16. 帰郷
マーゼリック殿下の襲来騒動から数日後、実家から届いた手紙には、父のたっぷりの呆れと、少しの賞賛が書き連ねられていた。要約すれば「何をバカなことを言っているんだ。だが、お前のやりたいことは分かった」だ。王子の婚約者に戻るくらいなら、家から絶縁されて、後ろ盾を全て捨てることでマーゼリック殿下へ反撃をしようと企てたのだ。
実際には、アルフィノ様の毅然とした態度と、イズラディア公爵、そしてお父様の丁寧な根回しによってそんな問題もなく、第一王子マーゼリック殿下、及び正妃デナートの立場は悪くなった。
領主会議から数日後、早馬でフレイザード伯爵家を訪れたイズラディア公爵は、肩を竦めながら呆れたように吐き出した。
「此度の王命は、陛下はほとんど関わっておらなんだ。正妃には王命の権限があるとはいえ、此度の越権行為はやりすぎだ。そりゃ、政務もろくにしないお飾りの正妃状態なのに、権力だけ振りかざしたって、誰も納得しないよなぁ」
イズラディア公爵は、私とアルフィノ様を見やりながら、そんなことを呟いた。どうやら、此度の再婚約騒動の黒幕は、正妃デナート様であったらしい。彼女は何としてもマーゼリック殿下を王太子にと望んだが、マーゼリック殿下の目に余る行動に多くの者が彼を王太子に推すのを止めた。これを覆すためには、もはやサファージ侯爵の機嫌を取り、後ろ盾となって貰うしかなかった。
それを何を勘違いしたのか、王命で強引に後ろ盾にしようとしたのだ。父の信頼を回復していない第一王子派が、父の庇護など受けられるはずもないのに。
「というわけで、ここから一気に攻め込むぞ。アルフィノ、仕事手伝ってくれる?」
「はい」
「……お前なぁ。仕事真面目なのはいいけど、奥さん大事にしろよ? 放ったらかしてない? おじさんちょっと心配だよ?」
「まだ婚約です、イズラディア公爵。もちろん、ミシェル様には申し訳ないと思っています。しかし、私が落ち着くためにはガブリエル殿下の立太子を叶えねばなりませんから」
「私も、アルフィノ様のお仕事を応援していますから。いい子で、待ってますわ」
「ひゅう。ほんと、いい子捕まえたなぁアルフィノ。こんないい嫁さんもう見つからないぞ? ちゃんと捕まえとけよ」
「噛みしめています」
「じゃ、資料はいつも通りに送るから。よろしくな」
イズラディア公爵はそう告げると、颯爽と帰っていった。
◆◇◆
アルフィノ様に話があると呼び出され、執務室へ向かう。彼は手紙を書いていたらしく、私が部屋に入ると、手を止めた。
「呼び立てて申し訳ありません。実は、仕事で王都に向かうことになりました」
「王都に?」
「期間はおよそ二ヶ月。建国王の生誕祭の夜会の日まで、ですね」
「もうそんな時期でしたか」
建国王の生誕祭パーティーは、社交シーズンを締めくくる大きな夜会で、国中の主要貴族が集まる、王家主催のパーティーである。父も兄も、この時期になると挨拶回りに忙しくしている。
「ですので、もしよろしければ、君も侯爵邸に帰ってはいかがでしょうか」
「確かに、アルフィノ様がお仕事で王都に行かれるのなら、そうしたほうが良さそうですね。こちらの領地の様子はだいたい分かりましたし、学院もちょうど夏季休暇の最中ですから」
「はい。最近色々あって、ご家族も心配していらっしゃるでしょうし、顔を見せて差し上げるとよろしいかと。婚姻の時期等も、侯爵と相談したいですね」
「は、はい。そうですね……では、支度をして参ります。出立はいつになりますか?」
「急になりますが、明後日の朝になります。もしも難しそうなら、後からしっかりと護衛を付けて送らせますが」
「間に合うように準備いたします!」
こうして、突然ではあるが、私は王都へと一時帰ることとなった。レーラに荷物をまとめる旨を伝えて、帰郷の準備をする。アルフィノ様から、置いて行ける荷物は屋敷に置いて行って構わないと言われたので、それに従って、適度に荷造りを済ませ、予定通りの日取りの朝に荷物を馬車へと積みこんで、アルフィノ様と共にイズラディア公爵領を発った。
「アルフィノ様は、王都ではどちらに滞在されるのですか?」
