14. 白竜の伝承
気候が温かいを通り越して暑い、という温度になった頃。私は、アルフィノの執務室で腰を下ろして、彼と隣り合いながら、白竜の伝承に関わることを教えて貰っていた。
「……何というか、白竜様って、知れば知るほどにフレンドリーな方だったのね。人懐っこいと言うか」
「そうだね。お腹が空いたからと人里に現れてご飯をねだったり、王家の結婚式の場で欠伸をして新郎新婦を吹き飛ばしたり。とってもお茶目な方だったみたい。歴代の当主の手記を見ても、気のいいおじいちゃんのような方だと書かれているし」
「白竜様とお目通り願った当主の手記ですか?」
「うん。見てみる?」
と、アルフィノは執務室の影にあった書架へと足を伸ばして、とてつもなくボロボロになった一冊の手記を取り出すと、私へと差し出した。少しでも力の掛け方を間違えばぼろりと崩れてしまいそうなほどの古い手記を、慎重に開けてみれば、古い言葉で書かれていたそれに、思わず口元が緩んだ。
「ふっ……ふふっ」
「ね? ぼくのお気に入りのエピソードは、お湯をかけて差し上げたら、あまりの気持ちよさに、腹を出してごろごろしてしまったことかな」
「こちらもとても面白いわ。くしゃみをしたらうっかり泉が一つ吹き飛んでしまったから、人間にお願いをして大きな容器を用意して貰って、近くの河川から必死に汲んできた、だなんて」
「それでも白竜様は、国や街に危機が訪れた時には、躊躇うことなく力を振るって、魔物たちを退けていた。だから皆に愛されていたのかな」
こんなに愉快な守り神様がいたら、皆きっと面白おかしく奉ってしまうだろう。白竜様はとても偉大な存在だけれど、少しでも扱い方を間違えれば災いとなるほどに強大な力を持ったお方だ。白竜様が困って何かを頼んで来たのなら、彼らはきっとこぞって白竜様の力になったことだろう。
でも、だからこそ、今はどうしてどこにもいらっしゃらないのだろう。
「白竜様は、どうして国からお姿を消されたのかしら」
「それはどうだろう……歴代の当主の見解では、国が神の手を離れたから、とされているけれど」
「神の手を離れた……」
「昔はこの国はこれほど豊かではなかった。今よりも遥かに魔物も多かったし、気候も厳しく、自然災害のために人は脅かされ、苦しんでいた。飢饉、水害、干害、疫病、大吹雪――ほかにもいろいろ。文明が発達しない昔の国では、助けを乞うために白竜様への貢ぎ物を作って、白竜様に助けて貰っていたんだ」
今でこそ災害対策をし、大地では恵みがたくさん得られるようになり、この国はとても豊かになった。けれど、遥か昔には、アルフィノが挙げたような災害で、多くの民が苦しんだという話は、歴史書を紐解いても存在する。
「でも今は文明が発達したから、それらに対して人間だけでも対処できるようになった。もちろん、災害が起これば苦しむ人はいるけれど、人間同士の話し合いや助け合いで、それらを乗り越えることができるようになったんだ。だから白竜様は、国の果ての渓谷の向こうに姿を消したって言われてる。人が踏み入らぬ、仙境に」
「そうだったのね。ということは白竜様は、守り神のお役目を果たしたから、今は隠居中なのかしら」
「そうみたい。ぼくたちフレイザード家に後事を託して姿を消した、とあるよ。だからそれ以降は、白竜様の言葉を国の王が欲したら、フレイザードの先祖たちがそれを代わりに伝えていたみたい」
だからこそ、フレイザード家は白竜に「成りすます」秘奥を持っているのだ。白竜様が、フレイザード家を――自分の血を分け与えた、自分の子らを信用して、国の行く末を任せた。
「でも、言葉を伝えるためにフィーが大けがをして寝込んでいては、どうしようもないわ。そんな危険な術をほいほいと使うわけにはいかないでしょう?」
「そうだね。だからこそ、フレイザード家はおそらく、とある時期から政に関わるのはやめて、白竜への信仰を収めていったんだと思う。国は神の手を離れ、人のものとなった。もはや、神の言葉を求める時期は過ぎ去ったから――ぼくたちは、本当に国を襲う災厄が起きるその時まで、この秘奥を守り通すことを求められた」
それこそが、白竜の信仰を伝える、という使命の本当の意味。アルフィノはそう語った。
人知を超えたものに国の安寧を願えば、強い力でそれを叶えられるかもしれない。けれどそれは人間の自立とは程遠いところにあるし、白竜様も様子を見ながら、必要がなくなったら姿を消したということは、それを望んだということかもしれない。
何よりも、その白竜様から国を見守ることを仰せつかったのが、国仕貴族たるフレイザード伯爵家。だから私たちは、影から人の治世を見つめる使命を帯びている。
