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気性難の令嬢は白竜の花嫁を夢見る  作者: ねるこ
第一部
2/65

02. 婚約破棄は両成敗になった

 父に事のあらましを伝えれば、父は呆れたように鼻で笑った。それが私に対してのものなのか、王家の者に対してなのか、あるいは両方か。父は人並みに家族へ情を持つ方ではあったが、政略と割り切れば娘を道具にすることも厭わない野心家だった。とはいえ、私は大切にされていた自覚はあるので、父のことはしっかりと尊敬している。


「……あい分かった。では私の方で後は済ませておこう。沙汰を待て」

「はい、お父様」

「お前が王妃とならぬことは残念ではあるが、王家の弱みを握れると思えば悪くはない。お前には新たな縁談を探すことにしよう。お前の気性の荒さが、まさかこんなところで役に立つとはな」

「光栄です、お父様」


 にこりと微笑めば、父は呆れたように息を吐き出した。この様子では、父にとってもどちらかと言えばこの結末は望ましいものだったのかもしれない。

 マーゼリック殿下は能力は申し分ない人物だ。彼の悪癖を知らない人にとっては、王の器もあったように見えただろう。レティシア嬢と出会うまでは、少なくとも誰もその器を疑ってはいなかった。

 けれど此度のことで、彼の危うさが露呈した形となった。これに関しては、陛下も王太子の座を第一王子にするか第二王子にするかたいそう悩まれることだろう。

 父にとっては、娘を王妃に据えることよりも、誤った方に玉座を与えるのを防ぎたい、と言ったところだろうか。


「ただ、王家との婚約が破棄となったのであれば、お前に過失があろうとなかろうと、なかなか良い縁談は見つからぬかもしれん。長い戦いになるであろうな」

「私は構いませんわ。妃教育は厳しかったとはいえ、学んだことは決して無駄になることはありません。もしご縁が見つからずとも、私は領地に入って領主の補佐をしようと思います」

「お前の能力ならばそれも良いだろう。だが、お前に施して来た教育は、高位貴族家に嫁ぐためのもの。それらが無駄にならぬよう、私はできる限りのことをしよう」

「ご配慮いただき、感謝いたします」


 不器用な言い草ではあるが、私はこれが父の愛情であることを理解していた。政略に必要とあれば、私は父のための駒となろう。そう思えるのは、私が父のことを信じているからだ。

 誇り高きフォネージ王国の貴族であること。私が父のことを尊敬しているのは、父が国のため、民のために心を尽くす貴族の心を持つと信じているからだ。

 父にゆっくりと休めと言われ、私は一礼をして、自室へと戻る。そうして、疲れ切った体を癒すために、ベッドへと入った。


◆◇◆


 夢を見た。それは、幼い頃から繰り返し見る夢だ。

 真っ白な少女が、何かを歌っている。その歌が妙に耳慣れていて、懐かしい気持ちになる。


 朝日に瞼を焼かれて目を開けると、私はゆっくりと体を起こして、それを口ずさんだ。夢の中で聞いた歌は、いつの間にか私の一部となっていたのだ。

 私は休みを満喫することにした。もう登城する必要もないのだ。国王陛下や王妃殿下のことは特に恨んではいないが、あのマーゼリック殿下と顔を合わせなくてもよいと考えるとせいせいする。残念ながら気性の荒さに定評のある私は、一度軽蔑した人間に対して、驚くほどに冷めた感情を抱いていた。


 終業パーティーも終わり、春季の長期休みに入った私は、自宅でまったりと過ごしていた。終業パーティーでの沙汰が正式に決定したのは、終業パーティーから五日経った頃。

 父に呼び出されて執務室へと顔を出せば、沙汰を告げられた。


「国王からの沙汰が決まった。殿下からお前への私刑の告発、及びお前から殿下への浮気の告発、いずれも有責()()、双方希望での婚約破棄が承認された」

「……つまり、両成敗と言うことですね。片方からの有責ではなく、双方からの有責での婚約破棄と相成ったと」

「そういうことだ。殿下はお前に対して貴族籍からの除籍や国外追放なども要求していたらしいが、殿下たちの証言のみによって立証を試みられた私刑と、物証に証言もすべて揃っているお前からの浮気の告発を天秤にかければ、そのような要求は通らないのが自明だ」

