20. 歌の愛され子
とある晴れた日、私はアルフィノとセバスと共に、裏山の前にいた。アルフィノはバッグを背負って、振り返った。
「山道はかなり整備されており、道なりに登れば神殿に辿り着きます。君には、少し厳しい道になるかもしれません」
「大丈夫です! この地方に来てから、自然の中をたくさん歩き回りました。家の裏山登りくらい、フレイザード家の花嫁として、やり遂げて見せますとも」
「頼もしいですけど、山登りは過酷です。もしもつらくなったら、隠さずに僕やセバスに言ってください」
侍女に着せて貰った登山用の服は、パンツスタイルで動きやすいもの。足を引っ張ることのないように頑張らねばならない。もちろん、登山など経験はないけれど、辺境に嫁ぐということは、時には自然の中で、ある程度行動できなければならない、ということでもある。そういう意味では、家の裏山くらい登れなくてどうするのだ。
「では、行きましょう」
アルフィノは左手を差し出して、私はその手を取った。そうして、彼に引っ張られながら、山登りは開始された。
――のだが。
「……っ」
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ、です」
中腹まで登ってきたところで、私の息は絶え絶えになった。アルフィノはまだまだ余裕がありそうだし、セバスなんて出発したときと比べて顔色一つ変わっていない。現場で活躍している人々は資本が違うのだと分かり切っていても、己の不甲斐なさに涙が出る。
これでも、ダンスは長時間こなせるようにと鍛えられてきたのだけれど、彼に甘やかされた一年半の間に堕落してしまったのだろうか。
アルフィノは上の方を見て、顎に手を当てて考える。
「目算だと、あと30分ほど登れば頂上に着くと思います。無理はせずに、ここで一度休憩して、その後登りましょう」
「すみません……思ったよりも、体力がなかったようです……」
「いえ。普通の家の令嬢なら、登るのすら拒否されると思いますから。貴族の家に生まれて、山登りの経験がある令嬢など、そうはいません」
「はい……」
「セバス、彼女にお水を」
「はい」
セバスは背負っていた荷物の中から水瓶を取り出して、硬い口をしっかりと開くと、それを私へと差し出した。礼を言って受け取って、水を喉に満たしていくと、少しずつ頭がクリアになる。アルフィノは顔色を変えずにいつも通りに微笑んで、私の呼吸を落ち着けるために、背中をさすってくれる。
「すみません、君にも山登りをさせて」
「そんなことはありません。フレイザード家の女として、当然です」
「……ありがとう。君の頑張りは、きっと白竜様も見てくださっていると思います」
白竜様が見てくださっているのなら、どこまでだって頑張れる。私を助けてくれたのが、アルフィノが生み出したあの方の思念だと分かっても、彼の神のお陰で助かった事実に変わりはない。私の白竜様への信仰は、あの日から一ミリたりともブレていない。
ただ、明日は筋肉痛かもしれない。私にとって、気を重くしているのはその事実がただ一つだけ。
山の中は、整備された山道以外はすべて自然のもの。変わった色をした小鳥が枝に止まって歌を奏でるたび、踏みしめる青葉がぱきっと音を立てるたびに、足元に気が向いてしまう。見慣れない道を歩くと、視線が迷子になりがちだけれど、静謐な自然の中を歩くのは、私にとってはとても新鮮なことだった。
アルフィノに手を引かれて、ゆっくり、ゆっくりと坂を上っていく。足を踏み外しそうになると、後ろにいるセバスがそっと私の背負った小さなバッグを支えてくれる。こうして、二人の手厚い介護を受けながら、何とか神殿へと辿り着いた。
緑の中にある、古い石造りの史跡。床には古い文字が刻まれ、壁画として描かれるのは白竜様の伝説の数々。そんな中で、清水が流れ落ちる向こう側に、祭壇のようなものが見えて、私はそれに釘付けになる。
「お疲れさまでした、ミシェル。ここが、白竜様の神殿です」
「すごく綺麗な……これが、建国時からあるのですか?」
「はい。この石材の劣化具合と、その材質について調べれば、建国の頃と判断できるそうです。ぼくは、分からないのですが」
「そんなに昔からあるのに、なんて美しいのかしら」
古いものの特徴が、良い意味で出ている。ところどころ欠けていて、少し足場が悪いのも、趣がある。
アルフィノがバッグから布を取り出して、私へとそっと被せた。
