03. 四阿の不思議な友人
目まぐるしく日々は過ぎていく。授業は順調で、単位も漏らすことなく取れている。このペースでいけば、後期は余裕を持っても単位を取り切れるだろう。そんなある日の事。
「……あ」
「……む」
これまでは何となく顔を合わせる機会がなかったマーゼリック殿下と、廊下でばったりと顔を合わせた。後ろには、王宮から派遣された監視の人員が付いている。マーゼリック殿下は、冷え切った瞳を私へと向けた。やはり、根には持たれているらしい。開口一番喧嘩を仕掛けられないのは、後ろにいる監視の前では下手を打てないからだろうか。
私は、セラフィーナ様に言われたことを思い出す。殿下に噛み付いていた私は、刺し違えてでも潰すという気迫をこの赤い瞳に宿して、刃のごとき鋭利なまなざしで彼を見つめていたという。
今度は火傷どころでは済まない。あなたが道を誤って私に全ての責を擦り付けようと言うならば。それを目で返せば、後ろの監視の男は背筋が凍るように身震いをして、顔を青くした。私と殿下は、極めて自然に最低限の挨拶を交わすと、互いに嘲るような微笑を口元に浮かべた後で、まったく同じ行動をとった。
「ふん!」
「ふん」
そうして、どちらからともなく顔を背けて、すれ違う。私とマーゼリック殿下との関係が決定的に断ち切られたということを示していた。
私は彼を許す気はないし、向こうもそれは一緒だろう。ならば関わり合いにならないに限る。私はそう思って、音楽室へと足早に向かった。
「ご機嫌麗しゅう、ミシェル様。さぁ、今日もレッスンを始めましょうか」
「はい。よろしくお願いいたします」
音楽は嫌なことを忘れさせてくれた。研究とは名ばかりで、授業の内容は、トゥアン先生がその時の気分で選んだ楽曲を、二人で合奏するだけ。合間合間に先生のアドリブが入るので、それにうまく合わせるのが、強いて言うなら「研究」だろうか。
先生と音楽を楽しむ日々は、私にとって日々の癒しだった。王子殿下を好くもの好きや、レティシア嬢に夢中な男子たちは、根も葉もない噂で時折私へと攻撃を仕掛けてくる。レティシア嬢が主導しているようであるが、相手にしないことで対処する。それでも、精神と言うのは少しずつすり減ってしまうものだ。
「もう半年ですか。寂しいですねぇ。ミシェル様とのセッションは楽しいですからね」
「ふふ、ありがとうございます、トゥアン先生。先生の教えのお陰で、音楽のことがもっと好きになりましたわ」
「何よりうれしい言葉です。研究はおしまいですが、ミシェル様がよろしければ、またピアノを弾きにいらっしゃってください」
「はい。ぜひ」
自由研究課題の合格印はいとも簡単に頂けて、私は半年間の課程を修了した。
◆◇◆
ついにこの日が訪れた。マーゼリック殿下の監視が外れる日である。この半年、殿下は驚くほど静かで、薄気味が悪いほどだった。嫌な予感はしたものの、当初の予定は外さない。単位を取り切って、3年目は一切学院に顔を出さない。そのために、カリキュラムを組んでいると、早速物騒な言葉が耳に届いた。
「おい、聞いたかよ、隣のクラス……マーゼリック殿下がイライラを爆発させてよ……」
「気に入らない生徒をいびり倒してるらしいぜ。おお、こわ。俺、このクラスでよかったよ……」
監視が外れて早々、小さな箱の中で独裁者気取り。本当にいいご身分だ事。もしも私に火の粉が掛かるようなら、お父様に早々に報告しよう。そう思いながら、私は音楽室へ向かった。
トゥアン先生とのセッションは、あの後も続けていた。それが私にとっての数少ない癒しだったから。
けれど、ある日。こんな噂が学内で囁かれているのを聞いて、私は顔を顰めた。
「おい、知ってるか? サファージ侯爵令嬢が、トゥアン先生に色目使ってるって」
「半年前から足しげく音楽室に通ってるって? え、もしかしてサファージ侯爵令嬢も浮気してたとか?」
「ひゃ~。ほんと、第一王子と婚約者、どうなってるんだよ」
私は大きく息を吐き出して、そうして音楽室へ顔を出すと、トゥアン先生に頭を下げた。彼は、悲しそうな顔で首を横に振った。
「申し訳ありません、トゥアン先生。私のせいで、ご迷惑をおかけして」
