11. 騎士姫の円舞
「この国の騎士の興りはとある女性剣士から、という話はご存知ですか?」
セラフィーナ様に声援を送る友人の皆さまに向けてそう告げれば、彼女たちは目を輝かせながら首を横に振る。王妃教育で身に着けた、学校では習わない物語を紡げば、彼女たちは楽しそうに聞き入ってくれるのだ。
私は咳払いを一つ落として、国の歴史を紐解いていく。
この国における騎士の始まりは、白竜様に仕える純白の乙女シルフィーナ。純白の髪を持つ彼女は、白竜様を奉る神官だった。
彼女は、叡智に優れ、武芸に優れ、芸術に心を捧げた建国王の最初の娘だった。歴代でも最高峰の女剣士の名を問えば、一番に上がるのはこの御方だろう。
当時、厄を祓うのはすべて白竜様の気のままで、人は弱いまま、彼の聖獣の庇護を受けていた。そんな中で、常に白竜様の傍に仕え、彼の者の強大さを見ていたシルフィーナ様は、いつしか自分も白竜様のように、強く、気高く、民をこの手で守れるようになりたいと、そんな願いを抱くようになった。
ご立派だと思う。今日、守られるのが当たり前という淑女思想とは折り合いが悪いこの乙女の存在は、いつしか歴史の授業の場からは程遠い場所に追いやられてしまったのだとか。たいへんもったいない話である。
白竜様はシルフィーナ様の純なる願いに応え、彼女に聖剣を捧げて、剣技を教えた。そんな白竜様の一番弟子となった彼女は、国に押し寄せる魔物を、ただ一人で屠り続け、国に安寧を齎した。
建国王は、そんな彼女の働きに「純白の騎士」の称号を与え、以後、騎士という称号は優れた剣士に受け継がれる高潔な勲章となった。この国にある最も基本的な剣技の型は、シルフィーナ様が白竜様から授かった剣技が基になっているとも言われている。
「その後も、聖剣を持って魔物を屠り続けるシルフィーナ様は民から騎士として讃えられ、生涯、白竜様と民に心を尽くしたと言われているわ」
「何て素敵な女性なのでしょう……勇ましく、高潔で、美しい。まるで、セラフィーナ様のよう!」
「今や当たり前のように、騎士とは男性がなるべきものとして認知されておりますが、始まりが女性だったなんて目から鱗ですわ! たいへん勉強になりました、ミシェル様!」
高潔なる騎士、シルフィーナ様。そんな彼女の子孫と呼ばれる人たちが、何を隠そう――。
「ドロワープ侯爵家は、長い歴史の間に何度か名や形を変え、没落しかかったこともありますけれど、始祖をシルフィーナ様とする、とても由緒ある古い血統ですわ」
「そ、そうだったんですの!?」
「今も残っているかは分かりませんが、遥か昔にはドロワープ侯爵家には、シルフィーナ様の聖剣が家宝として受け継がれていると、そんな記録がありました。セラフィーナ様がきっと喜ぶからと、お調べしたことがありますの」
王城の書簡庫には、そういった古い家系図の記録も残っている。神話や物語のように語り継がれているが、建国王も白竜様も実在する存在であることは、実はあまり知られていないのかもしれない。
「即妃殿下は、セラフィーナ様をお産みになったとき、セラフィーナという名を天啓によって得たそうですわね。シルフィーナ様とそっくりのお名前!」
「まぁ。でしたら、もしかしたらセラフィーナ様は、シルフィーナ様の生まれ変わりなのかもしれませんわ」
「セラフィーナ様は、実に王家の方らしい容姿をされておりますわね。何某かの色が混じった銀の髪も、金色の瞳も、王家の尊ばれるべき血統の証。けれど、高潔な魂は、シルフィーナ様の恩寵によって生まれたものなのかもしれませんわね」
歴史とは、ロマンだ。そんなことはあり得ないと思っていても、この大地に、血統に息づく人々の想いが、奇跡を生み出したと信じてしまうほどに。
(……そういえば)
私の夢によく出てくる、歌を歌う少女も、真っ白な女の子だった。それを、何となく思い出したのだった。
◆◇◆
セラフィーナは準決勝へと勝ち進み、控室の椅子に腰を下ろして、そっと息を吐き出した。するとそんな彼女に、そっと水とタオルを差し出す少年の姿があった。
セラフィーナは顔を上げると、少しだけ顔を赤らめて、はにかんだように微笑む。
「ありがとうございます、ソリュード様」
「はい。セラフィーナ殿下、本当にお見事でした。僕は二回戦で負けてしまいましたが、ついにあなたと同じ場所で戦うことを許されたのだと思うと、とてもうれしいです」