「仕事の関係で、様々な拠点を回る予定ですが、時間が空けば、侯爵邸にもお邪魔させていただく予定です」
「そうですか!」
「少し会えない日々が続くかと思いますが、重要な時期ですので、どうかご容赦ください。なるべく、時間を作って会いに行くので」
「はい。もちろん仕事優先で、あまりご無理はなされませんよう。いつでも、お待ちしておりますわ」
彼は仕事の内容を教えてはくれないが、恐らく鴉の任務だろう。聞かないほうが良いのは明らかであるし、彼に迷惑はかけられない。せっかくだから、学友や家族とちゃんと過ごす時間にさせて貰おうと思う。
馬車を走らせて、五日。王都へと到着して、私は侯爵邸へと送られた。アルフィノ様にエスコートしていただき、侯爵邸へと帰ると、使用人たちと母が出迎えてくれた。私は母の胸にそっと飛び込んだ。
「ミシェル、お帰りなさい。少し肌が焼けたわね」
「ただいま戻りました、お母様。うふふ、見渡す限り緑の美しい草原ですから、ついはしゃいでしまうのです。青空と太陽が恋しいですわ」
「うふふ、そうなの。フレイザード伯爵、娘をもてなしてくださって、本当にありがとうございます」
「いえ。ミシェル様の明るさで、使用人たちも活気づきました。こちらこそ、ご訪問ありがとうございました」
アルフィノ様は丁寧に紳士の礼を取る。そうして、そっと穏やかな笑みを浮かべて、告げる。
「では、ミシェル様。また侯爵がいらっしゃるときに、改めてご挨拶に参ります」
「はい。お待ちしておりますわ」
「それでは、失礼いたします」
優雅に一礼をして、アルフィノ様は侯爵邸を後にされた。アルフィノ様のお仕事がうまく行きますようにとそう祈って、私は彼を送り出した。
母には、フレイザード家とルーセンの街であった色々な思い出を話した。母は喜んで聞いてくださった。話し出すと止まらなくて、兄がぐったりとして帰ってくるまで、ずっと母と旅の話をしていた。
久しぶりの我が家は、やはり良い。フレイザード家ももちろん良いけれど、生まれ育ったこの家は、やっぱり私にとって特別なのだ。
父に書斎へと呼び出されて、私はそちらへ向かった。父は座りなさいと言って、ソファへと私を座らせると、ぽつりと漏らした。
「どうだ、フレイザード伯爵は。うまくやっていけそうか」
「はい。穏やかで、優しくて、紳士的で。あんなに素敵な人、今までに出会ったことがないのです。生涯お支えしたいと、心からそう思います」
「穏やかで、優しくて、紳士的……はは、そうか」
父の様子に私は首を傾げたけれど、やはり鴉としてのアルフィノ様は印象が違うものだろうか。確かに、アルフィノ様は一度仕事の顔をされると、冷徹で、狡猾で、獰猛な一面も見せる。けれどそれは、私の前では決して見せようとしない、彼なりの「隠し事」である。
そういえば、と思って、父に聞いてみることにした。
「お父様は、どこでアルフィノ様とお知り合いになられたのですか? アルフィノ様は、以前からお父様のことを知っているような口ぶりでしたが」
「仕事の付き合いで、少々な。一時的に私の秘書をやっていたこともあった。私も、フレイザード伯爵から縁談があって初めて、その事実を知ったのだが」
「そうだったのですね……お父様。マーゼリック殿下の件は、もう心配しなくてもよろしいですか?」
「……ああ。お前には酷だっただろう。まったく、ろくでもないな。お前を絶縁する気はないが、絶縁したいと言ったお前の気持ちも分かる」
父にそう言われて、私は苦笑する。ここまではっきりと拒否したのだから、もう二度とこの話題は掘り返さないで欲しい。むしろ二回目が存在したことが驚きの一件だ。
「私も此度の件で、しかと表明することができた。我らサファージ侯爵家は、はっきりと第二王子殿下を推挙することとなった」
「まぁ……良かったです。第二王子殿下は、お父様から見て問題のない人物ですか?」
「兄があれだからな。比べるとどうしてもよく見えてしまうが、婚約者との関係も良好だ。ただ、マーゼリック殿下に相手にされなくなったあの小娘が、ガブリエル殿下に言い寄っているという報告を受けている」
「えぇ……また、ですか」
