何かがおかしい気がするけれど何がおかしいのか多分君はわかってない
「……君にはさ、きっと分からないよ」
はらはら、はらはら。そんな音をたてて、透明な涙がこぼれ落ちてくる。泣かせちゃったみたいだ。ごめんね、そう伝えようとしても声が出ない。ひゅーひゅーと、空気が抜ける音しかしない。
「分からないよ、だって、君には人を愛することなんてできないんだから」
嘲るような、蔑むような、とても冷たい声だった。でも、私は知っている。彼がどれだけ優しいのか。どれだけ、臆病なのか。だから、泣かないでほしいのに。うまくいかないなぁ。
彼は、真っ赤に染まっていた。新鮮な血の色だ。流れ落ちた命の色。私の。
ああそうだ。だって、胸を刺されたの。肺が。ごぼ、と変な音がして、喉が焼けるように熱くなる。全身が痛かった。胸が、痛かった。物理的にも、精神的な意味でも。
「君の、耳触りがいいだけの言葉に騙されてた僕を、愚かだと思っていたのだろ?」
赤く染まった刃が振り上げられる。そんなことしなくても、私は多分すぐに死ぬのに。ふふ、と笑いがこみ上げてきた。気が狂ってしまったのかもしれない。もう一度胸に衝撃が走る。痛みらしい痛みはもうなかった。感覚さえ鈍ってきたのかもしれない。
なのに。愛することなんてできない。その言葉は、私の心の一番柔いところに小さな傷をつけた。ああ、できないよ。心の中だけで肯定する。だって分からないんだもの。
「君は、ひどいひとだ」
そうだね。私はきっとひどいことをした。それも、とびっきりだ。でも、私のひどさに救われてきた君だって、きっとひどい人に違いない。
だから、お互い様だったのにね。お互い様のままでいられたら、よかったのにね。
(君は正しいことを知ってしまった。君は、真実を知った)
「それでも、好きだったんだよ」
私もね。愛とか恋とか、難しいことはよくわからないけれど。君が笑っている顔を見るのは、嫌いじゃなかったよ。君の照れている顔を見るのも、つまらなくはなかった。一緒にいると時間が早く過ぎていくように感じたし、下らない会話一つ一つが、溶けない雪のように心に降り積もっている。
いろいろなことがあった。いろんなことを、二人でやってみた。楽しいことも、つまらないことも、二人で行ってきたすべてが幸せな思い出だ。そう思っているのは、そう思えていたのは、嘘なんかじゃない。その思いに偽りなんて一つもなかった。
「だから、きっと、僕は君を許せない」
痛みを堪えるような声だった。胸を刺されているのは私なのに、まるで自分が刺されているような顔をして。
「……こう言っている意味だって、君には分かってないんだろ」
視界が霞んでいく。あーあ。多分、もう死んでしまうんだろうな。悲しくはなかった。辛くもなかった。ただ、これから先、君は一人で生きていく。それだけが、後悔といえば後悔なのかもしれない。
もっと、教えてあげたいことがあった。話したいことがあった。やりたいことが山のようにある。
……なんて、嘘だ。本当は、これ以上に望むことなんて何一つない。だって。
(君の手で死ねるんだ。これ以上ない僥倖だろ)
「それでいいや。君には分からないだろうから。僕がどれだけ君を愛していると叫んでも、その心には何も届かないんだろうから」
薄い暗闇に閉ざされた視界の中、乾いた何かが唇に触れた。きっと気のせいだ。気のせいだったら、いい。
「……死んでしまえ、嘘つき」
口の中に吐息を送り込むような声だった。絶望と悲哀をぐちゃぐちゃに混ぜ込んで、マグマに溶かしたような音だった。瞼に手が触れる。視界が完全に暗闇に閉ざされる。
死んでしまえ。ああ、死んであげよう。だから。
(もう泣かないでよ、愛しい子)
最後の嘘を、飲み込んで。笑った。
*
「お前には、分からねぇよ」
恨むような、嘆くような、震えた声だった。首を締め付ける手が震えていたから、そう思っただけなのかも知れないけれど。悲しみに暮れているような瞳だけが、鍋の底にこびりつく焦げのように脳裏に張り付いた。