「その通りでございますね。恋は盲目とは、恐ろしい至言にございます」

「あの場でお前が反証していなければ、お前は今頃王命によって領地追放とされていたやもしれん。次期王太子の醜聞とあっては、王家もお前ひとりに責を被せて追放とするほかなかったであろうからな」


 それが罷り通ってしまうのがとてもおぞましい。そう思いながらも、私はあの場で切り返せた自分の度胸に感謝し、気が強い人間でよかったと心の底から思ってしまう。


「一か月後に予定されていた王太子任命式は見送りになり、マーゼリック殿下、そしてお前には一週間の謹慎が言い渡された。少し家でゆっくりしていろ」

「はい。ありがとうございます」


 どうやら、望む限り最高の形で婚約破棄を終えられたようだ。こちらにも比があると冤罪を押し付けられたのはとても不快ではあるが、王子という立場から申された理不尽にしては随分とかわいらしい沙汰になったと思う。これも、王子の浮気を察するや否や、鴉の協力を得て浮気の物証を集めてくれていた父に感謝するほかない。


 嫁ぐ家がなくなったというのにどこか心が晴れやかなのは、私は心のどこかでマーゼリック殿下に嫌悪感を抱いていたからなのだろう。彼は優秀な人間ではあるが少しばかり傲慢で、臣下からの苦言を聞き流すのが玉に瑕である。要は自分が決して間違っていないという自尊心の持ち主で、それが王族としての正確な判断に紐づけば目をつぶればいいのだが、最悪の形で露見してしまったのが今回の件である。

 王太子任命式が見送りになったのは、このサファージ侯爵家の後ろ盾を失ったというのが大きな理由だろうが、それ以外にも鴉による王の資質の再精査が入るからだろう。少なくとも浮気をここまで大きく醜聞として告発されてしまった以上は、このままやすやすと立太子とは行くまい。


「女は男を立てろ? はっ。態度だけの男を立てたところで、民が肥えるのかしら」


 マーゼリック殿下が事あるごとに口にしていたそれは、私が殿下の行動に苦言を呈したときに返される定型文。生来、あの傲慢な王子と気性の荒い私が合うわけもなく。水に油を注ぐようなものだ。とても不条理な婚約であったことは断言できる。

 淑女として振舞うことはできても、私の心根は淑女とは程遠いのだろう。兄がいなければ、私が侯爵家を継ぐことになっていたかもしれないと思う位には、私は父も兄も母も手を焼いていたほどの暴れ馬だという自覚がそれなりにある。

 苦労を掛けてごめんなさい、という謝罪を家族にしつつも、今回ばかりはそれが良い方向に働いたと自分を慰めるしかない。学院を卒業したら、領地に引っ込む準備をしよう。そう思った時、私はこの先に訪れる厄介ごとの種に気が付いた。


「そうか……あと二年、彼らと同じ学院に通わねばならないのね」


 私は思わず嘆息する。とても気が重い事実に気づいてしまって、いじけながら体をベッドに横たえた。彼らはきっと私への報復を企てるだろうし、私が穏やかな学院生活など望めないのは承知の上だ。けれど王子もこの一件ですっかりと王族としての発言権を失っただろうから、学院内で起きた私関連の揉め事に対して、今回のような証拠もない証言だけで謀ろうとすれば、直ちに陛下は廃嫡を決断するだろうと思う。

 戦う条件としては悪くないのだが、それでも周囲が喧しくなることは決定事項だ。それがあまりにも気が重くて、私はがくりと項垂れてしまう。


 謹慎期間が明け、明日から復学と言うところで、私は父に聞きたいことがあって書斎を訪れる。


「お父様。お忙しいところ申し訳ございません。お聞きしたいことがあるのです」

「何だ?」

「メフィスト子爵が長子、レティシア嬢に対するお咎めの内容と、マーゼリック殿下の婚約者の席に関して。お父様が知っていることを教えていただけませんか」


 父はとても聡明な方で、私が一を申せば十を理解し返してくれる。中には、私がそこまで考えていないこと、なんていうものはいくらでもある。


「レティシア嬢に対しては、マーゼリック殿下と同じく謹慎が言い渡されたそうだ。それと、これ好機と、婚約者との関係を悪くされたご令嬢がたが実家のメフィスト子爵家に苦情を入れ、この春季休暇期間は、子爵は火消しに走り回っていたと聞く。しかしメフィスト子爵もなかなか食えない男で、王宮の奥深くに食い込むことを謀略しているという情報も掴んでいる」

