8 月夜に落下
ああ、足がふらふらする。食べれないけれど足りないご飯、眠れなくなっていく頭の中、それらがどれだけ私を疲弊させているのか、とっくにわかっている。
こうなったら逃げるが勝ちって分かっている、なのに逃げ出した後のお母さんの評判とか、シャルロッテの待遇とかを考えると、逃げ出せないから、まだ踏ん張っている。
長く長い塔の階段もよくない。ここを延々と進んでいくだけでもう、ふらついた体は疲れ果ててしまって、へたり込む事も増えてきた。
塔の階段を一緒に昇るのは、無駄になるからと言ってシャルロッテにはついてこないで、と言っているから、へたり込む事にあの子は気付かない。いや、気付かせない。
そんな風に今日もふらふらになって、ぐらんぐらんと揺れる体で塔の階段を上がって……いたはずったのに。
「……あ、」
大きくよろめいたのが、塔の中の大きな窓の側だったからか、それとももっと別の何かが働いたのか、私の体は壊れそうな窓枠にぶつかって、そのままそこを壊して結果、塔のかなり高い位置から、外に落下していくかに思われた。
体が外に投げ出されて、ふわふわ、浮遊感に襲われて、あれ、と思って星のきらきらする夜空を目が認識して、そして。
がっくん、と片方の腕に物凄い力が加わって、私の体は空中で停止した。
「あ、れ」
「お前は、大丈夫か? それ程にやつれ切って」
私の手を握る、誰かが窓に座っていて、私の落下を防いでいた。片腕だけを掴まれている不安定さから、私の体はふらふらと揺れている。
窓枠によじ登らないと、と思うのに、体は動かないし、頭はもう全て終わらせてしまえと言わんばかりに、働いてくれない。どうしてだろう。
ぼんやりとし始めた頭で、相手を見上げると、相手は私を心配しきった顔をしている気がする。
暗くて顔立ちは全然わからないけれど。雰囲気が、たぶんそんな感じ。
お人好しな損な性格、と思って、私は口を開いた。
「なんとか、できるから、離してよ」
「その面で何を言う? その生きる意志というものがごっそり抜けた表情で? 馬鹿言うな」
声から、その人が男なんだな、と私は気付いた。男子という物をできる限り排除したお姫様学校に入ってくるわけのない、いいや入れない筈の人なのだ。
目的は一体何なんだろう。
ここは価値のある物がたくさんある場所だから、それを欲しくて? でもここは一番この学校でぼろっちい場所だから、残念だと思う。
助けてくれたわけだから、それ位は教えてもいいかな、と思っている間に、私の体は、その人に引っ張り上げられていた。
そのまま窓の奥に移動させられて……そこでやっと私は、相手をちゃんと見た。
蝋燭も満足にない場所なものだから、影みたいにしか見えなかったけどね。
「盗賊にしては……がたいがいい」
「お姫様らしからぬ口調だな」
「……お姫様歴数か月だし」
「ああ、父親が高貴な身分か? それを知らずに下町で育った身の上か?」
「……お母さんが、いいところの人だった。父さんの事は何も知らない」
何でこんな事話してるんだろう。疲れた頭は判断力もまともに働かせないらしくって、今だったらなんでも喋りそうだった。
「父親に会いたいという思いはあるのか」
「思い入れなんて一つもないから、別に死んでても気にならない。お母さんは会いたいだろうけれど」
お母さんに言ったら泣かれちゃうような事を、私は今喋っている。その自覚はある。でも別に言ってもいいじゃないか、と思ったのだ。
相手は私の事情なんて知らないし、知る事もないだろう人だから。
というか相手は泥棒や盗賊かもしれないから、こうして会話するのは危険なんだけどね……頭のどこかが、死んでもいいかと思うせいか、麻痺した何かのせいなのか。
喋る口は、自重しない。
「……こうなるんだったら、お母さんにも会いたくなかった、かも」
「親泣かせか」
「蛙の子は蛙ってよく言う、でも学者の子供は学者になるって決まってない。大馬鹿だって生まれるし、脳筋だって生まれる。素晴らしいお姫様の子供が、素晴らしいお姫様になるっていうのは、あれは生まれた時から、そうなるように体にしみ込ませているから」
「自分はそうではないと?」
不思議と、男の人の言葉には答えられた。ずっと心の中で思っていた事たちが、明るみになる。
「こちとら生まれた時から庶民育ちで、運が悪かったら人買いにつかまって売り飛ばされていただろう経歴でね。運がましだったから、平凡より若干下くらいの生活して、こうして十六年育ったわけだけど。お姫様をしみ込ませるのは遅かったかな」
「不運と言いたいわけか」
「草花だって、自分の故郷でない場所に植えられて、故郷を真似されなかったら枯れるんだよ。人間もそうでしょ。変われって言われて、変われる人は一握り。私はそのひと握りじゃなかったってだけ」
悪意だけをひたすら、上品に、延々とぶつけられる生活は、とてもとても、耐えられなかった。私は下町で、色んな人に優しくしてもらって、守ってもらって育ったんだな、なんて、この場所に来てあたらめて思い知るのだ。
「お前は姫君の生活をしなくていいのか」
「風呂に一週間入れなくても平気な部類。お湯を沸かすのに薪がどれだけ必要だと思ってるのよ。大家さんのおかみさんと旦那さんと、それから大家の一人娘は風呂に入れても、その居候まで薪は使えないんだよ」
「俺の国では水が貴重だ」
「ああ、水も大変だよね。水に困らない国でも、水瓶に貯める事が仕事の女の子は、物凄い重労働なんだから。本当に,風呂って、贅沢極まりない娯楽だよね」
「その意見には同意するな」
ガタイのいい盗賊が真面目に頷くから、私は久しぶりに声をあげて笑った。ああ、私こんな声で笑えたんだ、と思った事に驚いた。
でも……笑った事で、なんだか命を全部使い果たしたみたいに、疲れてしまった。
不自然な形で笑い止んだ私を見て、盗賊が言う。
「お前は何か隔離される病気なのか」
「違うけどね。お上品で容赦のない悪意って、健康に良くない」
素直な感想に、盗賊が声をあげて笑った。覇気のある笑い方だった。きっと彼は相当な腕利きだろう。
このお姫様学校に、誰にも気付かれずにここまで侵入したってだけでも、その実力はうかがい知れた。
「ここから逃げたいか」
「……逃げられる物ならね。でも色々しがらみがあって逃げられない」
「しがらみか。面倒なものだな。……時にお前の名前は」
「エーダ」
「エーダ姫か」
「忌々しいけどね」
「……顔をよく見せろ」
「ん?」
言って盗賊が、私の顔を掴んで、固定して、月と星の明かりにうつした。
私には逆光になってしまって、相手の顔なんてやっぱり何もわからない。相手の瞳が、すごく鋭い光を放っている事くらいしか、わからなかった。
あと、手がめちゃくちゃ大きいって事くらいしか。
「……飾りがいのある顔だな」
「平凡でしょ、私」
「ああ、平凡か。なるほど、そういう”縛り”か」
「何を言いたいの」
「エーダ。俺はお前が気に入った。俺直々に迎えに来てやるから、あと一週間を耐えろ」
「なにそれ」
荒唐無稽に聞こえて、また私は笑った。笑った時に、どうしてか涙が出てきて、その涙を彼は指先で拭って、強く言い切る。
「一週間後、全てがわかる。安心しろ、気に入った相手を裏切る男ではないからな」