私は呆れ果てて、大きくため息を吐いた。レティシア嬢が、どうやら立太子にあたってまったくマーゼリック殿下の役に立てないことから、マーゼリック殿下はレティシア嬢と会う時間をほとんど取らなくなったらしい。本当に、何であんな真似をしたんだろう、と切に思う。
マーゼリック殿下が私を嫌う理由には心当たりがある。私があまりにも彼の思い通りにならないからだろう。口ごたえはするし、諫言は申し上げるし、彼にとっては鬱陶しいことこの上なかったのだろう。だからこそ、従順で自分を立ててくれるレティシア嬢に惹かれて、私を陥れた。もしくは、私を婚約者から外すためにレティシア嬢を都合よく利用しただけかもしれない。
けれどそんなマーゼリック殿下は、今婚約破棄によって王籍から排除されるギリギリのところにいて、レティシア嬢は結局王太子妃になることが叶わず、今度は王太子の目がある弟に言い寄っている。本当に懲りない人たちだ。
「ガブリエル殿下は心配ないと報告が届いているが、婚約者のラトニー・セインズ侯爵令嬢がたいそうご立腹で、セインズ侯爵はあの小娘の生家を目の敵にし始めた。もはやメフィスト子爵家がつぶれるのも時間の問題だろうな。私は些事だと相手にしなかったが、子爵家如きが、侯爵家に楯突けばすぐにつぶれるぞ」
「私にちょっかいを掛けて無事でいるので、舐めているのかもしれませんね。見逃されているだけなのに」
残念ながら、貴族社会は残酷だ。出る杭は打たれるし、身の程を知らない人間はすぐに自重させられる。それがこの縦社会の摂理である。理不尽だと思うなら成り上るしかないし、それをできる人は一握りしかいない。
「……まぁ、そんなところだ。心配せずとも、ガブリエル殿下が立太子されるのも時間の問題だろうし、そうなればマーゼリック殿下は恐らく王籍から抜かれ、一代限りの爵位と領地を与えられて放逐されるだろう。あれにはスペアの役割も果たせん。もしガブリエル殿下が戴冠後、何かしらの理由で崩御されたとしても、次に立てられるのは遠縁の王家の血を継ぐ者らだろうな。フレイザード伯爵も、その一人だが」
「……!」
今の王室には、男子はマーゼリック殿下とガブリエル殿下の二人しかいない。もしもこの二人が共に国王となれないのならば、アルフィノ様が担ぎ上げられる可能性もあるのだと理解する。イズラディア公爵のあの信頼の寄せ方からして、もしもガブリエル殿下が戴冠後、崩御されるようなことがあれば、アルフィノ様が国王に召し上げられる可能性もゼロではない。
本当に、奇跡のような生まれの人なのだと、実感する。
「お前は今は難しいことは考えず、フレイザード伯爵の所へ嫁に入る準備だけしていなさい。国を混乱させずに王太子を立てるために、今多くの人間が動いている」
「はい、お父様」
考えたところで、なるようにしかならない。彼も今、私と生きる未来のために、国のために頑張っているのだ。信じて、待とう。そう心に決めた。
王太子の任命は、16歳から行なうことができるというのが、国法で定められている。実際に、マーゼリック殿下も、16歳となった二ヶ月に予定を入れられていた。それが、例の糾弾パーティーの一か月後だったわけだ。
確か、ガブリエル殿下のお誕生日はほんの一週間後くらいだったはずだ。そこで彼は16歳になる。なるべく早めに、国が安定することを祈っていた。
◆◇◆
一週間後、私が帰ってきたことを聞きつけたのか、セラフィーナ様からお手紙が届いた。弟の誕生日に、ささやかな茶会を、王城の庭で行なうことになったので、良ければ来ないかという誘いである。どうやら、学院で私と仲が良かった――つまり、セラフィーナ様と仲が良かった友人も呼んであり、久しぶりに皆で茶会をしたいのだとか。その口実に、弟の誕生日を利用するというのだから、セラフィーナ様はしたたかだ。
第二王子の茶会なら、変な人間はいないだろう。私は了承の返事をセラフィーナ様に送って、とても久しぶりに社交の場に出ることになった。とはいえ、招待客のみの内々での小さな茶会なので、それほど緊張はしなかった。ガブリエル殿下とも、ほとんど姉弟のような関係に近かったので、特に気負わなかった。
