13 それでも、あなたは
「あ」
目的は果たした、まだ旦那がここに居たいなら、そっとしておこうと思いつつ顔をあげると、不意に鼻をかすめたのは砂漠にあるまじき、水の匂いだった。
水の匂いが鼻をかすめてそして、ふうっと湿気た風が頬を撫でたと思うと、空があっという間に雲に覆われて、雨が降ってきたのだ。
「……晴れていなかったか」
ぎりぎり、まだ建物の中にいたから濡れなかった旦那が、窓も風化し、大穴になっている実家の中で、きっといろんな思いを含んだ声で呟く。
「砂漠の雨ってこんな感じで降るものなの?」
「だいたいは予兆がある。ここまでいきなり降る事は滅多にない。風もそういう風ではなかったんだがな」
私よりはるかにそんな事に詳しい人が、こっちを向く事もなくそんな事を言う。
この町は乾いて滅んだ町だという。つまりこの人が最後に見たここの風景もまた、乾ききったものだったんだろう。
「……そうだった、この町で見る雨は、いつでも」
独り言なのか、口からこぼれた言葉に彼は気付いたらしくって、私の方を見やって言う。
「雨は好ましかった。おそらくこの町の誰もがそう思っていただろう。……誰もがあの頃雨を願い、叶えられず、神を恨み裏切りを働いた寵児を憎み、……結果的に寵児を育てた俺の家に怨嗟を向けた」
「え」
初めて聞く事に、目が見開かれる。彼は大した話じゃないという調子で続けた。
「神の寵児を育てるのは、寵児が生まれた時に、稲妻が空から落ちてきた家と決まっていた。俺の家がそうだった。もうその黒焦げになった屋根の一部は風化して、見えないがな」
「まさか、あなたの家族が皆ここで死んだのは」
「察しがいいな。そうだ、この町の住人によるものだ。大人たちは、子供だけは助けてくれと哀願したが……水不足で正気を失いかけていた町の住人には、その声は届かなかった」
「あなたはどうして……助かったの?」
「死ぬ間際、俺の魔力が目を覚ました。魔力は俺だけをこの町から脱出させ、他の町にいた親戚縁者達の元に飛ばした。あちこちの町が滅ぶ中の事で、俺の家の事はその親戚達に伝わっていなかった。話を聞いた縁者達が、ぎりぎり歩けるまで回復した俺を連れて、助けに行った時にはもう、俺の家族は誰一人として息をしていなかった」
「……あなたはそれでどうして」
恨むのでも憎むのでもなく、国を救うという選択肢をとったのか。とても人間の考える事じゃない。
余りにも、聖人すぎる考え方だった。
人間らしくない、物分かりが良すぎる。そんな事を言いたくて、でも彼を見てそれは口に出せなかった。
「お前はお人好しというものだろうな。砂漠でこの話をすると大概、罰を受けただけだと言われるものだ。俺もそういうものだと思って生きている」
「だって、あなたの家族は何にも悪い事してないじゃない」
「寵児の教育に失敗した家だ。その結果馬鹿にならないほどの町が滅ぶ事になった一因でもある。咎められずにいるわけにはいかない家だった。水はそれほど……この国にとって、大切な物なのだ」
「……」
それがこの砂漠で産まれて生きてきた人たちの感覚なのだろうか。私にはうまく呑み込めないものだった。
「俺の縁者は生き残った俺を、ケビンの家に預けた。その後はお前も知る通り、ケビンの家族が雷に耐え切れず死にゆく中で、俺が名乗りを上げて、雷を受け止めて王になった」
「縁者だという人達はどうしてケビンの家に預けたの」
「ケビンの家には、魔術の扱い方が記された魔導書の類が豊富だった。すでに失われた魔術の書物もあったわけだ。死ぬ間際にそれを扱える力に目覚めた俺が、生き残るためには必要だろうと判断したまでの事」
「……そうやって色々聞くと、神の寵児はとても、とても……身勝手で我儘だったんだね。自分が逃げた結果がどうなるのかも、考えないで、育ててくれた人達が酷い目にあうって事くらい予想できたはずなのに」
「異国から逃げてきた、境遇が少し似ていた娘にそそのかされた結果だ」
「異国から逃げてきた女の子?」
「そうだ。その娘も狭い世界に閉じ込められて、未来も何もかもが決まっていたと聞いている。彼女が神の寵児に、一緒に逃げようと持ち掛けた。俺の妹が、それを物陰から見ていた。恐ろしい事が起きると大人達に知らせに行った時にはすでに遅く、神の寵児とその娘は姿を消し、行方が分からなくなった。後はこの通りだ」
「その子は……異国から来たから、わからなかったの、かな」
「己の生きたい道も進めず、何もかもが決まり切り、一つの自由もきかないのは非道な事だと憤っていたらしい。ちょうど神の寵児は事由に憧れる年齢で、娘の言葉はさぞ甘かっただろう」
銀の女だ、と旦那は静かに言った。銀の女……?