「まぁ! ありがとうございます。ソリュード様はまだ原石ですから、これからどんどんお強くなられるのでしょうね。わたくし、とっても楽しみにしておりますの」
「は、はい! えへへ……」
セラフィーナとソリュードは、お互いに照れてもじもじとする、自身の新しい婚約者に、親愛の情を抱いていた。敬愛するミシェルの婚約者も、ちょうどソリュードと同い年くらいの見た目をしていて、そんな幼い見た目の紳士に、ミシェルが骨抜きにされているのを漠然と見ていた。けれど、こうして愛らしく慕ってくれるソリュードの様子を見て、セラフィーナは彼がかわいくて仕方がなかったのだ。
――アシュレイとは、結局うまくいかなかった。彼を完全に打ち負かした後、アシュレイとは何となく口を利きづらくなった。この一合打ち合って分かり合えたならどんなに良かったか。けれど、彼がそれから逃げ出してしまったので、結局セラフィーナの手に残ったのは、重い剣の感触だけだった。
気まずいながらも、婚約は続いていて、心が離れてしまったアシュレイは、あろうことかマーゼリックに近づいたあの政治犯罪者と認められた少女に篭絡され、敬愛するミシェルを陥れる悪事の片棒を担いだ。あの時、セラフィーナは初めて、アシュレイに対して嫌悪感を抱いた。
自分の剣を否定されても、セラフィーナは決してアシュレイに嫌悪感を抱くことはなかった。それは、セラフィーナが自分を冷静に分析して、その評価に一理はあると評したからなのだ。
けれど、他人を楽しそうに陥れる彼を見て、そこまで落ちぶれたのかと。そう思って、強い怒りと拒絶感を覚えた。セラフィーナは我慢していたものが溢れ出すかのように、婚約者にこれでもかというほどに強く当たり始めた。
アシュレイがセラフィーナを婚約者に望まないことなど分かり切っていた。分かり切ってもなお「なぜです?」と問うセラフィーナの威圧感に、アシュレイはどんどん追い詰められていった。けれど彼は、廃嫡と迫られてもなお、レティシアを慕うのを止めなかった。それが、セラフィーナにとっては「彼が廃嫡されてでも自分との関係を捨てたがっている」と解釈し、最終的に浮気を告発して、彼の廃嫡を求めるのに躊躇いはなかった。
(それでも、私は――)
あんなにも冷え切った関係になってもなお、アシュレイと夫婦になることを嫌がったことはなかったのに。
セラフィーナはそっと胸に手を置いて、呼吸を整える。雑念は、邪魔。あの澄み切った舞台に上がるのに、余計なものは何一つとして必要ないのだ。
すべては過去。もはや戻らぬ、虚しいもの。そう言い聞かせて目を開ければ、心配そうに自分を覗き込む、まだ幼い婚約者の顔がある。
「セラフィーナ様? 少し顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「はい。すみません、ソリュード様。少し、緊張しているようですわ」
「セラフィーナ様でも、緊張することがあるんですか!?」
「あらっ!? わたくし、そんなに図太い女だと思われてました? そんなこと、ありませんのよ。だって、女のこの身では、どうしても剣を握っても、男に劣りますから」
圧倒的な、筋肉量の差。腕の長さの違い、足の長さの違い。体力量、空間把握能力、対人の瞬間的な駆け引き。そのどれもが、セラフィーナにとって、男性を相手に敵わないと思うもの。
セラフィーナの勝ち筋は、技巧の精緻さと、鍛錬量から来る自信、そして何より負けん気の強さ。それらすべてを上回る男性が目の前に現れた時、セラフィーナは何の疑問もなく負けてしまうだろうと言う、冷静な自己分析。
「わたくしにはね、アシュレイ様が淑女の遊びだと言った言葉の意味が、理解できます。剣を握れば握るほど、とても明瞭に」
「……兄上は、でも、あなたを認めなかったのに、負けたじゃないですか」
「ええ、そうですね。……わたくしは、ただ、認めてほしかったのです。淑女の遊びだとしても、剣を握るわたくしを――」
セラフィーナは、ぐっと胸の前で、片手を握りしめながら、吐き出した。
「美しいと、言ってほしかったのです」
遊びだと言われても良かった。騎士である彼にとって、安全なルールの中で遊んでいるセラフィーナの剣は、紛れもなく遊びだったのだから。
けれど、彼はそれすらも認めてくれなかった。――その遊びの中で、セラフィーナに敗北を教えられるのが怖かった。
