15. 第一王子、襲来
それは、もうすぐ学院が夏季休暇に入ろうかという、とある夏の日の事。
私は家から届いた手紙を見て、ぷるぷると腕を震わせていた。はしたないと思いつつ部屋を飛び出して、アルフィノ様を探して走り回る。すると、厩舎の方にいると聞いて、私は手紙を片手にアルフィノ様を探した。すると、彼は厩舎の前で、厩務員と共に牧草の仕入れの相談をしていたようだった。
「アルフィノ様!」
「はい。ミシェル様……どうしたんですか、そんなに慌てて」
「あの……両親から、手紙が来て」
私は青ざめた顔で、手紙を突き出して、焦ってままならない口で、繕う暇もなく告げる。
「マーゼリック殿下が、私との婚約を戻すようにという王命を伝えるために、この屋敷に向かっていると」
それを聞いた厩務員たちは青ざめていてあたふたし始める。しかし、アルフィノ様はいたって冷静だった。厩務員たちにあとは任せると告げて、私を連れて屋敷の方へと戻った。
「勿論、聞いております。第一王子の動向は掴んでおりますし、先ほど王家から訪問通知書が届きました。明日、到着予定だそうです。第一王子及び、側近二名が明日の昼頃に、こちらの屋敷に訪問されます。こちらの動揺を誘うために、ギリギリまで届かないように細工されていたようですね」
「だ、大丈夫なのでしょうか……王命って」
「お忘れですか、ミシェル様。フレイザード家は国仕貴族です。王命の強制力はなく、あるのはせいぜいが強いお願い程度の効果です。たとえ王命で婚約の解消を申し付けられたとしても、我が家が拒否の姿勢を示せば、罪には問われず、逆に越権行為とみなされて領主会議にかけられます」
「そ、そう、でしたか……」
私は国仕貴族周りの法律を実はあまりよく知らない。彼らは国によって雇われている貴族で、国とは王ではなく民の意志によって形作られるもの。国仕貴族が関わらないものならば、王命で婚約の解消も締結も自在。そんな強い権限なのだから、それに対抗する抜け道が存在しなければ、独裁国家が成立してしまうのだろう。
国仕貴族に関しては、正式に王妃となってから、再度丁寧に教育を受けるということになっていたと思う。それほどに国にとって重要な存在なのだと改めて確認する。貴族の中でも、彼らについてよく知る者はとても少ない。私も、この家に嫁ぐにあたって、まだまだ勉強すべきことが多い。
「此度の話し合いには、イズラディア公爵に立ち合いを求めております。明日の朝、ご到着になります。夕餉の時に伝えようと思っていたのですが」
「イズラディア公爵が?」
「此度の縁談は、イズラディア公爵が間に入ってまとめてくださったものです。彼には立ち合う権利があります」
王家の権力に慄き、焦って思考が落ち着かない私とは裏腹に、アルフィノ様は冷静に、王子にお帰りいただく準備を進めていた。本当に頼もしい婚約者だ、と思って肩の力を抜くと、今度はマーゼリック殿下への強烈な怒りが沸き上がってきた。
あんな形で婚約破棄を叩きつけておいて、王太子になれないからといけしゃあしゃあと婚約を戻されてたまるものか。
それに対する反撃の手段を一つくらい作って、あの時のように差し違えてでも潰す気概を持っておこう。そう思って、私はアルフィノ様に宥められた後、自室に戻って筆を取り、侯爵邸への手紙をしたためて、伝書鳩へと託した。
次の日の朝、イズラディア公爵が到着された。イズラディア公爵は、威厳のある方――ではなく、見た目はとても気の良いおじさまだ。若々しく精力的な見た目をしていて、口調も役者のように軽やかだ。父と同い年くらいなのに、幾分か若く見える。彼は馬車から降りてくると、ひらりと手を振った。
「アルフィノ! 元気にしていたかい?」
「ご無沙汰しております、イズラディア公爵。本日はご足労いただき、ありがとうございます」
「気にすんな。此度の事は、完全にあの我儘王子が悪い。うちとしても、アルフィノの大切な嫁さんを連れて行かせるわけにもいかないし、何よりザイル……サファージ侯爵にどやされちまう。今回は俺はあんまり力になれないかもしれないけど、座って威圧するくらいならできるからな」
「感謝しています」
そう告げて、アルフィノ様は恭しく頭を下げる。続いて、イズラディア公爵は私へとそっと歩み寄ってきて、跪いて手を取った。
「ミシェルちゃん、久しぶりだなぁ。こんなに別嬪さんになって」
