断罪
その少年は他人の頼みごとを断ることが出来なかった。
それは生まれつきの優しさでもあり、また後天的に植え付けられたものでもあった。家族、友人、教師...嫌なはずなのに、やりたくないのに、何故かノーと言う事が出来ない。パシリにされてはいいように使われ、サンドバックのように身体を痛めつけられる少年の毎日は、苦痛でしかなかった。
彼は精神的にも肉体的にも限界であった。
死のう。
もはや、そうするしか方法はなかった。15年間良く生きてきたほうなんだ、これで死のうが誰も文句は言えないだろうと心の底から思っていた。少年はただ祈った。
「来世は誰にも邪険にされずに、みんなと仲良くできるといいな。」
眼をつぶり、学校の屋上からひと思いに飛び降りた、はずだった。
頭に衝撃が走り、気が付くと尻もちをついていた。額がズキズキとする。
何が起きたのか困惑している少年が眼を開けると、そこには如何にも怪しい格好をした同い年くらいの女の子が立っていた。
「こんにちは、私は天使です。あなたを救済しに来ました。」
「て、天使…?な、何を言っているの…?ぼくに何の用…?」
自称天使と名乗る者がやってきた。
「あなたはいままで非常に苦しい思いをして生きてきました。それは常人には耐え難いものだったでしょう。そしていま、15年の苦痛の末に自ら命を絶とうとしている。
そんなのはあまりにも理不尽です。私たちはそんな人々を救済するべく活動をしています。よろしければお話だけでも聞いてくださいませんか?」
全く理解が追い付かない。この人は何を言っているんだ。少年はいつも通り誰かのいたずらだろうと辺りを見回してみるが、人影は見当たらない。
この人の言っていることは本当なのか…?いや、しかし天使なんてものがこの世にいるだなんて…。
あれこれと考えているうちにだんだんと頭も整理されてきた。
そうだな、真偽のほどが如何であれ話だけでも聞いてみよう。
どうせいまから死ぬんだから。
「じゃあ…話だけ聞かせてください」
「ありがとうございます!」
自称天使はそれはそれは嬉しそうな笑顔で受け答えをする。
「救済といってもあなたの願いを叶えるなどといった大それたことは出来ません。ただ、あなたに『断る権利』を差し上げるだけです」
「『断る権利』…?」
「はい、今からあなたに魔法をかけさせていただきます。
そうするとあなたはこれから3度だけ、誰のどんな頼み事でも断ることが出来るようになります。
また、それだけではありません。誰かがあなたに何かをしようとした際、それを止めることだって出来るのです。
この力で、是非新しい一歩を踏み出してください」
「なんでも…それは例えば、皆に殴られるのも止めることができるってことですか?」
「勿論です!」
「そうですか…」
どうせ死ぬ身なんだ。
これが嘘だったら明日死ねばいい。
「お願いします。ぼくにその魔法をかけてください」
「かしこまりました。では、失礼します」
自称天使がそう言うと、少年の意識は遠退いていった。
気が付くとそこは、見慣れた自宅のベットの上だった。窓の外は真っ暗だ。
どうやら今は夜中の3時ころのようだ。
夢か。はは…死ぬ夢を見た挙句、死ぬこともできず天使まで出てくるなんてほんとに終わってるな。
少年は額に手を当てて自分の情けなさを深く落ち込んだ。
すると、額の一部が不自然に膨らんでいた。
痛ッ!
