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気性難の令嬢は白竜の花嫁を夢見る  作者: ねるこ
第二部
48/65

26. おしゃれは自分のために

 その夜、鴉と連絡を取るために別行動をしていたアルフィノが戻って来て、私は昼間にルーティナの身に起きたことを話していた。そして、フレイザード家で毎年送り出していた、幼馴染の少女がどんな仕打ちを受けていたのかも。

 それを話せば、アルフィノは微かに不快そうに顔を顰めた気がした。彼からしても、ルーティナはかわいい妹分だ。


「そうですか……すみません。宮廷音楽家をはじめとして、城仕えの芸術家は政治的権力がないので、ぼくも把握していませんでした」

「けれどまさか、ルーティナが毎年のように、試験前に誹謗中傷されていただなんて思いませんでした。……抱え込んでしまっていたんですね」

「しかし、ルーティナの話が確かなら、宮廷音楽家という場所にまで、何者かの不当な権力が及んでいる可能性があるということですね。音楽家は政治的権力はないものの、民と密接にかかわる部分です。下手に徒党としての力など持たれては厄介ですから、芸術に準ずる者以外を入れてはならぬというのが基本的な方針です」


 私は頷き返す。宮廷音楽家は、音楽に心をささげ、その演奏を認められた者のみが門戸を開くことが許される名誉ある職だ。平民でも平等になれるはずのその職に、貴族の権力が絡んでいたとあっては、民に示しがつかないだろう。民から貴族への信頼を失うことは、国を揺らすことにもなるからだ。


「ひとまず、そのラグシエル伯爵令嬢の件に関しては、ぼくの方でも情報を集めておこうと思います」

「すみません……忙しい時期なのに仕事を増やしてしまって」

「君が謝るようなことじゃありません。王城の中は、新しい王が即位するまでに、できるだけ綺麗にしておきたいんです。何よりもラグシエル伯爵は、イズラディア公爵の腹心であるはずの人。そんな人物が不当に権力を使っていたのだとすれば、イズラディア公爵の基盤が揺らぐかもしれません。それは、フレイザード家にとっては不利益です」


 アルフィノの言うことは正しい。ただでさえ、不当な権力を求めて王城に潜り込んでいた御仁が多かったのだ。政治家たちが手を伸ばすことが許されない芸術部門にまで不当な権力を使っている輩がいるのならば、ガブリエル殿下の即位までに膿を出し切ってしまいたいと考えるのは当然のことだった。


 会話を終えて、アルフィノが立ち上がったとき、私は思わず彼を凝視してしまった。――気のせいだろうか? そう思ってじっと見つめていると、視線を感じ取ったのか、アルフィノは困惑した様子でこちらを振り向いた。


「どうしましたか?」

「いえ……気のせいだったら申し訳ないのですが」


 私はそっと立ち上がって、ゆっくりと彼へと歩み寄っていく。そうして、体がくっつくくらいまで近づくと、彼をそっと見上げた。

 やっぱり、気のせいじゃない。私は呟いた。


「背、伸びた……?」

「えっ!?」


 心なしか、視線が少し高くなった気がする。これって、もしかして、アルフィノの第二成長期がついに来ているってことかしら。そう思って不思議そうに見つめていると、アルフィノは私の肩をそっと掴んで告げた。


「本当ですか?」

「はい……何となく、目線の位置に違和感が」

「……」


 アルフィノは、頬を赤くして、少しだけせわしなく視線を動かしている。その様子を見て、私は珍しいものを見た、と思った。

 アルフィノは大人だし、職業上感情を隠すのはとても上手だ。そんな彼が、今は喜びを抑えきれないようにしている。白竜様の魔法血統の影響で、恐らく普通の人よりも10年ほど遅れている成長期。フレイザード伯爵家の子どもは、個人差はあるがだいたい20の半ば前後から第二成長期が疑似的に発生し、見た目が成長する。なので、フレイザード家の人たちは、だいたい実年齢より10歳ほど若い見た目になるのだとか。

 私は少しだけ、彼のかわいらしい一面を見てしまったのかもしれない。


(……身長低いの、気にしてたのね)


 そんな様子は一切見せないのが実に彼らしいのだけれど、たびたび姉弟のように見られたら申し訳ない、と口にしていたのを覚えている。私自身は、彼と夫婦であることを疑ったことはないし、とてもではないが彼を弟のように扱えなどしないことは分かっているが、外から見れば、私たちは夫婦には見えないのかもしれない。