「イズラディア公爵、お会いできて光栄ですわ。いつも父がお世話になっております」
「時が経つのは早いもんだなぁ。前に見た時はこんなに小さな女の子だったのに」
そう告げて、イズラディア公爵は、太ももくらいの位置で手を浮かせる。私も、イズラディア公爵にお会いしたのは本当に久しぶりで、幼い頃にはとてもよくかわいがってくださったのを覚えている。
「でもまさか、アルフィノとミシェルちゃんが婚約するなんて、人生って何があるか分からないもんだな」
「イズラディア公爵からすれば、そうかもしれませんね」
「二人とも、うちの甥姪くらいの気持ちだからな。また落ち着いたら、ミシェルちゃん連れてうちに来なさい。妻も喜ぶ」
「はい。ありがとうございます」
イズラディア公爵を客間に通して、歓待をする。アルフィノ様が今日の打ち合わせをする間、私は不安もあったけれど、返す刃も用意したし、あとは迎え撃つだけだ。
ちらりとアルフィノ様を見れば、アルフィノ様はいつも通りだ。王妃教育を受けた私よりも本心や感情を隠すのが上手な方なので。彼は大丈夫なのだろう。
そう思っていると、外から物々しい音が聞こえてきて、いよいよ、始まる。
――第一王子、マーゼリック殿下、襲来。
◆◇◆
話し合いの席に着くのは、フレイザード伯爵家側は、アルフィノ様、イズラディア公爵、私。第一王子側は、マーゼリック殿下、側近のロッツ・ファウスト様にギュンター・モーランド様。レティシア嬢に誑かされて側近の任を解かれた三人――今、学院内では三馬鹿という不名誉な呼び名を戴いているらしい――よりは、かなりまともな人材だと聞く。目の下に刻まれた苦労人の証が痛ましい。
マーゼリック殿下は、相も変わらず冷たいまなざしで私を射貫く。けれど、私はそれで怯んであげられるような気の弱い娘ではない。
挨拶もそこそこに、殿下は本題へと入ると、懐から書類を取り出して、突き付ける。
「フレイザード伯爵。ミシェル・サファージ侯爵令嬢を渡していただく。速やかに婚約を解除し、その身柄を引き渡すこと。これは、王命である」
随分な言い草だ。アルフィノ様は極めて冷静に、礼節を尽くしながら、胸に手を当てて一礼をする。
「お言葉ですが、殿下。我が家門に国から与えられた権限は、王命の強制力を受けません。その書類に強制力がないと分かったうえでの申し出で、よろしいですね」
その言葉に、マーゼリック殿下は不快そうに眉をひそめた。けれど、この場において、それを否定すれば、少なくともイズラディア公爵の印象は落ちる。国仕貴族を、王命で強制的に従わせることは、越権行為として告発される。その機会をイズラディア公爵に監視され、狙われているのだとすれば、言葉を間違えれば自分が窮地に陥ることは、マーゼリック殿下にも分かるのだろう。
「……構わぬ」
「では、申し上げさせていただきます。婚約とは、家々の間で行なわれる崇高なる契約です。本来ならば、王命での解除を試みた場合、王家の名に傷がつくほどの強力な契約。破棄になるのすら異例です」
私は小さく頷いた。家門の事情で、王家との婚約が解消となったケースは過去にも数件存在するが、破棄となった事態はさらにケースが少ない。その多くは、王家側の不逞から為されることがほとんどであり、婚約破棄を施行された王侯貴族は、例外なく王籍を除籍されている。
歴史書を見れば、彼が未だに王籍から外されていないこと自体が、かなりの異例である。
「マーゼリック殿下は、ミシェル・サファージ侯爵令嬢との婚約を破棄されております。双方有責、つまり王室側、ご令嬢側どちらにも問題があったとみなされています。それは、公文書にて交付が済んでおります」
「……」
「この状況で、ミシェル・サファージ侯爵令嬢と再婚約と相成りますと、民の顰蹙を買うのは必至です。殿下だけではなく、サファージ侯爵令嬢もです」
社交界を騒がせた、双方有責での婚約破棄騒動。その中心人物たちが、再度婚約を締結など、何の冗談だろうか。私刑や浮気はよほどのことでなければ経歴に記録されないものの、家名や名誉に泥を塗ったのは事実。これ以上にこの二人の間で婚約だのなんだのと騒ぎ立てるのは、恥の上塗りだ。
「この件の判断に関しては、私はサファージ侯爵より、全権を委ねられております。我がフレイザード家とサファージ侯爵家は、双方で正式な手続きによって、婚約を締結しました。此度の王命を拝命いたしますと、我がフレイザード家は婚約者を失い、マーゼリック殿下とサファージ侯爵令嬢は名誉を失います。これによって得られるものは何もありません。故に、婚約解消の命は謹んでお断りさせていただきます」