明らかに額の真ん中が腫れていた。まるで何かにぶつかったかのように。
いや、まさかな…
寝返りで壁にでもぶつかったんだろう。少年はそう考えることにしてそのまま眠りについた。
次の日起きると、いつも通り学校へと向かった。
教室までの道のり、すれ違う誰とも目を合わすことなく、ただ一点地面を見つめていた。カースト最底辺のぼくが平穏に過ごすには、周りとかかわらないのが一番だ。
教室に着くと、クラスメイトの一人から声を掛けられる。
「おい、教科書持ってきてねぇからお前のよこせよ」
「はい…」
「…んだよ、なんか言いてぇのか?」
「い、いや、違います。本当に。ごめんなさい…」
「はっ、ほんと情けなねぇやつだな。なんで生きてんだお前。さっさと死んじまえよ」
いつもと同じやりとりが繰り広げられる。彼の暴言と罵倒の対価に、ぼくは俯きと謝罪を差し出すんだ。何も変わらない、いつも通りの風景じゃないか。
もう何にも感じなかった。いや、何にも感じないと思うようにしたんだ。本当は苦しいはずだった。辛いときに辛いと思える、それが人間の証だろう。いつから本音を隠すようになったんだろう。
だが、こんな生活で全てに反応していたら、とてもじゃないが生きていけない。割り切って過ごすのが長生きの秘訣なんだ。まあ、ぼくはもうすぐ死ぬんだけどね。
学校なんて碌なところじゃない。行ったところで周りには蔑まれ、虐げられ心が破壊されていくだけだ。誰かに相談したってどうにかなるものでもない。
無理なんだ、いじめられてしまったら。そういう運命だと割り切って、しばらく耐えた末に死ぬしかないんだ。
それでも生きようとする奴は生きればいい。いつまでも地獄の渦の中で苦しみもがける自信があるのなら。
ぼくはこんなクソみたいな人生からは、さっさと抜けさせてもらうよ。
少年が心の中でそう思うと、フッととある声が思い返される。
『この力で、是非新しい一歩を踏み出してください』
ッ!
これは…昨日の夢か。こんなくだらないことを今思い出すだなんて…。
…でもまあ、どうせ死ぬんだ。夢だろうが現実だろうが、死ぬ前に言いたいことの一つでも言ってやるか。
「…ろよ」
「あ?なんか言ったか?」
大柄の男が振り返ろうとすると、いきなり少年に胸ぐらをつかまれた。いくらガタイの差があるとはいえ、突然の出来事に男は戸惑う。
「いい加減にしろよ…!お前みたいなクズにぼくの人生は台無しにされたんだ。どう責任取ってくれんだよ!
お前こそ死んだらどうなんだよ!!」
少年は、いままでの恨みのすべてを言葉に押し込めて吐き出した。
しかし、周りでは男の友人と思われる如何にもお調子者な奴らがお祭り騒ぎを始めた。
「陰キャが遂にキレたぞ!」
「おいおい、そんなクズにビビってんなよ!」
「いけいけ、ついでにぶっ殺しちまえ!」
周りから笑い声交じりの歓声と女子たちの悲鳴が上がったが、少年の耳には一切届いていなかった。ただ一点、少年の眼はこの男の顔を睨みつけるように見据えていた。
そんな少年を差し置き、男はいつも以上に苛立った。
「てめぇ…調子乗ってんじゃねぇ!!」
男が少年を殴ろうと拳を振り上げ、おろす寸前。
「やめろ」
一言だけだ。
誰に言ったわけではない。叫ぶことなく、教室全体へ通るその声に少年は静かな怒りを潜めた。
何時間にも感じられる刹那の静寂が訪れる。はじめに口を開いたのは大柄の男の方だった。
「…悪かったよ、いままでごめんな」
「俺らも調子乗りすぎてたよな…すまん」
「そうだよな…次の授業の準備でもするか」
大柄の男をきっかけに、取り巻きの男たちが謝罪をするとともに次々に散っていく。
少年は目の前の出来事に困惑していた。
いったい何が起きた?
何を言っているんだこいつらは?
なぜ僕は殴られなかった…?
少年は今起きた現実を信じる事が出来なくなり、それとは対照的に昨日見た夢を半ば信じそうになっていた。
疑問は浮かんでくるばかりで一向に消えようとしない。
ガラガラッ!
教室のドアが勢いよく開いた。気が付くと席を立っているのは自分だけで、ほかの生徒は皆行儀よく着席していた。
社会の教科担任である大西がしかめ面をしながら教室に入り、一人だけ立っている少年を見つけると鋭く睨みつけた。
「おい…なんでてめぇだけ突っ立ってんだ。」
大西は柔道部の顧問でもあり、がっしりとした体格をしていて多くの生徒から恐れられている。
今度は少年が教師に胸ぐらをつかまれ、足が地面から離れそうになる。
「なんでだっつってんだよ!!おい!!」
大西の怒号が教室に響き渡る。
大西の人柄は、一言でいえばクズそのものだった。彼は、自分に適わなそうな弱々しい教え子を見つけると、日ごろの鬱憤をはらすようにおもちゃとして扱う。保護者に訴えられないのが不思議に思われるが、その辺の根回しも含めてクズといえよう。
彼に目を付けられた生徒は卒業するまでそれに耐えねばならず、周りの生徒がそれに便乗し、いじめが加速してしまうことも少なくない。
少年はまさにその被害者であった。
「いいか、てめぇみたいなクズはな、この世にいたって何の役にも立ちやしねえんだよ。目障りなんだよ。
わかったら屋上でも踏切でもいいから、さっさと突っ込んで死んでくんねぇか?
