13. 「エリン」
私は思わず、エリンへと倒れ込んだ。そっと、エリンは肩で私を受け止める。そうして、レースのついたかわいらしい手袋をはめた手で、ゆっくりと私の髪を撫でた。
「どうしたの? 少し会わない間に、甘えん坊になったのね」
「エリン……会いたかったわ」
「そう? 本当に、あなたはずっと変わらないのね。もう会えないかもしれない友人のことなんて忘れてもいいのに、私に会いたいだなんて、本当に変な子ね」
私は、ゆっくりと首を横に振った。エリンのことを忘れられるわけがない。私にとって、エリンはかけがえのない友達だ。一番つらい時期に、ずっと傍にいてくれたのだから。
私はしばらく、エリンに泣きついて、やがて少しずつ落ち着いてくる。彼女がここにいてくれるだけでも、私にとっては奇跡のようなことだ。――もう会えないかもしれない、と思っていたのだから。
そう思って、エリンから体を離そうとして、私はふと思う。
(……あれ?)
私は、どうしてかエリンに軽く抱きしめられて髪を撫でられる感触に、覚えがあった。彼女はボディタッチを嫌うので、そんな記憶はないはずなのに。
そう思いながら、ゆっくりと体を離すと、エリンはそっと微笑んで、そうして告げた。
「ミシェル、お茶をしない? いつも通りに」
「エリン……そうね。あなたがいいなら」
「この季節なら、まだ外も涼しくて良いくらいだわ。室内が良ければあなたのお部屋でも構わないわね。どうする?」
「……」
「もう数日外に出ていないんでしょう? 少し、風を浴びてみる?」
エリンが問いかけてくれて、私は自然と頷いた。私はエリンに手を引かれるようにして、そのまま裏庭へと出た。レーラがその後から追いかけてきて、私はエリンと一緒に裏庭の四阿へと入った。
席に着けば、いつも通りセバスさんが紅茶を淹れてくれる。その光景に、まるで半年前に戻ったみたいな、懐かしさを覚えた。セバスさんに出された紅茶は、自然なくらいにすっと喉を通った。
「……ねぇ、エリン。今まで、どこで何をしていたの? どうして……」
「私のことは今はいいわ。それより、あなたのことよ。ひどい顔。ご飯も食べられていないんでしょう?」
「ええ……そうね。ごめんなさい、私……」
「謝る必要なんてないのよ。ただ、あなたが元気がないのは私も悲しいわ。だから、私はここへ来たんだもの」
エリンはいつでも、記憶の中にいるエリンから寸分のズレもない。彼女は綺麗事を言わない。ただ、現実を受け止めて丁寧に紡いでいく。
私は俯きながら、ぽつぽつと悩みを漏らした。ひどく怖い目に遭い、女性としての尊厳を失いそうになったこと。男性への嫌悪感と恐怖が、強くなってしまって、乱れる感情のままに、助けに来てくれたアルフィノ様に当たってしまったこと。アルフィノ様を拒絶したときのように、また彼と顔を合わせて、彼を傷つけてしまうのが怖いこと。
エリンはそれらを静かに聞いていた。
「……私、本当に最低だわ。助けに来てくださったアルフィノ様に、あんな顔をして。恥ずかしくて、情けなくて、顔を合わせられないの」
「……ミシェルったら、本当にいい子ね。けれど、少し困った子だわ」
「エリン?」
「怖かったんでしょう? 信じられないほどに酷い目にあって、心も体も傷付けられて。だったら、まずは自分のことを大切にしなくっちゃ。誰だって自分のことが一番かわいくていいのよ」
エリンは紅茶を飲みながら、淡々と告げる。でもその様子は、私がよく知っているエリンそのもので。
「あなたは怖い目にあったの。だから、一度拒否したくらいで、申し訳なく思わなくていいのよ。そんなの、周りが一番分かってるんだから。ねぇ、怖い目にあったあなたが、つらいあたり方をして、顔を顰めた人はいた?」
「それは……」
「皆、あなたのことが大切なのよ。だからあなたが少しくらい、心の余裕がなくて、怖くて辛く当たったとしても、皆あなたのこと分かってるわ。今とっても苦しいんだって」
私はその言葉に、俯いた。エリンは重ねるように告げる。
「この一件が起きた時、あなたを責めた人は一人でもいた?」
「あ……」
一番近くにいたレーラは、ずっと泣いていた。泣きながら、私が無事であったことを喜んでくれた。
助けに来てくださったアルフィノ様は、拒絶をしたにも関わらず、毎日欠かさず声を掛けてくださった。隠していたことをちゃんと話す準備をしていると、そう言ってくれた。
ティナは彼女が悪いわけじゃないのに、傍にいられなくてごめんと謝って、一日でも早い回復を祈ってくれた。彼女はずっと、私を気遣ってくれた。