「まぁ……なんて命知らずな」

「学院の目は厳しくなるだろうが、恐らくメフィスト子爵令嬢は通常通りに登校するだろう」

「そうですの……分かりましたわ」

「第一王子殿下の婚約者位は空席だ。メフィスト子爵令嬢を据えようと画策していたようだが、陛下の命によって空席を維持されている。どちらにせよ、メフィスト子爵家ごときの後ろ盾では王太子とはなれまい。もしもメフィスト子爵令嬢を婚約者の席に据えようと言うなら、それは第二王子が王太子となるときだろう」


 やはり、私が噛みついたことによってマーゼリック殿下の思惑通りとはならなかったらしい。恐らくはあの方は浅慮にも王太子任命式の前に婚約破棄を成立させ、王太子任命式の際にメフィスト子爵令嬢との婚約を発表しようとでも思っていたのかもしれない。そのために後ろ盾となる人間を選定していてもおかしくはないが、あそこまで派手に浮気を指摘され糾弾されれば、彼の思惑が罷り通ることはないだろう。


「マーゼリック殿下には半年間の監視が付くことになった。半年の間は、学院内で好き勝手を許される身分ではなくなった。殿下が持つ王位継承権は学院を卒業するまで王室の預かりとなり、学院に滞在中に事件を起こさねば再度王太子の資質について領主会議で問うとした」

「まぁ。それはそれは、随分と慎重で結構ですわね」

「ふん、嬉しそうだな。学院内で殿下の生活を補助していた側近候補たちは全員解任され、新たに監視として王室に選ばれた側近が付くことになった。彼らは殿下を諫めるどころか、増長させて自分たちもと手を挙げた。本来なら廃嫡処分でもよいくらいの軽率な行動だったが、出世街道の封鎖という沙汰となった」

「それでも、あの年頃の自尊心に溢れるご令息にとっては、この上ない屈辱でしょうね」


 どんどん、私に対する報復の動機が揃って行ってしまっている。思わずため息を吐きだすと、それを察した父が、指先で髭を撫でながら、言葉を選んで告げた。


「学院の卒業に拘らずとも、王妃教育を済ませたお前の経歴を疎ましく思うものなどおらんがな」

「……それは……」

「お前が決めろ。学院に復学するのか、退学するのか。もしくは、殿下が雁字搦めの間に単位を拾い集めてしまうか」

「……それですわ」


 父のつぶやきに、私はぱちん、と手を合わせる。14歳で王妃教育を終えた私は、学院に通い始めて殿下が婚約者の責務を放棄し始めると、追加で授業を取って単位を多めに貰っていた。王室で何かあったときのために、学院との都合を取るために早々に単位を集めてしまおうと思ったのだ。

 学院は3年制だが、集めようと思えば一年半ほどあれば単位は集めきれる。今のペースなら、残り一年あれば十分だろう。それなら、最後の一年は一切授業に出ずとも学院を卒業したという経歴を得られる。

 父は拘らずとも良いと言ったが、フィッシェル貴族学院は、王都貴族の子息子女にとって非常に重要な学歴である。父がもしもどこかしらから縁談を持ってきてくれた時に、相手方に舐められないように、学院は出ておきたいところだ。


 父はやれやれという顔をしていたが、私が一度言い出すと聞かない性格なのはよく知っている。何かあれば報告しろと言いつけて、私は明日から学院に戻ることになった。


◆◇◆


 第二学年に上がると、成績や家同士の間柄に基づいたクラス編成が再度行われる。ありがたいことに、私はAクラスで殿下はBクラス、そして問題のレティシア嬢はCクラスという、学院側からの配慮が染みわたる配置となっていた。もうなるべく関わらないようにしようと、そう思ったのだった。

 教室へと足を踏み入れると、しん――と教室が静まり返る。好機の視線が突き刺さり、じろじろと見られ、ひそひそと囁かれる。両成敗とはなったが残念ながら醜聞持ちの女となった私に対する洗礼である。

 そうしてそっと席へと着くと、目の前で学生服のスカートが躍る。私がそっと顔を上げると、そこには難しい顔をした、見慣れた顔があった。


「……ごきげんよう、セラフィーナ殿下」


 マーゼリック殿下と同年に産まれた側室の子女、即ち王女殿下である。マーゼリック殿下の婚約者であった間は、好意でセラフィーナ様と呼ばせていただいていたけれど、もはや王室の関係者でなくなったなら、私は一人の臣下に戻ったということである。淑女の礼をとれば、彼女ははっと目を丸くした。

