03. アルストロメリア号の受難
私がこの領地へ初めてやって来て、ちょうど一年ほどが経った。私が着いた日、フェリドゥーナ号から出産された、未来の私の愛馬であるアルストロメリア号は、すくすくと育ち、今は放牧地にて寛いで暮らしている。生まれたての仔馬だった彼女は、もうすでに私よりも大きくなっている。
厩舎に時折様子を見に行ったり、乗馬の訓練を頼むために、厩務員との仲は良好だ。今日は、アルストロメリア号のお世話を一緒にやらせて貰った。
「いやぁ、こいつは美人だがちょっと気性難だなぁ」
「気性難ですか?」
「同じくらいに生まれたアズマリー号の仔とちょっと折り合いが悪くてですねぇ。しょっちゅう喧嘩しとるんです。それに、ご飯をあげようとしたら一度はそっぽ向かれますしねぇ」
「そうなの……」
私は、アルストロメリア号をそっと撫でる。と、少し嫌がるようにすっと頭を下げられた。それに苦笑すれば、いやぁ、と厩務員のおじさんが頭を掻く。
「こいつは、もしかしたらとんでもねぇ暴れ馬になるかもしれませんねぇ」
「暴れ馬ですか……乗せてくれるかしら」
「まぁそいつは調教次第ですが、奥様はちと苦労されるかもしれません」
この意地っ張りなところもかわいらしいとは思うけれど、なるべくなら仲良くしたい。なので、私は彼女が気性難という話を聞いてからは、積極的に世話を手伝うことにした。アルストロメリア号は気位が高く、自分のテリトリーにほかの生物が入ると威嚇する。お世話をしてもちょっとつっけんどんな態度をとることも多いし、少しばかり骨が折れる。
けれど、私も散々家族から気性難と呼ばれた立場だ。きっと仲良くなってみせる。
そう思っていると、今は出産シーズンだからか、厩務員たちは忙しそうに走り回っていて、人が足りなくなったので、エサやりを任されて、厩務員はみんな厩舎へと戻っていった。
「ほら、アルストロメリア号。ごはんよ」
ぶるる、と嘶いて、そっぽを向かれる。こういう時は、一度傍へとご飯を置いてから少し離れて、食べ始めてから、そっと近づいて傍で見る。彼女は素直ではないだけなので、こうしてやれば食事を見ていても邪険に扱ったりしない。
(かわいい……この子が、私の相棒になるのね)
白っぽい金のサラサラの鬣に、栗毛の馬体。珍しいこの組み合わせは尾花栗毛と呼ばれるらしい。私が今までに見たどの馬よりも美人なかわいい子は、手もかかるけれど愛しい。そう思いながら、食べ終わったアルストロメリア号を撫でると、彼女はいつものように嫌がったりはしなかった。
「ごはんを食べて、少し機嫌がいいのかしら……ふふっ」
そうして、しばらくアルストロメリア号を愛でていると、ふと人の気配を感じて、私は後ろを振り向いた。するとそこには、何やら高級そうなドレスを身に纏った、10歳くらいの女の子が立っていた。
放牧地は、フレイザード家の私有地だ。迷子だろうか、と思っていると、少女の瞳は、アルストロメリア号に釘付けになっていた。私が声を掛けようとすると、彼女は凄い勢いで外へと走って行き、柵をよじ登って、手を振った。
「お父様ー! わたくし、あの馬が欲しいです!」
その言葉に、思考が固まった。すると、柵の外――すなわち、放牧地の外から、身なりの良い小太りの男性が、焦ったようにどすどすと駆けてきて、少女を柵から下ろした。そうして、彼は少しだけ汗をハンカチで拭くと、私に目を付けて、そうして呼んだ。
「おい、そこの飼育員!」
そんな声を掛けられて、私は思わず口を噤んだ。――まあ、確かに今の私の格好は、飼育員に見えないことはないだろうけれど。面倒くさいことになりそうだ、と思いつつ、私はゆっくりとその御仁の方へと歩み寄った。そうして、私はその人物に見覚えがあることに気づく。
(ラディスト伯爵だわ……どうしてこんなところに)