マーゼリック殿下と違い、ガブリエル殿下は良い子、という印象だった。手のかからない、賢く、物静かで、人の気持ちをちゃんと汲む。こう並べると、頼むからマーゼリック殿下ではなくガブリエル殿下に王位についてほしいと願うのは仕方のないことだと思う。
ライトパープルのドレスを着て、王城へとつけば、セラフィーナ様がお迎えに来てくださった。母に言われたのと同じように「少し焼けましたか?」と聞かれて、私は笑顔で返す。セラフィーナ様は相変わらず天真爛漫に私を慕ってくださる。彼女が私に一切の害意を持っていないのが、私にとってこの数年間救いであった。
茶会の会場――城の中庭へと着くと、わっと同級生たちが寄ってくる。そうして、手を引かれてテーブルへと着くと、ガブリエル殿下が大きく挨拶をした。
赤の混じる銀の髪に、金色の瞳。白い肌を引き立てる、黒を基調としたジャケットが、すらりとした体躯にぴったりと合う。温和な雰囲気を醸し出した立ち姿は、見ていてほっとするものだ。王家の証を引っ提げた容姿を丁寧に飾り立て、彼は見事に茶会を仕切ってみせる。彼が各テーブルを訪問する間、歓談を許されて、私たちは再会を喜び合った。
「ミシェル様、お聞きしましたわよ。地方貴族の方とのご婚約が決まったとか。学院は卒業が確定しているので、今はそちらの領地にいらしたんですよね?」
「ええ、そうなんです。18歳で爵位を襲名して、イズラディア公爵に任された業務を滞りなく全うされている秀才なのです」
「素敵ですわ! 地方貴族だからと下に見る輩も多い中で、やはりサファージ侯爵は慧眼をお持ちなのね。そんなに良縁を持って来てくださるなんて、ミシェル様にとっては大変喜ばしいことだったのでしょう」
「ねぇ、どんなお方ですの? 年上なのですよね」
「それが、見た目は本当に、天使のような美少年なんです。どう見ても年下にしか見えないの。けれど、中身はとても素敵な紳士なのです。魔法血統の影響で、身体の成長が少し遅いと仰っていたわ」
「きゃっ。そうなのですね! ミシェル様が、こんなにも熱心に殿方について語っているところを見たことがありませんわ。懸想されているのですね」
友人に彼のことを話すと、少しだけ気恥ずかしい気持ちになる。けれど、私が彼に懸想しているのは事実だ。少し俯き気味に頷けば、黄色い声が乱れ飛ぶ。
そんな声に惹かれるようにして、彼はやって来た。後ろに二人の側近や従者やらを連れて。
「皆さん、本日はお茶会にご来場くださり、まことにありがとうございます。お楽しみいただけていますか」
ガブリエル殿下は、とても美しい王子様スマイルを携えて、私たちのテーブルへと挨拶回りに訪れた。また、友人の令嬢たちからきゃぁっという黄色い声が上がる。
「このテーブルは、姉上のご学友の皆さまですか?」
「そうです、ガブリエル。わたくしの大切なクラスメートの皆さまですわ! せっかくですからお呼びしたの。皆、あなたのお誕生日を祝ってくださいますわ」
セラフィーナ様からそんな言葉が出ると、私たちは口々に誕生日を祝う旨をお伝え申し上げる。すると、ガブリエル殿下は少しだけ照れ臭そうに微笑んで「ありがとうございます」と小声で告げた。私はガブリエル殿下と目が合うと、そっと礼を取られる。
「サファージ侯爵令嬢ミシェル様。此度は、兄が色々とご迷惑をお掛けしたようで、申し訳なかったと思います」
「いいえ。ガブリエル殿下が謝られることではございませんわ。どうぞ、胸をお張りくださいませ」
「ありがとうございます。あなたを義姉に迎えられないことは残念でしたが、どうか今後も姉上のことをよろしくお願いいたします」
「ま! ガブリエルったら、生意気ですわ! あなたに言われなくても、わたくしはお姉さまのことをお慕い申しておりますもの!」
そう告げて、セラフィーナ様は私にそっと体を寄せる。ぷう、と頬を膨らませる彼女がとてもかわいらしい。
そうしていると、ふと私は、ガブリエル殿下の後ろに控える侍従の方と目が合った。黒い髪を後ろで一つにまとめた、眼鏡を掛けた緑の瞳の幼い少年だ。若干不機嫌そうに見えるというか、無表情だ。けれど、その顔立ちには既視感があって――。
