09. エリンの花まつり
花まつり最終日になった。広場では、今日、ローザン様の正式な就任式があるという。私は傍にあるレストランの個室を取って、窓からその様子を見つめていた。
「皆様。今まで、妹をお支え下さり、ありがとうございました。妹はずっと、領地の皆様のため、この領地を任せられる人間を探し、そうして私を見つけ出してくださいました。才女である彼女の目に適うことができて、こうして素晴らしい街の領主という役割をいただき、感無量でございます。今後は街の発展のため、心を尽くしてまいりますので、どうぞこの新参者を温かく見守ってください」
そう告げて、ローザン様は丁寧に紳士の礼を取る。街の衆は、花びらを散らしながら、ぱちぱちと拍手の渦でそれを歓待する。エリンがすっと右手を挙げれば、拍手は静かになっていく。そうして、エリンが一歩前に出て、そうして淑女の礼を取る。
「……皆様。これまで、至らぬわたくしを支えてくださり、ありがとうございました。花まつりという行事をここまで大きな催しに拡大できたのはほかならぬ皆様の手添えのお陰です。兄は未だにこの街に来たばかりで、きっと迷うこともありましょう。その際には、是非とも支えて差し上げて欲しいのです」
エリンがよく響く声で丁寧に歌うように告げれば、彼らは壇上の花の精に見入るように、エリンを注目している。金色の髪をそよ風で揺らしたエリンは、柔らかく花のように微笑んで、もう一度丁寧に礼をする。
「私は代行の任を果たしましたので、また外に勉強に行って参ります。後事を兄夫婦に任せる形となりますが、この花の都が、いつまでも麗しい花々で溢れますよう、お祈り申し上げております」
「ローザン様、万歳! エリン様万歳!」
「万歳!」
民衆の叫びが、大きく響き渡る。これにて、新生アムール家は誕生したのだ。エリンから、白とピンクに彩られたかわいらしい花束が手渡され、彼女の首に掛かっていた、桃色の宝石がはまったネックレス――家紋が刻まれている、当主の証だろう――を、彼の首へとつければ、当主の権利の移行は滞りなく思われた。
エリンは最後まで、領民たちの理想の淑女として振舞い、そうして役目を終えて、それをローザン様に託した。
「では、皆さん。花まつりは本日が最終日となります。心行くまで、お楽しみください」
ローザン様の一言で、ざわざわと民衆はまた祭りへと戻っていく。祭りが終わるまで、あと数時間。お疲れ様、エリンと心の中で伝えて、私はせっかくなので、もう少し街を歩いて、花まつりを満喫することにした。
侍女たちと話しながら、また綺麗な花を物色していると、何度目になるのか――例の彼らが、話しかけてきた。
「うおお! 奇遇だね、これってやっぱり運命じゃないかって思うんだよね」
「三度目の正直って言うじゃん? やっぱり俺たちってついてるっていうかさ」
「またですか、チャラ男たち! 奥様には指一本触れさせませんけど!」
「つれないこと言わないでよ~。俺たち、結局この7日間、あんまりいい想いできなかったんだよね。ね、お願いだよ。青春の思い出作りへの協力だと思って、花を贈らせてよ。綺麗なお姉さん」
ナンパ男たちは、また例にもよって私とキャロ、そしてレーラを取り囲んだ。キャロが両手を突っ張って睨みつけ、レーラは冷めた瞳で彼らを見下ろしている。もうそろそろ護衛で懲らしめたほうが身のためだろうか。そう思っていると、こちらへと歩いてくるヒールの音が聞こえて、続いて聞き慣れたあの声が聞こえた。
「ごめんなさい。その子、私の友達なの。借りていくわね」
そう告げて、エリンは堂々とナンパ男の間に割り入って、私の手をそっと取ると、そのまま歩き出した。ナンパ男たちは、小さく「ひぇっ」と声を出して、震える声で告げた。
「エ、エリン様? エリン様、の、お友達でしたか。ハハ、す、すみませんでしたー!」
彼らは、エリンの姿を見るなり、尾を巻いて素早くその場から散っていった。その光景を見て、キャロが「二度とくんなー!」と叫んでいた。そうして、私はエリンに手を引かれるまま、その姿に見入っていた。そうして、少し開けた場所に出て、人気のないのを確認して、エリンはゆっくりと振り向いた。
「あなたって、本当にモテるのね。まさかナンパされているなんて思わなかったわ」
「ごめんなさい、エリン。助かったわ」