「あなたが悪くないことは分かっています。悪意を持って噂を流している者がいるようですね」
「……しばらく、ここへは来ないことにします。先生にこれ以上、ご迷惑をおかけできませんから」
「それはとても寂しいですね。……ミシェル様。もしよろしければ、なんですが」
私が首を傾げれば、トゥアン先生は温和に笑顔を浮かべて、ピアノの鍵盤を一つ静かに押した。
「私の妻と共に、定期的に侯爵家にお邪魔させていただけないでしょうか」
「奥さんとご一緒に、ですか?」
「ええ。私の妻は君の姉弟子ともいえる存在です。音楽家夫婦を招いて音楽を嗜んでいると社交界で流れれば、あのような根も葉もない噂はすぐに淘汰されるでしょう」
その言葉を聞いて、私はすっと胸が軽くなった。先生の心遣いに感謝する。
「父に申し上げておきます。母も音楽が好きですから、きっと喜びますわ」
「はい。では、また侯爵にお伺いを立てておきますね」
トゥアン先生は、私の父には世話になったことがあるらしく、顔見知りであることは伝えられていた。私の家には母が使っていた大きなピアノがあるので、きっと楽しく音楽ができることだろう。
レティシア嬢の息がかかったご令息が陽気にその下賤な噂話を持ち掛けてきたので「家族ぐるみで付き合いがありますの。何か問題がありまして?」と返せば顔を青くして立ち去っていった。
◆◇◆
あらゆる噂は膨張し、増長し、悪意を持って拡散されていく。放課後に本校舎にいるのが苦痛になってしまった私は、旧校舎の方へと足を運んだ。家からの迎えが来るまで、授業が終わって1時間の猶予がある。その猶予を潰すために読書をするようにしていたのだが、教室にいると私がらみの良くない噂が聞こえてきて、とても居心地が悪いのだ。
曰く、男を漁っている――縁談を探しているのは事実だが、ぜひとも鏡を見てから言ってほしいものだ。
曰く、下級生を虐めている――私は下級生のいる上階になんて用事もないし行かないので、物証も存在しないほどのお粗末な風評被害だ。
曰く、第二王子の婚約者の座を狙っている――王家に関わるなんてもう一生ごめんだし、第二王子とその婚約者は来年に学院にご入学予定だ。いざこざに巻き込まれないために、第三学年には一度も学院に顔を出す気がない。
一つ言えることがあるなら、その噂をしているところにセラフィーナ様が居合わせると「しゃらーっぷ! ですわ!」と言いながら噂を流す人間に飛び掛かり威嚇しているのは大変に癒される。本当に愛らしい方である。
旧校舎は課外活動に使われている棟で、一般生徒はまず来ない場所である。忙しい貴族の子女は課外活動に取り掛かれるほどの時間がないので、この棟を利用するのは、ほとんどが下級貴族の子女である。
彼らは高位貴族の令息ほど命知らずではないので、ひそひそ話はしても食い掛ってくることはない。私にとっては道端で揺れる青草に等しいので、きっとこの校舎ならば心休まる読書の場が作れると思い、訪れたのだ。
静寂があたりを包む。中庭へと出れば、映え放題の草花が混沌とした光景を作り出していた。ここまで草花が生い茂っていれば、誰も来ないだろう。腰を下ろせる四阿でもあれば、落ち着いて読書ができそうだ。
そう思って歩いていると、ほのかに鼻腔をくすぐった甘い匂いを覚えて、私は顔を上げた。すると、そこには不思議な空間が広がっていた。
蔦が茂り、木製の粗末な骨組みに絡みつく、そんな小さな四阿の中で、一人の令嬢が茶を楽しんでいる。傍には漆黒の燕尾服に身を包んだ長身の男が控えているそんな不思議な光景を見やりながら、私はその令嬢を観察した。
どうしてこんなところで茶を飲んでいるのかは分からない。けれど、令嬢はまるで人形のような美しさで、右の瞳は青く、左の瞳は長い金色の前髪で隠されている。長い髪を背中へと流したとても美しい令嬢は、この静かな緑の空間で、さも当たり前のように茶を飲んでいる。
「あなた……ここで、何をしているの?」
問いかければ、令嬢の美しい青の瞳が私を捕らえた。どこか蠱惑的に優美に微笑んだ彼女は、口を開いた。
「見ての通り、お茶を飲んでいるのよ。お話なら、そちらへどうぞ」