顔に出してしまうのを堪えると、彼に静かに礼を受けたので、返しておく。
「では皆さん、楽しんでください。失礼いたします」
ガブリエル殿下が優雅に一礼をすると、そのまま次のテーブルへと向かっていった。幼い容姿の従者の彼も、そのあとを続いていく。
私はそれを見送って、少しだけ考え込んだ。
(……なるほど。あなたの新しい仕事は、ガブリエル殿下の側近――いえ、護衛かしら)
おそらく、あの第二王子の従者の彼は、アルフィノ様で間違いない。鴉の棟梁である彼自ら、第二王子殿下の護衛につく必要があるほどのことが起きているのだと、理解する。
「あら……ラトニー様だわ。今日も素敵ね」
「お似合いですわ……本当に、素敵なカップルですわね」
遠くで、かわいらしいプラチナブロンドのウェーブ髪の少女と、笑い合うガブリエル殿下の姿が見えた。二人の姿を見ていると、冷めきっていた私とマーゼリック殿下の姿が思い起こされる。
きっと私とマーゼリック殿下があんなふうになっていたら、皆今頃、安心して日々を過ごせていたのだろうな。
そんなことを考えつつも、私とマーゼリック殿下の性格では、きっと100回同じ人生をやり直したとしても、そんなことは起こりえないと結論付けて、私は首を横に振ったのだった。
和やかに同級生の皆との茶会に興じていると、ふと私へと話しかけてくる方がいた。
「サ、サファージ侯爵令嬢ミシェル様。少し、よろしいかしら」
私がそちらへ振り向けば、そこには愛らしいウェーブ髪の彼女。ガブリエル殿下の婚約者である、ラトニー様がいらっしゃった。私は少しだけどぎまぎしてしまうけれど、何となく彼女の表情が切実だったので、頷いた。ラトニー様は、空いたテーブルの方へと私を連れて行くと、共に椅子へと腰を下ろした。
そうして、しばらく切り出し方を迷った後で、口を開いた。
「あの……サファージ様がガブリエル殿下の婚約者を望んでいるという噂は」
「いえ。ないです。これっぽっちも。そんな気は一ミリも。お願いですから、もう王家のいざこざに私を巻き込まないでという気持ちしかありません」
何のためらいもなくきっぱりと否定すれば、ラトニー様は真紅の瞳を真ん丸にして、かぁっと顔を赤くした。大変かわいらしく、純粋な方だと思う。ここまで表情が出てしまうと、少し王妃教育は苦労していそうだけれど。
「た、大変申し訳ございません。不快にさせたのなら謝ります」
「いえ。構いませんわ。誤解が解けたのなら何よりですから」
「申し訳ございません……今、ガブリエル殿下周りの女性関係に、少し敏感になっておりまして。もう頭が痛くて仕方ないのに、会場の隅にサファージ様のお姿を見つけて、とても気になってしまって」
「ああ……噂だけは聞いたことがあったのですけれど、本当なのね。あの方が、懲りずにまた王侯貴族に近づいているというのは」
そう告げれば、ラトニー様はびくっと肩を揺らして、ぷるぷると扇子を握る手に力を込めていた。
これは、相当にお冠だ。ガブリエル殿下ならきっとうまくあしらってくれていると思うが、あの娘は曲解の天才だし、図太さだけは一級品だ。転ばせても起き上がって報復してくるような娘なので、あれを押さえるにはまず子爵から抑えるしかない。
「心中お察しいたします」
「ありがとうございます……サファージ様も、こんな気持ちだったのですね」
「ミシェルで結構ですわ。私はマーゼリック殿下に恋愛感情がなかったので、どこか遠い目で見つめておりましたけれど、言葉が通じませんので諫言もできませんものね。同情いたしますわ」
「では、私もぜひラトニーと。良かった……私が狭量なわけではないのですね。これは、婚約者として当然の怒りとしてよろしいのね」
「そうですわね。まぁでも、ラトニー様は私と違って、ガブリエル殿下と心が通じ合っているようですし、ガブリエル殿下が彼女に靡かなければ、流石にボロを出すんじゃないかしら。私の不始末で申し訳ないけれど、身の程を教えて差し上げたほうがよろしいかもしれませんわね」
そう告げれば、ラトニー様は目を輝かせた。これは、レティシア嬢被害者の会に、彼女も入れて差し上げる必要がありそうだ、と感じたのだった。