サファージ領の一部を治めている、サファージ侯爵家傘下のラディスト伯爵だ。直接顔を合わせたのは、覚えている限り5歳の頃が最後。社交界にも滅多に出てこないのと、小心者であるために王妃候補となった私に粗相を働くのを恐れてか、婚約者に決まってからは顔を合わせたことがなかった。しかし、サファージ侯爵家の傘下の家ということもあり私はもちろん知っている。彼が一体どうしてこんなところにいるか、その理由に心当たりはないが、彼はふん、と鼻を鳴らして見下すように私を見ると、アルストロメリア号を指さした。
「あの馬を買い取りたい。値段を付けてくれ」
「……はぁ?」
私が怪訝そうな声を出したからか、彼はむっとした顔をした。この男、本当に私の顔を知らないのかしら。それとも、こんな格好をしているから、私だと思わないのかしら。そんな疑問を感じつつ、私は言い返す。
「ここにいる馬は売り物じゃありませんわ。私有地ですから、お引き取りください」
「なんだと、貴様。誰に向かって口を利いている!」
それはこちらの台詞なんだけど。そう思って、はぁ、と息を吐き出した。
「ラディスト伯爵ですね。私はフレイザード伯爵夫人です。人の私有地に勝手に入っておいて、随分と横柄じゃない」
そう告げてにこりと微笑めば、彼は少しだけ言葉に詰まる。しかし、すぐに言い訳を思いついたのか、私を指さして、怒鳴り散らした。
「は、伯爵夫人が飼育員のような恰好をして馬の世話をしているはずがないだろうが!」
「あら、そう?」
ラディスト伯爵は、見栄っ張りだが小心者。だったら、ここで引けば調子に乗ってつけあがるだけだろう。私は腕を組んで瞳をすっと細めながら、少し圧のある言葉――妃教育の賜物である威圧感をたっぷりと込めた皮肉――を彼へと囁いた。
「今なら、まだ目を伏せて差し上げますけれど。これ以上私を侮辱するなら、こちらも相応の対応を致しますわ」
「…………し、失礼した」
私が放ったえも言われぬ威圧感に気圧されたのか、彼はしおらしく告げた。私が肩を竦めていると、ご令嬢がむっとした顔で、ばたばたと地団太を踏む。
「お父様! 早くあの馬をメイにちょうだい! ちょうだい! ちょうだい! ちょうだい!」
「メ、メイ……待ちなさい、今交渉しているから」
「やだやだやだ! 今すぐ欲しい! 欲しいの欲しいの欲しいの!」
とんだ我儘娘だ、というのが第一印象。相当に甘やかしているのか、彼女は私有地への不法侵入すら悪いことだと思っていなさそうだ。これは、厄介なのに絡まれた。そう思いながら、アルストロメリア号を見やる。彼女は我関せずと言った様子で、自分が売られる危機かもしれないのに、青草の上に寝転がって放牧を満喫している。
「フレイザード伯爵夫人。無礼な言動を許してくれ。だが、どうかあの馬を買い取らせていただけないだろうか」
「先ほども言いましたけれど、我が敷地内で放牧している馬は売り物ではないのです。この放牧地の外も私有地ですので、屋敷の方にちゃんとお伺いを立ててから来てくださる?」
「な……ど、どれだけ広いのだ、この屋敷は……」
「私も正確に把握しているわけではないのですけれど、川からこちら側はすべてと聞いたことがありますわ」
フレイザード家が保有する土地は、屋敷の周辺と牧場だけではない。ルーセンの街から川を隔ててこちら側は、全部が私有地だと聞いたことがある。それだけは確実だ。
「も、申し訳ない。知らずに立ち入ったことは非礼を詫びる」
「まぁ、分かりづらいですから、それは良いのです。ただ、我がフレイザード家は本日、ラディスト伯爵から訪問のお伺いをいただいておりませんわ。つまり、今のあなたは不法侵入も同然の状態であるわけです。ですので、改めて主人にお伺いを立ててお話をしてくださる?」
「承知した……無礼に目を瞑っていただき、感謝する。改めて屋敷の方へ訪問させていただく」
