25. ルーティナの傷
アルフィノが、城で得られた情報や、起きた事件について鴉に報告に向かった。私が少し手持ち無沙汰になっていると、ナタリア様からお手紙を頂戴した。カルセル様と共にルーヴィウス公爵家の保有するタウンハウスに滞在されているナタリア様からお誘いを受け、私はナタリア様の元へと向かった。
すると、そこにはルーティナの姿があり、驚いて目を丸くした。
「ティナ?」
「ミシェル様。こんにちは」
「もう王都に来ていたの? 試験はまだ一週間も先でしょう?」
「はい……ですが、今年は何としても受からなきゃという気持ちになって、いてもたってもいられず」
ルーティナは、前年の宮廷音楽家の試験でも、惜敗を喫した。最終選考までは残ることが叶ったのであと少しといったところだったのだが、アガリ症だった彼女は最終試験で激しい緊張に襲われ、結局満足のいく実技を披露できずに、その門をくぐることが叶わなかった。
3年連続で落ちてしまったものの、ルーティナは諦めることはなく、今年もしっかりと練習と準備を重ねて、王都へとやってきた。秋の季節の始まりを告げるのが、この宮廷音楽家選抜試験、通称オーディションだ。
貴族なら特に資格もなく立ち会うことが許される、王宮がプレゼントする社交の場でもある。
「うふふ。王都で二人とお茶できるなんて、嬉しいわ」
「ナタリア様も、お元気そうで何よりです」
「ええ。体のこともあるから気軽に出歩いたりはできないけれど、やっぱり王都の街並みはとても懐かしいわ。こうして窓から外を眺めているだけでも、何だか楽しいの。うふふっこういうのって王都から離れないと感じられないことよね」
「確かに、その通りですわ。私も、久しぶりに王都へ帰ってきましたけれど、たったの1年でも懐かしくなれますもの」
侍女が淹れてくれた紅茶を楽しみながら、3人で屋内の広い貴賓室でお茶会をする。フレイザード家で暮らしていると、あまり貴族の女子とお茶を飲む機会がないので、こうしてゆっくりと紅茶を楽しみながら語らう時間は私にとって貴重だ。
今なら分かるけれど、アルフィノが私を田舎に連れて帰るけれど大丈夫かと再三聞いた理由は、こういった交流の場が気軽に取り持てなくなることも含まれているのだと思う。けれど夏ごろに一度、セラフィーナ様をはじめとした学友たちがルーセンに旅行に来てくださったりもしたし、私としては全く気にしていない。
「ミシェルさん。ティナね、どうしても今年受かりたいんですって。うふふ、どうしてだと思う?」
「え?」
「ナ、ナタリア様……」
私は首を傾げながら、しばらく思い悩む。けれど、何度考えてもルーティナが夢である宮廷音楽家に早くなりたいから、という答えしか思い浮かばずにそれを口にすれば、ナタリア様はくすくすと優雅に笑う。一方で、ルーティナは少しだけ顔を赤くしていた。
「あなたとフィーちゃんの晴れ舞台に間に合いたいから、ですって」
「え?」
「ほら。ガブリエル殿下の戴冠式。ミシェルさんとフィーちゃんで神官の役割をするんでしょう?」
私が奉納する神楽。その演奏は、勿論宮廷音楽家の皆さんに頼むことになるだろう。つまり――。
「ティナは、今年で宮廷音楽家に迎えられて、戴冠式で白竜神楽を演奏したいっていうことかしら」
「……はい」
「素敵だわ。私も心強いわね。ティナには白竜神楽のアレンジについて随分と相談に乗って貰ったし、本番でもあなたが一緒だととてもうれしいわ」
「わ、私も……せっかくの晴れ舞台ですから、一番近くでミシェル様とアルフィノ様を応援したくて。戴冠式で演奏を行なうなら、来年だと間に合わないと思うんです。だから、何としても今年で合格しなくては、と思いまして」
その言葉が、純粋にうれしかった。私も戴冠式というこれ以上にない名誉な場で歌と舞をする機会を賜っただけでももはや恐れ多くて倒れてしまいそうだ。もちろん不安はあるし、うまくできるかという杞憂は止まらない。そんな中で、アルフィノのほかにもよく知っている人が一緒に神楽を作り上げてくれるなら、頼もしいことこの上ない。
「ですので、今年こそは、絶対に合格したくって。それで、王都の景色を見て、心を落ち着かせようと思ったんです。最初に王都に来た時は、あまりにも人も建物も多くてパニックになっちゃって、音楽学校の最初の実技試験でもストレスでボロボロになっちゃって……」
