05. 舞い込んだ縁談
遠い昔の夢を見た。私の心に深く残る思い出が、何度も無意識下で甦る。
飛竜への恐怖。けれどそれを払拭する、私が懸想する白銀の雄々しき竜の姿。
脚を振り下ろしてしまえば容易に命を散らすことができる、小さき人の子である私に、あろうことかあの方は、まるで大切なものを扱うかのような慈愛に満ちたまなざしを向けて、私の幸せを望んで去っていった。
「やっぱり、白竜様が好き……」
人外への懸想なんて、この社会で持ってはいけないもの。けれど、私の心はあの日、あの方に囚われてから決して離れることがなかった。
天蓋のついたベッドで目覚めて、私は頬に伝う涙の痕にそっと指を触れた。エリンと別れて二週間。父に言って終業パーティーは休ませて貰い、学院から正式な許可を賜って、私は第三学年を一日も出席することなく終えられることが確定していた。
けれどぽかりと空いた穴は、埋まることはなく。トゥアン先生の夫妻が音楽を奏でて慰めに来てくださるけれど、この半年間、毎日話し続けた得難い友人が突然姿を消してしまった事は、私の心を強く縛り付けてしまった。
いつも身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれるレーラは、私の姿を見ると、痛々しそうに瞳を伏せる。王子殿下に婚約破棄をされた時でさえ、こんなに痛々しい姿を家族に見せたことはない。私にとっては、傷ものになるより、王妃となる名誉を失うことより、大切に想っていた友人がいなくなったことの方が苦しい。
着替えを済ませて、湧き上がらない食欲に首を振り、下へ降りて食堂を目指す。ドアを開けると、そこにはいつもはいない人の姿があった。
「お。ミシェル、久しぶり」
「お兄様?」
太陽のような笑顔を浮かべる兄、ユーリス・サファージ。私とよく似た金色の髪に、赤茶色の瞳を持つ美しい男だ。長身の一家であるこの家の例に漏れず、兄は上背が190近くあるすらりとした長身の男で、剣術や馬術を好むいかにもと言う風貌の侯爵家長男。
このサファージ侯爵家は、いずれは兄が侯爵の地位を継ぐことになっている。そんな兄は20歳になった今、領地とこの王都を往復しながら、領地経営の勉強中である。兄は自分は政治家の器ではないと思っているのか、特に王城に務める気はない様子である。奥方はとある侯爵家のご令嬢で、領地にある屋敷にて、後継ぎを産むために頑張っていらっしゃる。
「ここ一年ほど、お兄様を家で見なかったものですから、驚きました。お帰りになられたのですね」
「ああ。一応、もう間もなく社交シーズンだからな」
「そうでしたわね……」
気が重い話だった。このフォネージ王国では春から夏にかけての数か月間が社交シーズンであり、王室の主催である豪勢なパーティーや、各家で開催されるホームパーティーが嵐のように雪崩れ込んでくる。宰相と言う立場の父がいる以上は、私たちは社交界から切り離せない存在である。
昨年は婚約破棄騒動もあり、王室からの気遣いで、この社交シーズンをまるまる休んでしまった私だったが、今年はそうもいかないだろう。悪意を持って近づいてくる他家の方々に、ニコニコしながら相手をしなければならないと思うと気が滅入る。
「お前は、社交界には出たくなさそうだな」
「それはそうですわ。お父様やお兄様にも申し訳ないと思っております。私のせいで、後ろ指さされてしまうのは……」
「父上にとっては好都合のようだが。社交界では貴族たちの勢力図や、個人の思想や価値観が透けて見えるからな。子爵令嬢ごときが流した根も葉もない噂を理由に面白がって我が家に近づいてくる輩が無能だと判別しやすいと、そんなことを言外に言われた」
お父様はそういう人だ。どんなことでも利用して、国のためになることをする。私はそんなお父様のしたたかさを心から尊敬している。
レティシア嬢は相変わらずのようだが、噂によればマーゼリック殿下はおとなしくなったと聞く。レティシア嬢と会う時間を削り、再度王太子教育を願い出たという話も耳に入っている。
どういう心境の変化だろうか、とも思ったが、先日のエリンとの問答が思い起こされる。もしかしたらエリンは、最高のプレゼントを私に残していったのかもしれない。私が軽んじられることのないように、彼女は自分の国仕貴族という立場を使って、王に諫言を残して去っていった。