「――と、言うのが、ぼくが父上から引き継いだ家の使命」
「ええ。……あなたがそんな言い方をするということは、何か問題が?」
アルフィノの言葉に違和感を覚えた私は、問いかける。すると、アルフィノはあはは、と苦笑しながら、そっと資料を机の上へと置いた。
「ガブリエル殿下から、頼まれたことがあって」
「殿下から?」
「最近、王都ではガブリエル殿下の戴冠を疑問視する声が少しずつ多くなっているらしい」
「……えっ」
訳が分からない、という顔をすれば、アルフィノは同じように疲れた顔をした。
どうやら、第一王子派――即ちデナート派の貴族たちが、最後の悪あがきを開始したらしい。遠縁の王族の血を引く者を持ち上げて、愚王の選んだ王太子を失脚させようとする動きがあると。
「立太子が終わって、国も安定したころというのに、臣下の中は騒がしい。王室からしたら、もう勘弁してほしいといった具合だろうね」
「王妃殿下も、ようやく王室は落ち着きを取り戻したと仰っていたのに……」
「まだ水面下での話だから、国王陛下や王妃殿下には少ししか届いていないのかもしれないね。その辺りの采配は、鴉の現棟梁に任せてるけど、今は確かに様子見の方がいいかもしれない。まだ表面化していないなら、王室を混乱させるだけだろうし、水面下で鴉が処理できるならそれに越したことはない」
確かに、王家は二代に渡ってやらかしたわけだけれど、それを増長させた第一王子派、つまりデナート派の者らがそれを担ぎ上げているなら、国は更なる混乱に陥るだけだろう。
それに対して、ガブリエル殿下が打とうとしている手は――アルフィノに続きを促せば、彼は服の皺を整えて、襟を正して告げる。
「王太子殿下は、成人――学院の卒業と同時に、結婚式を挙げ、戴冠式を行なう予定。そこで殿下は、白竜様のお言葉を欲したんだ」
「白竜様の……?」
「王家にも、フレイザード伯爵家が、白竜の降臨を願えばそれを叶えて、白竜様からの言葉を賜ることができるという記録が残っていたらしい。なので、割れた国を今一度、白竜様の言葉で統一したいと」
「それって、つまり――」
アルフィノが、あの術を使って、白竜様の言葉を伝える。ガブリエル殿下は、それを望んだということだろうか。けれど、それは、つまり――。
「フィーが、また、あんな状態になる、ということ……?」
体中血まみれになって、一週間目を覚まさなかった。幼い頃は、一ヶ月もの間その状態だったそうだ。
ガブリエル殿下はご存じないのだろう。その儀式の代償に、フィーがどんな目に遭うのかなど。そう思っていると、アルフィノはしっかりと告げた。
「ぼくはそれをお受けします、といった」
「え……で、でも、そんなことをしたら、フィーはまた……」
「分かっています。すごく苦しい思いをすることも、君に心配をかけることも。でも、これがフレイザード家の使命なんです。命を燃やして、白竜様の意志を届けることも、その存在をお守りすることも」
「そんな……」
でも――もしも。もしも、力を使いすぎて、アルフィノが目覚めないようなことになったら、どうするの?
あの時だって、ずっと心がざわざわしていた。メイドが縋りついて「一か月目が覚めなかった」と言っていた時も、背筋が凍るような思いがした。
あんな思いをするのは、二度と嫌だ――そう思ってぎゅっと目をつぶれば、アルフィノはそっと私の頬に手を当てた。
「だから、ぼくは戴冠式までの一年半、魔法の鍛錬をしようと考えています」
「魔法の……鍛錬……」
「ええ。そもそも、フレイザードの秘奥に耐えられないのは、ぼくの体が魔法使いとして未熟だからです。今日日、大きな魔法を使う機会なんて、この国で暮らしているとそうありませんから」
魔法という力はとても曖昧なもので、生活に役立つとは限らないもの。ものを浮かせたり、ものの時を止めたり、指先から小さな火を起こしたり、そよ風を吹かせたり、少しだけ、離れた別の場所を見たり。
それらはそれほど都合のいい力ではない。アルフィノのように、第一線で戦う人間にとっては、魔法の鍛錬以上に必要な技術は山ほどあるだろう。彼らは、先祖たちが定期的に使っている大きな魔法によって血と才能が受け継がれ、それほど訓練を積まなくても、簡単な魔法くらいなら使えるそうだ。
「少なくとも、一日眠るくらいで回復するくらいまで、体を魔法に慣らせば、君も安心ではありませんか?」
「それは、確かにそうですが……」
「ほかにも、回せるだけの手は回してみます。何のためにこの時期に君に話をしたかと言えば、このためですよ。前に力を使った時は随分と心配をかけてしまったみたいですから、ちゃんと話しておかなければと思って」