「貴様……!」
マーゼリック殿下は、ぎりっと歯を鳴らした。アルフィノ様の切り口は正しい。客観的に、どの陣営にも益が無いことを示すことで、王命の無意味さを訴える。
それによって、マーゼリック殿下の利己的な願望を引き出す。
「これは命令だ! 拒否権などない!」
「あります。我がフレイザード家は、王命の強制力を受けません」
「うるさい! 私が命令をしておる! 伯爵風情が、私に口ごたえするな!」
ついに本性を現した。けれど、アルフィノ様はちっとも動じない。我が婚約者ながら、あの肝の据わり方は本当にすごいと思う。
アルフィノ様にとって、殿下は我儘を言う子どものようなものなのだろう。彼は、小さく息を吐き出した。すると、イズラディア公爵が手を挙げて、発言をする。
「マーゼリック殿下。フレイザード伯爵は、王家の血を引いているのですよ。王家の血を敬えと教えられる王室のあなたが、伯爵位につく彼を軽んじることは、見過ごせませんな」
「なんだと……」
「彼の祖母は、先王の妹君です。彼の血統は、たとえあなたであっても軽んじていいようなものじゃない。感心しませんな」
「貴様、誰に向かって口を利いている……あまり調子に乗るなよ、イズラディア公爵……ッ」
マーゼリック殿下の剣幕に、イズラディア公爵は軽く肩を竦めた。私は疲れた顔をしている側近に目をやる――すると、助けを求めるように見つめられる。彼らはやっぱり、精いっぱい諫言をしてきたのに、殿下は何一つとして耳を傾けることはなかったのだと理解する。
「この王命によって国益が得られないのならば、私はいかなる状況であっても是と言うことはありません」
「国益だと……そんなもの、私が王太子となることで、十分に得られるだろうがっ!」
部屋の中が、微かに揺らぐ。ついに、引き出したのだ。彼の本音を。イズラディア公爵が咳払いをして、冷たい声音で問いかける。
「……つまり、マーゼリック殿下は、王太子となるために、サファージ侯爵令嬢との婚約を結びなおす、と?」
「当たり前だ。そこの女が喚き立てたせいで、王太子任命式が延期と相成った。これ以上は国の損失。早々に立て直すのが、王家として当然の責務だろうが」
私はぐっと拳を握りしめた。――何それ。
アルフィノ様の顔にも、呆れの色が出始める。イズラディア公爵が、やれやれと言った様子で答えた。
「元々、我がイズラディア公爵家の出である側妃の子、ガブリエルを王太子にと望む声が大きい中、サファージ侯爵の後ろ盾があれば、とやっとの想いで成立した婚約を、浮気などという醜聞で自ら手放したのは殿下ではありませんか。それを今さら、都合が悪くなったと宣い、多くの人を振り回すのは止めていただきたい」
「黙れ、イズラディア公爵。お前さえ私に従っていれば何の問題もなかったのだ、ミシェル」
睨まれて、私は視線を返した。彼の視線には、本気の怒りが籠っていて、私は呆れを吐き出した。
「私はお前を連れ帰り、王太子となる。ガブリエルに、王位を譲る気はない」
「それを判断するのは、殿下ではありませんわ。それに――」
私は、彼の首元に、とっておきの返しの刃を突き付けることにした。何でも自分の思い通りになると思い込んでいる、甘ちゃんの王子に、現実を突きつける。
「私を婚約者にしても、王太子にはなれませんわよ」
その言葉に、マーゼリック殿下は目を見開いた。私はキッとマーゼリック殿下を睨みつける。気性難と言われた私の暴れ馬っぷりを、忘れたとは言わせない。あの糾弾の場で与えた屈辱を、何度でも味わわせてやる。あなたが、王に相応しくない振る舞いをする限り。
それが、国仕貴族に嫁入りをする私の覚悟の一つ。そして、この国の貴族としての誇りだ。
「殿下の話には一つ足りない視点がございます。私が婚約者に戻ったところで、どうしてサファージ侯爵家の支援を受けられると思っていますの?」
「何を言っている……」
「お父様にお願いしておきました。マーゼリック殿下が私に無理やり婚約を戻そうとしたならば、どうか私と絶縁してくださいと」
その言葉に、マーゼリック殿下は目を見開いた。イズラディア公爵はひゅう、と口笛を鳴らす。
恐らく父には一蹴されて鼻で笑われるであろう離縁の提案を送っておいた。ただ、こういうのは文章で残しておくのが大事なのだ。
