08. エリアーヌの恋
紅茶の甘みが、かろうじて私の思考を現実に繋ぎとめる。重すぎた現実を飲み込もうとするたびに、うまくいかずに噎せ返りそうになる。
王妃教育と言っても、修羅場の多い王城と言っても、実際にここまで血なまぐさい実例に遭遇したことはない。ただ、一つよく分かったのは、現国王の即位に関わって、かなり多くの血が流れたであろうこと。
それでも、こんなにえげつない真実は、王に近しい私でも聞いたことがなかった。鴉という組織が如何に優秀なのかを思い知ってしまう。
「エリンお嬢様は、きっとあなたには知る権利があると思って、私の元へとやったのですね」
「……そうかもしれません。遠ざけようと思えば遠ざけられると思いますけど。彼女は優秀なので」
「そうですね。けれど、長い間ずっと踏ん張ってくださっていたエリンお嬢様のお役目も、今回の花まつりでやっと終わりです。ですから、私も――この秘密は、エリアーヌには渡さずに、墓まで持っていく心積もりよ。機を見て、この街も出るつもりです」
うふふ、と微笑む彼女に、もう悔いはなさそうだ。もしかしたら、私に打ち明けたことで、彼女の肩の荷が下りたのかもしれない。
私はフレイザード家の花嫁。もしもこれ以降、アムール家で何かが起きれば、対処するのは彼女ではなく私やアルフィノの役目。それをちゃんと自分で伝えて託せたのは、彼女の憂いを払うことだったのかもしれない。
私は紅茶を飲み干して、丁寧に礼を告げ、ジュリ様の宅を後にすることになる。彼女は微笑んで、私に手を振ってくれた。そうして侍女たちと合流し、私は馬車を回して、街を徘徊する。狭い町だが、こうして往来の向こうで市場に集まる人々を見るだけで、少しだけ気分が紛れる。
重い話を聞いた頭を、丁寧に休める。お父様に、婚約を調えた際に言われたことを思い出した。フレイザード伯爵は、国のために様々なことを背負っている人だと。私には、それを支えて欲しいと。
この案件もそのうちの一つなのだろう。本当に私の旦那様は、あんなに穏やかな様子の裏に、とてつもない責任を背負っているのだと思い知る。
車輪を回して、蹄の音を聞きながらぼんやりとしていると、視界の端にそれが映って、私は思わず「止めて」と叫んだ。御者が驚いて馬車を停めると、侍女を連れて馬車を駆け下りた。路地の奥で、泣き顔をしたエリアーヌさんが、あのナンパ男たちに囲まれているのが見えたからだ。彼女はどうやら嫌がっているようなのだが、彼らが進路を塞いで足を止めさせている。
それを見たキャロは顔を真っ赤にして「奥様!」と、今すぐにでも飛びかかりそうな姿勢を見せる。私はレーラに自警団を呼びに行くように指示を出して、キャロに許可を出した。キャロが飛び出していったので、私も後を追う。
「こらー! またですか、このチャラ男たち! 嫌がってる女性になんてことをするんです!」
「お? あー! この間のめちゃくちゃかわいい娘じゃん。ラッキー、これって運命?」
「またですか? 懲りない人たちね」
私が呆れたように息を吐き出しても、彼らは軽薄に笑う位で、エリアーヌさんの肩を抱こうとして嫌がられている。ただ、暴力に訴えたりはしないあたり、彼らも本当に女の子と遊びたいだけなのは何となく伝わる。悪意がないのが余計に厄介だった。悪意があるのなら、もう護衛に頼んでさっさと引き離して貰うのだが。
「その子を開放してください! 嫌がって泣いてるじゃないですか!」
「違う違う! 誤解しないでよ。俺たちが泣かせたわけじゃなくって、泣いてた女の子がいたからどうしたの~って声かけたんだって!」
「ほんとですかあ?」
「ほんとほんと! なんか、彼氏にフラれたっぽいよ?」
「うわ、最低……あんたたちみたいなチャラ男って、デリカシーをお母さんのおなかの中に置いてきたんですか?」
キャロの毒舌がどんどんエスカレートしていく中で、フラれた、という言葉にびくっと反応して、エリアーヌさんが俯いてしまう。確かにデリカシーはなさそうだ。もう少し自重してあげて欲しい。
