19. 国仕貴族になった私
マーゼリックと和解した、次の日の夜。私は、アルフィノと一緒に私室で紅茶をいただきながら、そっと胸を撫でおろした。何となく、この一ヶ月くらいでどっと疲れてしまって、私はアルフィノと一緒にいる時間が欲しかったのだろうか。
「お疲れさまでした。君を巻き込むのはあまり本意ではなかったのですが、工作に助力いただいてしまいましたね」
「ええ……まだ、どきどきしてるわ。潤滑油としての嘘には慣れているけれど、絶対にバレてはいけない嘘を吐き通す経験は、今までになかったもの」
貴族社会は嘘だらけ。彼らは他人の顔色を窺い、つきたくもない嘘で関係を取り持つ。だからこそ、貴族社会では自分の感情を見せずに、時には嘘を用いて立ち回ることが求められる。王妃教育で、それは嫌というほどに叩き込まれた処世術だった。
けれど、こうして国の安定のための工作の片棒を担って初めて、私が教育としてやっていた「嘘」は交渉術でしかなかったのだと思い知る。
「あなたはいつも、こんなことをやっていたのね」
「そうだね。もう慣れてしまった。この口から出る言葉が、嘘に塗れているのも」
そう告げて、アルフィノは穏やかに微笑む。純粋で、清廉潔白そうな印象とは裏腹に、彼は嘘を吐くプロ。私はアルフィノにそっと体を寄せながら、その温度を感じ取る。どきりとも体を揺らしてくれない大人な彼に、そっと肩を回された。
「私への言葉は?」
「嘘じゃないよ。信じて貰えないかもしれないけど」
「信じるわ。でも、あなたはつらいことがあっても笑顔で隠してしまうでしょう? 私には、それを見破る技術があるけれど、あなたの方が少し上手だから。だから、少し心配」
「……」
肩を抱く手に、少しだけ力がこもる。視線を上げれば、ぱちりと目が合った。
「フィーはつらくないの? 嘘を吐くことが、負担になったことは?」
「もちろん、あるよ。でも、もうすでに割り切ったから」
「割り切った……」
「綺麗事だけじゃ、国を護ることは叶わない」
アルフィノの言葉に、私は頷いた。思想も目的も違う人間たちが作り上げる混沌とした社会を守るためには、法に触れるか触れないか、そんなギリギリの綱渡りをするような、汚れ仕事を引き受ける人間が必要になる。国仕貴族は、それを引き受ける人間なのだと、アルフィノは何度も繰り返す。
「例えば、アムール家の真実が世間に知られたとする。そうすると、どうなる?」
「貴族の力のバランスに影響があるわ。伯爵家以上の家は、多かれ少なかれ他家への影響力を持っている。国仕貴族の中でも、伯爵家というのはかなり貴重だから――国仕貴族以外の家にも、影響が出る」
「そうだね。それに、ミローシュの住人達にも影響が出る。領主の責任を問われれば、後任に就く領主が、ミローシュの街を大切にしてくれるとは限らない。鴉の仕事内容の中でも、領地での横領、不正交易、奴隷売買……そういうあくどいことをして、利益を得ている領主の枚挙には暇がない。だから、貴族の、民の、そして国の安寧を保つために、ぼくたちは分厚い嘘で塗り固めて、誰にも気づかれないように事を運ぶ」
アムール伯爵家が表面上、何の問題もなく運営されているから、貴族も、領民たちも何の問題もなく穏やかな日々を過ごしている。工作を担う人以外、その手を煩わせている人は誰もいない。
「民が不安に思わぬよう、嘘を重ねる。根深い罪を犯した人間を表舞台で裁くために、陥れる。誰でもない、取るに足らない人間を演じて、国中で監視の目を光らせる。それこそが、鴉や国仕貴族の使命です。王家という光が照らしてできた影の中で、国の異分子を切除する。そうやって、この国は栄華を絶やさずにいます」
「……本当に、この小さな体に、なんていうものを背負ってるのかしら、あなたは」
私はそっと頬に手を当てて、額をそっとくっつけた。互いの息が鼻にかかるほどの距離感で、私の目は少し潤んでいたと思う。