そう考えると、いつまでもベッドに顔を埋めてずるずると引きずっている場合ではない。エリンは私との別れ際に、私を想ってあんな行動を起こしてくれたのかもしれない。そう思うと、途端にすっと気持ちが楽になってきた。
エリンと言う素敵な友人に恥じない人間にならなくちゃ。そう思えたからだ。
「ありがとうございます、お兄様。私も、いつまでも下を向いてはおれませんわね。サファージ侯爵家の娘に相応しいように、社交界でも堂々としてみせますわ」
「少し吹っ切れたか?」
「ええ。悲しいこともありますけれど、ちゃんと前を向かねば叱られてしまいます。私も、侯爵家のためにできることを始めなければ――」
そんな話をしていると、父と母が食堂へやってきた。そうして、上座へと父と母が腰を下ろすと、食事が運ばれ、朝食会が始まった。母は微笑んで久しぶりに食堂へと姿を現した兄を労い、朝食会は和やかに進んでいく。
すると父から名を呼ばれ、はい、と答えれば、父の口からは驚く発言が出た。
「お前に、縁談が来ている」
私は目を瞬かせた。マーゼリック殿下にやっかみを受け、傷ものとなったこの身を受け入れてくれる家。それも、お父様が私のところまで持ってきたということは、お父様が問題なしと思った縁談ということだろう。
母はまぁ、とかわいらしく口元に手を当てて微笑み、兄は安堵したように息を吐き出した。一家全員に心配をかけていたことを申し訳なく思いつつ、私は問いかける。
「縁談……ですか? 私への?」
「ああ。先方からの申し入れだ。フレイザード現伯爵、アルフィノ様から」
「フレイザード伯爵……?」
私は、頭の中に入れた貴族名鑑を捲る。けれど、その名に覚えはなかった。ということは、エリンのアムール家と同じく――。
「地方貴族の方でしょうか? 申し訳ありません、家門に覚えがなく」
「無理もない。お前の言う通り、フレイザード伯爵家は地方貴族だ。イズラディア公爵領の端にある交易都市、ルーセンの管理を任されている」
「まぁ……」
イズラディア公爵領と言えば、サファージ侯爵領と隣接する巨大な領土である。その規模は王国随一と言われており、もはや小さな公国と言って差支えがないほどに、交通、物流、教育、全てが行き通っている素晴らしい領地だ。
ルーセンの街と言えば、確か領地の境にある巨大な山脈を挟んで向こう側にある、他領からの商人たちが盛んに交易を行なっている街だ。まさに、イズラディア公爵領の入り口とも呼べる活発な街である。
「ということは、フレイザード伯爵家は、イズラディア公爵家の傘下の家なのですね」
「そうだ。縁談の相手、アルフィノ・フレイザード伯爵は今年で22歳。少し年上だが、話が合わないと言うほどではないだろう」
そして、まさかの伯爵位を襲爵している若き伯爵からの縁談。私は驚いて目を瞬かせてしまった。
「ほかにも、お前にとっては良い条件が揃っている。まず、フレイザード伯爵家は国仕貴族だ」
「え? 国仕貴族……それは本当ですの?」
「ああ。フレイザード伯爵家の庇護下に入れば、お前はこれ以上王家からの不当な干渉を受けずに済むだろう。もしもマーゼリック殿下がお前にちょっかいをかけようものなら、イズラディア公爵家から直接王家に苦情が行く」
イズラディア公爵領は、今や国の財源の要。国庫を潤し豊かさをもたらしているイズラディア公爵は、王城内でもかなりの地位を築き上げている。お父様はイズラディア公爵と仲が良いようだし、私たちにとってはイズラディア公爵家は強い味方だ。
「それと、これは私は深くは知らぬことだが、フレイザード伯爵家は、白竜ゆかりの家であるらしい」
「白竜様の……?」
「それについては、本人に直接窺うと良い。いきなり婚約と言っても難しいだろうから、フレイザード伯爵は一ヶ月ほどの王都の滞在予定の期間中に、お前の都合に合う日に時間を作って我が家に来てくださると仰っている」
私の心臓は、少しずつ脈打っていた。エリンと同じ、国仕貴族の家。そして、白竜様にゆかりがあるとのこと。
――会ってみたい。まず湧いて出た純粋な気持ちはそれだった。
「……お前がフレイザード伯爵との顔合わせを望むなら、社交界に出ずとも良い」
「!」
「新しい婚約者との顔合わせ期間と言えば、文句など湧くまい。フレイザード伯爵は社交界に不参加であるらしいからな。二人でゆっくりと語らうと良い」
「……あ、ありがとうございます、お父様。私、フレイザード伯爵とお会いしてみたいです」