そうしていると、レーラが自警団の男たちを連れて来て、チャラ男たちは「やべ」と声を上げて、そのまま逃げて行った。逃げ足だけは一級品のようだ。昨日見た、自警団の兄弟は、息を切らせてそれを憎々し気に見送ると、私を見て目を丸くした。
「あなたはこの間の……悪ガキどもめ。相手にされなかったのにまたナンパか」
「ええ。まぁ、悪気はないんでしょうけれど、一応既婚者ですから、少しあしらうのが面倒なんですよね」
「ほんと! 奥様の左手に輝く指輪が見えないんでしょうか」
キャロがぷりぷりと頬を膨らませて怒るのをそっと宥めた。すると、エリアーヌさんがしゃがみこんでしまったので、私は歩み寄った。
「エリアーヌさん。大丈夫?」
「あなたは、おばあちゃんのとこにいた……ごめんなさい。助かり、ました」
「これで拭いて」
私は懐からそっとシルクのハンカチを取り出して、彼女へと握らせた。彼女は少し戸惑っていたけれど、耐えられなかったのか、あふれ出した涙をハンカチで拭い始めた。そのただならない様子に、自警団の兄弟も駆け寄ってくる。
「何かありましたか?」
「……ええと。彼女の個人的なことのようなので、私の口からは控えさせていただきます」
「そうですか……おや。膝を怪我していらっしゃいますね」
兄の方がそっとしゃがみ込んで、提げていた簡易鞄からガーゼを取り出すと、ついていた土埃を丁寧に拭きとった。私はレーラに指示をして、消毒液を取り出すと、差し出した。消毒液は少し高級品なので、二人ともが目を丸くしたけれど「お気になさらず」と伝えれば、消毒液を使って、彼女の傷口を消毒した。
ガーゼが当てられると、痛ましい傷は見えなくなった。ただ、かわいらしいひざ丈のワンピースは破れてしまっていて、痛ましい格好なのは変わらなかった。
「良ければ、この先に自警団の拠点のうちの一つがあるので、そちらで休んで行ってください。さっきのような輩に声を掛けられるようなこともありません」
「あ……ありがとう、ございます」
エリアーヌさんは、仄かに頬を染めた。おやおや、これは。
私も同行を申し出て、全員で自警団の拠点へと移動する。そうして、通された小さな部屋に、エリアーヌさんを通すと、彼らは丁寧に敬礼をした。
「では、好きなだけ休んで行ってください」
「あ、りがとうございます。あの、お名前を聞いてもよろしいでしょうか」
内心がんばれがんばれと応援しながら、静かにその様子を見守った。すると、彼らは顔を見合わせて告げた。
「私はグラン・ヴァイス。こっちは弟のバート・ヴァイスです」
「……本当にありがとうございました。そちらの方も。ええと……」
「私はミシェルと申します。おばあさまを尋ねさせて貰いまして、今はその帰りです」
「そうだったのですね。ミシェルさん、そしてグランさん、バートさん、本当にありがとうございました」
彼らはそれに微笑むと、そのまま勤務へと戻っていった。私はそっと空いていた椅子へと腰かけると、キャロへと頼みごとをした。
「キャロ。彼女のワンピースが破れてしまったようだから、近くの洋服店で、着替えを見繕ってきて差し上げて」
「かしこまりました! 奥様」
「えっ。あ、あの、そんなことまでしていただくわけには」
「いいのです。通りがかったというか。おばあさまにお世話になりましたから、これくらいは構いません」
そう伝えれば、彼女は俯いて、そうしてありがとうございます、と安堵したようにつぶやいた。実際に、この姿で人がごった返している往来を歩くのには抵抗があったのだろう。キャロを見送って、私は尋ねてみることにした。
「……先ほどのデリカシーの欠片もない方々が仰っていたことは?」
「本当です……花まつり、楽しみにしていたのに……約束していたのに。知らない女の人と、見せつけるように一緒に歩いていて……フラれてしまいました」
彼女は、止まりかけていた涙を目元に浮かべて、ぐっと拳を握りしめた。どこの世界にも、乗り換えた女を、元に懇意にしていた女の前で見せつける男は滅びないのだと思って、私はマーゼリック殿下の姿を思い出して少しだけ不快になった。
「最低ですよね、そういう男。新しい人と付き合うなら、筋くらい通せって思いませんか?」