まぁ、常識がない人間ではないようだ。ただ、先ほどの不法侵入を申告した上での「飼育員」への横柄な態度は気になるところだが、お父様はこのような男を領主にしていて大丈夫かしら。それは気になるところだったし、一応領地で領地経営の勉強をしているお兄様にお伺いを立てておこうかしら。
「メイ、また改めて馬の話をさせて貰うことになったよ。だから今日は帰ろう」
「やだやだやだ! あんな意地悪なおばさんなんか、お父様の力でやっつけてよ! メイは今すぐにあの綺麗なお馬さんが欲しいの!」
聞き捨てならない言葉を聞いた。伯爵が恐る恐る、と言った様子で私の方を振り向いて、私の滲み出る強烈な殺意に慄いたのだろうか。彼は小心者というのは本当のようで、我儘娘の口を抑え込むと、そのまま馬車へと強引に引きずって、帰っていった。
馬車が通り過ぎて行ってから、私はぐっと拳を握りしめて、そうしてそっとアルストロメリア号を見やった。彼女は、ただこのフレイザード家で育ったというだけではない。私が来たその日に生まれ、アルフィノ様が私にくださった、大切な馬だ。
「絶対に、あんな小娘にアルストロメリア号はあげないんだから……!」
意地でも、あんな小娘に渡したくはない。あまり実家に迷惑を掛けたくないので、サファージ侯爵家の権力を使うのは最終手段だが、上等だ。あんな小娘と小心者ごとき、誰に楯突いてしまったのか教えてくれよう。そう思いながら、アルストロメリア号の元へと駆け寄った。
◆◇◆
「……そんなことがあったんですね」
「ええ。あの娘、とても我儘そうだったから、本当に来ると思います」
そう告げて大きく息を吐き出せば、アルフィノは苦笑した。そして、家令が少しだけ汗を拭きながら、一礼をして書状を取り出した。
「……来ておりますな」
「ええ……はぁ。牧場は私有地ですから、今までにないお伺いですね。困ったな」
「そもそも、何でラディスト伯爵がこんなところにいるのかしら。彼が治めている領地からは、イズラディア公爵領は遠いのに」
「……娘の誕生日プレゼントを探しに来たそうですよ」
アルフィノは何も疑うことなく、あっさりと告げた。まさかアルフィノがすでに彼らの動きを掴んでいたとは思わず、目を見張ってしまった。
「知ってたんですか?」
「ルーセンの街に出入りする貴族には、鴉の精査が入って報告が上がってきますので。彼は二日前からルーセンの街に滞在しております。ルーセンの街は交易が盛んだから物珍しいものが多いので、この街なら娘のお眼鏡にかなうものがあると期待してのことではないでしょうか」
確かに、ルーセンの商人からは、珍しいものが入ってくることも多い。ものの珍しさという点であれば、イズラディア公爵領・サファージ侯爵領の中でも随一だろう。あの小娘が納得する珍しいプレゼントを探しに来たという事であれば、彼がこの街を訪れた理由は分かる。
「ひとまず、他家と事を構えたくないのは確かですから、一応お会いしますか」
「そうですね。ちゃんとお断りしたほうがよろしいかと。主人のフィーから言ってくだされば、先方もさすがに引き下がるのではないかしら」
「ぼく、この手の交渉事はあまり得意ではないんですけど」
アルフィノは少しだけ自信なさげに笑う。この手のトラブルを避けるための、地方なのだが。しかし、相手が不法侵入だろうと、アルストロメリア号が見つかってしまい、あの我儘娘に見初められてしまったのが運の尽きなのかもしれない。
「私がサポートしますわ。これでも、元は王妃を望まれていた身ですもの」
「頼もしすぎるな……あの馬は、君にプレゼントした、君のための馬。前にも言いましたが、ぼくは運命というものを信じていますし、君が訪れた日に生まれた馬ですから、ずっと君の元にいて欲しいです」
「フィー……ええ、もちろん、私もアルストロメリア号を手放すつもりはありません」
こうして、私たちはラディスト伯爵家の我儘令嬢と戦う準備を進めた。伯爵のお伺いはなるべく早くにということだったので、翌日の昼から招くこととなった。
