爬虫類のように――もっと言えば蜥蜴のように見えるその生物は、アルフィノと同じ色の瞳をしていた。アルフィノは少し茫然とした様子で私の傍へとやってくると、その生物を膝の上に置きながら、私を見つめた。
「……神殿から回収された卵を孵した結果、この子が生まれたそうです。どうやら、ちょうど君の出産のタイミングと同じくらいに産まれたようです」
「卵から……蜥蜴……蜥蜴?」
「蜥蜴のように見えますが、生物学者の言うことには、爬虫類によく似ているがまったく別の生物だと。現代の生物学では存在が説明できない、未知の新種の生物――と」
「あの……もしかして、なんですけれど」
爬虫類によく似た、けれど違う生物。白銀の鱗を持ち、青と緑の虹彩異色を持つ、そんな生物に当てはまるものと言えば――私とアルフィノは、同時に言葉を発した。
「「白竜様……?」」
私たちが同時に疑問を呈すると、アルフィノの足の上で寛ぐその珍妙な生物は、元気よく「がうっ」と声を上げたのだ。私は小さく「嘘……」と呟いた。
「生物学者たちには、ひとまず口留めをしておきました。この子の生態を調べて貰うのと引き換えに」
「まさか、そんな……では、白竜様には番がいらっしゃったのですか?」
「分かりません。ぼくも思い当たる文献があるかどうかを思い出していますが、そんな記述は見かけた覚えがなくて。白竜様が代替わりした、とか。幼年期の白竜様をお世話した、だとか。家の文献には、そういった記述を見かけたことがないのです」
私もアルフィノも、訳が分からないといった様子で困惑していた。アルフィノはつい一週間前まで王都で内乱の鎮圧に走り回っていたのだ。それがやっと終わって、妻の出産に立ち会えると思えば、その妻が出産前によくわからないことを言い出して、それに従ってみればそこには謎の有精卵が安置され、それが孵ったら自分が奉っている幻の神獣によく似た幼竜が姿を現した。
アルフィノはすごく頭が回る人だけれど、自分の知識で理解ができないことが重なると、流石にわけが分からなそうにしている。使用人たちも、アルフィノの膝の上でおとなしく撫でられている謎の生物に目が釘付けである。
「もう、正直に言えば何が何だか分からないのですが、ひとまず母上に頼んで、父上を呼んでいただきました。この子については、ひとまずそれから考えましょう。君は休養に専念してほしいです」
「分かりました……フィー。この子の名づけを行ないたいのですが、よろしいですか」
私は侍女に抱かれた我が子に目を向けて、アルフィノに問いかける。アルフィノはもちろん、と頷くと、セバスへと幼竜を託して、我が子を再度抱きなおした。ゆらゆらとゆりかごのように腕を揺らしながら赤子をあやす。
「名前、か……どうしましょうね。とても、悩んでしまいます。君は、何かアイデアがありますか? ぼくも色々考えていたんですが、どれもこれも良いなと考えてしまって、結局決められませんでした」
「私は……そうですね。いくつか候補を決めていたのですが……アルフィノと同じ色をした子が産まれたので、少しアルフィノの名に似た響きの名前を、付けてあげたいです」
「ぼくの名前に似た響き――ですか」
アルフィノは目を瞬かせて、手元の子へと視線を落とした。薄らと開いた青と緑の瞳で父を見つめる子の視線を受け止めて、アルフィノは少しだけ嬉しそうに頬を染めた。私はしばらく考え込んで、そうして告げた。
「――フィリップ。というのは、いかがですか?」
「フィリップ……いい名前ですね。ああ、でもそんなことを言ったら、君に似た名前にもしてきたくなってしまいました」
「ふふ。では、ぜひそれは、次に産まれてくる子につけてあげて欲しいです」
「……次を望んでも、いいんですか?」
私は頷いた。出産は想像を絶する苦しみがあったけれど、産湯に浮かんで元気に産声をあげていた子を見たら、すべて吹き飛んでしまった。貴族の家には子どもが複数人いた方がいいのは事実だ。私はアルフィノとの子ならば、あと数人産んでも構わないと思っている。
アルフィノは嬉しそうに微笑むと、小さな手に指先で触れながら、その名を呼んだ。
「フィリップ」
フレイザード家嫡男が名を授かった瞬間だった。そうしていると、セバスに抱かれていた幼竜ががうがう、と小さく吠え出した。私はその様子を見て、くすりと微笑むと、少し冗談を言うように告げた。
「あなたも、名前が欲しいんですか?」
「がうがうっ。がうっ」
「もしかして、言葉を理解しているのかしら……不思議な子。ねぇ、フィー。私、イリーナ様に夢の中で、この子のことも育ててあげて欲しいって任されたの。名前を付けてあげてもいいかしら」
「えっ。そうですね……家で養育するなら、確かに名はあった方が便利かもしれません。……ぼくらが名付けて良かったんでしょうか」
「分からないけれど、イリーナ様からは育ててあげて、としか伝えられていなくて」
「……本当に、ミシェルは予言の力に目覚めたんですね」
私だって、前もって歌の愛され子が予言を授ける存在だと聞かされていなかったら、決して信じていなかったと思う。けれど、私の夢の中に現れるイリーナ様は、時間が経てば経つほどに、明確に言葉を伝えてくださる。
アルフィノはそれに対して納得していた。私が魔法使いにしか見られない世界の話をしたからだろう。とにもかくにも、唐突に不思議なものであふれ出した我が家の状況に、一番当惑していたのは張本人たちだった。使用人たちはなぜか楽観的だ。
「何もかもが分からないことだらけで、ぼくには何とも言えませんが、しかしもしもこの子が本当に白竜様の子であるならば、御子を護るのはフレイザード家の役目でしょうね。父上と話し合いの上、陛下に奏上するかと思いますが、養育は我が家で引き受けるべきかと。白竜様と区別するためにも名は必要かもしれませんね」
「ええ。では――アルビス、というのはいかがでしょうか」
「アルビス……」
「この国の古い言葉で、神聖なる白、という意味です」
アルフィノがアルビス、と告げると幼竜は元気よくがうっと吠えた。どうやら気に入ったらしい。その日から、恐らく白竜様の子と思しき不思議な生き物であるアルビスは、我が家で暮らすこととなった。
一月ほど経つと肥立ちも良くなり、私は徐々に生活へと戻れるようになっていた。子育てのために家具を入れ替えた部屋に向かえば、窓辺の日当たりの良い場所で、大きなベビーベッドに、愛らしい赤ん坊と、幼い竜の子が並んで寝そべっている。アルビスはフィリップに寄り添うように傍にいてくれた。まるで、守護するように。見目に目をつぶれば双子のように仲が良く、未来の嫡男へと寄り添う愛らしい小さな竜を怖がる者は、ひと月も経つ頃には誰もいなくなっていた。
私はそっと一人と一匹に歩み寄ると、そっとフィリップの頬を撫でて、次にアルビスの眉間をそっと撫でた。滑らかな手触りを感じて、私は思わず微笑みが零れる。
一人は、私が腹を痛めて産んだ、愛しい子。一匹は、夫の先祖から託された、彼方におわす偉大なる竜の落とし子。
数か月の間、私は彼らとの穏やかな生活を楽しんでいた。