まあ、そんなことをする勇気すら持ってねえんだろうけどな」
少年は目の前の恐怖よりも、いつもと違う教室の不自然さに気を取られていた。
大西の高笑いだけが響く中、普段なら同調してくるはずのクラスメイト達がやけにおとなしい。
これは…?
「…あ?なんか今日はノリが悪ぃな。んだよ、つまんねえな。まあいいか」
大西は突き飛ばすように少年から手を離すと、教科書を開くように指示をする。
明らかに異変が起こっている。どうも先ほどの発言かららしい。
大西の様子からして、周りが息をそろえて自分をだましているとは思い難い。
これはもしかして…。
終業のチャイムが鳴った。クラスメイト達は部活や委員会など、各々の場所へと向かっていく。
学校にも家にも居場所のない少年が向かうのは、帰り道の神社の社と決まっている。さびれた場所ではあるが、ここへ来ると傷ついた心が不思議と癒される。彼が今まで生きてこられたのもこの場所の存在が大きいだろう。
学校ではいじめられ、家では虐待をされ、誰かの前に居ることが許されない少年は、縋るようにしてこの人のいない場所で日々を過ごした。
今日の出来事は一体何だったのだろうか。少年は思考を整理しようと努めた。
ぼくの一言をきっかけに静まるクラスメイト達、それとは対照的に普段通りぼくを虐めてくる教師。
あの天使の言っていたことは本当だったのだろうか。
「やめろ」というぼくの一言は、殴ろうとする彼の行動を「断る」発言であり、そこに内在する「怒り」は、周りのクラスメイトたちの行動にも向けられていた、ということであろうか。
そして、その発言を聞くことのなかった大西だけはいつも通りの行動をして見せた。
今日の出来事を整理すればするほど、あの天使の言っていたことへの信憑性が高まってくる。
もしこの力が本当だとしたらとんでもないことだ。
『断る権利』は、ぼくがあの時感じた以上に強大なものなのかもしれない。
言わばこの力は、「自分の一言で、相手の行動を制限する事が出来る」のだ。
なんて頼もしいんだろうか。家族よりも、クラスメイトよりも、ぼくの発言こそが誰よりもぼくを守ってくれるんだ。
何に使おうか。これがあれば何だって出来る。万引きだろうが窃盗だろうが、僕の一言で相手を抑制出来てしまうのならばやりたい放題ではないか。
少年はあらゆることを画策していたが、自分が本心では何を考えているかとっくに分かっていた。
復讐をしよう。
いままで自分を虐げてきたやつらに。
僕を弄び、人生をめちゃくちゃにした張本人たちをいっそのこと殺してしまおう。家族を、クラスメイトを、教師を。
誰も止める権利なんて持っちゃいないんだ。いざとなればこの力を使えばいい。いまのぼくは感情のままに動けるこの世でただ一人の人間だ。
いろんなことを画策した。自分の感情の思うままにやりたいこと、復讐したい相手、多くのことが浮かんでは消えていき、次第に辺りは暗くなっていった。
気が付けば、少年の心は幾分か楽になっていた。
こんな風に考えたことがなかったのだ。ぼくが誰かに復讐するだなんて。
その時ふと思った。この力は復讐にしか使えないのだろうか。もっと違った使い方は出来ないのか。
そうだ、きっと…。
帰り道でそんなことを考えながら少年は長かった一日を終えた。
次の日、少年は起きると学校へ行く準備をした。
昨日のことを考えると少し胸が楽になった。ぼくは他人を傷つけたいわけじゃないんだ。
この力はなにも復讐に使うだけものなんかじゃない。話せばわかるはずさ。
ぼくが歩み寄れば、向こうだってきっと気が付いてくれる。そのためにこの力を使おう。
一歩前に踏み出すために、今の現状を変えるために。
少年の心は今まででは考えられないくらい晴れやかだった。
しかし、次の瞬間。
少年の後頭部に鈍痛がした。
「目障りなんだよガキ!起きたんならさっさと家から出ろ!お前の顔見てるとあのクソ野郎のこと思い出すんだよ!」
頭からは赤い液体が滴っていた。どうやら灰皿で殴られたらしい。
少年は何も言う事が出来ず、痛みに耐えながら足早に通学路へ向かった。
痛みで呆然としながら教室へ入ると、いつもの大柄な男とその取り巻きたちがいた。
「なに、お前。自殺でもしようとしたの?まあ当たり前だよな。お前が生きてるくらいならゴキブリの餌にでもなってたほうが有意義だろ。学校なんか来なくていいからさっさと死んで来いよ。」
いつものことだと感じた。胸がズキズキするのも慣れっこなんだ。気にする事じゃないさ。
そうこうしているうちに授業が始まった。今日は朝から社会だ。
大西が教室に入ってくると、いつものように少年を罵倒し始めた。
「まだ生きてたのか、てめぇ。死んで来いって言ったの聞こえてなかったのか?