セラフィーナは、ただ、剣を握るセラフィーナが美しいと言ってほしかっただけなのに。純白の乙女のような武勲が欲しいわけでも、最前線に走って行って、魔物の血を浴びたいわけでもなかった。
好きなものを、好きなわたしを、好きと言ってくれる人と結ばれたかった。
セラフィーナは、そっとアシュレイの思い出を振り払った。そうして、ソリュードへと微笑みかけた。
「少し、独りにしていただけますか。集中したいので」
「……分かりました。私は、兄上のことを……軽蔑、しております」
「……あなたのお怒りも、もっともだと、そう思いますわ」
ソリュードは、憧れていた兄の所業に失望し、決して兄のようになるまいと、そう心に決めていた。
だからこそ、未だにセラフィーナが、兄のことを想い、それを口にするのが、とてつもなく――苦しかったのだ。
◆◇◆
試合中は、あらゆるものが遅くなって見える。それは、セラフィーナの集中力が研ぎ澄まされているからだ。
(右から一撃、それを捌いて、突きを誘う――左側が開くっ)
極限状態の中で、駆け引きを進める。もはや、騎士団の面々も必死である。
4年間もの間、セラフィーナに膝をつかせた者はいなかった。セラフィーナが稀代の天才剣士であることは誰もが知っていることだったが、次期騎士団長と言われていた神童・アシュレイが彼女に完膚なきまでに打ち負かされたことで、誰も彼女を止めることが叶わなかったのだ。
前年、過去最高峰の成績で、騎士試験を突破した者が、なす術なく打ち破られていく。北方で大きな魔物の変を治めた武勲ある剣士が、小柄ですばしっこいセラフィーナに翻弄され、攻めきれずに落とされていく。幼い頃から、血反吐を吐きながら厳しい教育に耐えて来た騎士家門の子息が、彼女の剣檄に圧倒され、打ち合ったうえで敗れていく。
そんな光景を、周囲は騎士姫だと讃えて、騒いでいる。騎士団の連中からすれば、このうえなく面白くない。
――自分は、いつも命を懸けて、人々を守っている。魔物という、最大の脅威から。
それなのに、この場においては、魔物を屠ったこともない少女に、誰も剣先を届かせることはできない。
最初のうちは、相手が女性だから、という言い訳でどうとでもなった。けれど、本気を出すことにメリットしかない仕合にて、次期騎士団長と呼ばれていたアシュレイが完膚なきまでに叩きのめされてから、周りの評価は変わった。
――紳士たるもの、騎士道を抱くものに対し、礼節を尽くすべし。
それは、紳士教育にて教えられる常識。騎士の称号を戴くセラフィーナに対し、女性だからと手加減した、などという言い訳は、単なる醜聞にしかならないと気づいた彼らは、死に物狂いでセラフィーナを倒そうとした。
けれど、彼女はそんな彼らの想いを、ダンスのステップでも踏むように避けて、全てを屠っていく。
「――そこまで! 勝者、セラフィーナ・フォネージ!」
また、無情にも彼女の勝利を叫ぶ審判の声が響き渡り、観客は大いに湧いた。彼女に見下ろされた騎士は、恨みの籠った視線で、彼女を睨みつけていた――。
セラフィーナは、決勝に備えて、控室で足を休めるべく、闘技場の廊下を歩いていた。決勝戦は、昼食の休憩を挟んで、二時間の猶予がある。十分な休息を取って、適度な食事を腹に入れ、備えよう。そう思って歩いていると、セラフィーナははっと顔を上げた。
気が付けば、周囲を、顔を隠した男たちに囲まれていたからだ。全身黒ずくめの男たちに飛び掛かられ、抑え込まれれば、女性であるセラフィーナに、抵抗はできなかった。
「んっ……んん~!」
口を塞がれ、何かの薬を嗅がされると、セラフィーナの意識は遠のいていく。平和な世界で、剣を握っていた騎士姫に、その襲撃はあまりにも効果的だったのだ。
黒ずくめの男たちは、気絶したセラフィーナを近くに置いた麻袋へと詰めると、素早く黒装束を脱いで、何食わぬ顔で廊下を歩き始めた。そうして、闘技場の倉庫へと辿り着くと、彼女を麻袋から取り出して横たえ、外から突っ張り棒で入り口を固定した。
フォネージ王国騎士剣術武闘会の最中は、決して使われない倉庫だ。騎士たちは、素早く散って、足跡を残さないように心掛けた。セラフィーナは、一人静かに、倉庫の中で眠っていた。
◆◇◆
セラフィーナ様は、お昼も精神統一をしていらっしゃるのかしら。私たちは、観客席でランチボックスを広げて、和気あいあいと昼食を楽しんでいた。
「セラフィーナ様、今年も勝ってしまわれるのかしら! とっても楽しみですわ!」