そう告げれば、父は少し安堵したように息を吐き出した。時間の都合をつけるので、迎える準備をしておけと言いつけて、私の縁談への新たな一歩が始まったのだった。
フレイザード伯爵の訪問の予定が立ったのは、その三日後だった。私は朝から、侍女に甲斐甲斐しく飾り付けられていた。新緑を思わせるライムグリーンの明るいドレスは、王都の最先端の流行りのデザインだ。母から贈られた、家門の侯爵家を表す美しい花のデザインがあしらわれたネックレスを身に着けて、私は侍女に連れられてホールへと向かう。傍には同じように簡易礼服に着替えた兄の姿があった。
「お兄様?」
「父上に立ち合いを頼まれたんだ。俺も、今度こそミシェルを変な男にやりたくないんだよ」
「まぁ……お兄様ったら」
ユーリスお兄様は、小さい頃から私を溺愛していたと思う。であるからこそ、私が王子殿下に私刑を告発されたと聞いた時には領地からすっ飛んできてどういうことだと喚いていた。愛情はとてもありがたく感じるが、少々過保護のきらいがあるのが玉に瑕である。
門前で出迎えに向かっていた使用人のうちの一人が屋敷へと飛び込んできて「いらっしゃいました」と告げると、一礼をして、使用人の列にすっと加わる。すると、もう一度ドアが大きく開いて、その人物は姿を現した。
使用人に囲まれた中で、一人だけが明らかに異彩を放つ。歩くたびに揺れる白銀の髪は糸のように細く繊細で、右の瞳がサファイアを思わせるような深い青、そして左の瞳がエメラルドを思わせるような美しい緑。私はその姿に思わず魅入ってしまって、息を飲みこんでしまった。
彼は私に気が付くと、そのまま優美な足取りで私の前へと歩み寄ってきた。上背は――目線が、私よりもやや上という程度な、小柄なもの。それどころか――。
22歳と聞いていたその歳とはかけ離れた印象を持つはかなげで中性的な雰囲気は、まるで14歳くらいの青少年のそれで。
「ミシェル・サファージ侯爵令嬢。お会いできて光栄です。フレイザード伯爵家現当主、アルフィノと申します」
優雅に腰を折り、紳士の礼を取る彼は、そう告げて柔らかく微笑んだ。
(か…………か、かわいらしい……)
私が思わず口に手を当てて、思ってしまったのはそんなこと。私よりも5つも年上の伯爵がいらっしゃると思っていたから、その愛くるしい姿に不意打ちを受けてしまった。
彼の姿は明らかに少年のそれで、年下には見えても年上には見えない。これで22歳というのだったら本格的に訳が分からない。目線も私よりも微かに上くらいの低い背、少しハスキーな女性と言われても納得する、声変わり前の少年のような声。
白竜様と同じ色を持つ、絶世の美少年は、困ったように私の目の前で微笑んでいる。
「ご令嬢?」
「はっ。も、申し訳ございません。フレイザード伯爵。此度はご足労頂き、まことに感謝いたします。お初にお目に掛かります、ミシェル・サファージと申します」
私は慌てて淑女の礼を取る。すると、彼はきょとんとした後に、また柔らかく微笑んだ。
一挙一動があまりにもかわいらしすぎる。まるで天から遣わされた使徒のような美少年の姿をした伯爵は、お兄様にも丁寧にごあいさつを差し上げて、顔合わせの茶会をするために設置された庭先のテーブルへと着く。
春先の陽気は、外で日を浴びながら茶会をするのに絶好の天気だった。私と兄、そしてフレイザード伯爵が椅子に腰を下ろすと、使用人たちが恭しく茶や菓子を運んでくる。顔合わせは穏やかに始まったのである。
「此度は突然の縁談にもかかわらず、お相手いただきありがとうございます」
「いえ、とんでもないです。私は色々と訳ありの身ですから、私を選んでいただけるなんて思わなくて。とても、驚いてしまいました」
「そうでしたか。お父上がイズラディア公爵に渡されていた、お嬢様の釣書を見て、イズラディア公爵からお話を受けておりました」
「イズラディア公爵から……左様でしたか。イズラディア公爵にはたいへん良くしていただいているようで、本当にありがたく思います」
やはり、イズラディア公爵経由の縁談であった様子だ。父の人脈と人徳故なのだろう。大切に話を進めなければ、と思ってしまった。
かわいらしい容貌を、眺めているだけでも幸せになれる。天使のごとき美少年である面持ちの彼がふわりと花ひらくように微笑むと、うっとりと目が蕩けてしまうような気持になる。
(……あら?)