「いいの。この街の治安が微妙なのがいけないんだし。前に懲らしめたことがあるから、強引な手段は取らなかったと思うけれど、不快にさせたのならごめんなさいね」
そう告げて、エリンは柔らかく微笑んだ。今日は少しだけ大人っぽい、薄桃と真紅が混じるドレスを着ている彼女は、そっと私の手を離した。エリンは顎に手を当てて少しだけ考え込むと、そっと腹の辺りに手を当てて、またにこりと笑った。
「ねぇ、ミシェル。少し、私と花まつりを回らない?」
「え? いいの、エリン。仕事は?」
「終わったわ。お兄様に全部渡し終えたから、私の役目はこれでおしまい。だからね、少し時間ができたのよ」
私はすぐに頷いた。エリンは安堵したように大きく息を吐き出した後で、待ちきれないと言った様子で、軽い足取りで歩き出した。私の手を、引いて。私はにこにこしているキャロとレーラに行きましょう、と声を掛けて、エリンと共に市場へと躍り出た。案の定、エリンが花まつりに現れたところで、ざわざわと少し騒ぎにはなったけれど、エリンはそれを淑女らしく、粛々と捌いていく。
私はエリンに手を繋がれたまま、花が並べられた、少し往来から外れた静かな露店の方へと連れて行かれる。エリンは手早く二本の花を買うと、それをそっと私の髪へと挿す。
一つは、赤い薔薇。これは、言うまでもなく「永遠の愛を誓う」という意味。私が少しだけ顔を赤くすると、エリンはいたずらっぽく笑って告げる。
「代わりに、私が挿しておいてあげるわ。どうしてもこの花だけは挿したかったみたいよ?」
「もう……うふふっ。ありがとう、エリン」
花を扱い、私の髪に触れるエリンの手が優しくて、私は思わず微笑んでしまう。彼女からは、少しだけ花の香りがする。香水の匂いだった。
そして、エリンはもう一つの花を私の髪に挿した。ピンク色の、マーガレットの花だ。薔薇の隣に並ぶように挿された花にそっと手を触れて、私はエリンを見上げた。
「これは私から。桃色のマーガレットには、あなたを大切に想い続けていますって意味があるの」
「桃色のマーガレット……可愛い花ね。私も好きだわ、この花」
「ねぇ、覚えてるかしら。私たちが初めて会った時のこと。あの四阿に、あなたが迷い込んできたときのことよ」
私は頷いた。どこにも心休まる場所がなく、どこに自分に悪評を立てる人間がいるか分からない、息苦しい学院で、彼女と出会った。エリンは静かに、あそこで紅茶を飲んでいた。
エリンは露店から離れて、ゆっくりと静かな道を歩きながら、私へと話しかける。
「あの時、実はね、お兄様を待っていたの」
「ローザン様を?」
「ええ。お兄様はあなたより一学年上だったから知らなかったかもしれないけれど。あの学院なら、落ち着いて話ができるから、私は人気のない四阿で、お兄様を待っていたの」
そういえば、確かに何となくおかしいとは思っていたのだ。エリンの正面には、誰かが座るべき場所があった。一人で紅茶を楽しむなら、他人が座る席など用意しなくていいのだ。
私はそんな場所に、迷い込んで、ずうずうしく座ってしまったのだろうか――と思うと、少しだけ恥ずかしくて俯いてしまった。すると、エリンはそっと髪を撫でて、微笑んでくれた。
「けれど、あなたが来てくれて、私とたくさん話してくれたわ。だからお兄様と話す時間を30分ほどずらしたの。もちろん、王子様を見に来たっていう動機もあったのだけれど、一番大きかったのは、お兄様との打ち合わせだったわ」
「そうだったのね……ごめんなさい。そうとは知らずに、私ったら、夢中であなたの正面に座ってお茶をいただいていたわ」
「うふふ、だからいいのよ。……そのおかげで、あなたと友達になれたんだから」
「エリン……」
いつだってどこでだって、エリンは見かけるたびにこうして大人っぽく微笑んで、子どもっぽく甘える私を甘やかしてくれる。この姿にずっと憧憬して、ずっと親しみを覚えて、たった半年の逢瀬で、大好きになった友人。
「……ジュリには会ったの?」
「ええ……会ったわ」
「そう。ごめんなさいね。また、あなたには、少し酷なことを知らせてしまったかもしれないわ」
「いいの。私が自分で決めたことだから。色々と驚いたけど、納得したことの方が多かったから」
「そう」
