10. 蛍の光に浮かされて
アルフィノ様が言っていた、二か月が過ぎ去ったところで、彼はようやく休暇を得られることになったようだ。しばらくは屋敷に滞在するとのことで、放ったらかしてしまった分を取り戻すと言い、彼は私によく構ってくれるようになった。
彼はあくまでも紳士的で、私が触れ合いを求めなければ、私に不用意に触れることはないし、対面に座ってお茶を飲んでいるだけでも、彼との時間は充実したものとなる。
奥手というよりは、ただ穏やかに距離感を測っているようにも見える。彼自身もこうして女性とちゃんとお付き合いしたのは初めてらしいので、お互いに手さぐりなのだ。
「どうでしょうか。もう、君が来てから二か月間になりますか。田舎ですが、暮らしていけそうでしょうか」
「はい。とてもいいところだと思います。風は気持ちよくて、気候は穏やかで、人は優しくて。息の詰まるような王城で暮らしていたころを考えると、今は開放感が強くて。その……」
私は指先をすり合わせて、所在なさげに視線を泳がせた。アルフィノ様が言葉の続きを待ってくださっているので、私はちゃんと自分の気持ちをまとめて、口にした。
「……幸せです。私、きっと元々王妃なんて器じゃないと思っていたのだと思います。父や母が幼いころから躾けてくれたおかげで、王妃教育はそんなに問題なかったのですけれど……外の街でお洒落をする人や、自分のやりたいことで夢を掴む人。そんな人たちを、うらやましがって眺めていました」
「……」
「貴族として生まれた以上、責務は果たさなければなりません。だから、私にとっては、王妃になることがすべてだったのです。婚約者が――未来の国王が、どうしようもない人でも、私がちゃんとしないとって、そう思っていて。でも、いざマーゼリック殿下に嫌われて、婚約破棄を突き付けられて……未来の王妃となる道を奪われたとき、せいせいしたと同時に、やっぱり不安はあったんだと思います」
婚約破棄に、未練も後悔もない。それでも、そのために厳しい教育に打ち込んできた日は、決してそれを慰めてはくれなかった。時間をかけて、つらい思いをして、自由に遊ぶ同年代の子女を横目に我慢してきた想いは、決してその現実をすぐには受け入れられなかった。
見ないふりをしていても、やっぱり私の根底にあるのは、そういった小さな虚しさだった。
「でも、音楽に逃げるうち、音楽の先生が、私の音楽がとても楽しいものだと褒めてくださいました。毎日お茶を飲んで語らった友人が、一人の貴族の女子としての私を、思い出させてくれました。迎えに来てくださったアルフィノ様が、殻にこもっていた私を引っ張り出して、たくさんの新しい体験をくれました」
一つも、無駄なことなんてなかった。私にとっては、新しい私になるための、大切な思い出。
「ですから、私はここから、新しい私を始めたいと思います。王子の元婚約者ではなく、サファージ侯爵家長女、ミシェル・サファージとして」
「……そうですか。君がそんな風に考えられるようになったのなら……とても良かったです」
アルフィノ様は、どこかほっとしたようにそう告げた。この土地でも、私がとても穏やかに、豊かに暮らすことができたのは、この年上の素敵な婚約者が、私を見守ってくれていたからだ。彼は私よりもずっと大人だった。きっと逸る気持ちが抑えられない私が、落ち着いて、ちゃんと元婚約者のことに見切りをつけるまで、待っていてくれたのだと思う。
「ミシェル様」
「はい」
「……蛍を、見に行きませんか。今夜」
「蛍……」
図鑑でしか見たことのない、光り輝く虫。川辺に、光が列をなす様はとても幻想的だとか。王都の方で暮らしていては、絶対に観ることが叶わない神秘的な風景。
私は、ゆっくりと頷いた。そうして、日が暮れて、アルフィノ様と共に、従者を何人か連れて、河辺へと向かった。日が傾くごとに、少しずつ。目の前には、光が溢れてくる。暗い田舎の夜、人工的な灯りもほとんどない空間で、それらは瞬いていた。
薄い黄金色の光が、ふらふらと宙を優雅に泳ぐ。アルフィノ様が、隣ではぐれないようにしっかりと手を繋いで、そっと反対側の手を挙げて指さす。光が集まっては散って、また揺らめいて、沈む。
「綺麗……」
「この地域では、いつもだいたいこれくらいに、たくさんの蛍が観測されるんです。ルーセンの街の方と違って、この屋敷の周辺は、ほとんど手つかずの自然。川沿いまで降りてくると、こうしてたくさんの生き物と会うことができます」
「蛍、見たことがなかったのです。こんなに、綺麗なのですね」
私は瞳を揺らして、視界が潤む。隣に感じる温度に安心して、身を委ねる。すると、彼もそっと肩を抱き返して、ゆっくりと手を握りなおしてくれた。
川辺に腰を下ろして、光の中で、二人で寄り添う。蛍と月の光だけが照らす暗闇の中で、それでも隣にいる人の存在は、ちゃんと感じることができた。
