27. 聖者の泉を目指して
王都に滞在したひと月弱を経て、私たちは南部へと出立した。王都を反対にして、向かうはセインズ侯爵領。ラトニー様のご生家であるセインズ侯爵家の保有する雄大な領地、そこに私たちが次に巡礼すべき場所がある。
セインズ侯爵領は温暖な気候を生かして、果実類・穀物類の生産のほか、広大な森林地帯を持ち、それらの開拓と林業を同時に行ない、安定した事業を推し進めている。王太子妃の出身地となる大きな領地は、イズラディア公爵領と比べれば農耕地帯が目立つものの、大きな領都には、それなりの人の出入りがあり、流通も盛んだ。
「セインズ侯爵家も、とても古い家ですね。興りは神官の家系だったと思います。大昔には占星や祈祷というのは、国を治めるための重要な手段で、それらを行なう神官たちには高い地位が与えられていました」
「歴史書には、占星によって災害を察知し、それらに対して白竜様と共に対策を講じたとか。今よりも遥かに、魔法と密接な関係にあった人々だからこそ、占星や祈祷によって、多くの智慧を得られたのですね」
「そうですね。今や、神官の地位はほとんど平民に等しいです。神を崇める文化はこの国にはほとんど現存せず、ぼくらフレイザード家や、セインズ家などの起源を神官とする家が、白竜様への信仰を語り継ぐ程度。敢えてこの国の神は誰かと説明するならば、多くの人は王族、と答えるかもしれません」
国はとうに、白竜様への信仰を失った。それが白竜様の望みだったかもしれない、というのはアルフィノから聞いた通り。神の手を離れた人の国は、徐々に理外の力である魔法の存在を忘れ、何の力も持たぬ人々が身を寄せ合って形作る複雑な社会になった。
「セインズ侯爵の弟君である、マーロン子爵がご案内をくださるそうです。まずは、領都にある領主邸へ向かいます」
「分かりました。セインズ侯爵領に来るのは、初めてですが――」
ちらりと窓の外を見れば、柵の向こうで、畑を耕す麦わら帽子の男たちが見える。畑には葉がたくさん生えていて、反対側には水田が広がっていた。黄金色に揺れる穂が、とても美しい。
「豊かな農耕地ですね。王都に入って来て、食卓に並ぶ多くの穀物はセインズ侯爵領から頂いたものだとか」
「そうですね。農業が盛んなのは、占星や祈祷により天候を予知する手段が多かったからでしょうか」
「天候が分かれば、農業は大助かりでしょうね。作物がどれくらいできるか、品質が良くなるかは、ある程度天候によって左右されてしまいますから」
「ふふ。やっぱり君の視点は、妃教育を受けた方のそれですね」
アルフィノに言われて、私ははっとした。貴族の令嬢の多くは、この風景を見て、このようなことを考えないのだろうか。自然と身に着いた癖が出ていたようで、私は思わず縮こまった。アルフィノは困ったように微笑んだ。
「悪い、と言っているのではないですよ」
「もちろん、分かっていますが……私はもう、妃になる人間ではないのです。ですので、このように美しい景色を見たのに、領地の経営や作物の話などをする女であるのは、やめたい気持ちが少々」
「そこは君の思うようにしてほしいですが。ぼくとしては、君と話せるだけでうれしいから、どんな話題でも構いませんよ。生家の特殊さで言えば群を抜いている自信があるので、様々な知識を詰め込まれましたから」
アルフィノは、私が妃教育で手に入れた知識に対しても容易に話に乗ってくれる。彼は学院に通っていないとのことだったが、それが信じられないほどに高い教養を持っている。幼い頃から自分の自由な時間を削り、多くのことを学び、身に着け、今こうして国の陰で尽くしている彼を見ていると、報われて欲しいと願ってしまう。
「フィーはいつから、フレイザード家の当主としての教育を受けたんですか?」
「ぼくは……最初は、4歳の頃。父上から最初に言われたことは、家が経営している孤児院に行って、子どもたちと仲良くなりなさい、という課題からでした」
それは、セバスから聞いたあの話だろうか。セバスは、カルセル様が初めてアルフィノを連れて孤児院に来たその日に撃ち抜かれたと言っていたが。
「孤児院の子どもたちは、親を失い、傷を負った子たちです。そんな彼らの心を開くのは容易なことではありません。けれど、父上はぼくに、この孤児院の経営者の子という立場を与えました。当時、ぼくに与えられたカードはそれだけ――それだけで、しっかりと心を掴んで見せなさいと。ふふ、流石にそんな言い方はされませんでしたけど」
「カルセル様は、フィーにお友達を作ってほしかったのでは?」
