29. ちいさな命
巡礼の旅から帰ってきて以来、私の身の回りは少しだけ変化した気がする。視界の端に、光のようなものがチラついたり、透明な何かが空を踊っていたり。
途端に住んでいた世界が少し変化したような気がして、戸惑ったりもした。けれどそれは瞬きをすれば消えてしまうし、何よりも嫌なものという感じがしなかった。私以外の人には見えてないようだったので、最初は目で追っていたけれど、数か月もすれば慣れてしまって、それらは私の日常の一部になった。
説明ができないものに対して、最初の数週間は怯えたり、突然後ろに下がったりして侍女を驚かせたりしていた。幽霊を怯えるようにアルフィノにしがみつけば、大丈夫だと宥められた。
そういったやり取りを繰り返した結果、ようやく日常として受け入れられるようになったのだ。
当初はアルフィノにも相談していたのだけれど、彼の言うところには「魔法使いは皆見えている、自然と密接にかかわる力、あるいは魔法の残滓そのもの」だと思われる、と告げられる。それを聞いたとき、私は驚きのあまり何度も聞き返してしまった。
つまり、これがアルフィノの見ている世界なのだと。魔法使いたちは幼いうちからこれらを見ていて、であるからこそ、不思議な雰囲気を持つ子どもを、魔法の才ある子だと見分けることができるのだとか。
では、私は魔法の力に目覚めたのかと思えば、そんなこともなかったのだ。アルフィノが行なっている魔法の鍛錬を見学したり、アルフィノに魔法の使い方を聞いてみたりしたけれど、私の手のひらからは驚くほどに何の奇跡も生まれなかった。
魔法という理外の力に憧れはあって少しだけがっくりと肩を落としたものの、アルフィノの見ている景色の一端が見られるようになったことは、私にとって嬉しいことだった。アルフィノも、見えないものの話はしてもつまらないだろうと、今まで言う機会もなかったのだという。
(この世界には、私たちが知らなかっただけで、色んな不思議が眠っていたのね)
存外、そんなものなのかもしれない。私たちは、理解の出来ないものを拒み、思考を止めようとするけれど、こちらの世界の姿こそ、ほかの生物にとっての常識であるかもしれないのだ。そんな中で、魔法使いと呼ばれる人たちが、正しい世界の姿を唯一見ていられるのかもしれない、だなんて。
そんな妄想をするのが、最近はとても楽しい。屋敷で女主人の仕事をしたり、街に出てロータント子爵の社交を手伝ったり、そんな日々を過ごしている折――私は、突然息苦しくなり、屋敷の廊下で蹲ってしまった。あれよあれよと侍女たちに部屋へと運ばれ、街から医者が呼ばれて診察を受けたところ、こんな言葉をいただいた。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
その言葉に、私は目を瞬かせて、そうしてレーラと目を合わせた。レーラは目に涙をためて、顔を真っ赤にして嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔を見て、私は、現実を実感して、レーラを近くに呼び寄せて、そっと体を抱き合った。
私が懐妊したという知らせは瞬く間に屋敷中に広がり、使用人たちが入れ替わり立ち代わり、私のもとを訪れて祝いの言葉を述べてくれた。急いで実家へと手紙をしたためていると、慌てて帰ってきたアルフィノが、私の部屋へとやってきた。ベッドの傍の椅子に腰かけると、彼は私をじっと見て、はらはらとしている様子だった。私はそっとアルフィノへと微笑んで、告げた。
「あなたとの子を授かったわ。……うふふ、思ったより早かったみたい」
「ぼくと、君の、子……」
アルフィノは、まだ信じられないという様子で、私のおなかのあたりをじっと見つめていた。けれどやがて、上がっていた肩がゆっくりと下りていくと、顔を赤らめて、瞳を揺らしていた。そうして、私をそっと抱きしめて、大切そうに撫でてくださった。
この身に小さな命が宿ったということは、まだ実感ができるほどではない。けれど、医者の見立てでは来年の初夏ごろには出産があるとのことだった。これなら、戴冠式までに十分に体調を戻すことができそうだ。
私は大切に、この子を産むために自分の体を労わることに決めた。政務を減らして、家にいる時間を増やす。貴族に家に嫁ぐ女子にとって、子を作り、血を繋ぐことは何よりも大切なことだ。お役目を果たすことを考え、信用できる身内に仕事を任せることにしたのである。
すると、来年の春ごろから、ナタリア様がこの屋敷に滞在し、私の面倒を見てくださることになった。とても恐れ多いけれど、ナタリア様も早く孫の顔が見たいらしい。とても楽しみだから、一緒に元気な子どもを産みましょうね、と伝えられた。
そして何よりも、アルフィノがとても落ち着かなさそうだった。あの日から、アルフィノは少しずつ成長を遂げている気がする。まるで、父になるのに合わせるように。彼の体には、相変わらず謎が多い。
仕事から帰って来ては、私のもとへと通い、体調を気にしてくれる。それは以前までもそうだったのだけれど、このごろは頻度が増えた。彼がそわそわしているのが伝わってくる。
「フィーったら。まだ、生まれてくるのは先よ」
「分かってる……けど、何だか、落ち着かなくて。自分に子どもができるなんて、作らなければならないことは分かっていたのだけれど、いざ出来てみると、何だか不思議な感じがするんだ」
「もう。そんなことで、王都にひとりで行ける?」
「ひとりで行くよ。君を連れてはいけない。……手紙を書くから」
「ええ。家のこととこの子のことは、私に任せて。あなたはあなたの、仕事を果たしてきて」