「……はい」
私には、頷くことしかできなかった。彼は、貴族として、家の使命を果たそうとしているのだ。当主として――ならば、その妻にできることは、彼を信じて、共に歩むことだけ。
ならば、と私はぐっと手を握って、問いかけた。
「私に、何かできることはありませんか」
「ええ、そうですね。実はそっちも本題の一つです」
「え?」
いつもなら、彼は特に何もしなくてよいと言う。フレイザードの花嫁は、家の使命から遠ざけるべし――そう教えられるから、彼は私が家で待っていて、跡継ぎを産んで穏やかに暮らしてくれればそれでいいと言ってくれた。
それがもどかしくもあったけれど、彼らの家の使命を考えれば、それも重要な役目だ。子が生まれてからが、私の本当の役目だろうと思うことはもちろんある。けれど、彼は珍しく、私にもしてほしいことがあるという。少しだけ、そわそわしてしまうのは仕方がないことだと思う。
彼の役に立てるのは、嬉しいことだった。
「フレイザード家には、遥か昔の戴冠式の様式に関する資料が残っています」
「戴冠式の様式? もしや、白竜様が関わる?」
「流石ですね。その通りです。ぼくは、ガブリエル殿下にこの話をいただいた時、その話をしました。するとガブリエル殿下は、ぜひともその様式で戴冠式を行ないたいと仰られ――フレイザード家には、戴冠式の神官役を任させることになりました」
アルフィノはそっと立ち上がると、もう一度書架の方向に行って、今度は別の場所から、とある古い本を取り出すと、それを私へとゆっくりと差し出した。そこには「白竜神楽」と表題に文字がある。神楽――神楽。あまり馴染みのない言葉だ。
本の間に何かが挟まっていることに気が付いて、私はそのページを開いてみる。すると、そこに挟まっていたものを見て、目を丸くした。
「これは……もしかして、楽譜?」
ただ、私の知っている楽譜ではなかった。五線譜ではなく線は七本あるし、音階も私の知っているものではなさそうだ。そう思って古い紙を見つめていると、アルフィノが隣から口を開いた。
「我が家に伝わる白竜神楽……つまり、白竜様に捧げる舞や歌の資料ですね。白竜様が舞や歌を好まれる話は、以前にもしたかと思いました」
「確かに、聞きました。私にそのお役目を任せていただけると……」
「そうですね。今は十年に一度くらい祭事を行なっているのですが、君の場合は、それよりも戴冠式の方が早そうです。初めての舞台がとんでもない大舞台になってしまいますが、君には戴冠式にて、白竜様に捧げる舞や歌を――神楽を披露してほしいと思っています」
「わ、私が……そんなに大役を!?」
いくら何でも、責任が重すぎる――とは思っても、私は内心とても嬉しい気持ちがあった。やっと、彼の役に立てるかもしれない。そう思えば、プレッシャーなどそれほど大したことはないのかもしれない。
「フレイザード家の男子は、残念ながらそれほど音楽に秀でているわけではありません。最低限は伝えられますが、基本的には花嫁に求める唯一の素養がそれにあたります」
「音楽の、才能……」
「ぼくは君にそれがなくても伴侶に迎えるつもりではありましたが、君には適性があったというのは、運命というものでしょうか」
「うふふっ。だとしたら、とてもうれしいです」
アルフィノは少しだけロマンチストだ。運命や使命という言葉を彼がよく口にするのを聞いている。曰く、私と出会えたのも運命なのだそうだ。国のために身も心も捧げて、その中途で傷ついて打ちのめされた私を、抱きしめる機会を貰えたのだと。
彼が国の中枢部にやって来て、国の膿を出すための活動をしていなければ、私と出会っていることもなかった。だから、彼が使命を果たす途中に出会った運命の人――という言い方をされれば、むずがゆいが否定はできない。
「分かりました。では、この書籍を解読して、この歌を覚えればよいのでしょうか」
「そうですね。まずはそこからかな。もしも相談役が欲しければ、ルーティナに頼んでくれればと思います」
「そうですね。ティナなら、きっと力になってくれるはず……分かりました。戴冠式に向けて、こちらは頑張ってみます」
「お願いします。さて……色々忙しくなりそうですが、フレイザード家の大きなお仕事です」
彼はそっと私へ向けて手を差し出して、愛らしい微笑みを浮かべた。
「一緒に頑張りましょう、ミシェル」
「はい。必ず成功させましょう、フィー」
夫婦揃っての初めての仕事は、とても大きな祭事の仕切り。けれど、私は、彼と共に国を支えられる仕事ができるのが、とても嬉しかったのだ。