「背負うのが苦しくないわけではないよ。でもぼくの自己は限りなく裏の社会に染まってる。思想も、人格も、感情も。けれどぼくは、表の社会でも生きていける仮面を持ってる。花嫁に迎える人を、この血なまぐさい世界に引き込まないように、そう訓練される」
「フィー……大丈夫よ、私は理解してる。これでも、国の綺麗な部分も汚い部分も抱え込んで、綺麗なものだけを見せるための訓練をしてきたの。だから私も、同じような顔を持っているのかもしれない。あなたの苦しみを理解できるとは思わないけれど、あなたに怪訝なまなざしを向けることは、もう二度とない」
踊る舞台が違えど、国の光と影でそれぞれ泥をかぶってきた私たち。だったら、まずは歩み寄りから見せるのが第一歩。それが、私が国仕貴族になった覚悟の形だ。
アルフィノは慈しむように目を細めて、そのまま私の額へとキスを落とした。
「そうだね。ぼくも、王や王妃としての訓練や公務の過程で、君が味わった苦しみを理解できるとは思わない。でも、認め合うことはできる――いや、ぼくはもしかしたら、その苦しみを理解しようとしなければならないのかもしれないけれど」
「え?」
「そのうちに言おうと思っていたことだし、タイミングだからもう言ってしまうね。先日の領主会議で、ガブリエル殿下の王太子任命にあたって、王位継承権の序列が整理された。彼の嫡男が12歳になるまでの王位継承権の序列――ぼくは第六位を賜った」
「!」
おそらく、そうなるとは思っていた。アルフィノは、祖母に先代の王妹を持つ、王家に近い血を持つ伯爵家以上の人間。であるからこそ、マーゼリックを廃嫡し、ガブリエル殿下を王太子に任命したのなら、王位継承権の序列の整理にあたって、アルフィノに比較的高い順位が与えられることは予想の内だった。
「第一位は現国王の弟で、ルーラーヴェイン大公。第二位がその嫡男、ジェイムズ様。第三位が王妹殿下の降嫁先、トラベッタ侯爵家次男、ドラハット様」
すらすらと告げられた名前に、私は納得する。今の王室にはもうガブリエル殿下よりも下になる王位継承者が存在しないため、そのまま国王の弟である大公家の方々に上位の序列が与えられる。王弟であり継承権が陛下の次に高かった一つ下の弟である大公閣下は、妃騒動の余波で早めに臣下に下り、貴族たちに利用されるのを避けつつ、王室で何かあったときのために嫡男を設けることを求められたそうだ。
現国王の他の弟妹たちは皆国外に嫁いだり、跡継ぎ問題などで王位継承権を放棄し、先王の代にまでさかのぼると、長女のベルンティア様の孫から、ルーヴィウス公爵家とフレイザード伯爵家の人間に順位が与えられたという形だ。その後も第十位まで名前が並ぶと、アルフィノは一息ついた。
「ぼくも辞退しようと考えていたのですが、王室が揺れていて怪しいと感じているイズラディア公爵とサファージ侯爵が、王室に意見できる立場である序列を念のために持っておいてほしいと、そう仰って。前代未聞ですよ。国仕貴族が、王位継承権の序列を得るだなんて」
「問題ないのでしょうか……」
「法律的には大丈夫です。ただ、思想としてはぼくらは表には出てはいけないというだけで。王室に入ると決まった時点で国仕貴族としての権利を全て放棄することになるので――つまり、国仕貴族ではなくなる、ということです」
アルフィノ様の様子を見る限り、玉座につく様子はなさそうだと感じるものの、確かに彼が王位継承権を賜るだけの事態が、国で起きているのだと実感する。先代から根深く続く王室の問題は、まだ円満な解決に至れていない。
「とはいえ、大公閣下のご一家も、ガブリエル殿下に何かがあったときのために序列を持っているだけで、玉座につく気はなさそうですね。ジェイムズ様は公爵家への婿入りが決まっており、国王陛下と大公閣下の兄弟仲は良好です。ガブリエル殿下の退位を願ってまで、大公家が王家になることは望んでいないようです」