彼は馬車に乗ってやって来た。私はそれを、アルフィノの傍に並んで出迎える。昨日の作業着ではなく、美しい銀糸で編まれたドレスに身を包んだ私を見て、ラディスト伯爵がしゃっくりの様な悲鳴をあげたのを見た。
「こ、此度は突然の訪問にも関わらず、受け入れてくださったことを感謝いたします。フレイザード伯爵、そして昨日は大変失礼いたしました、フレイザード伯爵夫人」
「このような田舎にお越しくださり、ありがとうございます。フレイザード伯爵、アルフィノにございます」
「フレイザード伯爵夫人、ミシェルにございます。うふふ、申し訳ございません。飼育員に紛れ込んで馬の世話をするのが、私の今の楽しみなの。だから、あなたが気付かないのも無理はないと思いますわ」
「何と寛大なお言葉、感謝いたします」
ラディスト伯爵はぺこぺこと頭を下げる。流石にあの娘は置いて来たのかしら、と思うと、後ろの馬車の中から癇癪を起こす少女の声が聞こえた。
「早くして! メイはあの馬が欲しいって言ってるじゃない! 早く連れて来なさいよ!」
その様子に、アルフィノは苦笑する。傍に控えていた使用人に指示をすると、使用人たちは厩舎の方へと駆けて行った。
「大変申し訳ありませんが、馬は非常に臆病な生き物です。専門的な知識を持つ者が世話をするものです。私有地に入られて、馬に近付かれますとお嬢様がたいへん危険ですので、厩舎と牧場の方へは立ち入りを禁止させていただいてもよろしいですか」
「ええ、ええ。もちろんでございます。お見苦しくしてたいへん申し訳ございません」
「……お嬢様には、別室でお待ちいただきますか?」
アルフィノの気遣った言葉に、伯爵はぱっと顔を明るくする。そうして、そっと乞うように礼をした。
「ただ、先ほども申し上げた通り、厩舎や牧場の方にはお近づきなさいませんよう、言い含めていただけますか」
「ははっ。ありがとうございます、フレイザード伯爵」
そうして、あの我儘娘――メイリオンと言うらしい少女は、父によく言い聞かせられていたのだが、牧場の方に行くなという話になった途端、また喚き出した。
「何でよ! あの馬はメイの馬なのに! メイのだもん! 会いに行くわ!」
「駄目だ。ここはよその家なんだ。ちゃんとしていなさい」
「だったらこの家もお父様が買ってよ! 田舎の家なんて、お父様だったら買えるでしょ!」
「無理を言うな、頼むからおとなしくしていてくれ……」
もうアルストロメリア号を自分のものと思っているらしいその口ぶりに、予想以上だと、アルフィノも少しだけ気が重そうにしていた。
結局、そのあと30分ほど騒いで、疲れておとなしくなったご令嬢をお菓子で釣ることで、何とかおさまった。
こんなに聞き分けのないご息女を他家に連れて来て、伯爵はどういうつもりなのかしら。そう思いながら応接室にお通しすると、伯爵は頭を下げた。
「たいへんお騒がせいたしまして……」
「僭越ながら申し上げますけれど、彼女は見知りでない家に連れてくるにはまだ幼いと思います。宿でお待ちになられた方が良かったのでは?」
「……たいへん、申し訳ございません」
伯爵はがくりと項垂れる。本当に手を焼いていらっしゃることは見て分かるけれど、聞き分けのない娘を躾けるのは貴族として当然のこと。先ほどの宥め方を見ても、娘には甘いと言わざるを得ない。
だったら、もう容赦はしない。まずは先手を打つべきだ。そう思って、私はにこりと微笑んだ。
「あの、メイリオン嬢が我が物顔で語る、アルストロメリア号ですけれど」
「……はい」
「私が旦那様からいただいた、婚約記念の仔馬です」
そう言えば、ラディスト伯爵は顔を青くした。他人の贈り物を欲しがるなんて、貴族の女子としては最悪の我儘である。品位を疑われるだけならまだしも、100パーセント勝ち目のない醜聞になりえるのだから、諫めて諦めさせるのは親の義務だ。