「お前のそれは愛じゃない。ましてや恋なんかでもない。だから、お前には分からない」
彼は泣きそうに顔を歪める。泣かないで。そう口を動かしたのはなぜだろう。彼は泣いてなんかいないのに。彼の瞳は涙で濡れてなどいないのに。
「どうして俺だったんだ。どうして」
どうしてこんなことになったんだ。そう呟く声はひどく掠れていて、聞き取りにくかった。それに、私に聞かせるつもりなんてなかったのだろう。だから、何も言わないでただ微笑んだ。
どうして、なんて決まっている。運命だ。君が真実を知って私を殺すことが、運命だったから。
だから、どうしようもないのだから。
(そんなに悲しまないでよ)
あまりにも悲痛な顔をするものだから、私が悪いような気になってくる。いやまあ、私が悪いのは承知しているのだけれど。それ以上に、私の責任以上に、罪の意識が顔を出してくる。
首を締める力も弱くなってきていて、ああ、彼は躊躇っているのだなと分かった。それだけで救われた。それだけで、報われている。
「ころしなよ、それが、きみのやくめだ」
ひりつくような痛みを訴える喉から、そう声を出す。彼の顔が泣きそうに歪んだ。だから、私はますます笑みを深める。
その瞬間、彼の手に籠もる力が強くなった。が、ぐぅ。みたいなうめき声が喉から溢れ、静寂に満ちた部屋に滴り落ちる。
「――ああそうだ。お前はそういう奴だった。俺の気持ちなんて考えないで、結局自分の思い通りにしてしまう」
視界が霞む。もう、間もなく私の命は潰えるだろう。それでいい。これでいい。
(だから、泣かないでよ)
頬に落ちてくる冷たい感触を受け止めながら、そう思った。それが最後だった。
**
「貴女は、馬鹿な人ですね」
私の額に銃口を突きつけ、呆れたように彼は呟く。冷たい鉄の感触は、まるで私の命を刈り取る死神の鎌のような存在感を持ってそこにある。
世界は今日も滅んでいた。いや、そう言うと語弊があるか。世界は、今日も滅んだままだった。
「まったく、何度繰り返せば気が済むのですか?」
貴女の望み通りにしてきたはずなのに、何が不満なんですか。彼は目を細めながら問いかけた。私は苦笑する。気が済む、とか。満足とか不満とか。そういう話ではないのに、彼にはそれが分からないのだろうか。
「そんなに、私が憎いんですか」
そういう訳でもない。多分、彼には理解できないのだろう。今まで私が理解できずにいたように、彼もまた、私のことを理解できない。
私は私なりに、彼のことを大切にしてきたつもりなのだ。醜く腐敗した真実を丁寧に丁寧に埋葬するように、私は彼に美しい世界だけを見せてきた。それが過ちだったのだと言われれば、それまでだけれど。
「君には、きっと分からないよ」
囁いて、笑う。そのまま、引き金にかけられた指に手を伸ばし。そのまま。
「――下らない問答はやめようか、だぁくん。君は私を殺さなければならない」
――ぱん。軽い破裂音がした。頭に衝撃が走り、体ごと地面に倒れ込む。硬い床の感触。赤く濡れた視界に、ガラクタが映る。積み木。塗り絵。絵本。車の模型。使い古した、子供の玩具が。
なんだか愉快な気分だった。世界が遠ざかる。思考が滲んでいく。
誰かの悲鳴が聞こえた。それはきっと、気のせいだ。
***
「……やあ、また会ったね」
世界は今日も滅んでいる。私はそういう存在だ。言ってしまえば、世界が絶望したから私が産まれて、私が産まれたから世界は滅ぶ。そういう関係で、そういうものだ。理屈でもなんでもなく、そう決まっている。
そういうこと。だから、今回も何もない世界を当然のこととして受け止めた。白く滲む世界の真ん中、揺り籠の中、赤ん坊がひとり泣き喚いている。それを見下ろして、私はぼんやり呟いた。
「君は、また産まれてしまったのか」
世界は今日も滅んでいる。君が私を殺すまで、世界は滅んだままである。君がひとりで泣いているのは、寂しいからか、悲しいからか。産まれたことが悲劇だから、か。なぜなのか。私には分からないや。