けれど、どうしてだろうか。何となく、彼とはどこかで会ったような、そんな気持ちにさせられた。こんなに特徴的な容姿を持っている、特に光彩異色など、一度出会えば忘れるはずもないだろうに。いったい、どこで出会っただろうか――そう思って思考に耽っていると、兄が口を開く。
「ところで、フレイザード伯爵は随分とお若く見えますね。……私もこれでも20なのですが、フレイザード伯爵は、22とお聞きしていたのですが」
兄が、一番聞きたいことをストレートに聞いてしまった。確かに気になっていたけれど、そういう話になったらさりげなく切り出そうとしていたのに! そう思いながらも、私はフレイザード伯爵の二の句を待つ。
すると、彼は困ったように笑いながら「いやぁ……」と語りだした。
「お恥ずかしながら、我が家系は第二成長期が大変に遅く……」
「そ、そうなのですか?」
「血のせい、ということなのでしょうか。我がフレイザード家の血には、白竜様の血が混ざっていると言われています」
「白竜様の!?」
私は思わず、口元を抑えてしまう。どくどくと心臓が早く打つのを覚えながら、興奮を抑えきれずに、足元がそわそわとしてしまう。
「我がフレイザード家の興りは建国時。我が祖先は建国王の側近の戦士であったと言われています。建国王を魔物から庇い、死の淵に立たされた祖先を、白竜様は慈悲深く、自らの血を分けてお救いくださったと言われています。それ以来、我が一族は白竜様から血を分けられた、彼の聖獣の分身として、国に仕え、国を見守ることを仰せつかった国仕貴族の一族なのです」
「あの……もしや、白竜様と同じ、その美しい瞳は……」
「我が家の特質な遺伝子故、と言われています。極めて珍しい光彩異色という体質的特徴は、我が家に関してはその限りではないのです。この瞳の色を持つ者は、例外なくフレイザードの血を引いているとも言われています」
二つの瞳の色が違うのは、虹彩異色という珍しい特徴として表現される。生まれるのは極めて珍しく、私も人の顔に顕現しているのを見るのは初めてだ。
フレイザード伯爵は、軽く手を振る。すると、その手には、先ほどまでは握られていなかった、白いバラが一輪握られ、私へ向けてまっすぐに差し出されていた。私は、どんどん私の頬が赤く、熱を帯びているのを感じていた。
「驚いた。フレイザード伯爵は、魔法使いなのか」
「はい。我が一族の血にはいまだ強い魔法使いの遺伝子が残っており、この身には白竜の加護たる魔法の力が流れております。我が一族は、国から白竜を奉り、守護する守り人の任を与えられており、彼の聖獣を讃えるための儀式も、我が家に伝わっております」
私は、震える手で薔薇を受け取った。とげが丁寧に取り除かれた美しい一輪の薔薇は、私の手の中でそっと納まっていた。
「フレイザード家は、一般的な貴族家庭から考えれば、様々なことが理解の及ばぬことであることは確かです。国仕貴族という立場の上、国の矢面には立たず、国の裏で忘れられつつある白竜様への信仰を護り、その叡智を伝え続けることこそ我が伯爵家の役目」
「フレイザード伯爵……」
「高位貴族に嫁ぐことほど華やかな生活は得られないでしょうし、そもそも私は社交界に出ない身です。華やかな貴族社会から離れ、地方で白竜様をお慕いし、その信仰を次代に伝える役目を担う影の貴族。ですがもし、あなたがそんな我々の思想をご理解くださるなら」
フレイザード伯爵はそっと胸に手を当てて軽く一礼をする。見た目は私より年下の美少年でも、言葉を交わせば、この人物が私よりも年上の紳士であることが分かる。
「この地上の誰よりも大切に、我が妻へと迎えさせていただくことを、兄上の御前で誓わせていただきたく思います」
「まぁ……」
私は思わず、頬に手を当てる。どきどきが、止まらない。彼のまっすぐな言葉が心へと染み渡ると、名状しがたい幸福感に満たされる。
これは、エリンの容赦ないストレートな物言いが、私にとってとても気持ちの良いものと似ている気がする。目の前の小さな紳士が、愛らしく微笑むのに、その言葉はどこまでも真っすぐで立派な紳士のもので。
敬愛する白竜様の血を持つ、小さな守護者の伯爵は、そっと私の手を取って跪いた。兄がやれやれという顔をして、そうして「俺は退散するから、後は二人でごゆっくり」と告げて出て行ったのを見送って、私はあたふたしながらも、フレイザード伯爵の好意を受けていた。