18. 真夏の雪解け
夜、ひどい雨が窓を叩く部屋で、アルフィノにスローンズフィール伯爵の従者であるベスター子爵の言葉を伝えれば、彼は苦笑した。
「……災難でしたね」
「本当に。さて、どうしますか? 私は、アルフィノの策略通りに動こうと思いますが」
「ええ。では、まずはこちらのもろもろの結果もお伝えしますね」
アルフィノはここ数日で調べてくれたことや、工作に手を回したことについて話してくれる。
まず、スローンズフィール伯爵領はかなり平和だそうだ。腐っても王太子教育を受けた、統治者の器だけは認められていた男だ。優秀なのはそうだろう。認めるのは少し癪だが。
スローンズフィール伯爵が新しい縁談を探し始めた経緯としては、彼は社交から逃げないことを決めたのだそうだ。社交界に出れば、あらゆる非難をされるのは分かっているのに、しかし彼は罪を見逃された以上は、この国の中央から逃げることは許されなかった。
ああ、なるほど。だからエリン、と少し納得がいった。確かにエリンなら、彼に群がる面倒な人間を軽くあしらってくれるだろう。気の強い女でなければならなかった理由も何となく察せた。
「だからって、エリンを見初めるなんて……悔しいけど、見る目あるじゃない」
「あはは……ひとまず、穏便に状況を収めるために、ぼくの方では、エリンの嫁ぎ先として工作を担っている方にご挨拶と詳しい説明を差し上げてきました。イズラディア地方北端、広大な農耕地を受け持つズミソン男爵です」
「ズミソン男爵……」
「ここから先は他言不要ですが、男爵は数年前から秘密裏に、森の中にある別邸に、平民の恋人を匿っています。見栄っ張りな姉に平民の夫人など認めないと言われて困っていらっしゃったので――エリンとの形だけの婚姻という形式を取っていただくことにしました。その平民の方は髪色も瞳もエリンと同じ色をしているので、子を産んでも問題ないという判断なのだそうです」
随分と込み入った事情をお持ちの方だ。けれど貴族が平民の恋人を別邸に囲うなどという話は、実際にはよく聞く話だ。
「男爵としては、伯爵家の女子を伴侶に迎えられるなら姉も文句を言えないだろうと仰っていました。ズミソン男爵は社交界にも出ませんし、イズラディア公爵から任された仕事には伴侶を必要とした政務はありません。一番の好条件かと。あちらにもこちらにもメリットが確実にある話ですね」
「無事に見つかったのならば良かったです。それも、エリンの名誉を汚さない形で」
「はい。まぁ、一度男爵の姉上とエリンに顔を合わさせて、二度と伴侶に口を出せないように厳しく言ってくれないかとは言われましたが」
「それは……エリンに頑張って貰うしかないですね」
けれどひとまず、工作の準備は完了したようだ。これなら、婚姻の書類がまとまり次第、エリンは他家に嫁いだことにできる。エリンを、アムール家を守るための策謀だ。必ず最後までやり遂げなければならない。
ふと、手を取られて顔を上げると、アルフィノは少しだけ心配そうな顔をしていた。
「本当なら、もう出来るだけ、君をスローンズフィール伯爵とかかわらせたくない、というのが本音です」
「フィー……ごめんなさい、そうよね。私もそう思います。ですが、この機を逃せば、彼と分かり合う機会は永遠にない気がするのです」
「そうですね……だから、これはぼくの我儘です」
「フィー」
そっと、彼は私の肩を抱いて、ぎゅっと手を握りしめた。前髪に息がかかるほどの距離感で、彼の綺麗な瞳を見つめる。
マーゼリックは元婚約者。彼からすれば、親の敵の息子でもある。フレイザード家とサファージ家の政略は、私を彼に関わらせないようにする――つまり、王家の不当な権力から守ること。
アルフィノから心が離れることなんて、天地が返ってもあり得ないけれど、彼はきっと、マーゼリックと顔を合わせて、私が傷つくことを心配している。
「ありがとう、フィー。ですが、彼ともう一度顔を合わせれば、私は全ての過去の遺恨を断ち切って、あなただけのものになれます。私は、あなただけのものになりたいです」
「ミシェル……ごめんなさい。君が誠実に向き合おうとしているなら、ぼくに言えることは何もありません。心配していることだけは、知っていていただければ」
「はい。もちろんです」
どちらからともなく、唇をそっと重ねて触れ合う。スキンシップにも、随分慣れてきて、そのまま見つめ合った、その時だった。