「準決勝の相手も、セラフィーナ様からすれば赤子のようなものでしたもの。きっと今年も、圧倒的な実力を見せて、優勝をかっさらってくださると思いますわ」
「ああ、とってもわくわくします!」
友人たちが興奮したように告げるのを微笑ましく見ていると、背後から激しい足音が聞こえて、私はそっと振り返った。すると、そこには息を切らせたソリュード様の姿があり、私は目を丸くした。すると、ソリュード様は周囲を見渡して、そうして私へと慌てて礼を取った。
「ご歓談中失礼いたします。セラフィーナ様はこちらにいらしていませんか?」
「え? ええ、こちらにはいらっしゃっていないけれど……」
「……お姿を見ても、いないでしょうか」
「ええ。……何かあったのですか?」
ソリュード様は頭を悩ませていたようだが、私たちがセラフィーナ様と仲がいい友人だと知っているからか、少しだけ声を潜めて、そうして告げた。
「……もうそろそろ、試合の準備をする時間のはずで……私は、控室にご様子を窺いに行ったのですが、いらっしゃらないのです。セラフィーナ様の侍女に確認すれば、そもそも先ほどの試合が終わった後、控室にもお戻りになっていないそうなので、侍女は皆さまのところへ行ったのでは、と仰っていたのですけれど」
その言葉に、私たちは顔を見合わせた。この様子だと、たまたまお手洗いに立っている、ということもないのだろう。セラフィーナ様は精神統一の時間を長く取られているので、今の時間に控室にいらっしゃらないということもあまり考えられない。
何だか、嫌な予感がする。そう思って立ち上がると、ソリュード様は顔を青くした。
「……個人のわがままで恐縮なのですが、よろしければセラフィーナ様を探すのを手伝っていただけないでしょうか」
「はい、もちろんですわ。何やら胸騒ぎがいたします。皆様も、よろしくて?」
「もちろんですわ! うちの使用人を総動員させて探しますわ!」
「マリア、お父様に連絡を取って頂戴!」
友人たちはそれぞれ動き出してくれる。私は頷き返して、そうしてロイヤルシートの方へと急いで近づいていった。
ロイヤルシートには、ガブリエル殿下と、ラトニー様がいらっしゃる。イズラディア公爵家の出である母を持つ彼は、この興行の際には毎年顔を出されているのだそうだ。立太子が済んだ、本年ももちろん例外ではなく。それを聞きつけて、私たちは彼らをルーセン地方の興行にお誘いしたのだが。
ロイヤルシートの裏手へと向かえば、そこには警戒中の彼の姿があった。アルフィノへと駆けよれば、彼は少しだけ驚いた後で、穏やかに微笑んだ。
「ミシェル。どうしましたか?」
「フィー。少し、相談があるの。セラフィーナ様がまだ控室に戻られないらしくて、何だか違和感があって」
私は、抱えた違和感をすべて彼へと伝えた。彼女の性格や、過去数年間の決勝戦前後の様子を含めてすべて。吐き出し終えれば、アルフィノもどこか腑に落ちないと言う様子で悩んでいた。
「……それは確かに、少し不可解ですね」
「ええ。考えたのですけれど、セラフィーナ様の五連覇を疎ましく思うものが、不戦勝狙いでセラフィーナ様を拉致した可能性はありませんか?」
「可能性はゼロではありませんね。分かりました、こちらでも捜索の手を回してみます」
アルフィノはセバスを呼んで、彼に言伝を伝えれば、セバスは急いでその場から立ち去っていった。私は傍にあった案内板を眺めながら、少しだけ思い悩む。
「例えば拉致だとしても、セラフィーナ様は王族。――安全でない場所へ連れ出すとは考えにくいし、外部の人間など巻き込めないでしょうね。そこから足が付けば、王家の人間をかどわかした罪は重すぎる」
「そうですね。だとすれば、やはり会場内のどこかに監禁されていると考えるのが自然でしょうか」
「フィーは――フィーなら、この会場を見て、監禁場所に選ぶとすればどこだと思いますか?」
尋ねれば、アルフィノは少し考えた後で、三か所を指さした。一般客が入れず、大会中は使用されない倉庫を合計で三か所。
「鴉には、念のために街での情報収集を依頼しておきました。内部はこちらで捜査しましょう」
「はい。ですが、フィーはガブリエル殿下の傍を離れられませんよね」
「……そうですね。ただ、警護の人間には、今頃セバスが情報網を使って状況を伝えているはずです。セラフィーナ殿下さえ見つけられれば、二次襲撃に対しては警護の人間が対処してくれるはずです」