 アルフィノは私から手を離すと、嬉しそうに微笑んだ後で、少し外の空気を吸ってきますと告げて、少しだけ浮ついた足取りでバルコニーの方へと歩いていった。私はその後ろ姿を見つめながら、そっと微笑んだ。


(よほどうれしかったのね。あなたがなりたい姿になれることを、祈っているわ)


 青年の姿になったアルフィノを想像すると、少しだけ頬が熱くなる。今でも十分に素敵な人だけれど、どこまで大きくなるのだろう。カルセル様を見ていると、しっかりと麗しい貴公子に育つのは決定事項なのだけれど。

 その日が来るのが、少しだけ楽しみになってしまったのだった。


◆◇◆


 私はすっかりと憔悴したルーティナと面会していた。毎回、試験の度に心が張り裂けそうな暴言を、理不尽に浴びせられていたルーティナ。


「悔しい……音楽家にとって、時間は有限なのに。私の3年間が、あの方に盗まれているかのような虚無感を覚えるんです。ミシェル様……私は、どうすればいいですか」

「受かるしかないわ。あなたがなるの、宮廷音楽家に。音楽で国の皆を元気づける、そんな素敵な音楽家になって欲しいわ。それに、私はあなたが努力した3年間が無駄だったなんて思わない。いつも、楽しそうにピアノを弾いていたわ。そしていつだって、私を音楽で楽しませようとしてくれた。あなたの音楽は、もっと多くの人を幸せにできるわ」


 震えるルーティナをそっと抱きしめて、そっと髪を撫でた。ルーティナの涙が、じわりと私の肩を濡らしていく。


「私、もう人前で演奏できるか分からないんです……あの方の言っていたことは、何の意味もない空しい言葉だと分かっていても、頭の中に響くんです。年を経るごとに、少しずつ、声が大きくなっていって。きっと、今年もたくさんの人の前に立ったら、その声で誰の声も聞こえなくなってしまうんじゃないかって……」

「……苦しかったのね。ごめんなさい、気づいてあげられなくて。ねぇ、ティナ……試験当日、少し早起きできるかしら」

「え……」

「あなたに魔法を掛けたいの。ナタリア様と一緒に。今までは無責任に背中を押すだけだったけれど、今度は傍で見ていられる。あなたを支えたいの」


 もう、時間がなさそうだ。ルーティナが擦り切れて、精神が病んでしまう前に、自信をつけてあげたい。そうなると、もう今年に宮廷音楽家として採用されるしか道がないように思えた。

 そのために、私たちが今できることは、一つしかなかった。


◆◇◆


 試験当日の朝、私とナタリア様はああでもない、こうでもないと侍女たちと共に駆け回っていた。


「春先ならこの薄いピンクのドレスがいいと思うのですけれど、少し季節から反れてしまっているでしょうか」

「そうねぇ。ティナには薄い暖色が似合うと思うのだけれど、こっちの薄橙のドレスなんてどうかしら。ティナの落ち着いた雰囲気にぴったり」

「まぁ、素敵ですわ」

「あ、あの……ナタリア様、ミシェル様……私は一体、どうなるのでしょうか……」


 薄らと目の下にできた隈を手で触りながら、ルーティナは困惑したように声を上げる。侍女が出した香りのいいハーブティーに手を付けないまま、ルーティナは私とナタリア様の行ないを、不思議そうな瞳で見つめていた。

 私はナタリア様と見つめ合って、ふふっと笑い合う。


「そんなの、一つに決まっているわ」

「おしゃれよ。お・しゃ・れ」


 私とナタリア様が声を合わせてそう告げると、ルーティナは今度こそきょとんとした。私は眠気覚ましにハーブティーを飲むことをルーティナに申し付けると、そのままナタリア様とジュエリーボックスをひっくり返したり、侍女とヘアメイクの相談をしたりと、大忙しだった。

 そうして、使える時間のギリギリまでを使って、ルーティナを飾り立てた。ナタリア様が選んだ薄橙のドレスは、鮮やかなグラデーションによって、裾の方まで広がりを感じる美しく艶のあるデザインで、腰元のリボンの飾りがひらりと舞うと、そちらに目が行く。肩の主張は控えめで、しかし背中がきれいに開いたデザインを活かすため、ルーティナはいつも二つのおさげを垂らしているけれど、それを一つにまとめて肩から前に垂らす。ヘアピンを使って顔の輪郭をすっきりと見せるようにした。