きっとエリンにはあまり知られたくなかったことだと思う。エリンがどうして、ここにいるのか――ここで何をしているのか。その理由が、あまりにも重い責務によるものだったのだから。
けれどエリンの横顔に、つらさは滲み出ていない。あるのは、確かな責任への誠実さ。彼女はこの領地の領主代行という役目を、長きにわたって果たしてきたのだ。
「……お疲れ様、エリン」
「……ええ、ありがとう、ミシェル。やっと、この街をあるべき姿に、戻すことができる――」
エリンがそう告げて息を吐いた、その瞬間だった。誰もいない道の向こうから、大声が響いてきた。
「いた! エリン・アムールだ!」
そちらから駆けてくる人間には、いずれも見覚えがあった。少し険しい表情をしているグランさんとバートさん、そして戸惑った表情を浮かべている、エリアーヌさんだ。
グランさんとバートさんはどこか殺気立っているというか、鬼気迫るという様子が表現として正しいだろうか。エリンを見つめて、眉間に皺を寄せている。一方で、エリアーヌさんは、一体何が起きているのかといった様子できょろきょろとしている。
エリンはすぐに淑女の顔へと戻ると、扇子を肩へと置きながら首を傾げた。
「あなたたちは……自警団の方ね。何か御用?」
「エリン・アムール……お前は、偽物だな? 彼女が本物だ。そうだろう?」
その言葉を聞いて、私は背筋が凍る。けれど、確かに、グランさんは言っていた気がする。自分は、幼少期のエリンに会ったことがある、と。
それはつまり、エリアーヌさんということだ。エリアーヌさんがグランさんに恋をして、グランさんがエリアーヌさんに幼少期に会ったことを思い出した。そうして、エリアーヌさんが本物のエリン・アムールだと疑ったグランさんが、それを確かめにやって来た――というのが、事のあらましらしい。
グランさんとバートさんは、どこかで見覚えのある目をしている気がしていた。
少し迂闊な行動をとったかもしれない。先にエリンにそのことを伝えるべきだっただろうか。そう思ってエリンを見上げるけれど、エリンはまったく動じている様子はなかった。
「……ごめんなさい。仰っている意味が分からないから、順序立てて説明してくださる?」
「俺は、幼少期にエリンと会ったことがある。それこそが、ここにいる彼女だった。けれど彼女はエリアーヌという名前であるらしいし、全く別人のお前がエリン・アムールとして振舞っている。お前の目的は何だ?」
「……。ふぅん……もしかして、だけれど」
エリンは何もやましいことはない、と言った様子で、穏やかな微笑みを浮かべて告げた。
「私の乳母だった方は、私を育てるのと同時に、どこからか引き取った子を育てていて、もしよかったら同じ名前を付けたいと言っていたと、母から聞いたのだけれど」
「……え?」
「そのことじゃないかしら。私、幼少期は屋敷からほとんど出たことがないので、あなたたちと会ったことはもちろんないと思うのだけれど……その子とは、どこで会ったの?」
そう問いかければ、グランさんとバートさんは顔を見合わせて、思い出したように告げる。
「アムール伯爵邸……えっと、タウンハウスの方の、庭だけど」
「じゃあ、多分その乳母が一緒に育てていた子の事じゃないかしら。お母さまが、まったく同じ名前というのは少し、と言っていたので、だったら愛称でエリンとなる名前を付けると乳母が言っていたそうよ。エリアーヌという名前は、確かにエリンという愛称を使える名前ね」
「……って、ことは……」
「あなたのおばあさま、ジュリという名前ではないかしら?」
エリンが問いかければ、エリアーヌさんは大きく「そうです!」と答えた。グランさんとバートさんは顔を見合わせて、少しだけ顔を青くして、エリンを見た。エリンはにこりと笑って、それに返した。
「やっぱり。じゃあ、ジュリが私と一緒に育てていた子というのは、あなたのことだったのね」
「私、エリン様と乳姉妹だったってことですか……!?」
「ええ、そうみたい。名前のあれこれがあったせいで、分かりにくくなってしまったのね。納得したかしら?」
伯爵の娘と同じ乳母で育っていた、乳姉妹だったと目を輝かせているエリアーヌさんと、言いがかりも同然の突っかかりで、エリンに失言をしたヴァイス兄弟という構図。まぁ、何事も早とちりというのは良くない、という話だろうか。