本当のこと。この世界が滅ぶ理由。私がここにいる意味。君の存在。分からないままでいてほしいというのは、多分私の我儘だ。
「まあいいや。また出逢えて嬉しいよ」
赤ん坊は、私の方に手を伸ばす。母に縋る子のように。私を絶対の庇護者だと思ってでもいるみたいに。無垢に無邪気に。
何度も繰り返したこの瞬間が、私にはひどく神聖なものに感じられる。いつか、君に運命だと語ったことを思い出した。そのとおり、これは運命だ。
「お母さんが、守ってあげるからね」
君がかみさまになってしまうまで。私は君を愛し続けよう。だから、安心しておやすみ。
**・*
「なんで、君は笑えるんだ」
凪いだ声だった。そのくせに、ひどく哀しげな瞳だった。テーブルの上には、愛らしいケーキと紅茶。多分、毒が入っている。躊躇いなく食べようとしたときに止められたから、そんな気がしている。
「……何度僕に殺されたのか、忘れたのか」
「何回だっけ。忘れたよ」
彼は、感情を排したような無表情で紅茶の表面を眺めていた。一方。私は、にこにこと心からの笑みを浮かべながら、彼のことを見つめる。最期のお茶会なんて、洒落たことをするものだ。
「……百と、二十三回だよ」
「一、ニ、三じゃない。切りがいいね」
「次で百二十四になるから、また切りが悪くなるよ」
そんなことを話したいわけではないのだろう。ただ、本当に話したいことを話すには、覚悟が足りなかった。それだけのことだ。
「私は、そういう存在だから」
苦笑して、カップを手に取る。彼は止めなかった。ただ、苦しそうな顔で私を見つめていただけだ。
「……僕は、君に、たくさんのものを貰ってきたよ」
「それは私の台詞だね」
でも、私は本来、壊すだけの存在だ。与えるなんてガラじゃない。与えるなんて、君にしかしてこなかった。
「僕は、本当は、君を殺したくなんてなかった」
はらはら。はらはら。涙がテーブルの上に落ちていく。透明な雫が、ただ綺麗だと。そう、ぼんやりと思った。
「うん、知ってる」
少しだけ冷めた紅茶を口に運びながら、呟く。そのまま、一口、飲み込んだ。
――瞬間、喉が焼けたように、痛みが走る。
「――が、ぐぅぁが、ぁあ!」
ちょっとかつてないほど苦しいですね。やっぱ毒はやめとかない? 喉を押さえながら、ソファの上にうずくまる。
込み上げてくるままに咳き込むと、赤い色が飛び散った。血の色。焼けた内臓が溶け出たような不快感。
「いつまで、こんなこと、しなきゃいけないのかな」
永遠に。いつまでも。
「どうして、僕と君なんだろう」
そういうものだから。そうでなければ、ならないから。
視界が眩む。何度も繰り返してきた『死』が目の前で嘲笑っている。
(嘆かないでよ、可愛い子)
君と二人で過ごした日々は幸福だった。君と共に生きた世界は美しかった。だから、返さないといけない。君は英雄にならなければならない。私は君に報いなければならない。
私は、君のことを、いつだって愛している。君には理解できないだろうけれど。これは、きっと、永遠の愛だ。
「……でも、僕はきっと、幸福だ」
涙声。悲痛に歪む声。だというのに、どこか吹っ切れたように、君は呟いた。
「ねえ、なぜ、世界は滅ぶんだろうね」
目を閉じる。ひゅーひゅーと耳障りに鳴る喉が、君の声を掻き消していく。なにか、ひどく、大切なことを言われている気がするのに。
「この世界はなぜ、君を孕むのだろうね」
冷たい手が頬に触れる。その指の感触だけが鮮明で。それ以外のすべての感覚が遠くて。
「……ねえ、僕は、きっと君のことを許せない」
愛してくれ、と叫ぶように。彼はそう呟いた。そのまま、血に濡れた唇に乾いた感触が落とされる。色のない口づけ。意味のない行為。
でも、君が少しだけ笑ったから。それでもいいかな、なんて。
**・・
世界が白く染まっていた。雪だ。目が眩むような白の中、私は君と歩いていた。
「……そろそろ疲れない?」