「! そ、そうですよね……絶対に、そうですよね。私が、悪いわけではありませんよね」
「浮気なんて、するほうが100パーセント悪いです。新しい関係を望むなら、ちゃんと関係を清算してからやるべきだと思います。大丈夫ですよ、この国の王子がそれをやって、王子が悪いって判断された実績がありますから」
レーラが「奥様が言うと冗談にならないですよ」と窘めてくるのをそっと制せば、彼女はうんうん、と頷いてくれた。
「ちゃんと別れ話をしてくれれば、私だって別に良かったのに……」
「あら、そうなんですか?」
「あまり話が合わなかったんです。向こうから言ってきたんですけど」
「あら……それはそれは。本当に身勝手な方なのですね。別れて正解だと思います」
「そうですよね! よかった、ちょっとすっきりしました。ありがとうございます、ミシェルさん」
浮気に怒りを感じていたけれど、目の前で堂々とされると、微かにも自分にも非があったのではと思ってしまう人もいるのだと思う。私? そんな殊勝な性格だったらあの場面で婚約破棄をつき返してません。
その後も、キャロが帰ってくるまでの間、彼女の愚痴をずっと聞いていた。どうやら相当に元カレにお冠らしい。どこの時代にも浮気をしてもいいと思っている男や、略奪愛に興奮する女はいるらしいということが分かった。元婚約者殿と私に喧嘩を売ってきたあの女のことを思うと未だに腸煮えくりかえる私としては、大変に聞いていて不愉快な男と女だと思った。
「エリアーヌさん」
「はい。ミシェルさん」
「悪いことは言わないわ。そんな男のことは今すぐに忘れて、新しい恋に生きなさい」
「……ですよね! もう忘れていいですよね!」
うんうん、と頷けば、彼女はよし、と拳をぐっと握りしめた。私はにこりと笑って、そうして告げる。
「それで、どちらがいいのです? 兄ですか? 弟ですか?」
問いかければ、彼女は顔を真っ赤にして、えっえっと声を漏らした。けれど、やがて観念したように、小さく「兄です……」と漏らした。どうやら、けがの手当てをしてくれた兄であるグランさんに一目ぼれしたご様子。私は一目ぼれってとても大事だと思う。なぜなら、私の旦那様が私を見初めてくれた理由がそれだから。一目ぼれ万歳だと思います。単純な女なので。
「頑張ってください。応援しております」
「が、がんばります……! か、彼女とか、いないよねぇ……いたらどうしよう……」
「まずは探りを入れるところからですね」
「はい!」
どうやら、エリアーヌさんには新たな恋が見つかったようで何よりだ。彼女の話に出てくるクズ男のことは忘れて、頑張って欲しい。
私は旦那様がずっと口説きに来てくれて、気が付いたら恋に落ちさせられて、そのまま結婚という感じだったので、恋愛経験値はかなり薄いと思う。下手にアドバイスはせずに、背を押すくらいにしておく。
そうこうしていると、キャロが紙袋を片手に戻って来たので、私はキャロに指示をして、エリアーヌさんを着替えさせて差し上げた。キャロが選んできた若者向けのかわいらしいワンピースと花を模した装飾品を付けた彼女は、より一層輝いて見えた。
「すごい! キャロさん、すごくセンスがいいんですね。このワンピースかわいい……!」
「えっへっへ。今は裾や首周りをレースで縁取っているのが若者の流行なんですよ! すぐそこのお店で、超かわいいワンピースがあったので買ってきちゃいました! 傷を隠せるように、長めのソックスも一緒に買ってきましたよ!」
「何から何まで、本当にありがとうございます。おばあちゃんにも言っておきますね。ミシェルさん、皆さん、本当にありがとうございました」
エリアーヌさんは大きく頭を下げて、そうして立ち去っていった。それを見送って、レーラは少しだけ気づかわしげに私へと歩み寄ってくると、眉をひそめた。
「……本当に浮気男って、最低ですね」
「そうね。エリアーヌさんを捨てたことを、後悔すればいいのにと思います」
「同感です!」
どうか、エリアーヌさんの恋が実りますように。そう考えながら、私たちは宿へと戻った。