未だ、黒魔術に関しては何も手掛かりが見つかっていない状態なのだそうだ。猫の手も借りたい状態なわけで、優秀なアルフィノは現場復帰を望まれている。戴冠式までは忙しくなってしまうこともやむなしと受け入れていたアルフィノは、私に子ができたことで、その後ろ髪を引かれるような思いを抱えることになってしまった。
ならば、その旦那様の背を押すのは私の役目だ。ベッドに腰かけて私の髪を優しく撫でる彼の頬に手を当てて、そっと口づけを交わした。しばらく、唇を重ねた後でゆっくりと体を離すと、アルフィノは少しだけ面食らった顔で、ぼんやりと私を見つめていた。
「ねぇ。この子が安心して暮らせる世のために、フィーは今、ここにいるべきではないわ。あなたの力が必要な人がたくさんいるの。だから、少し会えない時間が続くけれど、私はちゃんと待っていられるわ。あなたの帰りも、この子の生まれも。だから――行ってきて。私の分まで、王家の皆さんをお支えしてきて」
そう告げれば、アルフィノはそっと私の額へと自分の額をくっつけて、くしゃりと笑った。安心したように、思慕するようにゆっくりと。指を搦めて、温度を感じあって、至近距離で目が合えば、すべてを伝え合えた。
「行ってきます。出産前には戻れるようにするから」
「はい。行ってらっしゃい、フィー」
そのやり取りを最後に、アルフィノは王都へと発っていった。私は、話を聞いてフレイザード家へと訪れてくれる人と会いながら、お祝いの言葉や贈り物をいただきながら、季節の巡りを見送った。冬を超えて、春へ。ナタリア様が一緒に暮らしてくださるようになって、穏やかな日々を送りながら、私はアルフィノを育てていたころの話をお聞きしていた。
アルフィノは小さなころは甘えん坊だったそうだ。いつも「とーさま、とーさま、かーさま、かーさま」と二人のあとをついて回っていたのだそうだ。アルフィノは弱ったり酔っぱらうと幼児退行するので、その様子には納得が行ってしまった。
今だって、本当は甘えん坊なのだろう。けれど彼は年上で、私は年下だから、彼は私を甘やかしたいと思っている。私も末っ子だから、甘やかすよりは甘える方が得意なので、つい彼には甘えてしまうのだけれど、たまには甘えてほしいと思うときもある。彼が帰ってきたら、たくさん甘やかそう。そう思って、膨らんできた腹をそっと撫でた。
王都から届く手紙は、週に一度。小まめに書いて近況を知らせてくれる彼に応えるように、私も同じように手紙を書いては返した。ここ二年ほどはずっと一緒にいたので、これほど会えないのは初めてだったけれど、彼がたっぷりと愛を囁いてくれたおかげで、穏やかな気持ちで待つことができた。
季節が巡る間に、王太子を挿げ替えるための大規模な内乱が起こりかけたという話を耳にした。けれど、どうやら鴉が主立って動き、内乱が起きる前に鎮圧ができたそうで、今の王家に表立って反逆を企てた一派はほとんど処理が終わったそうだ。
内々に処理されたおかげで国にはさほど混乱は広がっておらず、多くの国民が、新たな王の誕生を待ち望んでいる。彼らが長く戦ってきた戦いが、静かに終りへと近づいていく。
アルフィノが帰って来たのは、出産予定日の一週間前だった。久しぶりに見た彼は、何だか逞しく見えて、私は思わず涙を流して、微笑んで迎えた。彼は私の傍へと駆け寄って来て、ベッドのそばに座ると、私の手を握って、感極まったように微笑んだ。
「ただいま、ミシェル」
「お帰りなさい、フィー。お仕事お疲れさまでした」
もはや王家の婚約者という立場を失い、一人の伯爵夫人となった私が、彼のためにできることはあまりにも少ない。けれどせめて、彼の帰るべき場所で微笑んでいたい。そう、強く願ったのだ。
出産予定日の二日ほど前に、私は不思議な夢を見た。あの白い少女が、私へと何かを伝えようとしたのだ。夢の中で竪琴を鳴らす彼女は、私へ向かって、告げた。以前よりも、随分とはっきりと聞き取れるようになった。
「――神殿、に。い、って――」
私は目を覚まして、すぐにアルフィノにその旨を伝えた。もしかしたら、これが予言なのかと、そう思えたからだ。夢の中で、イリーナ様が伝えてくださる言葉には、意味がないとは思えなかった。私は身動きの取れない体で、アルフィノにそれだけをかろうじて伝えると、苦しくなるのを必死に我慢していた。
その日の夜、また夢を見た。イリーナ様が、また予言を落としたのである。
「――もう一つの命も、あなたが、育てて――」
もう一つの命。それが何を意味するのか分からないまま目を覚ますと、アルフィノがそれを持ってきた。
裏山にある神殿に向かうと、祭壇の真ん中に、安置されるようにそれが置かれていたという。丸く大きな、白い塊。自然界には存在するかさえも怪しいその謎の物質に対して、アルフィノは告げた。
「生物学者によれば、これは何らかの生物の有精卵だと言われました」
「有精卵……?」
「つまり、この中からは何かが生まれる、ということです」
私はますます困惑した。けれど、イリーナ様が伝えてくださった言葉通りのことが今、現実で起きているならば、私はフレイザード家の花嫁として、その役目を果たさなければならない。そう思いながら、私はその卵を丁寧に孵して欲しいと伝えた。アルフィノは私のただならない様子に頷き、屋敷の一室に丁重に安置し、生物学者たちに卵を孵すための調査を命じたそうだ。
そして、迎えた私の出産日。強烈な痛みに耐えながら、私は必死に戦った。ナタリア様の、侍女たちの、助産師たちの声を聴きながら、我が子を産むために必死に。
どこからか、産声が聞こえて来た。そうして、私は初めて、自分の子をこの手に抱いたのである。