少しだけハスキーだが、よく通る綺麗な声が導くのは、彼女の正面にある空いた席。古びた四阿とは思えないほどにぴかぴかに磨き上げられた机椅子を見やった後、何となくその静謐さに惹かれるようにして、私は彼女の正面へと腰を下ろした。
「あなたこそ、こんなところで何をなさっているの?」
「私は、少し本校舎の方が騒がしいのが嫌なの。迎えが来るのにあと1時間かかるから、静かに読書ができる場所があればと思っていたのだけれど」
「そう。私は、構わないわ。そこに座って本を読んでくださっても」
彼女がぱんぱん、と軽く手を鳴らせば、後ろに控えていた美しい男が、私の正面に紅茶を置いた。所作は洗練されていて美しく、高貴な生まれを想像させた。
「本を読むのもいいけれど、せっかくお茶を用意してくださるなら、あなたと話してみたいわ」
「そう。それもいいわね」
「私はミシェル・サファージ。サファージ侯爵家の長女よ。ご存知かしら。本校舎で悪評を流されまくっている、王子の元婚約者」
「ああ。あなたがそうなのね。私はエリン・アムール。家は伯爵家だけれど、田舎だから王都の人はあまり知らないかもしれないわね」
アムール伯爵家。聞いたことのない家門だ。けれどこの広大なフォネージ王国において、王都に住んでいる私たち王都貴族は、地方貴族にほとんど知識がない。それゆえに互いに知らないのは当たり前かもしれない。
「アムール様は……」
「エリンで結構よ」
「では、私もミシェルで結構です。エリン様はご迷惑じゃないかしら」
「あら、どうして?」
彼女は長い前髪を揺らして、艶やかに微笑んだ。私は少しだけどきっとする。こんなに綺麗に笑う方がいらっしゃるのかしら、と感心してしまった。
「私は悪評持ちですから」
「あら。ミシェル様は、悪評など跳ねのけてしまうほどに気丈な方だとお伺いしていましたけれど」
「根も葉もない噂に屈する気はありませんが、毎日あれほど聞かされては気も滅入ってしまうわ」
「それは心中お察しするわね。噂の中心地も分かっていて、彼女があなたに悪意を持っていることなど誰でも知っているのに、それを強要するのはあなたの元婚約者様が敷いた政のせい?」
どこか挑発的な言葉に、私はそっと頷いた。マーゼリック殿下はあの一件以来より一層暴君という言葉が似合うようになり、気に入らない者や逆らう者を徹底的に排除する方針を示している。王室にはもう届いているだろうに、放置しているのはまだあの時ほどの事件が起きていないからだろうか。もう、王室も厄介ごとはごめんだと言う風で、知らぬ存ぜぬを通す気だろうか。
「エリン様は、お噂を信じていらっしゃらないと?」
「あなたのことも彼女のこともよく知らないもの。知らないものに評価なんて持ってもそれは正当じゃないわ。噂なんて聞いているより、ここで茶を飲んで語らうあなたの言葉に興味があるわ」
彼女の堂々とした物言いが、とても気持ちいい。少し言葉を交わすだけでも、エリン様には強い芯があり、噂に惑って長いものに巻かれ、右往左往する者とは違う風格があった。私を色眼鏡を通してみないご令嬢に運よく会えただけでも、私にとっては幸運だったのかもしれない。
次の日も、その次の日も。終業の鐘がなると、私はすぐに本校舎を出て、この旧校舎へとやってくる。彼女はいつも麗しく緑の庭園の静謐の中で茶を嗜み、優雅に存在している。私が姿を現せば、彼女の従者――セバスというらしい青年がおいしい紅茶を淹れてくれる。
四阿で出会った不思議な友人と、日々と言葉を重ねるたびに愛しさが湧いてくる。様々なことを伝えあった。自分の事、エリン様の事、色々と。そうして三ヶ月が経過したころには、すっかりと打ち解けて良い友人になっていた。
トゥアン先生と自由な音楽を奏でる場を奪われて辟易としていたけれど、この不思議な友人との出会いが、私の心を癒してくれた。
「エリン!」
「いらっしゃい、ミシェル。毎日毎日、飽きないのね」
「エリンこそ、いつ来てもいるじゃない」
「雨の日はいないわ」
気楽に付き合える、大切な友人だった。エリンは傍に寄ると、少しだけ花の香りがする。目線は私よりも少しだけ高い。私も長身な方だが、エリンはスレンダーなラインが綺麗な長身の女性だ。けれどボディタッチなどのスキンシップは少し苦手で、私も手袋の上からしか握手をしたことしかない。