私は背筋から汗がだらだらと流れているが、エリンは涼しい顔で微笑んでいる。これが経験の差というものだろうか。
とはいえ、この状況はかなりまずい、と思う。エリンの顔色を確かめて、私は口を開いた。
「……貴族法によれば、不敬罪の定義は、貴族籍を持つ人間に対し、証拠のない虚言や、意図ある虚偽の申告により、個人の名誉を傷つけるような行為・発言に対して罰則を与える、というものです。このエリン・アムールはアムール伯爵家の長女。あなた方の今の行為は、エリン・アムール伯爵令嬢に対する不敬罪の適用が認められる行為と見受けます」
すると、グランさんとバートさんは顔を真っ青にして、エリンの前に並び、深々と頭を下げた。それはもう、腰が90度に曲がっているほどに、深々と。
「も、申し訳ありません、エリン様。私の勘違いと無知さゆえに先走り、先ほどのような愚かな発言を致しました。すべて撤回いたします」
「兄に同じです。この度は、浅はかにもエリン様を貶めるような発言をしてしまい、申し訳ございませんでした。私の方も、すべて撤回いたします」
平民の不敬罪はかなり重い。下手をすれば一生牢獄だ。それほどまでに、貴族に関わる虚偽の噂を吹聴すると言うのは重罪である。とはいえ、教育を受けた貴族のほとんどは、平民を相手に不敬罪を振りかざすことはほとんどない。特に、悪意のない平民に関しては、だが。
すると、エリアーヌさんが焦った様子でエリンとグランさん、バートさんの間に割って入り、慌てて緩んだ口元のまま、何とか言葉を絞り出した。
「あ、あの、あの。えっと、私、私が悪いんです! 私が何か勘違いしたまま、二人と幼い頃にあったことを思い出して、それを話したから! ですから、罰するなら私を罰してください! どうか、どうか……!」
エリアーヌさんはそう告げるけれど、それは違う。今回のことは、エリアーヌさんに非はない。私はそっと彼女の腕を引いて、そこから退場させて、少し脇まで連れてくる。
「エリアーヌさんは、とりあえずこっちね」
「えっ。あ、あの……私……」
エリアーヌさんはしゅんと肩を落としてしまった。それを見たエリンは、そっと息を吐き出した後で、威厳のある声で口を開いた。
「右手を差し出しなさい」
「……っ! はい……」
右手を差し出しなさい、というのは、縄をかけるときの手順の一つである。グランさんとバートさんは顔を真っ青にして、瞳が右往左往している。エリンは差し出された右手に対して、そっと扇子を振り上げると、一度ずつ、鋭く叩いた。「いっ」という男の短い悲鳴が二度響く。
「それを沙汰とするわ。二度はなくってよ」
「……え……」
「お分かり? 今日はお兄様の門出の日。こんな日に、問題など起こされたくはないの」
それは、つまり――この痛みをもって、その不敬を許すと言う意味であった。グランさんとバートさんはへろへろとその場に座り込み、肩から息を大きく吐き出していた。エリアーヌさんは、急いで駆け寄って、同じように安堵したように息を吐き出していた。
エリンは疲れた顔をして、はぁっと息を吐き出すと、そのまま麗しい声で歌うように告げた。
「いいこと? 普通なら、貴族の子を本物かどうか疑うという行為は、血統を疑うという最大限の不敬に当たるの。私じゃなかったら、今頃首が飛んでるかも」
「……っ。も、申し訳ありませんでした……」
「もしも本当にそれを疑ったなら、初めから決めつけて本人を疑うのではなく、ちゃんと裏を取ってからやるのね。例えば、その子のおばあさまに聞いてみるとか」
貴族には妾腹から生まれた庶子といったトラブルがつきものだ。そんな貴族社会において、お前は偽物だとか本物だとか、そういった行為は忌み嫌われ、同時に最大限の不敬として、トラブルの火種としてはかなり上位に来るほど。それを平民の口から言い出されたら、問答無用で処分されるかもしれないのだ。ちゃんと言い聞かせておかなければならないだろう。
「本当に、私たちはなんてことを……申し訳ございませんでした」
「二度と言わないでね。私、あなたたちに何かした? ミローシュの街を護るために色々としてきたつもりだったけど、迷惑だったかしら」
「そ、そのようなことは決して……!」
「……ごめんなさい。忘れてちょうだい」