「いや、まだ十分もたってねーぞ? 体力なさすぎかよ……」
「雪道に慣れてないだけだから!」
二人の会話は静寂に沈んでいく。世界に二人っきりみたいだ。なんて、ロマンチックな話でもなんでもなく、私と彼は二人きりなのだが。
下らないことを話しながら、道なき道を歩いていく。崩れ落ちた建物を横目に。腐り落ちた木々を尻目に。枯れ果てた花々を踏み躙り。
「……えいっ」
ふと気が向いたので、足元の雪を丸めて投げつけてみた。当然のように避けられた。
「急に何するんだよ」
「なんで急なのに避けられるの」
「だからお前……自分の運動能力の低さ、理解してるか?」
くっそ失礼だなこのガキ。
「私の能力が低いんじゃなくて、君の能力が高いんだよ」
私よりも頭一つ分高い位置にある顔を見上げ、呟く。ついでに背も高いなこいつ。初めて会ったときは、私の両手で抱えられる大きさだったというのに。
月日が流れるのは長い。あんなあぶあぶ言ってた赤ん坊がこんなに大きくなって……。なんだか感動したから、苛立ちはどこかへ行ってしまった。
「なんでお前そんな生温い目で俺を見てるんだよ」
「大きくなったねぇ、だぁくん」
「その呼び方やめろ! 本当にやめろ!」
反抗期だろうか。成長したものだ。彼は、いつも私を殺していた時期とそう変わりない年齢に達していた。幾ばくかの寂しさと共に、喜びが胸に溢れてくる。
「じゃあ、そろそろ死のっかな」
「そのくっそ軽いノリもやめろ!!」
かつてないほどの大声で叫ばれた。目を見開いて彼を見る。彼は、額に青筋を立てて私を睨みつけていた。かなり怒っている様子だ。
「そんなに怒らないでよ。ほら、そこに拳銃があるでしょう? それで私の心臓を一撃で」
「家を出る前に持たせてきたあの重い荷物か……!」
笑いながら両手を広げる。歩いてきた道を振り返ると、綺麗だった雪は踏み荒らされて泥と混ざり、醜い景色となっていた。そういうものだ。
綺麗なものの下には、醜いものが隠れている。優しい日々の下には、残酷な真実が隠れている。
「……お前が、自分から出かけようなんて言い出すとか、おかしいとは思ったんだ」
ぬるま湯のような日々に終わりを告げる。幸福に満ちた毎日に銃口を突きつける。
「最期の思い出でも作ろうと思ったのか?」
吐き捨てるような口調。でも、確かに、その声は震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、それは分からないけれど。
「一面の雪景色って、あんまり見たことなかったから」
彼の聞きたいことはこんなことではないだろう。分かっているけれど、正しい答えは分からない。分からない。私には、彼の気持ちが理解できない。
「――俺は、お前のこと、好きだよ」
「私も君のことが好きだよ」
だってほら。私も彼と同じ想いのはずなのに。そう告げたのに。彼はひどく傷ついたような顔をしたから。
透明で分厚い壁が、私と彼の間に横たわっている。それはきっと、永遠の断絶だ。触れ合えるほど近い距離にいても。どれだけの言葉を交わしても。何度出会い、別れ、殺されても。私は君の心に触れない。
「でも、お前のそれは、愛じゃない」
銃口はまっすぐに私の心臓に向かう。そして、そのまま、引き金を。
「俺だって、ただお前を愛していたかった」
ぱぁん。
*・・・
「私、貴女のそういうところ、大っ嫌いなんですよ」
古びたベッドが軋む音を立てた。手が痛い。顔が近い。一拍おいて、彼に押し倒されたのだということに気がついた。
はて。どうしてこんなことになったのだろうか。思い出そうとするが、きっかけが全然分からない。彼の顔は笑みの形をとっているのに、その瞳の奥が絶望的なまでに冷えている。どうしてこんなに怒ってるの……。こわ……。
「私のことを、なんだと思っているんですか」
「可愛い可愛い私の子だけど」
「ええ、そうですね」
皮肉気な声に、自分が口にすべきことを間違えた事実を悟った。だからといって、他に彼を表す言葉は見当たらない。