「では、ガブリエル殿下の戴冠は問題ないのですね」
「ええ。ですが、先日もお話しした通り、デナート派の最後の足掻きがあるようです。ですので、戴冠式を何としても成功させなければならない。それらの声を吹き飛ばすガブリエル殿下の必殺の一手が、白竜進行に基づいた戴冠式にて、白竜様のお言葉を得ることです」
「はい……必ず、神楽を成功させます」
アルフィノに髪を撫でられて、不安を少しずつ溶かされる。ぎゅう、と抱き着けば、彼は抱き返してくれた。その温度に、安心しきったように息を吐き出していた。
数日後、屋敷にカルセル様がいらっしゃった。普段はナタリア様のために、森の中の小さな屋敷で過ごしていらっしゃるカルセル様が、いったいどうしたのかと思ってアルフィノと共に出迎えれば、彼は爽やかな微笑と共に、こんなことを仰った。
「ひとまず半年間ほど、ナタリアと共に、王都にある公爵家のタウンハウスを貸していただくことになったよ。アルフィノが王位継承権を授かってしまったのなら、私もゆっくりしてはいられない。王都での情報収集や鴉の指揮は私が執ることにした」
先代フレイザード伯爵であるカルセル様は、アルフィノを超える一流の諜報員。デナート様と因縁がある彼にとって、この事件はあと腐れなく決着を付けたいものなのだろう。
「ナタリアもそろそろ都の景色が恋しくなってきたそうだ。出歩けはしないだろうが、王都の屋敷で暮らせば、また森での生活も楽しくなるかもしれない。喜んでついていくと言ってくれたよ」
「そうですか……父上と母上に、お手を煩わせてしまい申し訳ありません」
「気にしなくていい。これは元々、私の代に片付けておかなければならなかった案件なんだ。足元を掬われたのはこの私。なに、所詮は残党退治。今度こそ、完膚なきまでに片付けるから、アルフィノは心配せずに彼女の傍にいなさい」
そう告げたカルセル様の瞳には、微かな怒りの炎が燃えていたような気がした。カルセル様も、王室を大きく揺るがしておきながら、何のお咎めもなしにまだ大きな顔をしようとしている貴族たちに、手を煩わせるのが気に入らないのだろう。残酷なまでに冷たく微笑んだ横顔が、いつかのアルフィノによく似ていた気がした。
カルセル様とナタリア様を乗せた馬車を見送って、アルフィノを見上げれば、彼は少しだけ顔を紅潮させて、ぼんやりとカルセル様の去っていった方を見つめていた。
「フィー?」
「あ……すみません。諜報員の顔をした父上を見たのが久しぶりで。すごい人だったんですよ。王領でのさばっていた賊の黒幕を突き止めたりとか……父上が、母上を伴って王都へ行かれるなんて……これ以上に心強い味方はないかもしれません」
「カルセル様は、フィーの師匠ですものね」
「はい。ひとまず、当面は計画通り、殿下の戴冠式に向けて、ぼくたちは神官としての役目を果たしましょう。というわけでミシェル……少し、長旅になりそうですが。巡礼の計画を立てましょう」
「巡礼?」
私が首を傾げれば、アルフィノは微笑んで、指を立てて告げる。
「神官業を行なう前には、国の中にある主要な白竜様と建国王の聖地を回るのが慣例となっています。この家の裏の白竜様降臨の地である神殿、国の南方にある聖者の泉と呼ばれる大きな湖、そして王城の地下にある、祈りの場――聖廟と呼ばれる、建国王の墓所。これらの前で祈りを捧げるのが慣例です。ぼくも成人の時に一度巡礼を行ないましたが、夫婦となってからはまだ一度もありませんでしたね」
「そんな慣例があるんですね……分かりました。では、まずは裏山の神殿から……ですか?」
「はい。天気のいい日を見計らって、セバスを連れて登りましょう」
アルフィノの言葉に、私は頷いた。こうして、私たちはガブリエル殿下の戴冠式に向けて、本格的な準備を開始したのだった。
ぼちぼち物語を畳みに向かいます。