 化粧も不自然でない程度にしっかりと整える。ほんのり朱が差した頬は愛らしく、目元はドレスの色と同じ薄橙で強調され、口元には艶めくルージュ。眼鏡を渡されたルーティナが恐る恐るそれを掛けて鏡を見ると、そこには垢ぬけた雰囲気の、一人の淑女が立っていた。

 ルーティナはしばらく戸惑って、頬を触ったり、手を動かしたりしていたが、ようやく鏡の前に立つのが自分だと認識できると、顔を真っ赤にした。


「これが、私……?」

「ええ。とってもきれいよ、ルーティナ」

「信じられない……私、こんな……っ」


 普段のルーティナは、貴族の女子ではあっても洗練された空気感はなく、どちらかと言えば素朴な装いを好んでいた。夜会の時に纏うドレスも型が古いクラシカルなものを好み、色も暗めの落ち着いた色を使いがちだ。しかし、以前にルーティナと買い物に行ったとき、私は明るめのワンピースを勧めてみたりした。その時に少しでもおしゃれに興味を持ってもらえれば、と思っていたのだが、どうしてもルーティナにとって、おしゃれは音楽に優先されるものではなかった。

 ナタリア様は麗しく微笑みを浮かべると、ぽん、と両肩に手を置いて告げた。


「うふふ、とっても素敵よティナ。わたくし、こんなにきれいな女の子が夢中になってピアノを弾いていたら、目が離せなさそうだわ」

「そ、そんな、私なんて……」

「ダメよ、ルーティナ。宮廷音楽家になってたくさんの催しに顔を出すのなら、いつもこんな風にきれいに飾って、多くの人を音楽の世界の虜にしなければ。夜会とは煌びやかな場所でしょう? そこへ踏み込むのに、おしゃれをしないと臆してしまうのではなくて?」

「う……」


 ナタリア様の言葉には自覚があったのか、ルーティナは顔を赤くして俯いてしまった。

 おしゃれは大事だ。夜会の場で演奏をするならば、それに適応して、自分も飾り立てなければならない。煌びやかな世界を楽しむ人たちが、そこに異物を見つけてしまったら、音楽を楽しむどころではなくなってしまうかもしれないからだ。

 けれど、何よりも、おしゃれは自分のために。自分が楽しむためにするものだ。私はルーティナの正面に回り込んで、そっと手を取った。


「ルーティナ。何も怖いものなんてないわ。だって今のあなたはとっても素敵だもの。あなたが過去に、どんな謗りを受けていたかは、私には分からない。けれど、おしゃれをしたあなたはとても素敵よ。心無い言葉なんて、幻想の向こうに消えてしまいそうなほどに」

「ミシェル様……ナタリア様……」

「皆に見せつけてあげましょう。あなたの演奏がどんなに素晴らしいのか。あなたこそが宮廷音楽家にふさわしいということを」


 ルーティナはしばらく、鏡の中にいる自分に見惚れるように鏡を凝視していた。そしてようやく現実に戻ってくると、私が握っていた手に、少しだけ力がこもった。


「ミシェル様は、どうしておしゃれをするんですか?」


 ルーティナの問いかけに、私はうーん、と少しだけ唸った後で、微笑んで告げた。


「私を愛してくださいって、大好きな旦那様に自信を持って言うため? ふふ、私だってちゃんと飾り立てなければ、勇気が出ないものなのよ」


 そう答えれば、ルーティナは瞳を輝かせて、そうしてゆっくりと頷いた。その瞳にはもう、不安は一つも残っていなかった。


「私、やっぱりミシェル様とアルフィノ様と一緒に、新しい国王陛下をお祝いしたいです。だって、二人とも私の大好きな人たちだから!」


 もう、心配はない。私はナタリア様と微笑み合った。侍女にルーティナを託して、馬車で試験会場に送り出した後で、ナタリア様から、自分の分までルーティナを応援してあげて欲しいと頼まれた。私はその言葉に頷き返して、迎えに来たアルフィノと共に、試験会場に向かった。