「あなたの行ないには人として当然持つべき考えが欠如しています。どうして、婚約破棄を叩きつけて信用を失った家から、支援してもらえるとお思いなのかしら。私を手に入れたとしても、父は絶対にあなたを支援しない。あなたに王太子の座なんて与えない」
「何を……世迷言を……!」
「あなたは、人の信用を軽視しすぎなのです。誰の話にも耳を傾けず、強い権力で叩きつければ、誰もが言うことを聞くと思っている。隣国はおよそ100年前、独裁を続けた王が謀反によって宙吊りにされ、民になぶり殺されるという痛ましい事件が起きていましたが、そのようにあなたのような人の話を聞かない王は、一夜のうちに滅ぼされてしまいますよ。王命で何でも思い通りになると思っていらっしゃる時点で、私からは呆れしか出ないのですけれど」
サファージ侯爵家なら、お父様なら。この王家の振る舞いを見れば、王家から離反することも考える。隣であるイズラディア公爵領と結びつけば、もはや国を立ち上げる事すら可能だろう。独立――イズラディア公爵領と、サファージ侯爵家を失ったフォネージ王国は、衰退が目に見えていた。
此度の一件はその足きりになる可能性がある。軽率な行動は、ただ民の信頼を失うだけだ。
「婚約者がいるのに浮気して婚約破棄されました。王太子になれなくなりました。だから元婚約者に八つ当たりをしました。それもうまくいかなかったので、王太子教育をもう一度受けました。けれど王太子になるためには、元婚約者が必要でした。だから元婚約者も、その周りの気持ちも全部無視して、大きな権力で強制的に婚約を書き換えます」
私は耐え切れずに、テーブルに手をついて、殿下を睨みつける。そうして、我慢していたものを吐き出すかのように、厳しい声で告げた。
「こんな愚かな王に、誰がついて行きますの?」
舐めて貰っては困る。王国は、王族のおもちゃ箱じゃない。民は、王族の操り人形じゃない。
「あなたがどんなに権力を行使しようと勝手です。けれど、それによって私を連れて行ったとしても、あなたを王太子になんて絶対にさせない。お父様も同じ気持ちだと思います。だって、そうでないのなら、私に新しい縁談を持ってきたりはしないもの」
もはやあの一件で、父はマーゼリック殿下を見限ったのだ。もしもまだチャンスを与えるつもりなら、私はしばらくフリーのままで放置しただろう。それをしなかったということは、父はマーゼリック殿下を次の王にと望まなかった。
「あなたを次の王に望んでいない者が、どうしてあなたの立太子を支援するのです?」
「貴様……王家に、叛逆するつもりか!?」
「まさか。あなたと正妃殿下以外の王家に対して、私が思うところはありません。自分を王家代表だと思わないでいただけませんか? 曲解しないでください。人の話をちゃんと聞いてください。あなた、側近の言葉は聞きましたか? あなたに同調し、あなたを甘やかし、暴走を止められなかった元側近ではなく、反省を活かしたうえであなたの成長をと願って新たに付けられた、そちらのお二方の事です」
マーゼリックは、ゆっくりと、側近の顔を見渡した。側近たちは、目の下にクマを作りながら、王子をじっと見つめ返している。
「私はずっと諫言してきました。周りの話を聞くようにと。けれどあなたは、自分が正しいと疑わなかった。自分の考えこそが正しいのだと思い込んだ。自分が正しくなるために、我儘をまき散らして、王命を間違ったことに使った」
「……っ」
「あなたが本当に王太子になりたいのなら、このような王命という、他人の意志を捻じ曲げる権力ではなく、ちゃんと私と話し合うべきだった。違いますか? でも、その女が喚き立てるから、だなんて。自分の浮気で民からの信頼を失ったのに、私へその責任を擦り付けている時点で、話し合うのは難しかったですね」
この行動の根底にあるのは、ただの彼の我儘だ。自分の思い通りにならなければ気の済まない、子どもが泣き喚いているだけだ。
彼が沈黙したのを見て、アルフィノ様はゆっくりと口を開いた。
「サファージ侯爵令嬢は、いつでも国のことを考えていらっしゃる。国に仕え、国の安寧を願う我らと、想いを共にしてくださるもの。これ以上の話し合いは無意味なようです。この度の王命は、越権行為として領主会議に報告させていただきます。イズラディア公爵」