「私が旦那様との婚約をした際、こちらに初めて訪れたその日に産まれ、名付けをし、いずれは私の愛馬として、野を駆けることを楽しみに、お世話してまいりました。私があの日、あの馬のお世話をしていた理由、分かっていただけまして?」
「……は、はい……」
「私の旦那様との巡り合いの記念にといただいたあの馬をお金で買おうとするなんて、何をお考えなのか説明していただいてもよろしいでしょうか?」
そう告げて微笑めば、彼は汗を流して縮こまり、俯いた。
今の質問は、うちに喧嘩を売っているの? という意味である。交渉ごとの基本は、優位に立つこと。友好的な隣の領の入口たるルーセンの領主と事を構えれば、それはイズラディア公爵領と、サファージ侯爵領の問題に発展する可能性がある。
そのためにはまず、ご息女の我儘で、傘下の一家に過ぎないラディスト伯爵家を潰すつもり? と問いかける必要があった。
「も、申し訳ございません。あの馬が、それほどに大事な馬だったとは知らずに、不躾なことを申し上げました」
「申し訳ありません、ラディスト伯爵。私としても、アルストロメリア号は妻との出会いの記念に、妻に贈った大切な馬です。値段をつけることはかないません。どうぞ、お諦めください」
「そ、それは……」
彼はがくりと俯いた。彼にも同情の余地はある。あの我儘娘に振り回されているのだろう。やっとお眼鏡にかかったものを金で手に入れて、さっさと事をおさめたい気持ちは分からなくもない。
けれど、彼が見せた横柄な態度から察するに、これまでも立場が弱いものから、メイリオン嬢が欲しがるものを金で買い叩いて与えて来たのであろうことは想像に難くない。
此度の交渉は、こちらに不利なことは何一つとしてない。ただ、向こうが我儘を通すための無茶を言うだけの場だ。もう、できれば放っておいて欲しいのだけれど。
しかし伯爵もなかなかに粘るものだ。それを、アルフィノと二人で丁寧にお断りする。やがて、これ以上の交渉は無意味だと悟ったのか、伯爵がよろよろと立ち上がった瞬間、外からバタバタと足音が聞こえてきて、そうしてドアが物々しくノックされて、家令が駆けこんで来た。
「お話し中失礼いたします」
「なんですか、騒々しい。お客様の前ですよ」
「は。申し訳ございません。しかし、ラディスト伯爵令嬢が窓から部屋を抜け出し、牧場の方へ……」
「なんだと!?」
私は気絶しそうになるのを何とか堪える。訪問先のマナーさえ守れないのかしら、と不機嫌を露にすれば、伯爵は青ざめた。
「ラディスト伯爵令嬢を追いかけて行ったセバスが、ご令嬢が尻尾を引っ張って暴れたアルストロメリア号に、後ろ蹴りをされました」
「娘は!? 娘は無事なのか!?」
「ご令嬢はセバスが庇ったので、転んだだけでけがはされておりません。ですが、セバスは骨が折れてしまったらしく、今は使用人室に運ばれて手当てを受けています」
「何てこと……」
私は頭を押さえた。尻尾を引っ張るだなんて、そんなの馬が怒るに決まっているのに。私はアルフィノに支えられつつ、ぐっと息を吐き出して、何とか正気を保った。
その後、ご令嬢とセバスの無事を確かめるために、応接室を飛び出して、皆で使用人室と、その隣にある空き部屋へと向かった。セバスの容態は気になるけれど、私たちは屋敷の主人と夫人。ご令嬢より使用人を先に気遣うなんてことがあってはならない。
部屋のドアを開けると、ご令嬢は父を見つけて駆け寄った。そうして、ぎゅっと抱きしめられる。ドレスが少しだけ土埃に塗れているが、外傷はなさそうだ。
「怖かったね。大丈夫だったかい、メイ」
「怖かったわ! この家の教育はどうなってるの!? やっぱりお父様、こんな家にメイの馬を置いてはダメだわ! 早く連れて帰りましょう!」
「……ああ、そうだな。メイをこんな目に遭わせたんだ。あの馬は処分してくれ」
そう告げる伯爵の目には、疲れが滲んでいた。私は激しい怒りを胸の内に抑え込んだ。もうこれ以上争いの火種が生きていると娘の我儘に付き合いきれないから、殺せと言うのだ。