しゅん、とルーティナは肩を落として大きく息を吐き出した。
ティナは初対面の時にも言っていた通り、緊張にたいへん弱い性格をしている。何か大きなことを成し遂げねばと意気込んだとき、衆人環視の中に放り出されたとき、彼女の体は硬直し、実力を発揮できなくなる。ティナの未来を考えれば、由々しき事態だ。
ここ数年で、ティナの音楽の腕前はぐんぐんと上達している。トゥアン先生の見立てによれば、本来の実力を発揮できれば、問題なく宮廷音楽家に招き入れられるとのこと。で、あるからこそ、足りないのは自信、それだけなのだ。
何とか、この友人の力になってあげたい。そう思った私は、ティナの手を取って、口を開いた。
「ねぇ、ティナ。イメージトレーニングをしましょう」
「イメージトレーニング?」
「試験は城前広場で行われるのよね。まずはそこへ行きましょう」
「ええっ!?」
「善は急げというし、明日早速行きましょう」
ルーティナは控えめで消極的な人だ。誰かが引っ張ってやらねば、なかなか行動を起こすことができない。そんな彼女が、初めて自発的に抱いた夢こそが、宮廷音楽家――身内の情なしにでも、彼女にはその夢を是非とも成し遂げてほしいのだ。一人の音楽家として、彼女を尊敬しているのだ。
「うふふっ。いいわね、是非とも行ってくるといいわ」
「ナタリア様……」
「わたくしにも、感想を聞かせて頂戴ね?」
ナタリア様は麗しく、うふふっと微笑んだ。それにより、完全に退路を断たれたルーティナは、次の日、私と共に城前広場へと辿り着いた。
石造りの噴水が大きく存在感を主張する、レンガの広場だ。その奥に立ちはだかる王城の存在感に、ルーティナは足をぶるぶると震わせている。
庶民なら、この外から見上げた景色が、一生頭の中から変わることはない。王城に入れるのは、城で働くことを認められたごく一部の平民と、城で政に携わる貴族の一部と、王家の人間と、彼らに招待された貴族だけ。
私にとっては、慣れた場所だった。幼い頃から、妃教育のために足しげく通った場所ではあったのだから。
「無理……」
小さく漏らした声は、ひどく震えていた。ルーティナは顔を青白くして、きょろきょろと周囲をしきりに見渡している。大通りの突き当りにあり、城を囲むようにぐるりと円形の広場が存在するこの場所は、人の往来もそれなりに多い。人間が登攀を試みることもできないほどの高い城壁の向こうに、赤レンガの屋根が覗いている。
そんな場所には、日除けのための大きな四阿がある。この下で行われているのが、宮廷音楽家を決めるための試験だった。
なんでこんなにも、人の目があるところに――そう思うのだけれど、どうやら往来を行く庶民が立ち止まる頻度も、審査のうちに含まれているのだとかなんとか。音楽に関する教養が薄い庶民の心さえ動かす演奏には価値がある――それが、現在宮廷音楽家の人員・給与の管理を行う文官の信条だとか。
「ルーティナ、無理ではないわ」
「だって、こんなにたくさんの人の目がある場所で――ご存じですか? あの高い城塞の上から、王族の方もご覧になっていることが多いのだとか! それを考えただけでぞっとします!」
「演奏中に見えない人のことを気にして、演奏がおろそかになるのは良くないわ。確かに、側妃殿下――シュリーナ様は音楽がお好きだからきっと見にいらっしゃるでしょうけれど、それはチャンスだわ。シュリーナ様を微笑ませるような演奏をすれば、きっと認めていただけるはずよ」
「そ、そんなの、無理ですぅ……」
ルーティナは目をうるうるとさせて、自分の体をぎゅっと抱いた。
3年間、失敗し続けた壁は高い。ルーティナは、国一番の音楽学校も主席だったのだそうだ。そんな彼女が、挫折し続けているのが、この大きな門をくぐるための試験だ。
私だって、妃教育がなければ、今もこの門を特別なものだと思っていただろう。国の権威の証、為政者たる王が住まう場所。それが、この巨大な城なのだから。
「ほら、深呼吸をしましょう?」
「は、はい……」
「吸って、吐いて。ここを、埋め尽くすお客さんを想像して。その皆は、ティナの演奏を楽しみにしているの」
「私の……演奏を……」