突然、部屋の明かりが消えた。どうしたのかしら、と思えば、アルフィノが「湿気でろうそくの火が消えたんでしょうか」と耳元で言って立ち上がり、灯りの方へと向かって行った。私は暗闇の中で、深呼吸をして、何とか平静を保つ。
――けれど、窓の外を横切る影を見て、私は思わず悲鳴を上げた。アルフィノが驚いたように「えっ」と声を上げた瞬間、灯りがもとに戻って、私は思わずアルフィノに抱き着いた。
「ど、どうしたんですか、ミシェル」
「い、いま、今窓の外に何か……も、もしかして――」
トーマスに言われたことが、頭を過る。この周辺では、幽霊を避けるために水を撒く文化があると。
「幽霊――」
「……幽霊……怖い、ですか?」
「怖い……です。だって、生者じゃ、ないんですよ。説明できない、現象なんですよ」
「……大丈夫ですよ。よしよし」
アルフィノに抱き着いて震えていれば、アルフィノが優しく髪を撫でて、耳元で大丈夫、と呟いてくれた。私は少しずつだが落ち着きを取り戻して、そうして諭すように告げた。
「雨で外はよく見えないような状態だし、何かを見間違えたんだと思います。大丈夫ですよ」
「本当……?」
「はい。だから早く寝てしまいましょう。大丈夫ですよ、傍にいますからね」
私はそのまま、生まれたての小鹿のようながくがくの足で、アルフィノに寝室まで連れて行って貰ってしまった。
◆◇◆
川の向こうから、豪華な馬車がやってくる。金の縁が入った王家のものではなく、銀の縁が入った一般的な貴族家のもの。けれど、その馬の装具に付けられた家紋は、紛れもなく王家の花に似た家紋。
私とアルフィノは家の前で、彼らの到着を出迎えた。すると、降りて来たマーゼリックは、どこか少し痩せ気味になっていた。王子として贅沢をしていたころも、太っているという印象はなく、細身だったが、頬が少ししゅっとした気がする。どうやら、苦労しているのは本当らしい。
馬車から降りて、傍に従者のベスター子爵、モーランド卿が控え、こちらへ歩いて来たマーゼリックを、貴族流の出迎えによって歓待する。
「ようこそ、スローンズフィール伯爵。フレイザード伯爵、アルフィノです」
「フレイザード伯爵夫人、ミシェルです」
「……スローンズフィール伯爵、マーゼリックだ」
彼は硬い表情のまま、形式的な礼を取る。彼らを連れて、貴賓室へ。今日は、業務関連の話し合いではないので、珍しく貴賓室を使うことになった。フレイザード伯爵家を訪ねるほとんどの貴族家は、応接室を使うような用件であるのがほとんどなので、実は私も、この部屋をあまり使ったことがない。
白を基調とした調度品の数々は、汚れもなく丁寧に磨かれている。この部屋の窓からは、裏庭にあるたくさんの花壇がよく見えるようになっていて、客人への配慮がよく見える。
着席を勧めて、スローンズフィール伯爵が座ったのを見ると、私たちも正面へと腰を下ろした。使用人たちが運んできた紅茶や、スタンドに飾り付けられた色とりどりのお菓子が、白いテーブルクロスの上に丁寧に並べられている。
(うわあ……気まずそうね……)
目の前に座るマーゼリックは、無表情に見えるが、目の端がぴくぴくと動いている。私と目を合わせないし、紅茶を飲みながら、アルフィノの世間話に応えている。
このままでは、うまく話が出来なさそうだ。私は机の下で、アルフィノの袖を引いて、相談していた取り決めについて、促すことにした。アルフィノはちらりとこちらを見て小さく頷くと、マーゼリックに向けて告げた。
「スローンズフィール伯爵。今日は公式の場というわけではありませんし、無礼講としませんか」
「……」
「そのままでは、ろくに自分の言いたいことを言えないのでしょう?」
私が声を掛ければ、初めてマーゼリックと視線が合った。ただ、互いの視線に混じるのは、向こうからは微かな疑心と後悔、それとやっぱり少しの怒り。私の視線からは、確かな呆れ。そんな感じだった。私はやれやれと言った心情で、さらに言葉を重ねる。
「昔から、公的な場や目上の人間に対する他者への口調にはお悩みでしたものね。練習に付き合いましょうかと尋ねれば、お前にそんな口が利けるかと怒鳴られましたが」
「……はっ。そんなこともあったな」
「本当に、何を言っても聞いてくださらなかったんだから。もう、いいのです。あなたにそんな緊張した様子で口を利いていただいても、私にとっては違和感しかありませんもの。今日この場では、私もあなたも無礼講といきましょう?」