確かに、主人や客人を傷つけた家畜は、始末されるのが普通。けれど、彼とその娘が私有地に忍び込まなければ、そもそもこんなことにはならなかったのだ。
その物言いに、穏やかな語り口を崩さなかったアルフィノが、声を低くして告げる。
「それは横暴というものでは?」
「何が横暴なのだ。貴族に怪我を負わせる家畜なぞ、置いておくほうが悪いだろうが!」
「牧場への立ち入りは禁止させていただいたはずです。馬は臆病な生き物だとも忠告しました。それを破ったのはそちらです。馬は我が家の大事な資産の一つ。それを、身勝手によって侵しておいて殺せと言うのは横暴以外の何物でもありません」
アルフィノはあくまでも毅然として対応する。そうして、隣の部屋を指さして、口を開いた。
「お嬢様の我儘で、我が家の大事な労働力がけがを負いました。こちらが賠償責任を請求したいほどです。こちらは、厚意を踏み躙られた気分ですよ」
「何を言う! もう少しで娘が死ぬところだったんだぞ! そんな家畜に生かしておく価値はない!」
「約束を守らなかったのはそちらです。我が家には我が家のルールがあり、それを了承したうえであなたは我が家の敷地を跨いだのです。そのような横暴が罷り通ると思って貰っては困ります」
そんなことは、ラディスト伯爵も分かっている。それでも、向こうの方がやや有利だと感じてしまうのは、こちらの家畜が、間違いなくご令嬢を攻撃した、その一点に尽きる。けれどそれでも、理不尽を押し付けてくる相手に、私は激しい怒りを覚えていた。
「屠殺しろ。それができぬのなら、こちらで処分するからあの馬を寄越せ」
「メイの馬はメイの馬なんだから! こんなところで暮らしているのはあの馬もかわいそうだわ! 早く連れ帰らせてよ!」
「飽くまでも自分の非を認めぬと仰るのですね。では、致し方ありません。どうぞお引き取りください。訴えたいというのならば、ご自由に。ご令嬢には傷一つついておりませんし、我が家にとって不利なことは何一つありません。もう二度と、ラディスト伯爵家が我が家の敷居を跨ぐこと、罷り通りません。次以降、我が家の敷地内に踏み込んだ場合、問答無用で不法侵入として突き出させていただきます」
たとえ、彼らが馬に攻撃されたと言われても、ご令嬢にも伯爵にも傷一つついていないのだから、今の時点では訴えを起こすことも難しいだろう。アルフィノが淡々とそう告げれば、ラディスト伯爵は憎々し気に唾を吐き捨てて、メイリオン嬢を引き摺って、屋敷を後にした。
「アルストロメリア号を、厩舎に移してください。誰にも見つからない場所に。放牧に出している馬も、いったん厩舎に戻して、厩務員たちに鍵の管理を徹底させてください」
「どうするの、フィー」
「ラディスト伯爵の弱みを握ります」
そんなことを躊躇いなく言い放つアルフィノに、私はそっと息を吐き出した。旦那様は、こうと決めれば容赦をしない人だ。元潜入捜査員だった彼は、この人の良さそうな様子とは裏腹に、得意なのは恐喝や教唆などの少しばかり不穏な手段。
貴族社会では当たり前のように水面下で行なわれているそれらは、互いの名誉のためなら見逃されている。きっと彼なら、すぐにラディスト伯爵の弱みを握ってしまうだろう。けれど、私はそれだけでは足りないと思う。
「私、お兄様にちゃんとお伝えしておきますわ」
「お義兄様に?」
「結局、あの我儘娘を何とかしない限り、我が家に安寧は訪れませんもの。だったら、使えるものは何でも使わなければ。それが、貴族の足の引っ張り合いというものでしょう?」
私はそう告げて、さっそく兄に送る手紙をしたためた。もうこうなったら、徹底的にやるしかない。私がサファージ侯爵家の出だということを知らなかったのが運の尽き。自分たちが喧嘩を売った相手がどんな人間なのか、旦那様と一緒に思い知らせてやるしかないのだ。