その顔が腹立つんだよ、聞いてんのか、おい!!」
殴られた。いつものことだと割り切れるはずだった。しかし、少年の心はとうに限界に達していたようだ。
心の鎖が千切れる音がした。
どうしてぼくはこんな人間たちに同情していたのだろうか。
なんでぼくはこんなにも苦しい思いをしなければならないのか。
気が付けば目の前は真っ赤に染まっていた。これは誰の血だろうか。
家族か?クラスメイトか?教師か?足元には自分の枕が落ちていた。どうやら自分の家らしい。
しかし、そんなことはどうだってよかった。朝感じたよりも胸がすっとしていた。
外からサイレンが聞こえるが、うるさいとしか感じなかった。
どうやらぼくはみんな殺してしまったらしい。
自分を傷つけた人たちを、全員。
今からぼくの裁判が始まるみたいだ。でも、そんなことはどうでもよかった。
無期懲役だろうが、死刑だろうが、ぼくは『断る』ことが出来るんだから。
少年が2度目の『断る権利』を使うと、復讐のための全ての殺人は無罪となり、自由の身となった。
少年はいつもの社に来ていた。
苦しかった。
復讐は成功したはずだ。自分を苦しめてきた連中は残らず殺してやったし、ぼくは捕まらずにこれから新しい人生を歩む事が出来る。
全てが上手くいったはずなのに、嬉しいはずなのに、なぜか以前よりも彼の精神は追い詰められていた。
少年はその時初めて気が付いた。人を殺すという行為において、捕まるか否かというのは大きな問題ではない。
他人を殺してしまったという罪の意識こそが、何よりも少年の心を痛めつけていた。たとえそれが自分を虐げ続けてきた人間であろうとも。
あぁ、ぼくは彼らと同罪なんだ。他人の人生をめちゃくちゃにし、自分の感情を優先してしまった。
もう取り返しはつかないんだ。ぼくはこうまでして生きたかったのだろうか。
いまのぼくに生きる価値などあるのだろうか。
本気でそう思ったのはこの時が初めてだった。
生きていたい、しかし生きてはいけない。途方もない自問自答が少年の頭に浮かび続ける。
長い時間だった。何年経ったのだろうか、そんな錯覚をしてしまうほど激しい感情の葛藤がそこにはあった。
解消されることのない自己矛盾を孕んでいた少年はとある決心をし、神社を後にした。
そこには以前も見たことのある風景が広がっていた。
思えばここから僕の人生は大きく変わったんだな。たった数日の出来事だというのに。
立ち並ぶ住宅街を見下ろして、少年は目に映る最後の景色を眺めながらそんなことを思っていた。
落ち着きを取り戻した少年は、残りの生命力を全て捧げ、天に向かって叫んだ。
「死にたくない。死にたくない…死にたくない…!死にたくなんかないんだ!!
ぼくはただ、みんなと同じように友達を作って、当たり前のように会話をして、笑っていたいだけなのに…なんでぼくだけ!!
まだ生きていたい!まだ、生きていたいよ…!」
生きたい。
少年は、壊れかけ心で強くそのことだけを想っていた。
少年は息を整えると、涙を流しながらもはっきりとした口調で、ただ一言だけつぶやいた。
これが最後だ。
「その感情を…断る」
…。
地面には、かつてヒトだった肉塊と、高笑いをする自称天使の悪魔が一人。