「分かった。……ここはひどい田舎だな。前に来た時も思ったが、牧草地が広すぎる」
いきなり領地への苦言か。そう思いながらも、マーゼリックは少し表情が柔らかくなった気がする。私はふん、と鼻を鳴らして、扇子を開いた。
「王と周囲とは気候がだいぶ違いますから。この家でも馬の畜産をしておりますし、ルーセンの街の向こう側まで行けば、もっといろんな畜産をやっている集落もありますわ」
「お前のような典型的な王都貴族が、こんな田舎で暮らしていけるのか?」
「あら。私、馬にだって乗れますけれど? 環境を人に合わせるのには数十年、数百年という莫大な時間が必要ですが、人が環境に合わせるなら、その気になればいつからだって始められます」
初めて来たときには、家の周りを少し歩くだけでもすぐに疲れてしまった。舗装されていた道が当たり前だった王都での暮らしは、坂はあっても道は平坦だった。けれどこの家の周りは自然がそのまま残っているので、でこぼこの道や、自然の段差、緩やかな勾配の地面を歩いているだけで、かなり体力が奪われてしまう。けれど人は慣れるものだ。毎日家の周りを散歩しているだけで、土地に足が慣れ始めて来たのだ。
そんな風に言ってやれば、彼はどうしてかとても神妙な顔をして、そうつぶやいた。
「――うまくいっているのか、その。フレイザード伯爵とは」
「……は?」
私は思わず、変な声で聴き返してしまった。まさか彼からそんな言葉が出てくるとは思えずに、正しい意味を理解できなくて頭が空っぽになってしまった。すると、マーゼリックはむっとして、視線を逸らしながら告げた。
「……私が迷惑をかけたのだ、一応」
「一応……」
「気にするのは、そんなに悪いことか」
――悪いこと、ではない。ただ、驚いただけだ。彼が私を気遣った事なんて、彼と婚約者だった頃には一度もなかったからだ。本当に憑き物でも落ちたのだろうか。そう思って訝し気な目で見れば、マーゼリックは段々と苛立ちの色を見せるようになった。
「……ええい、慣れないことはするものではない」
「ごめんなさい。あなたに心配して貰うようなことは何もないわ。アルフィノ様には本当によくしていただいているもの。気も合うし、互いを尊重できる、良いパートナーよ」
「本当か? 貴様、その暴れ馬を御せているのか? 見たところ小動物がごとき頼りない男だが……」
「ちょっと。私の旦那様に喧嘩売らないでくださる?」
ねぇ、とアルフィノを見上げれば、アルフィノは穏やかに私たちを見守っている。こういうところは年上の余裕というか、彼はいかなる時にもなかなか余裕を崩さないので、本当に精神年齢の高さが見えるのだ。アルフィノは紅茶を飲み込むと、マーゼリックに微笑んで告げる。
「暴れ馬なんてとんでもない。とっても素直で、かわいらしい人ですよ」
「素直で、かわいらしい人……?」
「この前も、雨を幽霊と勘違いして、怖がっていたような……そんな女の子ですよ。とても愛らしい」
マーゼリックは私の方を信じられない目で見た。
うるさいわね。どうせアルフィノの前だと気性難を発揮できないわよ。幽霊だって怖いわよ。だからそんな目でこっちを見るのを止めなさいよ、と鼻を鳴らせば、マーゼリックは腕を組んだ。
「まあ、この小動物を蹴飛ばす気にはならんか、流石の貴様でも」
「蹴らないわよ。全く……余計なお世話だわ。だいたい、素直にならせてくれなかったのはあなただわ。私の話を何にも聞かないんだもの。そんな相手に、素直でかわいらしい姿などどうやって見せろというの?」
「前の私なら、私を立てていろと言っただろうな」
「嫌よ、絶対に嫌。自分が絶対だと、何よりも勝ると、何よりも正しいと思い込んでいる人間に、玉座は任せられないもの」
そう告げれば、マーゼリックはぴたりと手を止めて、少しだけ俯いた。
彼が幼少期から目指し続けていた玉座。当たり前のように座ると思っていたその場所。
けれど、私に婚約破棄を告げたところから何かが綻んで、取り返しのつかないほどに歪み切ってしまった。どれだけ皺を伸ばしても元には戻ることはない、その歪みに飲み込まれて、彼は多くのものを失った。
「やはり、お前は私は王に相応しくないと思っていたのか」