「分かりました。私は、ソリュード様に、フィーが教えてくれた場所をお伝えしてきますわ」
「こんな時に力になれなくてごめんなさい。できる限りの根回しはしておきますので」
「いいえ。フィーは、自分の仕事をなさって」
私はそうして一礼をすると、観客席を探していたソリュード様に合流した。そうして、フィーが教えてくれた倉庫を、順番に回ることにしたのだ。
ソリュード様は護衛を連れ、私は侍女と共に、倉庫を順番に辿っていく。すると、最後に至った三つ目の倉庫の近くに寄った際に、どんどんとドアを叩く音と、その向こうから漏れ出る微かな女性の声に気が付いた。ソリュード様は駆け出して、そうしてドアの前へと至ると、声を上げる。
「セラフィーナ様! いらっしゃいますか!」
「! その声は、ソリュード様ですのね! どうかこの扉を開けてくださいまし!」
「お待ちください! ……明らかに故意的な突っ張り棒です。これをッ! くっ」
突っ張られた長い棒は、簡単には取っ払えなかった。ソリュード様は無我夢中で引っ張っていたが、やがて自分の力では取り除くのが無理だと悟ると、躊躇いなく鍛錬用の木剣を抜いた。
下がっているように言われ、私が一歩下がると、ソリュード様とその護衛は、何度も木の棒を叩きつけて、折った。そうして、やっと開いた扉の向こうから、不安でいっぱいという様子のセラフィーナ様が飛び出して来た。そうして、セラフィーナ様は、涙で濡らして、真っ赤になった瞳から、またぼろぼろと涙をこぼしながら、私へと飛びついた。
「お姉さま……!」
「セラフィーナ様、ご無事ですか」
「はい……ソリュード様、お姉さま、本当にありがとうございます。探しに来てくださったのですね」
「セラフィーナ様。いったい、誰がこんなことを――」
ソリュード様が問いかけると同時に、ぞろぞろと廊下の向こうから、黒ずくめの男たちが何人もやってきた。後ろ側からも、同様に、わらわらと集まってくる男たち。
――その数は、明らかに、一派の悪だくみというには、度を越していた。顔を見せないようにしている男たちを見て、ソリュード様は明らかに不快そうに顔を顰めた。もしもこれが、同僚たちによるものならば、心底軽蔑の念を抱く、といった具合に。
「……騎士の風上にもおけぬ奴らめ」
ソリュード様の絞り出した声は、震えていた。失望か、恐怖か、その両方か。相手は訓練用の木剣を持って直立していた。それだけでも、得も言われぬ威圧感がある。この人数を押し通るには、ソリュード様はまだ幼すぎるし、セラフィーナ様も、この数の男を押しのけて逃げることはできないだろう。
彼らの目的は、セラフィーナ様を不戦敗に追いやり、騎士団に栄誉を取り戻すこと。だから、彼らにとっては、ここで睨み合っているだけで、目的を果たすことができる。無理に手を出して罪に問われる必要はなく、終われば何事もなかったかのようにぞろぞろと散って、顔さえ見られなければお咎めもなし。
人も通らぬ闘技場の奥地に、誰も来ることはない。皆がそれぞれ探しているだろうが、それもいつ来るだろうか、それすらも分からない。
(少し、軽率だったかしら――)
せめて、警備の人間を複数人引き連れて来ればよかった。気持ちが逸りすぎたかもしれない。そう思うも、すでに遅い。
そんな中で、セラフィーナ様は、静かに黒ずくめを見渡して、しばらく見つめて、やっと息を吐き出した。その行動が何を意味するのか、私には分からなかった。
「――貴様ら、どこの部隊の者だ。申し開け、さもなくば斬る!」
ソリュード様は、木剣を構えた。ソリュード様が木剣を手にしたのを見て、彼らが息を飲むのが聞こえた。そうして、顔を見あわせて頷き合うと、彼らは一斉にソリュード様へと、4、5人の徒党で組みかかり、剣を奪って組み伏せた。まだ幼く、体も発達途上のソリュード様に、訓練を受けた大の大人が複数人で組みかかれば、そうなってしまうのは目に見えていた。
その間に、護衛たちも無力化されてしまった。伊達に騎士ではないらしい。思わず悪態をつきそうになるのを堪える。
「ソリュード様! ソリュード様を放してくださいませ!」
セラフィーナは悲鳴を上げる。彼女は武器も取られてしまったのか、腰に光る細剣はどこにもない。このまま、どうすることもできずに、ただ自分の矜持が脅かされることを恐れただけの男に、セラフィーナ様が脅かされなければならないの?