 そして、みるみるうちに目を潤ませて口元を歪ませると、どん、と両手を私の机へとついて、ぐいっと顔を近づけて来た。


「嫌ですわ! お姉さま! そんなに他人行儀な態度を取らないでくださいまし!」


 大声でそう告げて、さらに好機の視線を受けてしまう。私は内心焦りながらも、愛想笑いを浮かべて、王女殿下を宥める。


「……私は、もうあなたの姉上になる資格を捨ててしまいました。ですから、どうか……」

「嫌! です! わ! 血や家族のつながりがなくとも、お姉さまはセラフィのお姉さまですもの! 敬愛するお姉さま!」


 彼女の言葉に、私は小さく息を吐き出した。愛らしい桃色交じりの銀髪を揺らして、金色の瞳を潤ませる彼女を宥めていると、いつの間にか周囲を主に高位貴族の令嬢に囲まれていた。


「わたくし、あのパーティーでのお姉さまの堂々とした振る舞いに感動いたしましたっ! お兄様ったらいい気味だわ。いつも威張り散らしてるからツケが来たんですのっ」


 側室の子であるセラフィーナ殿下を、何かにつけて冷遇していたマーゼリック殿下。身から出た錆とは言え、身もふたもない物言いである。


「理不尽な王族からの圧に屈せず、凛と咲き誇ってお兄様の綺麗ごとを浮気で片づけてしまったお姉さまの姿に、わたくし感動いたしましたっ! 何というのですか、あの、刺し違えてでも潰すという気迫! 国母たる王妃は、穏やかで優しいだけでは務まらぬのだと、多くの貴族の子女たちに知らしめた事でしょう!」


 差し違えてでも潰すって――でも、確かに私はそれくらいの心意気で殿下に噛み付いたのかもしれない。国を傾けるくらいなら、互いに滅びようと思えるくらいの自棄っぱちであったことは認めざるを得ない。あの日の私は、冷静に見てもとても憤っていた。

 周囲から「そうですわ! そうですわ!」「セラフィーナ殿下の言う通りですわ!」と高位貴族の令嬢からの声援が入ると、私は目を白黒させる。彼女らもまた、レティシア嬢の被害者であるのだ。


「わたくしもお姉さまを見習って、浮気を正当化しようとしている婚約者様と話し合ってまいります! よくよく考えたらわたくしが遠慮する必要がどこにあって? ね、アシュレイさま?」


 セラフィーナ殿下は、教室の隅で居心地が悪そうにしていた男へと視線を向けた。彼はマーゼリック殿下の元側近候補であったドロワープ侯爵家長男、アシュレイ様である。セラフィーナ殿下は王家からの命でドロワープ家と紐づくために嫁入りが決まっていたが、アシュレイ様はレティシア嬢に熱を浮かせ、先日のような凶行に出たことで側近候補から解任された。セラフィーナ殿下はふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながらアシュレイ様にスキップで近づいていくと、どん、と笑顔のまま机に両手を置いた。

 アシュレイ様は、もう真っ青である。恐らく、父上にも王女である婚約者を蔑ろにしていたことがバレ、絞られたあとなのだろう。セラフィーナ殿下はにこにことしているように見えるが、目はまったく笑っていない。

 それに続くようにして、ほかの元側近候補の婚約者の令嬢たちが、それぞれぞろぞろと婚約者の元へと向かって行けば、彼らは顔を真っ青にして、首を横に振っていた。彼女たちとて婚約破棄がしたいわけではないだろう。私のように無頓着な人間でなければ行き遅れたくはないはずだから。

 けれど、十分に彼らを尻に敷くくらいの効力は合ったらしい。これでは、私への報復に身を砕いている場合ではないかもしれない。婚約者の機嫌をこれ以上損ねれば、いよいよ家にいられなくなるのだから。


(もしかしたら、思ったよりも……半年くらいは、平和かもしれないわね)


 この半年の間が勝負だ。なるべく学院内で味方を作り、単位をかき集める。王家から目を背けるための戦いが始まったのだ。


◆◇◆


 取れるだけの授業をカリキュラムに入れた。もうこの半年はとにかく最後の一年を楽して過ごすための準備を整える。倫理経済学歴史語学――入れられるだけ入れて、そうしてはたと気づく。確か、この学院には自由研究科目という授業があったはずだ。取る生徒は滅多にいないが、この自由研究科目でも単位を得ることができる。