「そうね。臣下の言葉に耳を貸さない王なんて、独裁者じゃない。この国は、独裁者が統治できるような構造をしていないのよ。国仕貴族や、鴉という存在がいる限りね」
「……私は、冠を戴くのは当たり前だと思っていた。この国に王子として生まれ落ちた以上、私が正妃の息子である以上、それが当然だと」
「鴉の監査を忘れたの? 問題のある王が玉座につかないように、彼らはいつでもどこかで見張っているの。私との婚約破棄も、その後の学院でのめちゃくちゃな統治も全部見られていたわ。だからあなたは玉座に選ばれなかったのよ。私の家の後ろ盾云々の話ではなくてね」
鴉の監視がある限り、王族が自分の立場と権力を使って民を虐げるような真似は、全て王に筒抜けになる。それでも見逃されていたのは、マーゼリックがまだ若く、更生の機会があると判断されたからだろう。それを跳ねのけて、怒りのままに好き勝手に振舞ったから、鴉は彼から王としてのすべてを奪った。
「……そのようだな。幼い頃、義母上――側妃殿下に言われたことがある。国仕貴族について」
「……ええ」
「彼らはこの国の中で、最も公平に、王に誰が相応しいかと見極めようとしている一族だと。不正を行なったものが玉座につかぬようにと。彼らは栄誉も受け取れぬ影の存在で、彼らが使命と思想を繋いでいるからこそ国は安泰なのだと。であるからこそ、王家だけは、彼らへの感謝を忘れてはならぬと、そう言われた」
だから、彼はエリンに対しては横柄な態度を取れなかった。彼の中に、王家の一員としての自覚がちゃんと残っていたから。
国仕貴族は、国の影。どれほどに心を砕いて、王家の成立を支えても、その栄誉が表沙汰にされることはなく、賛辞を受けるのは王族のみ。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、王家と国仕貴族の家は、表面上の不干渉を避けつつ、水面下では支え合っている。国仕貴族を守るのは、王家の役目の一つなのだろう。
考えていると、ふっとマーゼリックは自嘲するように微笑んだ。
「今はもう、王の座に興味はない。むしろ――あの愚かな女の血を、玉座に据えなくてせいせいしている」
「え……」
「顧みて初めて分かった。あの女の愚かさも、醜さも。私はあの女の傀儡だったのだ。絶対に玉座に付くのは自分でなければならないと吹き込まれた」
マーゼリックは忌々しいものを思い出すかのように、ぎりっと拳を握りしめて、吐き出すように告げた。
「全ての者を見下せと言われた。お前にはその資格があると言われた。従わないものは権力ですべて従えろと言われた。贅沢をしろと言われた。これらを諫める者は、全て敵だと言われた」
「――……」
「私にも分かる。このような考えの者は、王家には相応しくないと」
彼は実母であるデナート様を、言葉で明確に否定した。この時、私はマーゼリックが本当に、デナート様と決別したのだと実感した。
「あの女は魔女だ。国の崩壊を目論む、忌まわしい魔女だ。そんな忌まわしい魔女の血が王家に混ざったらどうなる? だから私は、もはや玉座に未練はない」
「……そうですか。あなたがそこまで考えていたとは思いませんでした。つまり、私の言葉を聞いてくださらなかったのは、母上の指示だったのですね」
「そうだ。お前のことは気に入らないがな」
「一言余計ですけれど」
やはり彼とは相いれない。そう思いつつも、もう彼との関係に降りかかっていた雪は解けかけていた。まばゆい真夏の太陽の光が差し込んで、テーブルをそっと照らす。その光の向こう側で、マーゼリックは今までに見たことがないような、すっきりとした、年相応の青年のような表情を浮かべて、告げた。
「ミシェル・フレイザード。長らく私への忠義を尽くしたにもかかわらず、それら全てを無下にしたのは、お前に要因のない、我が不実の致すところである。私との婚約破棄はお前に一切の責任のない、全て私の有責である。この期間に与えた全ての物理的・精神的な苦痛に対して、そして立場や名誉に傷をつけたことに対して、私、マーゼリック・スローンズフィールはここに謝罪の意を表明する」
そう告げて、彼はそっと立ち上がると、洗練された立ち居振る舞いで――誰もが王子だと疑わないような、誠実で丁寧な動作で、しっかりと頭を下げた。
プライドが高く、決して人の話を聞かず、何もかもが思い通りにいかなければ癇癪を起こす、子どものような男。