栗色のおさげを揺らし、ルーティナは、私の言葉を微かに復唱していく。自信なさげな瞳には、しかし落ち着きが戻り、頻りにあたりをきょろきょろとしていたときのような忙しなさはない。やはり、ルーティナの集中力はすさまじい。これだけの集中力があれば、乱すものがなければ、本番だって問題ないと思うのだが、いったい何がそんなにも彼女の心を乱すのだろう。そう思っていると、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
「あら? ルーティナじゃなぁい」
甘ったるい声が、耳につく。ねっとりとまとわりつくような厭らしさを持った響きに振り返れば、そこには派手なドレスに身を包んだ若い女が一人立っていた。厚化粧で顔を飾り立て、放漫な胸元を露出し、背に至るまで大きく開いた真紅のドレスは、口にしたくはないが彼女の雰囲気にはよく似合っていた。
しかし口元には醜悪なまでに人を馬鹿にするような嘲笑が張り付いている。私の頭には、つい一年ほど前まで私に吠えていたあの忌々しい女の顔が浮かび上がっていた。
「サ、サリーシェ様」
「また今年も来たの? 才能もないのによくやるわねぇ」
そのとき、私はすべてを理解した。ルーティナが、毎年試験に落ちているすべての元凶、それが私の目の前にいる彼女なのだと。
サリーシェ――サリーシェ・ラグシエル伯爵令嬢だろうか。私の頭の中にある貴族名鑑によれば、彼女はルーティナと同い年で、父は王宮に務める財務官補佐、つまりイズラディア公爵の部下にあたる人だったと思う。
3年前にちょっとした悶着があり、婚約を解消したことがあったはずだ。一応は解消という形で公表されていたものの、ラグシエル伯爵側の示談の要求があったことは、耳聡いどこぞの令嬢から齎された情報だったと思う。何しろ、私って婚約破棄された娘ですから、その手の話題を当てつけのように振ってくる身の程知らずの家格が下のご令嬢はいくらでもいたものですから。
この真昼間の往来で、まるで娼婦のようなドレスの着こなしをする彼女を見ている限り、彼女の不貞が元で婚約解消となったのだろうか。往来を歩くには明らかに場違いだし、見ていて恥ずかしいからとっとと誰か彼女に上着を着せてほしいのだけれど。
「まぁ、無駄だろうけど今回も頑張ってみれば? 学校の首席なんてあてにならないものねぇ。わたくしは一度も主席は取ったことがないけれど、一度目で受かってしまったのですから」
「……」
「あ~あ、こんなあんたの姿見たら、きっとヴァレリオ様だってがっかりなさるわよねぇ。うふ、いいこと教えてあげる。わたくし、もうすぐヴァレリオ様との婚約が調うのよ」
「……っ!」
ヴァレリオ――ああ、ルーティナの話にたびたび出てくる、ヴァレリオ・トッソ子爵令息だろうか。彼もこと音楽においては秀才と呼ばれ、3年前に宮廷音楽家となっている。彼は、ルーティナの同級生であり、ルーティナの次に成績優秀だった好敵手で、在学中は苦楽を共にし、音楽に興じたかけがえのない仲間だと聞かされていた。
だんだんと二人の間にある確執の形が見えて来たけれど、いつまでこんな茶番をするのかしら。そう思って、大きめに扇子の音を立てれば、二人はびくっと小さく肩を揺らした。
「あなた誰なの? 私に挨拶もなく連れを引き留めておしゃべりだなんて、随分と失礼じゃなくって?」
「はぁ? 誰よあんた」
「伯爵家の者ともあろうものが、目上の人間に対する礼儀も知らないなんて聞いて呆れるわ」
――ああ、確信してしまった。これは、間違いなく裏口ねって。
宮廷音楽家という、王宮に連なる栄誉ある職に就くにもかかわらず、貴族のマナーも知らないような令嬢はいない。普段は猫を被っているのかもしれないけれど、こんなところでぽろりと素を出すだなんて、呆れてしまう。
「私は侯爵家の出で、伯爵夫人ですけれど、伯爵家の令嬢よりも序列が幾分か上よ。子爵令嬢であるルーティナに対してはそのような奔放な振る舞いも咎められないでしょうけれど、彼女は私の連れなの。私を無視して彼女に話しかけて、私の手を煩わせるなんていい度胸じゃない。よほどお家の看板に泥を塗りたいのね」
そうつらつらと説明してすぅっと瞳を細めれば、彼女はびくりと肩を震わせた。そうして、目をそっと逸らしながら、震える声で告げた。
「も……うしわけありません」