「ルーティナの様子はどうでしたか」

「恐らく、大丈夫だと思います。笑顔で、試験会場に向かっていきましたわ」

「そうでしたか……それは良かった」


 アルフィノはほっとしたように息を吐き出した。彼にもここ数日、多くの仕事を押し付けてしまった。この一週間で何かが変わったかは分からない。けれど、アルフィノの表情を見る限りだと、私の直感は当たってしまったのだと思う。


「フィーも、何か言って差し上げればよかったのに」

「ぼくは……何とも。昔は、ぼくの言葉をプレッシャーと受け取ってしまうことも多かったようで、ぼくが何かを言うたびに少し体を震わせて、緊張感に支配される彼女に対して、どんな顔をしていいか分からなくて」

「そうだったんですか? ティナは、フィーのことを何をやらせても120%の結果を出す完璧超人だと思っていたようですけれど」

「えっ。それは流石に少し盛りすぎですね。仕事には多様なスキルが必要だからと、確かに色々仕込まれはしましたが……」

「兄のように慕っていたからこそ、何でもできてしまうあなたと自分を比べてしまったのかもしれませんね。ティナには素敵な才能があるのに」

「そうですね……彼女の技量は、決して他者に劣等感を抱く必要はないほどには素晴らしいと思っています。子爵に音楽学校に通うのを説得したいと相談されたときは、ぼくも少しばかり力添えを」

「そうだったのですね」


 アルフィノは昔を懐かしむようにぽつぽつと話す。長い時間を共に過ごしたからこそ、言えないこと、気づきづらいこともある。私は知っていた。ルーティナが毎年のように試験前に他者からの悪意を受けていたことを知ったとき、アルフィノが静かに殺気立ったことを。

 アルフィノはあまり口には出さないけれど、ルーティナの夢を誰よりも応援している。そんな気がした。


 試験会場にたどり着くと、案内を受けて、席へと着いた。視界の端で、トゥアン先生が私へと微笑みを向けたことに気づいて、私は丁寧に会釈を返した。宮廷音楽家にならずに、自由に音楽を楽しむ数々の音楽家が客人としてくる場――それが、この宮廷音楽家選抜試験だった。

 定刻となり、試験が開始される。ルーティナが試験の項目に選んだのはピアノだった。ピアノは大きな楽器であるため、最後にまとめて試験が行われる。金管楽器、弦楽器とそれぞれが課題曲を披露していくのを、私はアルフィノと共に眺めていた。

 アルフィノは、私を何度か領都で行われる音楽会へと連れて行ってくれた。今日も試験とはいえ、宮廷音楽家を目指す人たちの演奏はどれも素晴らしく、小さな音楽会のようになっていて、幕間の時間にアルフィノと楽しい時間を過ごした。

 そうして試験は進んでいき、休憩時間にグランドピアノが運ばれてくる。いよいよ、ルーティナの出番が近づいて来た。


(頑張って、ティナ……あなたならきっと)


 そう思って震えた手を、彼がそっと握ってくれた。

 ふと、隣へとやって来た一つの影に気づいて、私はそちらへ視線をやる。すると、そこには一人の精悍な若い男がいて、彼は私の席から一つ飛ばした隣へと腰かけた。

 出で立ちからは貴族であることが分かる。私は頭の中の貴族名鑑をめくるが、誰だっただろうか――。


 その答えは、すぐに分かった。なぜなら、彼の隣へと、見覚えのあるあの女が腰を下ろしたからだ。

 今日も娼婦のようなドレスを身に纏い、彼に必死に視線を送っているラグシエル伯爵令嬢がいる。しかし、彼は舞台の上だけを見つめていて、彼女の方には一瞥もくれない。

 彼がトッソ子爵令息なのだと理解した。


「ヴァレリオ様、あの……」

「…………」

「ねぇ、こんなところにいないで、外に行きましょうよ」

「…………」


 トッソ子爵令息は、清々しいほどにラグシエル伯爵令嬢の言葉に耳を傾けない。

 彼の視線はピアノにしかなくて、それ以外には興味を向けられないようだ。カトルーゼ侯爵から聞いた、トッソ子爵令息の人物像にぴたりと一致する。

 ラグシエル伯爵令嬢は顔をくしゃりと歪めて、そうして忌々しそうにステージへと目をやった。

 そんなこんなで、ピアノによる選抜試験が開始され、次々と音楽家たちが演奏を披露していく。


 やがて、ルーティナの出番が回ってくると、彼女はどこか自信を持った歩みでステージ上を歩き、優雅に一礼をした。彼女の様子にほう、と感心したような息が漏れるのを聞いて、私はほっとする。