そんな過去の影は、もはやどこにも見えなかった。私の心の中に降り積もった雪が、じわりと音を立てて溶けていった。
「謝罪を受け入れます」
そう告げれば、マーゼリックは顔を上げて、そうして心底安堵したように息を吐き出した。
そんな年相応の顔もできるのね、あなた。そう思いながら、私も自然と微笑みを浮かべていた。
彼が犯したことは、決して時が経っても元に戻ることはない。けれど、玉座の争いから転がり落ちた彼が、普通の人間としての幸せを掴むことに対しては、私は純粋な応援の気持ちが湧いてきたことを、ここに記しておく。まぁ、私は根には持っておきますけれど。
マーゼリックが座り直すと、ベスター子爵がマーゼリックへと歩み寄って、そうして耳打ちをした。マーゼリックは、頷き返して、そうして私へともう一度視線を向けた。
「ミシェル。お前はまだ、エリン・アムールと連絡を取っているのか」
「……ええ、勿論よ。だって、大切な親友だもの」
「ベスター子爵から話は持ち掛けられたかもしれないが、お前に頼みがある」
そして、こちらも私たちにとって大切な話だった。彼には申し訳ないのだけれど、彼の幸せのためにも、諦めて貰うほかないのだ。
「……エリンとの話し合いの場を取り持ってほしいっていう話ね」
「ああ。頼めないだろうか」
「……エリンのためにもなるなら、取り持ってあげたい気持ちはもちろんあるのよ。でも、その話だけれど、実はあなたたちが領地を往復している間に進展があって」
「進展?」
アルフィノにちらりと視線をやれば、彼は頷き返した。私は大きく息を吐き出して、告げた。
「実はエリンから、入籍の報告が届いたのよ」
「……は」
「お相手はイズラディア公爵家傘下、ズミソン男爵。アムール家が治めているミローシュという街に、最近人が流れ込んできていて、このままだと数年後に食料の問題が起きるって目算になったらしいのよ。北端の農耕地を管理する男爵に、食料を少し融通してもらうことになったので、両家の交友の証として、エリンが嫁ぐことになったんですって。とってもダンディで素敵なおじさまで気に入っているわ、と連絡が来たのよ」
そう告げれば、マーゼリックは大きく息を吐き出して、ぐったりと椅子に体を預けて、そうして口元で笑った。
「なるほど。お前の言うとおりだったな。いい女は、早くに掴まえておかねばすぐに誰かにとられてしまう」
「残念でしたね、マーゼリック様……」
「いや、いい。他人のものになった女を横から略奪するような真似はすまい。そのような、あの傲慢な女のような真似は」
どうやら、マーゼリックはエリンの婚姻を聞いて、諦めてくれるようだった。これで、ひとまずはこの問題は解決したようだ。私はほっと胸を撫でおろした。
ふと、気になったので、私はマーゼリックに尋ねてみることにした。
「スローンズフィール伯爵は、レティシア嬢のことをどう思っていらっしゃったの? 私に婚約破棄を叩きつけた時には、随分と親しげに見えたのだけれど。真実の愛だのなんだの」
「あの頃は……我ながら最低な行いだが、都合のいい女だと考えていた。何でも従順に言うことも聞くし、見目も麗しい。少し我儘だが、プレゼントをやれば分かりやすく機嫌のよくなるので御しやすかった。あの芝居がかった言い回しや、パーティーの場で糾弾したのも提案はレティシアで、あいつがそうしろと言ったからそうした。派手好きだからな。そうだな……」
マーゼリックは顎の下を撫でると、ぴったりと自分の意識と合う言葉を考えて、それを告げた。
「……動物をかわいがっている感覚に近かったかもしれん」
「動物……」
「お前のような暴れ馬に蹴られた子犬、そんな感覚だった。勝てない相手に必死に吠える姿が、愛らしいと思えていたのだろうな」
「思ったよりも……何でもなかったのね」
意外や意外だったが、レティシア嬢にとっても、マーゼリックは都合の良い相手だった。マーゼリックを隣に置くことが、彼女にとって最大のステータスだったのだから。そういう意味では利害が一致していたのかしら。マーゼリックから飼い犬としか思われていなかったと知れば、彼女はどう思うのだろう。
そんな意地の悪いことを考えながら、この件は恙なく終息へと向かった。マーゼリックを見送った後、私は実家に向けて、マーゼリックと和解した旨を手紙にしたためた。
あなたもふつうのしあわせ、得られるといいわね。そんな気持ちを抱えながら。