「まさしく、その通りです。セバスともそこで会いました。――諜報員は、人に取り入るスキルがとても重要です。相手のことをよく観察し、相手の求めるものを突き止め、それに合わせる。そういう技術が必要です。ぼくは幼いなりに、たくさん考えていたと思います。皆と、友達になりたかった」
小さなアルフィノに課せられた、最初の課題が、友達を作ること。とても微笑ましい教育だと思うけれど、間違いなく諜報に役に立つスキルであることに、私は改めてフレイザード家の凄さを覚えた。そして間違いなく、カルセル様はアルフィノを愛を持って育てたのだと。
「それと同時に、体づくりを始めるために、父上から色々と教え込まれました。同年代の子と比べてしっかりと体ができていたと思います」
「私、フィーは思ったよりも筋肉質で、抱きしめて貰ったときに驚いた記憶があります」
「そうですね。体型は、飽くまでも少年に見えるように。けれど、その姿を見て侮ってきた相手を、確実に制せるように。戦闘訓練は、習慣のように行なっていました。体というのは、どのような仕事においても資本ですから、幼いうちから基盤を作っておくことはかなり重要なことでした」
アルフィノは、近衛兵長の不意打ちを受け止められるだけの技量がある。ガブリエル殿下の命を狙う暗殺者を炙り出す作戦は、アルフィノにその技能があるから実行ができた。現場で命を張る彼らにとって、一つの技能を身に着けることは、可能性を広げるうえでとても重要なことだった。
「それからは、様々な人に成りすますための教育も。紳士教育、淑女教育から始まり、使用人、料理人、商人――様々な職の人に成りすますための訓練を受けました。おかげさまで、ぼくは特に怪しまれるようなこともなく、潜入捜査員を引退できました」
「本当に、お見事というほかありません。でも、そうすると、子どもができたら、その子たちにも同じような教育をせねばならない、ということですよね」
「そうなりますね。ただ、ぼくの代で厄介ごとが片付けば、もう少し教育内容を減らせるかもしれません。……父上の代で色々あり、王室の問題を片付けるには、ぼくの代までかけなければ無理というのが父上の結論でした。ですので、ぼくは歴代のフレイザード家の当主よりも、多くのスキルが必要だったと言えます」
カルセル様がデナート妃に強い敵意を抱いているのは、私も何となく察していた。彼のそれが、息子をいばらの道へと引き込まねばならないことへの怒りだとすれば、納得ができる範囲ではあった。私だって、国のために自分の子から自由な時間を取り上げてたくさんの教育を詰め込まなければならないとなれば、少しばかり恨みをどこかに向けたくなるものだ。もしかしたら、王家との婚約が決まった直後、お母様が少しピリピリしていたのはそういう理由かもしれない、と気づく。
「……子ども、か。なんていうか、まだ想像がつかないんです。自分に子どもができるかもしれないことが」
「ふふ、そうですね。ですが、私は早く、あなたによく似た我が子をこの手に抱きたい気持ちでいっぱいです」
「ミシェル……そうですね。君にはこの先も苦労を掛けるかもしれませんが、ぼくらの子に要らぬ苦労を掛けぬように、父上と協力し、一刻も早く国に潜む悪意を一掃します。幸いにして、聖廟での一件で、第一王子派の残党はもう虫の息です。あとは、デナート妃襲撃の黒幕さえ突き止められれば、恐らくそれで終止符を打てるかと」
「黒幕……」
いったい誰が、デナート妃を襲撃し、この国に混沌を齎したのか。鴉でもその尻尾を掴めないような人間を、どうやれば表舞台に炙り出せるのだろうか。城の書庫で見た、黒魔術というのが本当に存在するなら、この国で起きていた不可解な正妃の乱心もすべて説明ができる。ということは、黒魔術が使われたのは、デナート妃が賊の襲撃に遭い、ひどいけがを負って死にかけたタイミングだろう。
そもそも、王宮に向かう馬車を襲える賊など、簡単に用意できるものだろうか。ヒューアストン侯爵家、あるいは侯爵家に近い家の協力、あるいは裏切りがなければ不可能だ。
けれどそれなら、デナート様は近しい誰かに裏切られたこととなる。意外と身近に敵がいるかもしれない可能性に思い当って、私は少しだけ身震いをした。
◆◇◆
セインズ侯爵領の領都へと着き、出迎えを受けた。マーロン子爵は恰幅の良い体型と、大らかな人柄が特徴的な、よく笑う奔放さを感じる人だった。
領都は水路が整備された美しい都で、規模は小さいが道は不便さを感じさせないほどに丁寧に敷かれており、治安が良さそうだ。露店が多く出ていて、市場は活発に機能している。
