17. 舞台へと上がる準備を
とある日の昼下がり。トゥアン先生の夫妻が屋敷を訪れられたので、お迎えする。
今日も相変わらず見目麗しい夫妻は、仲睦まじくしている。私はそっと微笑んで、礼を取った。
「トゥアン先生、メアリ様。いらっしゃいませ」
「お迎えいただき、ありがとうございます、ミシェル様。お戻りになったとお聞きして、ご挨拶をと思い馳せ参じました」
「ミシェル様、ご婚約本当におめでとうございます。私も、自分の事のように嬉しゅうございます」
「ありがとうございます。どうぞ、お茶を用意しておりますので、こちらへ」
半年間、屋敷へと通ってくださったトゥアン夫妻とは、もう知己の仲だ。使用人たちは夫妻の好みの茶葉や菓子を把握しているし、歓待は滞りない。それはもう、家ぐるみでの付き合いができているということだ。
メアリ様は、大きくなったお腹をそっと撫でる。第二子の出産が近づいているとのこと。
「メアリ様、体調はいかがですか?」
「うふふ、とても良好です。まだ息子も手がかかりますから、きっとこの子が生まれたらもっと大変になるのでしょうけれど、にぎやかになるのが楽しみですわ」
「それは良かったです。うふふ、元気に生まれてきてくださいね」
母となるのは、どのような気持ちなのだろう。そう思いながら、アルフィノ様のことを想って、少しだけ頬が熱くなる。
メアリ様とトゥアン先生の間に生まれたご子息は、今年で4歳になる。一度だけ会わせていただいたけれど、私のドレスの裾をぎゅっと掴んで離れなかった、とてもかわいらしい子だった。メアリ様はとても優しい方だから、たっぷり愛されて育っているのね、と微笑ましくなる。
トゥアン夫妻、そして私は音楽を愛する者。言葉など不要で、音楽を奏でればすべてが通じる。私がピアノを、先生がヴァイオリンを、メアリ様がフルートを構えて、演奏を楽しんだ。
ティナという同士を得てからというもの、合奏がより楽しくなり、向こうへ着いてからも、音楽から離れることはなかった。こうして王都にいても、共に音楽を奏でてくださる友人を得ることができたのは、私にとってとても幸運だ。
「また、ミシェル様の音はより伸びがよくなりましたね。自由で素晴らしい音です。心のつっかえがなくなったような、そんな感じです」
「ありがとうございます、トゥアン先生。婚約者のお陰で、この数か月、とても穏やかな場所で休養を取ることが出来ましたから。随分とすっきりしたと思います」
「それは何よりです。……ミシェル様」
「はい?」
ふと、トゥアン先生が少しだけ心配そうな瞳を向けて、何事かを言いかける。しかしそれを飲み込むと、ゆっくりと微笑んで、告げた。
「あなたがこの数か月、学院にいなかったことは、学校側で証明できますからね。妙な噂に、心を痛めることがありませんよう」
「……? はい……」
噂。なんだろうか、とも思うけれど、誰も口にしないと言うことは、相手にするまでもないほど稚拙なものなのだろう。けれど、私はトゥアン夫妻を見送った後で、それが少しだけ心に引っかかり続けていた。
◆◇◆
アルフィノ様の治めるイズラディア公爵領のルーセン地方から帰ってきて、およそ一か月弱。まだ父とアルフィノ様とじっくりと話せる場は持ててはいないが、アルフィノ様は二度ほど侯爵邸を訪れて、私と言葉を交わして帰って行かれた。
穏やかな王都の街並み。けれどこの平穏さは、国を支える貴族たちによって保たれている。アルフィノ様も、その一人。
彼への懸想が募り、今日も、今彼が何をしているのか、と考える日々が続いた。
とある日の昼下がり、私は学友たちを招き、家でごく小さな茶会を催していた。呼んだのは、第二王子殿下の誕生日パーティーで同じテーブルを囲んだ、いつもの仲の良い令嬢たち。そして、それに加えてラトニー様である。
このテーブルの全員の共通点としては、レティシア嬢に割を食わされた者たち。彼女たちの婚約者は一様にレティシア嬢の毒牙にかかっており、婚約者との関係が悪化した者たちである。ラトニー様は、ガブリエル殿下が誠実な方のようなので、まだ未遂だが。レティシア嬢に良くない感情を抱いているのは確かで、そう言ったことを相談できる人間がいないそうなので、この場へと呼んだ。
夏の爽やかな気候の中、中庭で催された茶会で、影に設置されたテーブルを囲み、私たちは和やかにお茶を楽しんでいた。
「では、セラフィーナ様の所もそうですの?」
