13. 現国王と、妃のあれこれ
アルフィノと別れて部屋へと戻れば、王室の皆様方はとてもよく寛いでいるように見えた。戸をそっと閉めて椅子に腰を下ろすと、シュリーナ様が「セラフィーナ、ラトニー。話があるので、あなたたちもこちらに来て」と告げ、私の隣にラトニー様が、正面にセラフィーナ様が座る形となる。温かみのある木製の円卓を囲んで座ると、何となくシュリーナ様が纏う空気が張り詰めた気がした。
「もう、今日を逃せば話せる機会はなさそうなので、あなたたちに話しておきたいことがあります」
「何ですの、お母様。急に改まって」
「ここのところ、王家は二代に渡って、王太子、王太子妃の選定で問題を起こしています。今後、国を支える世代となるあなたたちに、私たちの代で起きた事件のことを、お話しておこうと思います」
それは、王家が秘匿を決めた醜聞の一つ。デナート様を取り巻く、不思議な事件の話だろうか。ここにいるのは、元王子の婚約者で現国仕貴族の夫人と、王籍を抜ける王女殿下と、王妃となる娘。王家の仄暗い秘密を共有する相手とするならば、妥当だろうか。
シュリーナ様は、ぽつぽつと話し出した。彼女は、懐かしむように、青色の瞳を揺らす。
「私ね、覚えがあったの。マーゼリックの振る舞いに」
「覚え……どういうことですの、お母様」
「婚約者を差し置いて、他の下位貴族――どころか、それ以下の身分の方を寵愛なさる王族の姿に。まさしく、今の陛下がそうだったから」
「え……」
それは、つまり、浮気行為――今の、陛下も?
そんな話は聞いたことがなかったが、結局デナート様と結ばれたのなら、マーゼリックのように道を誤ったわけではないのだろう。
「フィッシェル貴族学院は、ほんの20年ほど前まではフィッシェル高等学院という名前だったのよ」
「それは、つまり……平民も通えていた学院ということですか?」
「ええ。私たちが通っていたころは、ほんの二、三割だけれど、平民の同級生もいたの。けれど、とある事件が起きて、学院は貴族以外の生徒を認めなくなったの」
「とある、事件……」
私はつぶやいた。シュリーナ様からの口ぶりから察するに、それはおそらく――。
「まさか……陛下は、平民の方と恋を?」
問いかけに対して、シュリーナ様は頷いた。セラフィーナ様とラトニー様が息を飲み込むのが聞こえた。
――平民を、王妃にする行為。歴史書を紐解けば、決してなかったわけではない。けれど、王妃となる平民たちは、皆側室として、国政を支えられる才女に限られた。側室であっても、王と子を作る権利を剥奪される。平民の腹から生まれた子や、平民の側室が、継承権争いに巻き込まれると、彼らの人権が無視される可能性さえある。であるからこそ、平民を側室に迎えるときはより慎重に事が運ばれ、彼女らは国政を担うためだけに召し上げられる。
それほどまでに、異例中の異例。であるからこそ、王家の人間は、愛妾さえも許されない平民とは親しくしないようにと教えられる。それが、相手を不幸にする行為であるからだ。
「婚約者であるデナート様を差し置いて、陛下の隣にいたのは、いつも平民の少女。臣下たちは慌てて諫めたそうよ。もちろん、婚約者であったデナート様も」
「それはそうでしょうとも。平民と王族が恋をしても、決して誰も幸せになりませんもの。互いのことを考えても、身を引くべきだと思います」
「けれど陛下は――婚約を違えるつもりはないし、学院を卒業すれば、王としての責務を果たすから、ひとときの夢を見させてくれないか、とあろうことにデナート様に仰ったそうです」
「それってつまり……責任は果たすから、浮気を知っていて見逃せと、婚約者に仰ったということですか?」
ラトニー様が口元を震わせながらつぶやいた問いかけに、シュリーナ様は答えなかった。――とんでもない人だ、と少しだけ陛下のことを軽蔑してしまう。それほどまでに盲目だったのだろう。それでも、公衆の面前で恥ずかしげもなく婚約破棄を叩きつけたあの男よりは、まだ誠実だと思えてしまうのは、あまりにも比較対象が私にとって受け入れがたいからだろうか。