――冗談じゃない!
私は気づけば、ソリュード様に組みかかっている男へと歩み寄って、顔を隠している布を毟り取った。はらりと顔を隠している黒布が外れて、素顔が露になる。私は息を想いきり吸って、声を張り上げた。
「恥を知りなさいよ。どいつもこいつも、根性なしで情けないッ!」
「……っ! ちっ。顔を見られたか。おい、この女も口封じだ」
「抵抗するの? それも結構。あなた方のような心の卑しい方々は、全員まとめて牢屋入りですから。私に手を出すと色々厄介よ? それでもいいならかかってらっしゃいな。自分の家を辱められたい方から! 存分にッ!」
そのためなら、辱められたって結構。これ以上、セラフィーナ様を傷つけるわけにはいかないの。だったら、暴れられるだけ暴れてやる。そう思って、私は憎々しく睨みつけて来た男を、射殺さんばかりの視線で刺す。
この状況で、私やセラフィーナ様に手をあげれば、彼らが貴族として生きる未来などない。伯爵夫人や王女というのは、そんな立場の人間なのだ。彼らにできることは、通せんぼをすることだけ。
浅はかな騎士たちに裁きを下してくれる人たちの到着を祈って、どちらに神様が微笑むかを確かめるだけのゲーム。だったら、暴れるだけ暴れた方が、誰かが気づいてくれる確率が上がるかもしれない。私は、喉の痛みを覚えながら、淑女らしくない叫び声をあげて、目の前の腰抜けの騎士たちを詰り続けた。
――その時だった。
「ぐわっ!?」
「おわっ!?」
私が睨みつけている男のはるか後方から悲鳴が聞こえたかと思うと、一つの声が響いた。
「――セラフィーナ様!」
その声と共に、宙を舞うのは、訓練用の木剣。セラフィーナ様は、その声を聞くと、ゆっくりと腕を伸ばして、頭上で木剣をキャッチした。そうして、彼女はふっと笑うと、そのまま体勢を低くして、声の方へと走り、途中で立ちはだかった男を、次々蹴散らしていく。
そして、その木剣が飛んできたほうからも、一人の男が走って、同じように訓練用の木剣を片手に、立ちはだかっていた男をなぎ倒している。
そうして、ちょうど中間地点に至ったとき、セラフィーナ様はくるりと振り返って、剣を構えた。そのセラフィーナ様の背に合わさるように、剣を構えるもう一つの人影。
その人物を見た時、ソリュード様が「なぜ……」と小さくつぶやくのが聞こえた。
「何だかお久しぶりですわね、アシュレイ様。申し訳ありませんけど、もう少しお付き合いくださる?」
「構いません。これ以上、騎士団の恥を晒すような真似は、ドロワープ家の人間として、捨て置けません」
簡易的に交わされた二つの会話だけで、二人は背中を放して、起き上がってきた男や、襲い掛かってきた男を、次々と打ち倒していった。その姿はまるで、二人で円舞を踊るかのように、華麗で鮮烈な光景だった。アシュレイ様はいとも簡単に、ソリュード様を組み伏せていた者たちを薙ぎ払うと、まだ小さなソリュード様の体を、軽く肩に抱えた。
「あにうえっ」
「よく頑張ったな、ソリュード。よく殿下をお守りした」
「あ、兄上に言われずとも! 私は、セラフィーナ様の婚約者ですからっ」
「……そうだな。お前は、本当に出来のいい弟だよ」
アシュレイ様は、私へと歩み寄って「相変わらずの気性難なんだな。廊下の向こうまで、あなたの声が響いていたよ」と苦笑してソリュード様を預けると、反対側から、統制も取れないままに襲い掛かってくる男たちの相手へと向かって行った。セラフィーナ様は、素早く振り返ると、すぐにアシュレイ様へと加勢に向かって行った。
次期騎士団長と呼ばれていた神童と、現代最強の騎士姫と呼ばれている彼女。その二人が剣を取り、息を合わせて蹴散らせば、並の剣士が敵うはずもない。
男たちは分が悪いと思ったのか「退くぞ!」と声を上げる。このまま逃がせば、彼らはおめおめと逃れるだろう。私は舌打ちをしかけたのを飲み込んで、近くで逃げようとしていた男の足を思いきり引っかけて転ばせた。
「逃げられるとでも思っているのか、愚か者どもめが。警備はすでに貴様らの動きを掴んでいる」