シェフは、消化に優しい食事をわざわざ私のために作ってくださった。汚したシーツを、使用人の皆さんが洗ってくださった。毎日毎日、立ち代わり入れ替わり、私の所を訪れて、誰もが私を気遣う言葉をくれた。
誰も、私を責めなかった。ただ、回復を祈って、皆が気遣ってくれた。
「……いないわ」
「じゃあ、それが答えよ。皆、あなたが元の生活に戻るのを心待ちにしている。誰も、あなたが悪いことをしたなんて思ってないのよ。だからもし、あなたがすごく気にしていたとしても、向こうはそうでもないかも」
「……そう、かしら」
「伝えてみないと分からないわ。だって人の考えなんて、分からないものでしょう? 私が今何を考えてるか、説明できる?」
私は、首を横に振った。すると、エリンは柔らかく微笑んで、紅茶をそっと口に含んだ。私は少しずつ、気持ちが晴れてくるような、そんな気がした。
「顔を見る勇気がないなら、まずはドアを挟んで言葉を交わせばいいの。相手はそれを許せないほど狭量なの?」
「いいえ……アルフィノ様は、きっとどんな態度でだって、私の話を聞いてくださるわ。私が扉越しじゃないと難しいと言えば、許してくださる人」
「それなら、それでいいじゃない。無理をする必要はないのよ。ただ、あなたがちゃんと伝えようとした。それがとても大切なことだわ。扉越しでも手紙でも、きっとあなたの言葉を待っている人がいる。そうでしょう?」
私は、頷いた。エリンは満足したように頷いて、そうしてそっと立ち上がって、片づけを始めた。私は、慌ててエリンを見上げる。
「エリン、もう帰ってしまうの?」
「ええ。あなたならもう大丈夫。随分と顔色が良くなったわ」
「待って、エリン。私、やっぱりあなたと友人であることを諦められないわ。だって、あなたは私の大切な……」
「ええ。分かってる。それでもね……私は、あなたと一緒にはいられないわ。だって私は……」
エリンはそこで言葉を止めて、飲み込んだ。言いたかった言葉を飲み込んで、エリンの言葉を待ったけれど、エリンからの答えは――とびきりの笑顔だった。
「……いつでも傍にいるわ。かわいいミシェル。愛してる」
「エリン……」
風が、凪いだ。吹き上がった風の中、微かに見えたのは――エリンの左の瞳だった。そこには、何よりも美しい、翡翠色の瞳が、輝いていた。
やがて風が止むと、エリンはそのまま、手を振って、その場を立ち去っていった。振り向いたその場所に、エリンはもういなかった。
そっと胸に手を当てて、ぎゅっと握りしめる。エリンから預かった温かいものが、胸に瞬いていた。
◆◇◆
私は部屋へと戻って、そっと一息ついていた。レーラが歩み寄ってきて、そっと微笑む。
「あの方が、エリン様なのですね。お嬢様が大切に想われていた気持ちが分かります」
「ええ。本当に、とても素敵な女の子なの。大好きなのよ」
「また、お会いできるでしょうか」
「……そうね。きっと。ねぇ、レーラ。食事を貰って来てくれない?」
「お嬢様……! すぐにお持ちします!」
レーラは慌てて部屋を出ていった。彼が帰ってくるまでに、しっかりと支度を整えなければ。そう思って、私は喉を通らなかった食事を、必死に掻き込んだ。まだ、気持ち悪さはある。けれど、随分と喉につっかえていたものは取れたように思えた。
なんとか食事を平らげると、レーラは嬉しそうに微笑んだ。そうして、私はレーラに、アルフィノ様が帰ってきたら、お部屋に呼んで欲しいと伝える。レーラは了承の意を示して、お出迎えのために使用人室へと戻った。
やがて、部屋のドアがノックされる。私はそっと立ち上がり、ドアの傍まで向かった。
「お嬢様。アルフィノ様をお連れしました。では、私はこれで失礼いたします」
「ありがとう。……アルフィノ様、こんばんは。お話、よろしいでしょうか」
「はい。もちろんです」
彼の声が、ドアの向こうから響く。私は、そっと深呼吸をして、そうして告げた。
「……このままで構いませんか?」
「ええ。君が無理せず話せるようにしていただければと思います」
「ありがとうございます。アルフィノ様。今回は、本当にご迷惑をお掛けしました。それと、心配もたくさん……申し訳ございませんでした。それと、助けてくださって、本当にありがとうございます」
ゆっくりと呼吸をしながら、言葉をまとめる。扉の向こうから、アルフィノ様の優しい声で、相槌が打たれる。
「その……色々あって、感情がぐちゃぐちゃに混ざって……助けに来てくださったアルフィノ様に、とても怖がるような様子を見せてしまって、申し訳ございませんでした。確かに驚いたけれど、私はアルフィノ様がとても優しい方だと知っています。ですから……その。失礼、いたしました」