「平民の方も、身分を弁えているのなら、それでも良しとされたかもしれません。ですが、あの平民の方は……レティシア嬢にそっくりだったのよ。こう言えば、あなたたちには伝わるかしら」
「は……さ、最悪ですわ。つまりその平民の方が狙っていらっしゃったのは、王妃の立場――それも、正妃の。血筋の簒奪ということですの?」
「王の権限を隠れ蓑に同級生を陰でいびったり、高位貴族に楯突いたり……私は陛下よりも二つ学年が下だったので、直接絡まれたことはないのですけれどね」
私は頭が痛くなる。まさしくレティシア嬢がやっていたことだ。まさか、王室は二代に渡って同じような女に掴まって振り回されたのだろうか。何というか、不運というか、血筋とでもいうのか。
「先王は血筋の簒奪を恐れ、陛下が取り返しのつかないほどに平民の娘に溺れる前に、フィッシェル高等学院から、その平民の娘を退かせました。この事実を重く受け止めた学院側は、平民の受け入れを拒むようになったそうです」
「それはそうでしょう。高位貴族に取り入った平民が、ほかの高位貴族の令嬢に不快感を覚えさせていたのなら、学院側はそれを捨て置くはずはありません。あの学院は、未来に国の中枢部を担う人材を育成する場所であって、平民が幅を利かせて好き勝手にする娼館ではないのですから」
娼館のように扱っていた女は破滅したけれどね。確かに、あの学院を遊び場のように考えられていては困る。国の最高教育機関なのだから。その最高機関に、とんでもない御仁を通しているのも問題だけれど。
「その平民の娘がいなくなり、陛下はご自分のなされてきたことをご自覚して……デナート様に謝罪いたしました。デナート様は傷ついておりましたけれど、とても気丈な方。王妃としての責務を果たすため、王太子であった陛下と籍を入れて夫婦となられました。その後は――皆も知る通り、襲撃事件が起きて、デナート様は記憶をなくされました。けれど、なぜでしょうか――」
シュリーナ様は、顔を青白くして、少しだけ自分の体を抱きしめるように、呟いた。
「記憶をなくしたデナート様は、あの平民の娘のような言動と振る舞いをするのです。これを恐怖と言わずして、なんといいましょうか」
ぶるり、と自分の体が震える感覚が走った。私だけではない。セラフィーナ様と、ラトニー様も。顔を青くして、そうして嫌な予感に体を震わせていた。
「誰もが、目を逸らしました。そんなことあるはずがないのだと。デナート様を正妃に迎えた自分たちの判断は正しいはずだと」
「まさか……成り代わられたとでもいうのですか?」
「証拠は何一つとしてありません。私はデナート様と以前から顔を合わせたことがありますが、デナート様にしか見えませんでした。けれど、その口から出る言葉も、成す振る舞いも、品行方正と謳われた淑女、デナート・ヒューアストンとは程遠い、野蛮な娘でした」
普通に考えれば、ありえないことだ。けれど、籍を入れてもう言い逃れができない状態で賊に襲われるのも、記憶がなくなるのも、あまりにも都合が良すぎるのだ。
シュリーナ様の行き過ぎた妄想、という言葉で片づけるには、あまりにもおぞましい筋書きと、そうかもしれないと思わせるほどの不気味さだった。
「あの方、王妃の座についてもう20年近くになりますけれど、一度も政務をされたことがないのですよ。普通は記憶をなくして正妃の業務を行なえなくなれば、少しでも取り戻そうと勉強なさるはずなのに、あの方がやったことと言えば、我儘を言うための権力を手に入れることと、国庫を貪り、豪勢な暮らしを享受すること、ただそれだけ」
「それでは、確かに成り代わったと疑われても仕方がないと思います……正妃が政務を放棄するだなんて、ありえません」
「ですので、私は陛下に進言いたしましたの。デナート様と閨を共にするのは、長子が生まれるまで。次の王は、私の子に継がせた方がいいと」