「濡れるので、そのままで。では、祭壇に行きましょう」
「はい」
アルフィノに手を引かれて、石段を丁寧に上り、清流の傍を通ると、微かに水しぶきがこちらへとかかる。そのままなだれ落ちる小さな滝の裏へと入れば、そこは上を岩窟に囲まれた厳かな場所だ。暗い祭壇の上で、セバスが前へと歩いて行って、祭壇の篝火に火をつけた。
照らし出された祭壇の上には、床に刻まれた不思議な文字があった。正面の石板には、楽譜のようなもの――白竜神楽の本に挟まっていた楽譜によく似たもの――があった。
「では、まず祈祷から。僕が先にやりますから、それに倣ってください」
「はい」
アルフィノが祭壇の中央で膝をついたのを見て、私も同じように、彼の隣に移動して、膝をつく。胸の前で指を組んで目を伏せ、アルフィノの言葉を復唱する。
「彼方より捧ぐ、我らが白銀の君よ」
「彼方より捧ぐ、我らが白銀の君よ」
「巡る風に、花咲く地に、徐かなる水に」
「巡る風に、花咲く地に、徐かなる水に」
「総ての恵みに報いる、大いなるフォネージ王国の守護者たる我ら、メルヴィンの末裔が」
「総ての恵みに報いる、大いなるフォネージ王国の守護者たる我ら、メルヴィンの末裔が」
「今此処に、王国を守るための誓いを立てん」
「今此処に、王国を守るための誓いを立てん」
そう告げて、しばらく目を伏せ、祈りを捧げる。すると、やがてアルフィノに肩をぽんと叩かれて、私は目を開け、立ち上がる。
「これで、白竜様への誓いは完了。国のため、家に伝わる儀式をするってお伝えした」
「そうなのね……ちゃんと伝わったかしら」
「そうだね、きっと。巡礼自体は、これで終わりではあるんだけど……どうかな。白竜神楽は、どれくらいできるようになった?」
「ええと、楽譜は全て読んで、覚えているわ。舞はまだ、通してやったことはないけれど、一通り」
「優秀だね……ここで、奉納してみようか。昔は、定期的にフレイザードの花嫁はここへと足を運び、神楽を奉納していたと言います」
突然の申し出だが、私は頷いた。この神聖な神殿で、白竜様に捧げる歌や舞を奉納できるなんて、本当に光栄だ。アルフィノがセバスへと指示を出せば、セバスは持ってきた荷物の中から、一つの袋を取り出した。その中には、見たことのない衣服が折りたたまれて入っていた。
「上の服を脱いで、下の服の上から、これを羽織ってください。白竜神楽をするときの、一族に伝わる由緒ある衣装です」
「素敵……お借りいたします」
「はい。フレイザード家の女性のためのものですから、あなたのものです。家にあった資料を基に、君の体に合うように仕立てて貰いました」
「これが、私の……ありがとうございます」
私は、彼らが入り口の方へと向かって行ったのを見送った後、上の服をそっと脱いで、袋から取り出したそれを羽織る。白を基調とした、薄い絹の布地に、赤が差した、ちょっと見慣れない不思議な衣装。けれど、袖が広がっていて大きく、この衣装をまとって踊る舞は、とても美しく見えるだろうということが予測できた。
羽織って、前を閉めて彼らを呼べば、アルフィノは満足そうに微笑んでいた。
「よく似合っています。今日は簡易衣装ですが、戴冠式の際には、装飾品も含めて、全て用意します。では、お願いしてもよろしいでしょうか」
「はい。では、白竜神楽を始めさせていただきたいと思います」
私がそう告げれば、アルフィノは頷いて、少し離れた位置まで下がった。私は一度深呼吸をして、そうして床を蹴って、舞を踊り、歌を奏でる。白竜神楽の前提は「随意に」とあった。つまりは、テンポも楽器も様式も、全て私の裁量次第で決めろということ。これを知ったとき、私は真っ先にルーティナを頼った。
ティナも一緒に頭を悩ませてくれたけれど、この神楽の終着点は、戴冠式だ。つまりは、多くの貴族が参列する場で行なう催し。であるからこそ、私が選んだ形式は、オーケストラに合わせた、社交ダンス風の構成だ。ティナの助けを借りてアレンジした譜面は、貴族からも受け入れられやすく、分かりやすい。
私はこれを最初に見た時、時流に合わせろ、というメッセージを受け取った。挟まっていたメモにも同様の思想が記されており、歴代のフレイザード家の女子たちは、その時代に合った様式で、白竜神楽を執り行ったのだ。
まだティナに協力を貰って詰めるつもりではあるのだが、ひとまずは今の100%を白竜様に捧げる。
(……あら?)