「貴女にとって私は、どれだけたっても子供のままなのでしょうね」
腕を押さえつけていた手のひらが、首に伸びる。そのまま絞め上げるのかと思ったら、ひどく弱々しい力で手が置かれただけだった。彼は、痛みを堪えるような顔で私を見つめている。目は合わない。
「……本当は」
泣き出す寸前の子供のような声が落とされた。ああそうだ。視線を逸らす癖は。私の目を見ないときは。彼が、泣きそうなときだ。
「貴女を、幸せにしてあげたかった」
男の声だ。不意に、そんなことを考えた。この子はもしかしたら、私がそうであれと願っていたよりもずっと、大人だったのかもしれない。
だからといって、何も変わらないのに。私の胸は締め付けるような痛みに襲われた。毒を飲んだときよりも。ナイフで刺されたときよりも。奥の奥からくる、不可解な痛みだった。
「……やめてよ。私は、十分幸せだったのに」
君と過ごす日々は幸福で。君が隣にいる日々が愛しくて。何度殺されても何度離れてもまた出会うことが決まっていたから。私は。私は。
「……春に咲く花の美しさを見せてあげたかった。夏祭りの賑やかな中を手を繋いで歩きたかった。秋の赤く染まる木々を、冬の寒さを」
その声に滲む感情は、きっと。
「貴女に、二人だけではできないことをたくさんさせてあげたかった」
彼の手に力が籠もる。躊躇いを振り切るように、彼は、歪んだ笑みを作ってみせた。それが哀しくて。私もまた笑った。
「いつかきっと、そんな未来が」
あるはずないだろ。ばぁか。
・・・・
床に赤い色が広がっていく。悪夢だ。そう思ったけれど、不思議なことに頬を抓っても夢は醒めない。では、これは現実か。
君は引き金を引いた。君は君の頭に銃口を突きつけて。君は。
「ひ、ぃやぁあああぁあ!!!」
劈くような悲鳴。それが自分の声だと、少ししてから気がついた。震える手を伸ばす。彼は動かない。もう動かない。白い床は赤く汚れて。玩具も脳漿がこびりついて。
彼が握り締めた拳銃が目に入った。
(正さないと)
感情のままに『それ』を手に取って。そして。
――ぱぁん。
・・・
――そして、目が覚めた。よかった。何回目かは忘れたけれど。とにかく、世界は今日も。
「あの、君……大丈夫?」
は。掠れた吐息を漏らし、思わず目の前の人物を凝視する。今までにない状況だった。私が目を覚ますのは、この世界に生き物がいなくなってからで。誰かに声をかけられるなんて、一度も。
そこまで思考して、気がつく。
「だぁくん?」
嘘であってくれ。強く、強くそう願った。私の震える声に、彼は訝しむような顔をして。
「……どうして、君がその呼び名を知ってるの」
掠れた声で、そう呟いた。
・
(あなたの願い事はなんですか?)
「あの人を殺したくない」
(あなたの願い事はなんですか?)
「あいつを愛することを許されたい」
(あなたの願い事はなんですか?)
「二人きりでは叶わない幸福を捧げたい」
(あなたの願い事はなんですか?)
「彼の願いが叶えばいい。私はそれしか望まない」
*
「じゃあ、そうしよっか」
*
世界はいつか滅ぶだろう。雪が溶けるように。花が散るように。ありふれた自然現象の一つとして、滅ぶんだろう。
そのとき、私はここにいないかもしれないけれど。
「だぁくん見て、人がたくさんいる!」
「君は人じゃなくて景色を見なよ!」
人々はいつかいなくなるだろう。そうしたら、私もいなくなる。
「だぁくん、一口貰っていい?」
「同じもの注文しといて何言ってんだお前……」
この日々は幸福で、穏やかで、死にたくなるくらい輝いている。彼がなぜ自ら命を断ったのか。なぜ私がここにいるのか。よく分からないことだらけだけれど。
「だぁくんだぁくん、猫さんだにゃー」
「……ちょっともう一回言ってくれませんか。録音するので」
かみさまは死んだのだ。だから、私は彼の隣で精一杯生きていこうと思う。
・*
(そしていつか、私を殺してね)
だぁくん=ダーリン もしくは、ダミーくん