「あら。さっきみたいな反骨心丸出しの態度で反論してくださっても結構よ? 私、この耳できちんと聞いたもの。伯爵家の娘ともあろうものが、目上の者も見分けられずに奔放に振舞っただなんて、両親が聞かれたらさぞかし悲しまれるでしょうね。王城に芸術家として出している娘が、まさか伯爵夫人に尊大な態度をとっただなんて、浅はかだこと」
身分社会において、序列は絶対だ。初対面の相手に対して、今のような態度をとれば悪評はあっという間に広まる。ルーティナの連れだからと侮った彼女の運の尽きだろう。私自身は社交界に出ないのだけれど、この手の話が好きな友人にはいくらでも心当たりがある。
「今すぐ消えて頂戴。不愉快だわ」
「……っ」
そう告げて扇子でしっしと追い払えば、彼女は肩を震わせてぐっと拳を握り締めて、その場を素早く立ち去っていった。ルーティナに対して、不快になるほどの、むせ返るほどの憎悪を向けながら。
サリーシェを追い払ってそっと息を吐き出すと、傍でルーティナが崩れ落ちた音を聞いて、私はあわてて手を差し出した。
「ティナ?」
「す……みませんっ……すみません……」
ぼろぼろと涙をこぼし始め、腰が抜けて動けなくなってしまったルーティナを見て、私はどうしようかと周囲を見渡した。すると、こちらへ近づいてくる馬車があり、ドアが開くと、その中から痩身の男が出て来た。
「どうされました?」
「あなたは――カトルーゼ侯爵?」
カトルーゼ侯爵――現国王の主治医であり、王城が抱える専属医である。そして、私にしつこく求婚してきたあの身の程知らずの令息は、何を隠そう彼の嫡男でもある。
ただ、カトルーゼ侯爵は知る限りかなり誠実な人物だ。妃教育で城に通っていたことも何度か顔を合わせたことがあったが、礼儀に則って挨拶をすれば丁寧に返してくださった紳士だし、いったい彼からどうやってあのような子息が育ってしまったのか分からないほどに、医師として信用のおける人だ。
黒い髪を短く切りそろえ、顎髭を少し垂らした御仁を見つめて、私は丁寧に頭を下げる。
「お久しゅうございます、カトルーゼ侯爵」
「ああ、サファージ嬢――今は、フレイザード伯爵夫人だったかな? 久しぶりだね、元気そうでよかったよ」
「おかげさまでございます。この方なのですが、ロータント子爵令嬢ルーティナ様です。私の友人で、週末にある宮廷音楽家の選定試験を受ける予定なのですが――緊張感からか、少し体調を悪くしてしまったようで」
「それは大変だ。私でよければ少し診ましょう。診療室で少し休まれると良い」
「お気遣い、ありがとうございます」
私はルーティナを連れ、侯爵の厚意に甘えることにした。彼が馬車へと私たちを乗せてくれ、馬車は穏やかに城門を通過して、城塞の中へ。彼女を支えながら、南西の塔へと赴けば、カトルーゼ侯爵の受け持つ医療研究棟の診療室へ案内され、そこでルーティナは軽い治療と休息を得られることになった。
軽いカウンセリングと、鎮静剤の接種をしてもらい、ルーティナは幾分か落ち着いた様子で寝台の上に横になり、瞳を閉じている。
「芸術家というのは繊細な人なのだろうね。私のところにも、宮廷音楽家の子らがしょっちゅう運び込まれてくる。緊張、ストレス、寝不足、不摂生――そういったもので倒れては、微かな休息で我を取り戻し、憑りつかれたようにまた芸術の道へと戻っていく」
何も言い返せなかった。私も、ピアノを弾くのに夢中になっていると、つい寝不足になったり、食事を抜かしてしまうので。
「夢中になってしまうのですわ。とても面白いものですから」
「思えば、倒れてしまうのはいつも同じ人ばかりだ。最近だと――トッソ子爵令息が多いな」
「……!」
「彼のことなら、私も少し分かる。学者にも通ずるあの狂気ともとれる執着の瞳……彼は求道者だな。そういえば、私が王城に来た頃に比べて、そのような瞳をする芸術家は少し減っただろうか」
芸術家の門戸は広く開かれている分、成功するためにはとてつもない努力や才能が必要になる。しかし母数が増えてくると、段々とその集団には今までにいなかったタイプの人間が増えてくるということでもある。門戸を開け放している分、芸術の道を志す人間の心根は十人十色、それらが相互に影響し合えば、おのずと人の在り方もだんだんと変わってくる。
狂気ともとれるほどの執着を音楽に向ける人は、今の時代には稀有な存在なのかもしれない。