エリンはそう告げると、そのまますたすたとその場を歩き去っていった。私はその後を、すぐに追いかけていった。少しだけ速足に、その場から逃げたいと言った様子で歩いているエリンの隣に並んで、顔を覗き込んだ。
「エリン」
「……大丈夫よ。ごめんなさい。これくらい、どうってことないわ」
「……ええ」
「覚悟の上だったもの。私は、あの子から本来あるはずだったものを取り上げたんだから」
そう告げて、俯くエリン。私は、首を横に振った。エリンがこの街のために働いて来た12年間は、決して無下にされていいものじゃない。貴族の事情を知らない者らが、踏み荒らしていい領域じゃない。
エリンたちが頑張ったおかげで、今、エリアーヌさんは恋ができているのだ。それは、皆がエリアーヌさんを救おうとして、各々が行動した結果。それだけは、断言できた。
「大丈夫よ、エリン。……彼ら、何だか周りが見えなくなっていたみたいだから」
「周りが?」
「ええ。何というか、似ているの。彼らの目……レティシア嬢に誑し込まれて、私を無条件に恨んでくる男たちの目に。恋で色んなものが曇って見えて、夢中になってあなたを傷つけようとしてしまったのね」
こちらからすれば迷惑だが、彼らからすれば本気なのだ。恋をしてしまったから、恋する人のことを何でも都合よく考えたくなる。
それを許していいかどうかはエリンが決めることだけれど、盲目になった彼らは、冷静になればきっと事実が見えてくるはずだ。エリンが積み重ねてきたものを思い出してくれれば、彼らもきっと分かってくれると思う。
「……ありがとう、ミシェル。ねぇ、時間あるかしら」
「え? ええ。もう後はレストランに行って食事を摂って、宿で寝るだけだから」
「だったら、ちょっと一緒に来てくれない? お兄様を紹介したいの」
「ローザン様を?」
エリンに連れられて、私はアムール伯爵邸――森の中にある本邸ではなく、ミローシュにある別邸――に連れられた。この一週間の公務を終えたローザン様は、どこかぐったりとしていたようだが、エリンが帰ってきて、私を連れているのを見ると、背筋が伸びる。人払いをして、部屋の中には3人とセバスだけになった。
「エリン、お帰り」
「ただいま戻りました、お兄様」
「そちらは?」
「フレイザード伯爵夫人よ。これから長い付き合いになるだろうから、引き合わせておこうと思って」
エリンはそのまま、軽い足取りでローザン様の傍に行く。ローザン様は、少年の面影を残すものの、しっかりと背筋を伸ばして立ち上がり、丁寧に礼を取る姿は立派な紳士に見えた。
「お初にお目に掛かります、フレイザード伯爵夫人。ローザン・アムールと申します。今度行なわれる結婚式にて、アムール伯爵位を賜る予定です」
「フレイザード伯爵夫人、ミシェルと申します。お目に掛かれて光栄ですわ」
「とんでもない。私こそ、あのフレイザード夫人にお目に掛かれて光栄です」
私はあらゆる意味で有名人なので、初対面の人からはこういった反応をよく貰う。最近、私と王子殿下を取り巻く物語を歌劇にして上演し始め、それが流行り始めたと聞く。一応モデルにするにあたっての許可を求められたけれど、私はもうよくわからなかったので好きにしてくださいと言った。
だからか、私の話は良い意味でも悪い意味でも国内では有名だ。未だに社交界にいたら、好き勝手にこねくり回されていたかもしれない。
「お兄様、一週間ご苦労様。けれど大変なのはこれからね」
「そうだね。エリンがいないのは少し不安だが、何とかやっていくよ。婚約者殿も、才女との噂だしね」
「お兄様なら大丈夫よ。自信を持って」
「ありがとう。だが、私は鴉としては落第者だからな。どうしても君と比べれば、不安にもなる」
それは、エリンが優秀過ぎるだけだと思う。とは、口には出さなかった。エリンは小さく首を横に振って、微笑んだ。
「それは違うわ、お兄様。鴉には表に立つのが苦手な人の方が多いのだから、適材適所というところでしょう? お兄様は諜報には向いていないかもしれないけれど、その代わり領主という役割を務められると見出したから、私はあなたを選んだの」
「そう言ってくれるとありがたいが、まぁ……これ以上は卑屈になるだけだから、よそうか。とにかく、私の役目はこのアムール家を、正統な国仕貴族の家に戻すこと。そしてその使命を後世に伝えていくこと」