「色白の女の子だったの?」
「銀の髪、紫の瞳、真っ白な肌色をした、大の大人がたじろぐほどの美貌の娘だった。俺はちらりとしか見ていないが、妹は異国のお伽話の中にある、雪の姫の様だったと言っていた」
……異国のすごい美少女が、自分と同じような立場で逃げ出してきていて、一緒に逃げようと持ち掛ける……それは、すごく、魅力的な物に思えてしまったんだろう。
残された人達の事なんて何も考えられなくなるほど。
でもまあ、こんな事を、お姫様学校から勝手に逃げてきた私が、責められる事じゃないだろう。
「……手紙でも書くべきだったのかな」
「何がだ」
「ああ、まあ……私もだいぶ身勝手に逃げてきた身の上じゃない? 置手紙とか残しておくくらいの気遣いは必要だったかなとか、色々反省したくなる部分が」
「それなら今からでも遅くないだろう。お前は育ての親に会いに行った。生きているのは確定されている。頭が冷えたから連絡を寄越す、という言い訳でもして手紙の一つや二つを送るのもおかしい話ではないだろう。人さらいのように連れてきた俺が、言う話ではないかもしれないがな」
「……でもなあ、ううん」
「悩むほどの事か」
「勝手に娘の縁談進めちゃうお母さんだよ? 離婚しろとか普通に言いそう。……それがお母さんの考える普通の結婚で、幸せになるための第一歩とかだとしても、なあ」
「お前は母親を信用していないのだな」
「十年以上離れて生活してきた相手だよ、理解するために歩み寄りたくても、今まで生きてきた年数とか、生き方とかかなり違うじゃない、まして」
お母さんは、十年、あのくそったれ公爵に閉じ込められて、世間から離れて生活させられてきた人だ。そして何を考えたのかはわからないけど、誰とも喋る事をしないで、過ごした人でもある。
お互いに感覚はかなり違うだろうし、どうにも理解できない部分はきっと大きい。
それを歩み寄りで解決するべきなんだろうけど、だまし討ちよろしくお見合いを進めていた人に対して、歩み寄れっていうのは、ギルドで情緒を育てたような私には、難しい。
「子供の十年って、大人の十年と違うって本当だよな」
「だろうな。子供はいつの間にか知らない人間になっている」
「年の差十歳の旦那にそれを言われると、どう反応するべきかわからない」
「それこそお前が、言いたい事を俺に言い、俺が言いたい事をお前に言えばいい話だ。少なくとも俺はお前が遠慮してモノを言えなくなる相手ではない」
「そこがすごいな……」
私はそんな事を言った後、窓だった大穴の外を眺めた。まだ雨は降っている。静かに、町の怨嗟を雪ぐように、静かに、でもかなりの大粒で降っていた。