エリンは教養もあり、話を振ればすぐに返ってくる。その知識量に驚きながら会話をするだけで、1時間はあっという間に過ぎる。
「トゥアン先生と奥様ったら、本当に仲がいいのよ。二人で肩を並べて弾かれた連弾なんて、下手な演奏会よりも素敵だったんだから」
「うふふ、そうなの。ミシェルは本当に音楽が好きなのね。歌も歌うのでしょう?」
「ええ。……この話、あまりほかの人にしたことがないのだけれど、私ね。昔から、時々不思議な夢を見るの」
「夢?」
「真っ白な女の子が、歌を歌っている夢。もしかして、私の前世なのかしら、なんてね。きっと夢の中に出てくる彼女が、ずっと私の夢の中で歌っているから、私も音楽が好きなのね」
「あら。そうなの、素敵な話ね。きっとミシェルは、歌に愛されているのね」
「歌に、愛されている……」
エリンの言葉がすっと入って来て、胸が熱くなる。婚約破棄されて以来、がむしゃらに単位をかき集めることに必死だったけれど、大好きな音楽に――歌に愛されているなんて言われて、私は少しだけ満たされてしまったのだと思う。今からその道に入るのは無理でしょうけれど、生涯音楽に触れていたいと、そう強く願ったわ。
エリンは何事かを考えていた様子に見えたけれど、声を掛ければすぐにまた穏やかな笑顔を浮かべてくれる。たおやかで、美しくて、優しい。私はエリンのことが大好きだった。こんなに仲良くなった友人はほかにいなかったかもしれない。私は気性が荒いので物言いも激しいけれど、エリンはそんな私のストレートな言葉を気にもせずに、彼女自身もとてもストレートに物を言ってくれる。
きっと似ているのね、私たち。そんな風に思って、日々を重ねるごとに、私にとってエリンは大切な人になっていった。
――だからこそ、不安になる。
「エリン、大丈夫?」
「大丈夫って、どうしたの? 急に」
「私に関わると、エリンも嫌な噂に晒されてしまうかもしれないと思うと、申し訳ないわ」
「また、その話? いいのよ、別に。言いたい人には言わせておけば。私のことを知らない人が勝手に流す噂なんて、私には関係のないことだわ。確かに、あなたのような物事の中枢にいる貴族にとってはつらいことでしょうね。社交界というものもあるのだし」
「……エリンはすごいわね。そんな風に割り切れないわ」
「違うわ。私、社交界には出ない貴族だから。地方にはたまにいるのよ、そういう貴族。だから私は、私が関わる数少ない貴族たちが私のことを分かっていてくれれば、そのほかの貴族が何を騒ぎ立てようとどうだっていいの」
私は驚いて目を丸くした。そうして、そっと胸を抑えた。
(社交界に、出なくていい貴族――)
もしもそれになれたなら、どんなに楽だろう。私も他人の悪意を煩わしいと思う方だし、別に人気者になりたいなんて思ってなどいない。だから、社交界になんて出たくはないし、領地に引っ込んだ後は、父に言われた場所以外には顔を出さない気でいた。
けれど、エリンにこの話を聞いて、エリンのように地方で生きていきたい、という気持ちが生まれてきたのはどうしようもなかった。
「私も、社交界に出なくていい貴族になりたいわ」
「あら、そうなの? だったら、どこかに嫁入りでもすればいいわ。今、婚約している人はいないんでしょう?」
「王子殿下に婚約破棄をされて突き付けたような令嬢が入れる家なんて限られてるわ」
「選りすぐりのところを避ければいくらでもあると思うけれど。そうね……だったら、良さそうなところがあったら、あなたのことを紹介しておくわ」
「ええっ。悪いわよ、そんな……私の尻拭いをさせるような真似」
「いいのよ。だってついでだもの。まぁ、あまり期待はせずにいてくれると助かるけれど」
そう告げて、エリンは行儀よく笑う。本当に綺麗な人だ、と私は思った。
同性ながら、エリンは本当に魅力的な人だ。堂々としていて、はきはきとしていて、それでいて貞淑で美しい。考え方が私に似ているので、たまに男性的な意見が出るところもとても気が合うような気がする。
私はエリンのことが大好きだ。きっと今後も、良い友達としてやっていける。こんなにも馬が合う人を、私はほかに知らない。
そう、思っていた。