アシュレイが吐き捨てれば、廊下の向こうから、警備兵たちが押し掛けて来た。完全に挟み撃ちの形になった彼らは、瞬く間に、警備兵たちによって捕縛された。
その様子を見やって、セラフィーナ様は、アシュレイ様を見上げて告げる。
「……来てくださったのですね。あの男たちの中に、あなたがいないのは分かっておりましたが……なぜ?」
「……。警備兵たちが、物々しかったのです。何やらあなたを血相を変えて探している様子で、何かがあったと直感的に感じ――最近の騎士団での、彼らの態度を見て、色々と察してしまったので、咄嗟に訓練用の木剣を引っ掴んで、あなたを探しに」
「……あなたは、わたくしのことを、憎んでいたのではありませんの?」
外からやって来て、立場を脅かしたセラフィーナ様。それが、アシュレイ様の驕りから生まれたものであったとしても、彼にとっては、セラフィーナ様は複雑な感情を抱く相手だ。ほかの女に溺れ、蔑ろにし、捨てた相手。それでも、4年間、婚約者という関係であり続けた。
ソリュード様が、素早くアシュレイ様とセラフィーナ様の間に割って入り、セラフィーナ様に背を向けて、両手を広げた。まるで、庇うようにして。それを見て、アシュレイ様は小さく首を横に振ると、口を開いた。
「……私は、あなたには相応しくない」
「アシュレイ様……」
「あなたやミシェル様を見ていると思いますよ。私はなんて小さな男なんだと。けれど、それが私なのです。驕りと言われても、根性なしと言われても――私は、強くなど、なれなかったのです」
――私は、そっと息を吐き出した。少しだけ、胸が痛んだからだ。
私が気性難であるように、セラフィーナ様が強く高潔であるように、それは単なる個性だ。皆が皆、そうあれるわけではない。男と渡り合う女が、常に評価されるわけではない。
それとは反対に、気の小さな男も、自尊心だけが高くままならない男もいる。淑女らしくない私を認めろと言うのなら、紳士らしくない彼だって認めなければならないのに。
けれど、彼らにとっては、それが精いっぱいだったのだろう。それでも、アシュレイ様がセラフィーナ様に剣を捨てさせようとしたことや、先ほどの彼らのように、無理矢理自分の名誉を守るために卑怯な手を使って相手を貶めることを肯定することはできないけれど。
「私は小さな男でした。だから、自分の身の丈に合った女に溺れ、たくさんの人に迷惑をかけた。このような人間が、騎士団の頂点に立つなど、笑止千万。誰も望まないでしょう」
「……」
「ですが、小さな男は小さな男なりに、憧れた女性を助けたいと、そう願っただけです」
レティシアを愛したことを、後悔していない。そんな様子で、彼は力なく微笑んだ。もしかしたら、レティシア嬢を愛したときから、彼は廃嫡を望んでいたのかもしれない。自分の小ささを、思い知ったのかもしれない。
「あの人は私の弱さを愛してくださった。……思えば、全てが戯れだったのでしょうけれど。ミシェル様を陥れ、我が主の足を引っ張ってしかいなかった彼女に溺れて、私は結局、この国で最も高潔な人の在り方を汚してしまった」
「……っ」
「あの方が罪を暴かれて投獄されたときに、私は何もかもを後悔した――けれど、時はもう、戻らないのです」
セラフィーナ様は、ぽろぽろと涙をこぼした。けれど、それを拭うのは、自分の役目ではないと言わんばかりに、アシュレイ様はソリュード様へと促した。ソリュード様は振り返って、ハンカチを差し出して、セラフィーナ様を慮る。
「騎士団の腐敗は、次期騎士団長と呼ばれた私の腐敗が招いたことでしょう。だから私は、ドロワープ家に席を残される限り、どれだけ冷遇されようと――せめて騎士団の是正を行ないたいと、そう願います」
「……アシュレイ、様……」
「兄上……そこまで気づけて、何で……っ」
「ソリュード。俺は、人の上に立つ器じゃないんだよ。元々、剣を振るしか能のない、そんな人間なんだ、きっと」
アシュレイ様は後悔するように息を吐き出して、自重するようにつぶやいた。
「剣しかない俺が、剣も持ってる彼女を嫉妬して、奪おうとするなんて、ほんとバカだよな……」