 研究内容を計画書に示し、担当してくれる教諭の認可を経て申請すると、半年間の時間を使って研究を行ない、それを担当教諭に審査して貰う。それによって単位を余分に得られる制度だ。

 私は思わず教諭のリストを引っ張り出して、指先でその人物を追った。心臓がどくどくと跳ねる。急いで所在を確認して、私はその方の元へと向かおうとした。

 その時だった。


「あら。誰かと思えば、負け犬のミシェル様じゃない」


 そんな悪意に満ち溢れた声を聞いて、私は足を止めた。そこに立っていたのはレティシア嬢である。彼女は下品な笑いを口元に浮かべて、今日も元気に改造制服を着ていらっしゃる。内心悪態をつきたいのを我慢して、貞淑にそっと瞳を伏せると、口を開いた。


「メフィスト子爵令嬢、ご機嫌麗しゅう。申し訳ございませんが、あなたに気安く名を呼ばれる筋合いはありませんわ」

「え~? 何かしら、負け犬の遠吠えなんて聞こえな~い」


 いちいち癇に障る女だ、と思う。これに熱を上げている男たちの気が知れない。そう思いながら、私はすっと息を吐き出すと、冷たい視線を向けて告げた。


「ええ、どうぞご自由に。あなたに勝って自慢できるようなことなんて、何一つありませんから」


 そう告げれば、流石のレティシア嬢もカチンときたのか、むっと顔を赤らめて、舌打ちを漏らしてその場から立ち去っていった。何に対しての勝ち負けなのか一ミリも理解できなかったが、子爵令嬢である彼女に勝って誇れることが一つもないのは事実だろう、と思う。

 私は彼女の態度に息を吐き出しながら、音楽室へと向かった。すると、彼はそこで楽しそうにピアノを弾いていた。

 流れる栗色の髪を後ろで一つにまとめ、眼鏡が似合う理知的な顔立ちの若い教諭。学生時代は隣国で芸事を窮め、国に戻ってからも音楽の第一人者として広く知れ渡る演奏家。

 モーリス・トゥアン子爵は、今はこの学院で教鞭を取っている。私が静かにドアを開ければ、彼は体を倒しながら、私の姿を確認した。


「おや。サファージ侯爵令嬢。ご機嫌麗しゅう、どうなさいました?」


 歌うようなテノールの声が、耳障りよく響く。私は一礼をして歩み寄って、そうしてそっと微笑みを浮かべた。


「トゥアン先生。お忙しいところ失礼いたします」

「構いませんよ。ピアノを弾いていただけですから」

「ありがとうございます。実は私、前期で自由研究課題を取ろうと考えているのですが、その担当をお願いできないかと思いまして」

「おや、それは光栄ですね。ですが私は見ての通りの音楽教諭。音楽以外何もできない人間ですが、よろしいのですか?」


 トゥアン先生の物言いに、私は少しだけ頬を緩める。貴族の子女の嗜みとして、音楽はかなり優先度が低めの娯楽である。マナーとして求められる社交ダンスや、刺繍、詩の制作やテーブルデザインなどが高位貴族の女子の趣味である。音楽は専ら「見る」「聞く」方に寄りがちで、嗜みとして楽器を一つ弾けるくらいの令嬢は多いだろうが、趣味として音楽を嗜んでいる令嬢は多くはないだろう。

 けれど私は歌や楽器演奏、そして社交以外のダンスといった音楽にまつわるものが大好きだった。王妃教育のために封印していたけれど、もう遠慮する必要はないのだ。


「はい。私、音楽が大好きなのです。ですからぜひ、トゥアン先生に教えていただけないかと思っておりまして。ここだけの話、私はトゥアン先生のファンなんですの」

「たいへん光栄です。そうですか、サファージ侯爵令嬢は音楽がお好きだったんですね。分かりました。私でよければ、担当教諭をお引き受けいたします」

「ありがとうございます!」

「では、研究計画書が出来上がったら私に見せてください。確認して、受領印を押しますので」


 こうして、私は国一番の音楽家に、半年ではあるが師事することが決まった。忙しない日々の中で、レティシア嬢にはちょくちょくちょっかいを掛けられるものの、カリキュラムを詰め過ぎた私の前に、横やりは入らなかった。

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