それに関しては、全面的に同意する。政務を行なわずに権力と金に溺れている正妃の子を王になどすれば、彼女は死ぬまでその甘い蜜を享受するだろう。それではまるで、王妃という立場に贅をすることだけを求めて簒奪しに来た、身の程知らずの平民の娘のようではないか。
私は改めてあの日、婚約破棄を付き返して、マーゼリックの立太子を阻止してよかったと心から思った。
「マーゼリックに罪はありませんでしたが、あの子は幼い頃からデナート様に何かを吹き込まれていたようです。あなたはこの国でいちばん偉い一族なのだから、全ての人間を見下しても良いのだとか、権力と金を使えば誰でも何でも言うことを聞くのだから、遠慮なく使えばいいのだとか」
「まぁ! 腐っても王家の人間とは思えない言い草ですのね。本当に、お父様はなぜあんな人を放置しておいたのかしら」
「陛下はデナート様に後ろめたいことがあるわ。彼女の我儘に強くもの言えなかったのよ。ただ、陛下が黙っていても、鴉は黙っていなかったようね。蓋を開ければ、王宮からはデナート様の取り巻きはいつの間にかすべて排除されていたわ」
鴉は、この一件に関して手ひどい屈辱を味わい、報復を企てていたというのは、ミローシュの街でも聞いた通りだ。デナート様が別人であった場合、何かしらの方法で鴉と王家を欺いたデナート様は、結局なすすべもなく報復を受けて王宮で孤立させられたというわけだ。
結局のところ、どれだけ悪巧みをしようとも、鴉という組織の実態が分からないのならば、抑止力は働く。それをありありと感じた一件であったことは確かだったようだ。
「それにしても、マーゼリック殿下のあの性格が、まさかデナート様によって作られたものだったとは」
「マーゼリックはとても素直な子でしたからね。なんだかんだで、勉強や仕事を嫌がったことはなかったのですよ。ただ、歪められてしまった在り方がとても歪で、もう元には戻らなかったのですね」
「……同情したくはありませんが、少し同情いたしますわ。あの方も、つく人がまっとうな方だったなら、ご立派な王族になっていたかもしれませんのね」
私は彼とは決して相いれなかった。けれど、子の育て方など、親の采配次第でいくらでも変わる。子どもが自力で成長できるぶんと、親や教育係から形作られるぶん。両方あって、子どもは青年へと成長していく。
その先達としたのが、傲慢な母だったからこそ、彼はあんなふうに歪んでしまったのだと理解した。
「……この二代に渡って、王家を脅かしたことは、今後未来に語り継ぎ、二度と起こさぬようにしなければなりません。そのためには、国の中枢部や、国を見守る立場のあなたたちに、伝えておかなければと思っていたの」
「はい、お母様。わたくし、決して忘れませんわ。王家の本分も、誇りも。余人とは違うことを、思い知らねばなりませんから」
「わたくしも、ガブリエル殿下の治世以降にそのようなことが起こらぬように、子世代にもしっかりと言い聞かせます」
「夫ともども、国の平穏を取り戻すべく、尽力してまいります。国仕貴族として、王家の不逞を正せるように、精進いたします」
セラフィーナ様、ラトニー様、私がそれぞれ考えを述べれば、シュリーナ様は安堵したように微笑んだ。そうして、そっとつぶやいた。
「結局、あのデナート様が一体何者だったのか、もう亡くなってしまった今となっては解き明かすことが難しくなってしまいましたけれど――もしも、他人に成り代われる何某かの方法があるのならば、またよからぬことを企む輩がいるかもしれません」
私は、頷いた。もしもデナート様が、その平民の娘に成り代わられていたのなら、その方法とはいったい何なのだろうか。一応、夫にも伝えておくべきか、と留意する。
「皆、どうかガブリエルの戴冠まで、しかと気を引き締めてね」
まだ、何かが起きそうだ。そんな予感がひしひしと、この胸の内に渦巻き始めたのだ――。
こうして、王家の慰安旅行は終わりを告げて、各々が日常へと戻っていく。けれど、私の心は、不安の影に満たされていった。