「ええ。大丈夫よ、ミローシュはイズラディア公爵の庇護下にある街だし、近くに助けを求められる家もたくさんある。きっと先代が残した厄介ごともあるだろうけれど、皆で協力して繕えば済む話。ね、ミシェル」
「ええ。もちろん、私もフレイザード伯爵夫人として、お役目を果たします。一応、元王妃候補ですから、修羅場は慣れておりますわ」
「……大変、頼もしいですね……」
彼は、少しだけ臆したようにつぶやいた。少し話してみても、確かに彼は諜報にはあまり向いていない、というイメージが根付く。穏やかで、少しだけ気が小さめの彼は争いごとは苦手だろう。穏やかだがすべてを割り切って手段を選ばないアルフィノとは大違いだと思いつつ、彼らは生まれた時から、鴉の使命に縛られているのだと実感する。
妃の役割を果たすようにと、幼少期から過酷な教育を施されていた私のように。貴族たちには、大なり小なり、生まれつきの役割があるのだ。
しばらく3人で歓談していると、扉がノックされ、エリンが呼ばれる。エリンはそっと立ち上がり、入り口の方へと向かって「なぁに?」と呟いた。すると、呼びに来た使用人は恭しく一礼をした後で「平民の男性が二人、どうしてもエリン様に謝罪を申し上げたいと」と用件を述べた。
おそらく、彼らの事だろう。エリンは少し行ってくるわ、と告げて部屋を出て行った。それを見送って、ローザン様はつぶやいた。
「フレイザード伯爵とは……うまくいっているみたいですね」
「はい。夫婦仲は良好ですよ」
「そうですよね。赤い薔薇を見て、すぐにわかりました」
私の髪に挿されている、永遠の愛を誓う赤い薔薇。これを貰えただけでも、私としてはこの街に来て満足である。
「私も、エリンに声を掛けられるまでは、子爵家次男の身分で、伯爵位を賜ることになるだなんて思っておりませんでした。若輩者で、たくさんご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞ手をお貸しください」
「はい。もちろんですわ。ところで、私、学院滞在中に、ローザン様を待っていたエリンの所に押し掛けて、お茶をいただいていたらしいことを本人からつい先ほど聞いたのです。ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「とんでもないです。あなたとお茶をした後、エリンはいつも上機嫌でしたから。出会ったばかりの頃は、エリンは少し刺々しい雰囲気が合って、気が小さい自分からすると、少し一対一で話すのを怖がっていたというか」
確かに、エリンの物言いはかなりストレートなので、気が弱い人間からすれば少し怖いかもしれない。私としては、とても心地よくて好きなのだけれど、それは私が同じような気性をしているからだろう。
けれど、少し気弱で穏やかな兄と、少し気が強くはっきりとものを言う妹という関係はとてもバランスが良いと思う。二人が兄妹としてアムール家を盛り立てていくのに、心配はないように思えた。
「でも、あなたと話した後のエリンは、いつも優しい顔をしていましたから」
「……そ、そう、ですか。知りませんでした……」
「その妹の様子を見て、私はあなたが、悪評の通りの人物ではないのだと分かりましたから」
あの頃のエリンとの時間は、本当にいろいろなものを私にくれた。安らぎだったり、王子へ一矢報いてくれたり。今でも、あの半年間は私の人生における転機だったと、自信を持って言える。
とんとん、と扉がまたノックされて、今度はローザン様が呼ばれた。どうやら、エリンが呼んでいるらしい。私たちは話を中断して、表へと向かう。すると、そこには――膝を芝について頭を下げているグランさんとバートさん、そしてそれを困ったように見下ろしているエリンという様子だった。
「エリン、どうした?」
「お兄様。実は、少しこのお二方に借りを作ってしまいまして、それを何としても返したいと仰るの。ですけれど、私はもう明日にはこの街を出てしまうので、私にして貰えることは何もないから、お兄様の好きにしていただきたいと思うのだけれど」
どうやら、頭が冷えたお二方が、改めて謝罪に来た様子だった。エリンに不敬罪を働いておきながら、その沙汰は扇子での軽い殴打で済まされ、あろうことか街のために尽くして来たエリンを貶めてしまった事に、彼らはひどい罪悪感を覚えた様子だった。