「そのようですね。殿下のお考えはよく聞かせていただきました。此度の横暴は見過ごせないものです。――此度の王命を発令させたきっかけとなった、正妃デナート様のお考えもろとも、全て領主会議にて審理にかけさせていただきます」
「……貴様ら! こんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
まだ、分かって貰えないようだ。もう救いようもないのかもしれない。彼は顔を真っ赤にして、私の方へと歩いてくる。
――その進路を阻んだのは、黙ってその様子を見守っていた側近2名だった。
「なんの真似だ」
「……殿下。恐れながら諫言申し上げます。此度の殿下の行動は、理にかなわぬものだと存じ上げます。自責で婚約破棄を申し入れた令嬢に、王命で無理やり婚約を結びなおさせるなど、醜聞以外の何物でもありません」
「貴様、誰に向かって口を」
「側近とは! 殿下の行動を諫める役割を持っております。それは、王命であり、我らの持つ権限でもあります。これでも分かっていただけないのならば、私は側近の任を辞退したいと思います」
「なんだと」
マーゼリックは、足を止めた。王太子は、必ず側近を付けるのが習わしとなっている。その側近も誰でもいいというわけではなく、領主会議にて選抜された数少ない優秀な若者だけがその任に就くことができる。
それは同時に、王の器を測るための者でもある。側近の言葉に耳を傾けず、諫言を聞き流すような独善的な王が生まれぬように。側近はいつでもその任を辞退することが許され、側近がつかぬ王子は王太子の資格を失うと言うことでもある。
「サファージ侯爵家よりも後ろ盾は弱くなりますが、いくつか殿下の立太子に手を貸してくださりそうな家門はありました。私はそれを進言しました。けれど殿下は、耳を貸してくださいませんでした。婚約破棄を突き付けた家門に王命で再度の婚約を迫るなど、正気とは思えません。そのような凶行が本当に正しいと仰るのならば、私はもうついていけません。辞退させていただきます」
「おい、貴様ら」
「今までお世話になりました。殿下。もう、我々は耐えられないのです」
側近2名は、それを告げると、先に馬車で待機すると告げて、フレイザード伯爵邸を出ていった。それを、マーゼリック殿下は茫然と見送っていた。
◆◇◆
マーゼリック殿下はお帰りになり、イズラディア公爵に後処理を任せて、私はアルフィノ様と共に、屋敷の前で公爵の見送りをしていた。遠くなっていく馬車を見送って、アルフィノ様が、私へと話しかけた。
「……驚きました。まさか、絶縁まで考えていたなんて」
「は、はい。あの王子には、それくらいしないと分かって貰えないと思いましたから。言われっぱなしは性に合わないので、返す刃を考えていたんですが……ダメでした?」
「……勇ましすぎて、また好きになってしまいそうです」
アルフィノ様が柔らかく微笑んで、そんなことを言ったので、私は彼へと体を委ねた。アルフィノ様は、優しく肩を抱いてくれた。
「それに、アルフィノ様は仰っていましたから」
「え?」
「サファージ侯爵令嬢ではなく、私だから好きになってくださったと。そうしたら、侯爵家から縁を切られても、妻とまではいかなくても、お傍にいられるかなと、思って」
アルフィノ様は、私の立場ではなく、私個人に興味を持ってくださった。だったら、貴族である身分を捨てることに、特に恐怖はなかった。
すると、アルフィノ様はふふっと微笑んで、告げた。
「何言ってるんですか。平民になったって、ぼくはあなたを娶りますよ」
「アルフィノ様……」
「国仕貴族ですからね。その辺りは、比較的寛容なんです。昔は異国の踊り子を妻に迎えていたこともあります。国の立場ではなく、この血や伝統、考え方、技術を繋ぐことが大事なんです。だから、絶対にそんなことにはさせませんけど……万が一、君が王子に攫われて、侯爵家に絶縁されて、王子に捨てられてしまったとしても、ぼくが絶対に幸せにします」
「……ありがとうございます。そんなあなただから、私は信じられます」
マーゼリック殿下に足りないのは、こういった信頼関係なのに。彼はどこで間違えてしまったのだろう。そう思った。
この事件はすぐに貴族社会に伝わり、領主会議で審理にかけられた結果、正妃デナートの越権行為として認められ、社交界には、本格的に第一王子を王太子とするのを疑問とする派閥が生まれ始めていた。