ふと、私は思い出すことがあった。確か、カトルーゼ侯爵の奥方もまた、高名な音楽家だったはずだ。親の反対を押し切り恋愛結婚をしたカトルーゼ侯爵と奥方は仲睦まじいと聞く。
カトルーゼ卿の出産時に体調を大きく壊し、領地に療養のために移り、それ以降社交界で見た者はいないと聞くが――。
「カトルーゼ侯爵の奥様も、音楽をされているのならば、彼らの気持ちが分かるのでは?」
「――……」
「カトルーゼ侯爵?」
「ああ、すまない。そうだね、妻もよく、夢中になって音楽にのめり込み、食事を忘れることがあったよ」
奇妙な間に、少しだけ疑問を抱くが、カトルーゼ侯爵は話題を変えるように立ち上がると、口を挟んだ。
「さて。私は、陛下のところへ往診に行ってくる。彼女が落ち着くまではここにいてくれて構わないから、無理はさせないようにしてくれ」
「分かりました。お気遣いに感謝いたします」
「では」
カトルーゼ侯爵はそう告げて、白衣を身にまとって、部屋を出て行った。私はルーティナへと歩み寄って、寝台の傍の丸椅子へとそっと腰かけた。
「ルーティナ、大丈夫?」
「ミシェル様……申し訳ありません。ご迷惑をおかけして」
「いいのよ。あんなに非常識な人に絡まれたんだもの。心が疲れて当然だわ」
私はそっと手を伸ばして、ルーティナの瞳にかかった栗色の前髪をそっと払いのける。ルーティナは少しだけ、口元をゆがめて微笑もうとした。けれど、何かつらいものを思い出したかのようにきゅっと結ばれてしまう。
「あの人、音楽学校時代は、暴君って呼ばれていたんです。音楽学校には、高位貴族の令息や令嬢はほとんどいません……ほとんどが下位貴族の子だったから、誰もあの人に逆らえなかったんです」
「……そうね。音楽家を志す高位貴族の子は少ないわ」
「かといって、正直に言えば、技術があったわけじゃないんです……あの人は、ヴァレリオ様に一目ぼれをして、興味のなかった音楽学校へやってきました」
「えっ。音楽が好きなわけでもないのに、音楽学校に……それはそれは、随分と熱心なのね」
そんなにも男漁りが好きなのなら、社交界にでも行けばいいのに。男漁りのために学校に来るだなんて、本当にレティシア嬢を思い出してしまうではないか。雰囲気も思想もそっくりな人物だが、まだ嫌味が通じる分はましだろうか。
「私は、ヴァレリオ様と音楽の波長があって――互いに高め合う仲でした。合奏もよくしていたと思います。けれど、彼女にはそういう事情があったから、私は目の敵にされてしまって」
「それは、難儀だったわね。それで、そのトッソ卿は彼女のことをどう思っているの?」
「それが……えっと……彼の口から、サリーシェ様のことを聞いたことがなくて……」
「ああ……」
脈すらない、というわけだ。トッソ卿の話は聞く限り、音楽にしか興味のない人なのだろう。であるからこそ、音楽も勉強せずに自分に言い寄ってくる女など、記憶にすら残らなかったのか。
それは確かに、ルーティナへの嫌がらせが肥大化しそうだ。私にも覚えがあるので、まったくもって迷惑な人種だと思う。
「ティナも、私と同じような苦しみを抱いていたのね」
「私なんて、ミシェル様に比べたら、全然……っ」
「苦しみは比べるものじゃないわ。大きさに関係なく、苦しいんだもの。気持ちが分かるなら、尊重しあいましょう?」
「ミシェル様……」
ルーティナはぼろぼろと涙をこぼして、右手をぎこちなく上げた。腕で瞳を覆って、袖に涙を浸しながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
「私、悔しいんです……あの人が……音楽なんて好きでもないあの人が、宮廷音楽家にいるのが……」
「ティナ……」
「音楽学校卒業と同時に試験を受けて、受かったのはヴァレリオ様と、よりにもよってサリーシェ様だった。毎年、私が試験を受けに行くたび、あの人は嘲笑ってくるんです。それが、悔しくて、悔しくて……っ。なんで、私は、届かないのに――音楽のこと、好きでもない人が、あそこにいるのか……悔しい……悔しいですっ」
ルーティナの中からあふれ出した黒い感情が、受け止め切れずに零れていく。その痛ましさに耐えられずに、私はルーティナの髪をそっと撫でた。年頃の子どものように、悔し涙を流し続ける彼女を、そのまましばらく慰め続けていた。