「ええ。ドロワープ侯爵も、準備を進めてくださっているそうなのです。もうお冠ですわ!」
「私の所もなのです。もう、呆れてしまいました」
けれどこの令嬢たちが顔を合わせれば、自然と話題はそちらへと流れていく。レティシア嬢は相変わらず、マーゼリック殿下の寵愛を受けられなくなってもなお、元側近の三名にちやほやされて女王気取りだ。格上の家の令嬢に嫌味を言って、それを言い返そうとすれば、伯爵家侯爵家の嫡男や、公爵家の三男がにらみを利かせる。
彼らはもうすでに家から冷めきった目で見られているにもかかわらず、それを外に出そうとしないので、学院内で彼らに楯突ける人間もそう多くはない。類は友と呼ぶとでもいうのか、それともレティシア嬢に誘惑された人間は、貴族としての考え方を失うのか。
けれどどうやら、各家の当主はそれらを見限り始めたようだ。次男に爵位や資産を譲る準備を始めているのだという。各家の次男たちにはまだ婚約者がいないだろうし、婚約者もそのうちに挿げ替えられるだろう。
「けれど、どうせなら、ねぇ?」
「そうですわ、そうですわ。わたくし、お姉さまを見習って、きっちりと引導を渡して差し上げるべきだと思いますの!」
「へ?」
突然話を振られて、私は驚いて変な声が出てしまう。彼女たちは気づかわし気に私を見る。私が首を傾げていると、セラフィーナ様が、そっと私の手を取った。
「わたくし、もう耐えられません。あろうことか、もはや王家と何の関係もなくなったお姉さまを侮辱し続けるなんて……絶対に許せないのです」
「あの……なんの話でしょうか」
そう尋ねれば、彼女たちは顔を見合わせた後で、頷きあった。そうして、彼女たちは丁寧に言葉を選びながら、私にその事実を伝えてくれた。
「今、学院内では、ミシェル様がレティシア嬢や下級生に、陰湿な嫌がらせをしているという噂が流れているのです」
「……は?」
私は、思わず声を漏らしてしまった。慌てて口を押えて、小さく首を横に振る。
この数か月、私はアルフィノ様の元にいたのだ。学院には一度も行っていないのに、どうやって嫌がらせをするのだろうか。まさかとは思うが、彼女は私が学院にいないことを知らないの?
一体どうして――そう思っていると、彼女たちが、私の後ろを見つめて、きゃっと騒いだ。私が後ろを振り向けば、そこには侍女に連れられている、あの人の姿があった。
「アルフィノ様」
「申し訳ありません。お邪魔でしたか? 少し時間ができたので、お邪魔したのですが、お茶の途中でしたか」
アルフィノ様は、優しく微笑んだ。私が顔を赤くしていると、セラフィーナ様が丁寧に立ち上がり、淑女の礼を取った。
「もしや、お姉さま……ミシェル様のご婚約者の、フレイザード伯爵でしょうか」
「はい。お初にお目にかかります、セラフィーナ殿下。フレイザード伯爵、アルフィノと申します」
彼がそう告げて恭しく紳士の礼を取れば、黄色い声が上がる。きっと彼女たちには、この青年が、天使の如き美少年に映っているだろう。
「お姉さまとフレイザード伯爵がよろしいのであれば、是非ご一緒しませんか?」
「そうですわ、そうですわ! ぜひ、お話をお聞きしたいもの」
「アルフィノ様……よろしければ、彼女たちと一緒に、お茶をしませんか」
「よろしいのですか。では、お言葉に甘えて」
せっかく来ていただいたのに、お帰りいただくのは忍びない。彼女たちの厚意に甘え、茶会の席に彼を追加する。
友人たちは皆、彼を見て蕩けたような視線を送っている。彼女たちの気持ちは、痛いほどに分かる。
アルフィノ様は見目麗しい美少年だ。白いふわふわの髪、青と緑の類まれなる虹彩異色。見た目は14歳ほどの幼い美少年であるので、言葉を憚らずに言うのならば令嬢たちにとっては「目の保養」だ。恋愛対象にできないほどの愛らしい美少年は、婚約者がいる少女たちが憧憬を抱く偶像としてこの上ない適性がある。彼が髪を揺らし、微笑むたびに、誰かが息を飲む気配がする。
不穏な話は、彼の登場によって上書きされ、いつの間にか話題は彼の話へと移っていった。
友人たちは、第一王子から婚約破棄を叩きつけられた私のことを気遣ってくれていたので、まるで母のように、目の前の青年のことをじっくりと観察していたようだ。けれど、隣に座って微笑まれたアルフィノ様は、それを全て丁寧に返す。