「アルフィノ様の所に来なければ、こんなにも綺麗な景色を、一生知らないままでした」
「ふふ。ぼくたちにとっては当たり前の風景でも、君にとってはそうではないんですね。けれどぼくも、今日はなんだか違った景色に見えます。君が、隣にいるからかな」
「もう……だったら、きっと。この光景を、アルフィノ様と一緒に初めて見られたことは、私にとって、一生の思い出になりますわ」
そっと寄りかかれば、彼は力強く私を支えてくれる。お互いに肩を寄せ合って、目の前を飛び交う光を見つめていた。
「……アルフィノ様は、どうして、私を選んでくださったのですか?」
「え?」
「その……国仕貴族として、王家から不当な扱いを受ける私を護ってくれたことは、本当にありがたく思います。ですが、アルフィノ様は本当にすごい人で……まだお若いのに色んな人に頼られて、尊敬されて。とても、素晴らしい人だというのは、まだよく知らないながらに、私にも分かります」
先の見えない不安の中、友人を失った失意の中。彼は、何も躊躇わずに迎えに来てくれた。会ったその日に、地上の誰よりも大切にすると、そう誓ってくれた。
私は彼にそんなことを言って貰えるほどの人間じゃない。それなのに、どうして彼は、私を迎えに来てくれたのだろう。そう尋ねると、彼は少しだけ身じろいで、そうして穏やかな、けれどどこか切実な声音で、ぽつりとつぶやいた。
「一目ぼれですよ」
「え?」
「はじめは、ほとんど政略でした。社交界から、不穏な噂を取り除くため。王家から爪弾きにされてしまった元婚約者殿を、ほとぼりが冷めるまで社交界から遠ざけて、国の安定を図ること。それが、国仕貴族としての、ぼくの仕事の一つです」
イズラディア公爵経由の縁談ということだったので、そのあたりの策謀にに含まれていた政略だったのだろう。この様子だと、お父様も同じように一枚噛んでいそうだ。
けれど、一目ぼれって――私は、思わず息を飲んで、彼の言葉の続きを待った。
「いえ、その前から……第一王子の動向の把握は、ぼくたちの大切な仕事の一つでした。王太子任命式が近かったから、ですね。彼が何か問題を起こそうとすれば、それを水面下で火消しするのがぼくらの仕事でした。けれど、それもうまく行かなくて、彼は君に婚約破棄を叩きつけた。それを君は、受け入れて突き返した」
「あれ、は……その。その時は相当に気が立っていて、彼が王族としての振る舞いをあまりにも失していたので、苛立って、半分八つ当たりで……」
「……カッコ良かったですよ」
「えっ?」
私は、思わず口元を押さえてしまった。――今の彼の口ぶりは、まるであの場であの茶番劇を見ていたような、そんな口ぶりだ。会場内にいらっしゃっただろうか。でも、あの終業パーティーは、本当に学院生だけで行なわれた催しだ。
父兄はもちろん、来賓もいなかった。それなのに、なぜ。そう考えていると、肩を抱かれていた手に、少しだけ力が入る。
「……ミシェル様」
「はい」
「ぼくはきっと、この先、君に色々と謝らなければならないことがある……と思います。ぼくの色々なことを打ち明けるにあたって、ね」
「……はい」
「でも、一つだけ。これだけは決して違えないので、ちゃんと言っておきたいんです」
そっと顔を寄せて、耳元で吐息が聞こえるくらいの距離感になる。私は少しだけパニックになりながらも、アルフィノ様の次の言葉を待った。
アルフィノ様はしばらく、言葉をちゃんと考える間を置いてから、はっきりと告げた。
「ぼくは、サファージ侯爵令嬢だからじゃない。君だから、好きになりました」
「……アルフィノ、様」
「だから、もしもぼくのことが信じられなくなったとしても……その事実だけは、信じていて欲しいです」
そう告げて、アルフィノ様は、私の片手を持ち上げて、そっと口づけを落とした。暗闇の中で、蛍の照らす光が、アルフィノ様の美しい虹彩異色を照らし出す。その瞳には、微かな影と、しかし私を慈しむ、心優しい光が宿っていた気がした。
「……私、まだまだあなたのこと、知りません」
「はい」
「ですから、色々教えてください。どんなことでも、ちゃんと、お聞きしたいと、そう思います」
「分かりました。では、ぼくの勇気が出るまで、少々お待ちください。それまではまず、君のことを教えていただいてもいいですか?」
「はい。もちろんです」
そのあと、しばらくずっと私はアルフィノ様に寄り添って、色々なことを語らった。幼い頃のこと、好きなもの、苦い思い出。けれどアルフィノ様に、一つだけ語る気になれなかったことがある。
それが、白竜様への懸想。そのきっかけとなった出来事。私はそれを自覚したとき、私の懸想が徐々に、白竜様からアルフィノ様へと移っていることに、気が付き始めていた。