 美しく着飾ったルーティナが音を奏で始めた瞬間、空気が変わった。多くの人間が、彼女に釘付けになるようにして、ルーティナの流れるような動きを見ている。華奢な彼女が全身を使って奏でる力強い音に、ぐいぐいと心を引っ掴まれて引き込まれてしまう。

 堂々とした演奏だ。謂れのない謗りで傷つけられ、自信なさげに舞台へと立っていた彼女は、もういない。


 ――その時だった。

 バン、という高い音が鳴って、皆の目が一斉にそちらを向いた。

 それは、ラグシエル伯爵令嬢から放たれた音だった。扇子を落としたようだが、明らかに地面に叩きつけたかのような大きな音だった。


「あら、ごめんあそばせ」


 彼女はゆったりと微笑み、扇子を拾い上げる。

 私ははっとして、ステージ上のルーティナを見やった。ルーティナは驚いて、演奏を止めてしまっていた。すると、審査員のうちの一人が、咳ばらいをして、告げる。


「……トラブルでしたか。では、もう一度初めから」


 ルーティナの肩が微かに震え、強張るのを感じ取った。

 本当に、音楽家の演奏を大きな音で妨害するだなんて、なんてことをしてくれたのだろう。

 口元で歪んだ笑みを浮かべて、恍惚としてトッソ子爵令息を見上げる、ラグシエル伯爵令嬢に――トッソ子爵令息は、まるでいないものとして扱うかのように、ルーティナをじっと見つめ続けていた。

 ラグシエル伯爵令嬢は、また憎々し気にルーティナに目を向けた。


(……ティナ、大丈夫よ。あんな人のことを気にする必要はないわ)


 私は胸の前で指を組んで、祈るようにルーティナを見守る。

 ステージの上の、ルーティナと目が合った気がした。私は、唇だけで、伝える。


(――頑張れ、ティナ)


 すると、ルーティナはぐっと拳を握り締めた後、眼鏡のずれを直した。

 つやつやのピアノの表面に映る、自分の姿を一度見やった後で、大きく深呼吸をする。

 そうして、指を走らせて弾き始めた音は、止められる前よりもさらに、躍動感を増していた。


(負けるものかって、そう思ってくれているのね)


 ざわ、と観客席が揺れる。皆が魅入るように、ルーティナの演奏を見やる。

 白黒の鍵盤の上を、ルーティナの細い指が滑るごとに、人々は心と体を揺らし、次を期待するように瞳を輝かせる。

 この場にいる観客のすべての心を、掴んだ。もはやラグシエル伯爵令嬢が何をしようとも、ルーティナの演奏を止めることはできない。


「――やはり、お前しかいない。我が生涯の好敵手」


 トッソ子爵令息がぼそりと呟いた言葉が耳に届いたとき、ピアノの音が止んだ。


 ルーティナは、1曲を弾き終えて、そうして鍵盤から手を離した。そのあと、一拍おいて、会場は拍手で満たされる。外から、通りがかった平民が中を覗いていて、同じように拍手を繰り返している。

 彼女の演奏が、この場にいる人間を全員虜にした。それを疑う必要もないほどに、皆が彼女の演奏の余韻を楽しんでいた。


 何も、心配することはなかった。


 その一週間後、ルーティナから、宮廷音楽家に選ばれたことを聞いて、フレイザード一家全員で彼女を祝福した。


 そして、その同時期に、王宮での賄賂事件が発覚し、一人の宮廷音楽家が王宮を去った。

 何でもその宮廷音楽家は、採用してから一度も夜会や行事での演奏活動を行なっていなかったそうだ。彼女の仕事の記録を偽造していた官僚と、その賄賂事件の中心人物が繋がり、彼らは人知れず王宮から姿を消し、娘は厳しい再教育を受けることとなったとか。

 社交界では「音楽家のくせに、人の演奏を騒音で邪魔をした恥知らず」と囁かれ、表向きはそれを理由に解雇されたそうだが、社交界に出入りする人の口を塞ぐには、その者はあまりにも無力過ぎた。


 かくして、王宮の膿はまた一つ、鴉によって啄まれたのである。

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