グランさんとバートさんは、頭をぐっと下げて、懇願するように告げる。
「私たちは、この街のために様々な苦労をしてくださったエリン様に、とんでもない無礼を働いてしまいました。にもかかわらず、エリン様は広いお心で、それを許してくださいました。この恩を、どうしても返したいのです」
「兄ともども、どんな仕事でも引き受ける心づもりです。どうか、償いの機会をくださいませんか」
「……ということなので、お兄様? 領主として、このお二方の沙汰を決めてくださいませんか?」
ローザン様は腕を組んで、唸った。二人を順に見渡して、エリンへと向き直ると、口を開いた。
「街に精通した者が傍にいてくれるとありがたいんだけど、側近の仕事は少し荷が重いだろうから、そうだな……私の下で、しばらく下働きしないか。相談役として」
「そ、そんな貴重なお仕事、いただけません」
「あら。どんな仕事でも引き受けるつもりって聞いたのだけれど。だったらこの街を良くするために、お兄様のために働いて頂戴な」
エリンがそう告げれば、グランさんとバートさんは顔を見合わせて、そのまま頭を深く、深く下げた。
「……かしこまりました。全身全霊で、務めさせていただきます」
「勉強させていただきます」
彼らは今は自警団の務めだが、領主の補佐となればかなり重大な仕事だ。給金も増えるだろうし、その分忙しくもなる。ただ、彼らほどの真面目な人間からすれば、それは罰ではなく、褒美にも等しいのではないか、というのが彼らの懸念であるらしい。
領主の補佐の仕事はそんなに甘くない。きっと絞られて彼らは強くなるだろう。私は遠い目でそう思った。
◆◇◆
翌朝。
エリアーヌが一人、街を歩いていると、前方からやってくるカップルが、獲物を見つけたと言わんばかりにエリアーヌに寄ってくる。エリアーヌは逃げようとしたが、それよりも早くにカップルが話しかけてきたために、足が止まってしまった。
「あら、エリアーヌじゃない。どうしたの? 一人で」
女が、にたにたと笑いながらエリアーヌを小ばかにしたように告げる。それに乗っかるように、男が言葉を重ねた。
「やめてやれよ、アーシャ。エリアーヌは今、友達も彼氏もいないんだ。仕方ないだろ?」
「あら。ごめんなさい、そうだったわね。皆からかわいいかわいいって言われてお高く留まっているのに、お友達はいないんだものね?」
エリアーヌは俯いて、ぐっと拳を握りしめた。本来なら貴族令嬢であるエリアーヌは非常に整った容姿をしており、男性にはかなりモテる。ただ、少し内気な性格が災いし、同性の友人はあまりおらず、つい数日前に、目の前の男に一方的に無責任なフラれ方をしたので、一緒に街を歩けるような友人はいなかった。
それを指摘されて、単純に怒りが湧いてくる。彼らは人目も憚らずに、べたべたとくっつき合って、目の前でキスまでして見せた。
周囲の人々がこそこそと何かを語りだす。すべてが、自分を嘲笑しているような気がして、エリアーヌは嫌な気分になった。そのまま立ち去ろうとすると、男に腕を掴まれる。
「っ! 放してよ」
「何だよ。せっかく話しかけてやったのに。やっぱりお前みたいなかわいくない女、声掛けるんじゃなかったなぁ」
「そうよねぇ。いくらかわいくたって、中身がこれじゃあねぇ」
くすくす。女が笑えば笑うほどに、自分が惨めになった気がして、エリアーヌは嫌になった。
早くこの場から逃げ出したいのに、男に腕を掴まれて、罵倒されて。そんなことを繰り返されて、足を払って逃げてやろうか、と思ったエリアーヌの耳に、微かに届く声があった。
「うわ、何あれ。ダッサ」
「女の子捨てても選び放題な俺カッコいいって思ってる系? ヤバ過ぎない?」
それは、予想外に、目の前の男を非難する声だった。その声を聞いて、男は青筋を立ててあたりをきょろきょろと見渡す。その間にも伝播するように、二人を非難する声が広がっていく。
「女の方も、他人と付き合ってる男と浮気しておいてなんであんなに態度でかいんだろうね」
「常識破りな自分がかっこいいって思ってる系の人らでしょ。やだやだ、外から見てたらダサいだけなのにね」
「いくら見目が良くても、常識ない人はちょっとね」
明らかに、旗色が悪い。男は「な、なんだよ……」と呟き、その矛先を再度エリアーヌへと向けようとぎろりとエリアーヌを睨みつけた、その時だった。