「……はい。あんな姿を見せてしまったら、怖がられてしまうのも仕方ないと思います。猫、被るの上手でしょう? ぼく」
「い、いえ……本当は、すごく、嬉しかったです。本当にあの時は、恐怖と絶望でぐちゃぐちゃになっていて……アルフィノ様が来てくださらなかったら、どうなっていたか」
「間に合って良かったです。これも、ルーティナがすぐに知らせてくれたおかげです。また、彼女の元へも顔を出してあげてくださいね。少しずつでいいので」
アルフィノ様の言葉に、頷いた。ティナにもちゃんとお礼を言わなければならない。私は、多くの人に支えられて、今ここに無事でいるのだ。
「ひとまず、ぼくの仕事については、知られてしまった以上はちゃんと伝えようと思っています。それに関しては、君が落ち着いてから、ゆっくりとぼくの私室でお話しします」
「はい。分かりました」
「まだ、何か言うことがあれば、全部吐き出してしまってください。どんな言葉でも、受け止めます」
彼の言葉に、私は少しだけ言葉を詰まらせた。けれど、もう怖くない。私は、意を決して、告げた。
「あの……抱きしめていただくことは、可能でしょうか」
そう告げれば、そっと扉が開いて、私はそっとアルフィノ様に抱きしめられた。肩に顔を埋めて、髪を優しく撫でられる。大切なものを扱うかのような指先はほんの少しだけ震えていて、それでも私を丁寧に扱ってくださった。その手の優しさに、自然と涙が流れていく。
温かい、アルフィノ様の感触が、胸の内を満たしていく。心に沈んでいた恐怖が緩やかに解けていき、言葉にできない安心感が、胸中を覆う。
「……無事でよかった……ミシェル」
「アルフィノ様……ごめんなさい。ご心配をおかけしました」
「君が攫われたと知ったとき、冷静ではいられませんでした。何としても犯人を見つけ出し、君を見つけ出し、犯人を締め上げる……それくらい、強い怒りに、支配されました」
消え入りそうな、彼の声。いつも穏やかで優しい彼が、ここまで激情を振りかざして、私を愛してくれている。
「二度と、君をこんな危険な目には合わせません。君をこんな目に遭わせた犯人には、必ず報いを受けさせます」
「……ありがとうございます。でも、無理はしないでくださいね? 私は、あなたが傍にいてくださることが、何よりも嬉しいです」
「はい。それは、もちろん。僕は、君を置いて行ったりはしないから……ずっと、傍にいてください」
いつもは決して下さらない、熱烈な愛の告白。熱に浮かされながら、私はそのまま、しばらくアルフィノ様と抱き合っていた。
どちらともなく、そっと体を離す。私は、目元に浮かんだ涙をそっと拭いながら、アルフィノ様を見上げて、告げた。
「あの……アルフィノ様」
「はい」
「その……また、エリンに会わせていただけませんか」
「……えっ」
アルフィノ様の視線が、微かに泳ぐ。伝えるべきことは、伝えておかなければならない。彼と今後付き合っていくためにも、それは必要なものだ。エリンの件に関しては、ちゃんと彼と話しておかなければならない。
「私は、まだまだ未熟もので……今回だって、エリンがいないと、気づけないことが山ほどあったんです。彼女は、私にとって、とても大切で……大好きな、友人なんです」
「……」
「その……アルフィノ様には、無理をさせるかもしれないのですが……本当に、たまにで、いいので。難しくなってしまったら、断ってくださってもいいので。だから、本当に必要な時になったら……呼んで、いただけませんか」
「それ、は……」
アルフィノ様は、そっとしばらく目を閉じ続けて思案した後、やがて大きく息を吐き出した。そうして、困ったような微笑みを浮かべて、告げる。
「……参ったな。この案件は、墓場まで持っていく予定だったんですけど……ぼくじゃ、ダメですか?」
「ダメじゃないんですけど……アルフィノ様に相談できることと、エリンに相談できることは、別というか、なんというか」
「そう、ですか。……分かりました。善処します。……エリンのことも、また追々話しますね」
アルフィノ様は、少しだけ顔を伏せてそう告げた後、そっと微笑んだ。
「では、本日はお休みください。また君の体調が良くなったら、ゆっくり話をしましょうね」
「はい。今日は、ありがとうございました。ちゃんと体調を戻すようにします。今日、お話できて良かったです。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
私は一礼をして、そっとドアを閉めた。そうして、ゆっくりと息を吐き出して、そっと告げた。
「エリン、ありがとう。大好きよ」
その日以来、私は徐々に生活に復帰できるようになり、体調も少しずつ戻っていった。