「ミシェル様はぼくにはもったいないような素敵な女性ですね。ぼくを選んでいただいた栄誉を、噛みしめながら送る日々です」
「まぁ。ミシェル様は本当に優秀な方なのです。ちゃんと評価してくださる方と婚約を結びなおせて、私たちもほっとしておりますわ」
「もう。皆さんは私のお母様なのかしら。ふふっ。心配は無用です。アルフィノ様には、本当に大切にしていただいておりますわ」
「ありがとうございます。仕事で空けることも多い中、ぼくを信じて、愛してくれるミシェル様のことを、お慕い申し上げております」
大胆な愛の告白に、黄色い声が上がる。私がりんごのように顔を赤くしているのを見て、ラトニー様はほっとしたように微笑んでいらっしゃった。
「本当にお似合いですわ。ミシェル様、フレイザード伯爵。ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます、皆さん」
「ありがとうございます。……彼女に根も葉もない悪評を、悪意を持って流している者がいる中、こうして彼女のことを大切に想い、寄り添ってくれる友人がいることに、安心いたしました。どうぞ、これからもぼくの手が届かない場所で、彼女の力になっていただきたい、と願わずにはいられません」
アルフィノ様の言葉に、私は頷いた。すると、彼女たちは一様に顔色を暗くした。
「あの、ミシェル様。先ほどのお話の、続きなのですが」
私は、そっと胸に手を当てる。私がいない学院で、私が下級生へのいじめを行なっているという噂話だ。もちろん心当たりはないので、レティシア嬢の捏造だろう。呆れ果てるとともに、そろそろお灸を据えなければという気持ちにもなってきた。
本音を言えば、私だってこのまま引き下がるのは気性に合わない。貴族社会を食い荒らし、高位貴族の子息をミツバチのように扱う女王蜂を駆除してやりたい。マーゼリック殿下に手を出し始めた頃はよく吠えるだけの子犬だったのに、随分と立場が膨張したようだ。
彼女に直接引導を渡せたならどんなに面白いことか。そんなことを考えたのは、一度や二度ではないし、アルフィノ様に愚痴ってしまったことさえある。大変申し訳ないことをした。そうして自己嫌悪に陥りかけていると、セラフィーナ様の神妙な声で現実に戻される。
「二週間後、学院で創立記念パーティーがありますでしょう?」
セラフィーナ様の言葉に、私は頷いた。学院には、創立記念パーティーというものがある。生徒なら誰でも参加できる、参加自由の社交パーティーである。
「お姉さま、参加しませんか」
「私が、ですか?」
「はい。この半年間、お姉さまが学院に不在だったことは、学院側が証明してくださいます。お姉さまがそれを丁寧に申し開きをすれば、その噂がなんの事実もない、悪意を持って流された噂だと皆さん思い知るでしょうから」
私は、思い悩む。確かに、これ以上悪意の増長を許せば、レティシア嬢はどんどん調子に乗るだろう。そうなれば、ガブリエル殿下やラトニー様にも被害が及ぶかもしれない。
ラトニー様が、俯きながら口を開いた。
「……私の学年で、何人もミシェル様にいじめられたと証言している者がいます。ですから、ミシェル様が半年間学院に一度も顔を出されていないことに、驚いて。もうこれ以上、噂を放置してはならないと思います。ミシェル様の名誉のためにも」
「皆さん……」
婚約破棄されて以来、社交界から逃げて来た。逃げてもいいのだと、兄や父、母、そしてアルフィノ様が言ってくださった。
けれど、私が仕留め損ねた悪意が膨張し、ほかの人間を侵し始めている。国ではなく自分の利益だけを考える、貴族の風上にも置けぬ者らに。
ふと、視線を感じて、そちらを向いた。すると、そこにはアルフィノ様が穏やかな顔をして、私を見つめていた。私はそれに勇気を貰うようにして、大きく頷いた。
「……分かりました。レティシア嬢の横暴を許したのも、私が王子殿下と差し違えることに必死で、彼女まで手が届かなかったせいですもの。私の不始末です」
私はそっと胸に手を当てて、瞳に闘気を宿し、強く言い放った。
「サファージ侯爵家に楯突いたことを、後悔させて差し上げます」
まるで悪役のようなセリフ。けれど、私にはその責務がある。これ以上、マナーも礼節もない子爵家の令嬢に、社交界と貴族社会を踏み荒らされるわけにはいかないのだ。
だったら悪役上等。悲劇のヒロイン気取りの小娘の足を、精いっぱい引っ張らせて貰おう。そう思ったのだ。