エリアーヌの傍に、やたらと豪奢な馬車が一台停まって、そのドアが開く。すると、そこからは、エリアーヌの見知った女性が下りて来た。
「エリアーヌさん。良かった、街を出る前に会えたわ」
ミシェルは、街で出会った時の、少し高級感のあるワンピース姿ではなく、大人っぽい青と白の爽やかなドレスを身に纏っていた。その姿は、一目見ただけで貴族だと思わせる。
男は唖然とした顔で、ミシェルを見てぽかんと口を開けていたが、ミシェルが赤い瞳で鋭く睨みつければ、震えあがって、思わず腕を離した。女が男の腕へと抱き着いて、ミシェルを警戒したように見つめる中で、ミシェルはそっとエリアーヌと、男女の間へと割って入った。
「今ね、王都の方ではとある歌劇が流行っているの。あなたたちみたいなカップルにお勧めの歌劇よ?」
「……へ、へぇ。そう、なんですか。いや、参ったな。やっぱり、俺たちってお似合いに見えますか?」
「ええ、とってもお似合いよ。ちなみに、その歌劇の名前は白竜の寵児っていうタイトルなのだけれどね? あらすじとしては――」
ミシェルは、貴族女性を思わせるとても上品な語り口で、丁寧にあらすじを語った。そのあらすじを聞いた時、目の前のカップルがみるみるうちに顔を青ざめさせていって、ぷるぷると震えるのが分かった。
「――という劇でね。自分が国王になるために無理矢理婚約者を決めた王子と、その王子を誑かして、婚約者を陥れて王子を奪おうとする女の末路なんかは、とても参考になると思うわ。だって、あなたたちとまったく同じことをした人たちだから」
「……ひっ」
「物語のように、美しく散れるといいわね。ぜひご覧になって。きっと自分たちの醜さがとてもよく分かると思うから」
そう告げて獰猛に瞳を光らせたミシェルに震えあがって、男女は縮こまると、そのままへこへこと頭を下げて、ぴゅーっと逃げ出していった。ミシェルは少し満悦そうにして振り向くと、そっとメモをエリアーヌに手渡した。エリアーヌは、そのメモを目を瞬かせて見る。
「それ、グランさんとバートさんの新しい職場の連絡先ですって。領主に雇われることになったから」
「えっ? そうなんですか!? すごいですね、グランさんもバートさんも……」
「ええ、そうね。ねぇ、エリアーヌさん。頑張ってね。あなたが幸せになってくれることが、あなたを支えている色んな人の幸せにつながるはずだから」
「色んな人の……幸せ?」
エリアーヌはまじまじとメモを見つめていたけれど、ミシェルが馬車に戻りかけているのを見て、はっとする。そうして、慌てて頭を下げた。
「ミシェルさん! ……様? あの、本当にありがとうございました! うれしかったです!」
そう告げてはにかんだように微笑んだエリアーヌに対して、ミシェルは優雅に手を振って、馬車の中へと戻っていって――ミシェルが戻ると、馬車は扉が閉まり、また優雅に車輪を回し始めた。エリアーヌは、しばらくその馬車を見つめて見送った後で、メモを見ながら、街を歩き始めた。
視界の端には、あの日、エリアーヌへと声を掛けて来たチャラ男集団――エリアーヌが元恋人に理不尽な言葉を受けていた際、一番に声を発して男を非難してくれた男たちが、満足そうにまたナンパへと興じているのが映っていた。
その後、エリアーヌがカップルに会うことは二度となかった。噂によれば、貴族に目を付けられてしまったために、他の街へと逃亡したらしいが、詳しいことは分からなかった。
◆◇◆
ミローシュから帰ってきた翌日。庭の手入れをする庭師のトーマスへと歩み寄って、私は告げた。
「ねぇ、トーマス」
「おや、奥様。どうされましたか」
「お願いがあるの。この季節になったら、毎年、あそこの花壇に、桃色のマーガレットを植えてほしいの」
私が指さした花壇には、桃色のマーガレットが、風に当てられてゆらゆらと揺れている。それを見やって、トーマスはしばらく考え込んだ後で、温和に微笑んだ。
「あれを気に入ってくださいましたか」
「ええ。とっても気に入ったわ。あそこで桃色のマーガレットが揺れている限り――」
そっと胸に手を当てて、温かい想い出を呼び起こす。
「私はきっと、大切な想い出を忘れないから」
この年からずっとあの花壇に、春の中頃、花まつりの時期。桃色のマーガレットが揺れるようになった理由は、私しか知らない。