そう告げて、アシュレイ様は丁寧に紳士の礼を取ると、ソリュード様に後を任せ、そのままふらふらと立ち去っていった。セラフィーナ様は、涙を拭いながら、その後ろ姿を見送っていった。
ソリュード様はセラフィーナ様を奮い立たせて、そうして私へと頭を下げて、セラフィーナ様を支えて控室へと急いで走っていった。私はそれを見送った後で、ロイヤルシートへと戻り、アルフィノに事の顛末を伝えた。
わぁっという歓声が上がった闘技場の中央では、より一層、決意が固まったかのような凛々しい姿を見せて、対戦相手を瞬く間に叩きのめしてしまった騎士姫が、細剣を掲げていた。
フォネージ王国騎士剣術武闘会五連覇。そんな史上初の快挙を成し遂げたのは、美しい少女騎士だった。
それと同時に、今回の件では騎士団の腐敗が露呈した。しかし、セラフィーナ様がそれを公にすることを良しとせず、内々に解決するために、各所へと協力を願った。アルフィノはそれを見て、情報統制に手を回してくれることになったようだ。幸いにして、目撃者はほとんどおらず、鴉が手を回せば情報自体は一切外には出回らなかった。
今回の事件の主犯は、第二騎士団の面々だったようだ。アシュレイ様をライバル視している子息が頂点に立ち、アシュレイ様を蹴落とすことができたものの、セラフィーナ様に騎士としての矜持を脅かされることとなり、今回のような凶行に走ったのだと言う。罰として、第二騎士団は、現ドロワープ侯爵――アシュレイ様とソリュード様のお父上――に絞られ、極寒の地で、3年間の演習を行なう羽目になったのだとか。
本末転倒とは、まさにこのことだろうか。アシュレイ様を蹴落とすためにセラフィーナ様の闘志を煽り、けしかけておきながら、結局自分が飲まれているのだからどうしようもない。
「華々しく五連覇しましたし、わたくしは今回で引退ですわね。ちょうど、成人で一区切りですし」
「ええ! もったいない、セラフィーナ様なら、来年も勝てますのに」
「お気持ちはありがたいのですが、わたくしは剣士である前に王女ですので、国を割るような真似はご法度ですわ。騎士団の謀反も、わたくしが扇動したようなもの。そろそろ落ち着かなくてはなりません」
「そうですのね……」
友人たちは少し残念そうにしていた。けれど、セラフィーナ様はどこかすっきりとしているように思える。
「いいのです。今の私には、剣を振るう場所があるので」
「それは、ソリュード様の隣ということですか?」
「ええ。ソリュード様は、きっと近いうちにこの大会を制覇できるほどの騎士になってくださると思うのです。ですので、わたくしはそんな彼をお支えしたいと、心からそう思っておりますわ」
そんな話をしていると、優勝旗を抱えたセラフィーナ様の元へと、ソリュード様と、そしてアシュレイ様がやってくる。ソリュード様は、惜しみない賞賛の言葉をセラフィーナ様へと伝え、アシュレイ様はそっけなく、しかし賛辞の言葉を述べてくれた。それは、初めてアシュレイ様から伝えられた、セラフィーナ様への剣の賛辞だったそうだ。
「私は一刻も早く強くなります。今日のようなことがあった際、今度は必ず、私がセラフィーナ様をお守りいたします」
「まぁ。とてもうれしいですわ、ソリュード様。ですが、私はできれば――あなたに守られるだけではなく、一緒に並び立ち、共に苦難へと立ち向かっていくような伴侶になりたいと存じます。こんなわたくしは、お嫌ですか?」
「うっ。あ、あの……僕、強くなりますから。セラフィーナ様が強くなっただけ、僕も強くなりますからっ。だから、どうか一緒に……国をお守りください!」
「うふふっ。わたくしにとっては、一番うれしい言葉です。ありがとうございます、ソリュード様!」
セラフィーナ様が求められていた関係。アシュレイ様が、実現できなかった未来。それを、この素直な弟ならば、実現してくれる。
「……あなたは、やはり私などにはもったいない。弟を、よろしく頼みます」
アシュレイ様はそれだけを告げて一礼をすると、その場から立ち去っていった。セラフィーナ様はその背中に言葉を掛けなかったけれど――目に浮かんでいた失望は、もうどこにもなかった。