「やぁやぁ、フレイザード伯爵、此度はご訪問いただきまことにありがとうございます。夫人も、長旅お疲れ様でございました。さぁ、どうぞ中へ」
「ありがとうございます、マーロン子爵。お世話になります」
マーロン子爵に案内をされ、侯爵邸の貴賓室へと通された。オーク材がふんだんに使われたアンティークな調度品がとても美しい。林業が盛んなこの土地では、各地の貴族たちがご用達する家具類の生産も行っているのだとか。
「いやはや、兄上からフレイザード伯爵夫人にはラトニー様がたいへん世話になったから、代わってお礼申し上げておいて欲しいと。聞けば、学生の頃よりラトニー様の良き相談相手として、姪の心に寄り添っていただいたようで。まことに、ありがとうございます」
「恐縮ですわ。私のような一伯爵夫人が、国の母となる尊き人にいかほどの助力ができたかはわかりませんが、彼女の憂慮を払うことができたのなら、たいへん光栄です」
「謙遜なさいますな。社交界にいらっしゃらないあなたはご存じないかもしれませんが、社交界ではあなたの存在はたいへん有名です。国を陥れていた悪女に真っ向から立ち向かった女傑として」
「まぁ。過ぎた栄誉ですわ。私はただ、彼女に少しばかり貴族社会の恐ろしさを助言したまで。きっと、たくさんの尾ひれがついてしまっているのね」
言外に、揶揄っているのなら口を閉じろと伝える。私を相手にこういう話を振ってくる相手は、たいてい手のひらを返した人たちだった。
私の無実をひとかけらも信じていなかったくせに、名誉が回復したや否やすり寄ってくる人たち。そういった人たちとは山ほど顔を合わせて来たので、もう対応にはうんざりしていた。
零度の微笑みを湛えて彼を凝視すれば、マーロン子爵は少しだけ顔色を悪くして「いえ、そのう……」と引き下がる。
「こ、此度は聖者の泉への巡礼とお聞きしておりました。フレイザード伯爵からのご依頼通り、馬を6体用意しております。いずれも名馬ぞろいでして」
「急な依頼にもかかわらず、ご対応いただきまことにありがとうございます」
「と、とんでもございません。白竜の血を持つフレイザード伯爵家は、セインズ侯爵家にとって同士にも等しい大切な客人です。聖者の泉に入れるのは、セインズ侯爵家の当主と、フレイザード伯爵家の神官たち、そして陛下の勅命を受けた方々のみとなります。ですので、私は実地までご案内できないのですが……」
「心得ております。私は5年前に一度巡礼にこちらへ訪れておりますので、道順はすべて把握しております」
マーロン子爵から、改めて聖者の泉についての説明を受ける。
聖者の泉は、建国王の妃であるフィリア様が眠られる墓碑でもある。当時、大いなる災厄がこの地を襲い、それを自らの身に封じ込めたフィリア様は、老いた身を泉の底へと埋め、その上から白竜様が聖水を注いだとされている。ある意味で封印でもあり、ある意味で墓所でもある。
浄化には1000年がかかるとされ、建国からはすでに1100年経っている現在では、穏やかな泉となり、周囲には見たことのない花々が茂っているという。フィリア様が厄災にむしばまれたその身を浄化され、穏やかに眠られていることを祈るばかりである。
王のため、民のため、夫と子と過ごす余生を擲ち、国を救ったその献身は、未だに物語としてこの国に語り継がれている。妃教育を始める際、一番最初に聞かされるのがこのフィリア様の話である。
とても立派な方だったのだろう。物語を読み解けば、胸の内が熱くなる。フィリア様は、開拓中の地へと足を運び、祈りを捧げ叡智を授ける賢妃として知られ、男女問わず国の皆に愛されていたという。自分の身を擲っても子や国の未来を守ろうとした行為が、現代にまで語り継がれているのがその証左だ。
「フィリア様の御子であるシルフィーナ様、そしてイリーナ様の二人の亡骸も、泉の傍にある祠へと納められていると言います。フレイザード伯爵家にとっては、祖先の墓と言ってもよろしいかと」
「ええ。巡礼では、聖者の泉に祈りと誓いを捧げるのももちろんですが、イリーナ様の墓所にて、同じく祈りと誓いを立てることも必要です。ですので、お花を買って行きましょうね」
「分かりました。……何だか素敵です。気の遠くなるほどに昔のご先祖様に、誓いを立てられるだなんて」
それも、現代まで聖地を守護し続けてくれる人たちがいるから。セインズ侯爵家は、何度か名が変わったと記憶しているけれど、血の源流となる場所は変わらず、先祖代々受け継いでいる使命は変わらないのだ。
何年経っても変わらぬものがある。それを感じ取ることができた。