私は、少しの違和感を覚えた。何となく、舞の長さと、歌の長さが合わない気がする。もっと歌を引き延ばさなければならない? いいえ、何となくそれも違う気がする。だとすれば、もしかして――。
(歌が、足りない? あの楽譜の分だけでは)
実際に通して、歌も合わせてみて、分かった違和感。けれど、私はなぜか、その先を知っている気がした。
口からあふれ出す歌は、過去に夢の中で、あの真っ白な少女が歌っていたもの。自分の口から自然にあふれ出したそれを知覚したとき、私はこの不思議な歌が白竜神楽の続きなのだと悟った。
どうして、私の夢の中に、白竜神楽の続きが浮かんだのだろう。そう思いながら、私はそれを歌い切り、舞を止める。驚くほどに、ぴったりと、それは終わりを告げた。
時間が、止まったかのような、不思議な感覚に陥る。けれど私は、はっとして周囲を見渡した。
途端に、夢の中の、真っ白な世界に、色が付いたような気がして、私は思わず立ち尽くした。
「――シェル。ミシェル?」
「……フィー?」
「ミシェル。どうしたんですか? 神楽が終わった途端に、ぼーっとして」
肩を揺らされて我に帰ると、目の前に、心配そうに私を見つめるアルフィノの顔がある。私は目を瞬かせて、へにゃりと笑った。
「すみません……あの、フィー」
「はい。どうしたんですか?」
「少し、共有したいことができたので、お話してもよろしいですか?」
「共有したいこと?」
アルフィノが首を傾げる。私は、この夢の中の話を、丁寧にかいつまんで、伝える。
「私、この場所を前から知っていました」
「え? ……この場所に来たのは、初めて、ですよね」
「はい。初めて、だと思います。けれど、知っているんです。幼い頃から、何度も夢で見ました」
その言葉に、アルフィノは目を丸くした。私も、自分が変なことを言っているのは分かっている。けれど、アルフィノには以前から「歌う少女の夢」の話をしていたので、私の夢が少し変わっているのは、彼も分かっているはずだ。
「真っ白な女の子が、歌っている夢。彼女が歌っていたのはこの場所で、その後ろには、楽しそうな顔をした白竜様がいた。今の神楽、後半の部分は、楽譜に載っていなかった部分なんです。私が、夢の中で見た歌を、繋げたんです。そうしたら、これで完全な白竜神楽なのだと、分かりました」
「……なるほど。君の夢の話を聞いた時から、少し引っかかるものは感じていたんです。というのも、フレイザード家の古い文献には、歌の愛され子という言葉が頻繁に出るのです」
「歌の愛され子?」
聞き慣れない言葉を、オウム返しに尋ねれば、彼は少しだけ考え込んだ。
「歌の愛され子。建国王の娘、イリーナが生み出したという、白竜神楽の真の姿を、夢で受け継ぐ者をそう呼ぶそうです」
「イリーナ、様。確か、はじまりの騎士、シルフィーナ様の妹君ですね」
「はい。そして、フレイザード家の二人目の花嫁です」
「建国王の娘が、フレイザード家へ嫁いでいらっしゃったのですね」
「はい。つまり、僕らの祖先です。ですが、歌の愛され子は、血によって受け継がれるものではないのだそうです。魂に刻まれた、運命の糸。歌の愛され子は、育つと音楽に触れ、その才能を開花させる。古には、フレイザードの花嫁は、歌の愛され子を探せと、そう呼ばれたほどです。ただ、ここ数百年は――白竜様が姿を消されては、長らく見つかっていなかったそうなのですが」
幼い頃より見続けた、不思議な夢。
その夢に関する文献が、フレイザード家には残っているのだという。私にとっては、驚き以外の感情が出ない。
「ぼくの家の者によく顕現するこの白竜様と同じ髪色は、イリーナ様の色と呼ばれています。もしかしたら、君の夢の中に出てくる女性は――」
「聖者、イリーナ様ということですか?」
「その可能性が高いかと」
「何てこと……」
「ありえないことではありません。この神殿は、イリーナ様所縁の地ですから」
「イリーナ様の?」
アルフィノは頷くと、周囲を仰ぎ見た後で、何かを感じたようにつぶやいた。
「この周囲は、神聖な気で満ちている。フレイザード家の巡礼とは、三聖者と呼ばれる偉人たちのゆかりの地を巡り、その神秘の力を分けて貰うことを指します」
「三聖者――建国王、ファルスナート。建国妃、フィリア。そしてその御子、イリーナ。この三名ですね」
「ええ。彼らは白竜様から授かった不思議な力――魔法を最もうまく使いこなし、国を導いた偉大な人たちです。そんな彼らの想いを現代に繋げるため、力をお借りするために祈るのが、この巡礼の儀式です」
神聖なる建国の時代の息吹が、この地にはまだ根付いている。歴史に想いを馳せる人間にとって、どれほど心躍ることだろうか。
「歌の愛され子は、巡礼を終えた後、聖者たちから国を守護する力を賜ると言い伝えられています。正直に言えば、地上から魔法の力のほとんどが消えてしまった今、それがどこまで本当のことなのかは分かりません。ただ、もしかしたら君にとって、この巡礼は――とても大きな意味を持つかもしれません」
自覚をすれば、すっと胸の内を澄ませていくような、清廉な風が吹き抜けていったような気がした。
私のように何の力を持たぬ者にでも、この地が特別であることが、しっかりと理解できるほどに。
一つ、また巡礼に対して意味を見出した私たちは、夕暮れが来る前に山を下りることにした。
神殿から離れようとしたとき、空の彼方で、誰かが呼んでいるような気がした。